諦めるしかないみたいです
唐突にグレイルに言われた言葉に、セラフィーナは足元が崩れそうな感覚に襲われる。
セラフィーナはまだ、この幸せな時間を共有していたかった。まだ、グレイルと一緒にいたかったし、まだ、婚約者でいたかった。
「い、嫌です!」(終わり!? 私達の関係が!? それって婚約破棄ってことですか!?)
気づいた時にはセラフィーナは叫んでいた。
しかしセラフィーナの言葉にグレイルは困ったように眉尻を下げると、諭すように言い聞かせる。
「でも仕方がないよ」
グレイルの、子供をあやすような言い方に、セラフィーナの中に羞恥と自己嫌悪が広がった。
それでも縋るようにグレイルを見上げて、懇願するように瞳を潤ませる。
「もう、どうしようもないのでしょうか?」(婚約破棄なんてしたくない!)
「うっ……こればかりはね」
眉間に皺を寄せてパッと目を逸らしたグレイルに、セラフィーナの中で何かがポキリと折れたような気がした。
「そうですか……」(それほどまでに婚約を破棄したいのですね。私の顔なんて見ていたくないほどに……)
ゆっくりと立ち上がったセラフィーナに続いて席を立ったグレイルが、少し安堵したような表情になったのを見て、咄嗟にセラフィーナは彼の制服の上着の裾を掴んでしまう。
(離れたくない……)
この手を離せば、セラフィーナはもうグレイルを好きでいい資格がなくなるような気がしてしまい、言い難い苦しみに襲われる。
「あ! グレイル様~!」
しかし、そんな虚しい願いとは裏腹に、聞こえてきたレイラの甘い声に、反射的に身を翻したグレイルによって、セラフィーナの手は簡単に離れてしまった。
「ここにいたんですね! あ……セラフィーナ様も、いらしたんですね」
「ええ」
いとも容易く離れてしまった自分の手に視線を落とし、セラフィーナは抑揚のない声で返事をする。
レイラはそんなセラフィーナを見ると小さく身体を震わせたが、グレイルに向かい両手を胸の前で合わせると可愛らしく微笑んだ。
「グレイル様、今夜の夜会なんですけど、私、素敵なドレスを作ったんです! グレイル様と踊るのを、楽しみにしてますね」
「ドレスか。私も夜会が待ち遠しいよ。きっと、とても似合うと思う」
笑いながら話す二人の横で、セラフィーナは泣きたくなる衝動を抑えて笑顔を作り視線を逸らす。
自分の前で、違う女性にそんなに楽しそうな笑顔を向けないでほしかった。
けれどセラフィーナがグレイルを好きなように、グレイルだってレイラが好きなのだとしたら、自分との婚約を継続することで、グレイルが我慢を強いられているのだとしたら、どうなのだろうと思い至る。
セラフィーナは、そんなことは耐えられないと思った。
ならば、自分が潔く婚約破棄を受け入れればいいのは解っている。
(でも私の気持ちは?)
胸が押し潰されそうに苦しくなり、帰宅する旨をグレイルに伝える。
蒼白になったセラフィーナの異変に気づいたグレイルが、声を掛けるより早くカーテシーをして中庭を出ると、抑えていた涙が両頬を伝った。
不覚にも学園で零してしまった涙は幸い誰にも見られずに済んだようで、気を抜くとせり上がってくる水分に蓋をしつつ、いつものように笑顔で帰宅したセラフィーナを、侍女達が嬉しそうに部屋へ連れて行く。
何事かと不審に思いつつ、自室へ入ったセラフィーナの目に飛び込んできたのは、部屋の中央に置かれたドレスだった。
トルソーに着せたマーメイドラインのドレスは鮮やかな浅葱色をしており、幾重にも広がった裾が波飛沫のように見える。胸元には紫紺色の宝石が散りばめられ、素材もあしらわれている宝石もレースも最高級品だということが触れなくても解るそれに、セラフィーナは感嘆の声を上げた。
「今夜の夜会で着るドレスね! 何て素敵なの! お見立てはお母様かしら?」
セラフィーナは嬉しそうに侍女を振り返るが、返って来た言葉に愕然となる。
ドレスの送り主はグレイルだった。
婚約破棄を考えていても、まだ婚約者である間はきちんと義務を果たしてくれる優しいセラフィーナの婚約者。
贈られた浅葱色のドレスは穢れなどないように清廉で、相手の気持ちを無視し、婚約破棄を回避することしか考えていない自分勝手な醜い自分の心とは、対照的だと思った。
思い返せば生徒会室で婚約破棄宣言を聞いてから、グレイルはずっと婚約破棄を言おうとしていたように見える。
けれどセラフィーナはそれを悉く遮り、卒業してしまえば結婚できると回避し続けていた。
グレイルの気持ちよりも自分を優先したのだ。
(私、最低だわ)
清廉潔白なドレスへ手を伸ばし、触れずに引っ込めたセラフィーナは、自分勝手で醜悪な自分を自覚して覚悟を決める。
一度離れた心はもう二度と掴めない。
セラフィーナの恋は、お茶会でグレイルの服を掴んだ手が離れてしまったあの時に、終わりを告げたのだ。
「ごめんなさい。とても素敵だけれど、今日はそのドレスを着るのはやめておくわ」
自分の言葉に侍女達が目を見開くのが解ったので、セラフィーナは慌てて付け足す。
「少し体調が悪くて。あまり締め付けの少ないドレスがいいの。殿下から贈られたドレスを汚したりしたら大変だし、ね?」
セラフィーナの言葉に、侍女達は残念そうにしながらも渋々グレイルからのドレスを片付け、緩やかなAラインのドレスを用意してくれた。
夜会までは時間があるため侍女達は一度下がり、セラフィーナは一人窓辺から空を眺める。
どこまでも突き抜けるような青空の色にグレイルの瞳を思い出して、胸が張り裂けそうな程に痛んでくるのを、自嘲的に笑って誤魔化す。
「私に相応しくないあのドレスは、お返しした方がいいわよね」
誰もいない部屋に響いた自分の声に、セラフィーナは少しだけフフフと声を出して笑う。
「ドレスを返したら、おしまい。私の気持ちも、おしまい。
やっぱり幾ら足掻こうが私みたいな平凡な頭じゃ、婚約破棄を阻止するなんて無理だったのよ。ううん、それ以前に婚約破棄なんてされてしまう私が、好きになってもらえなかった私が、自分勝手な私が、何もかも悪かったんだわ」
力なく零した言葉は、窓辺から吹き込んだ風に乗って消えていった。