闇通り奇談
ー序章ー
帳を下ろした澄みきった冬空。
吐く息はふわりと白く儚げに消えていく。
見渡せばガラスばかりが連なり誇るようにもう一つの空を地上へ造り出す無機質なビル郡。
その間を強風が時折吹き荒れるその中、月光に照らされて青白いシャツに深い紺の学生ズボンをはいた少年が立っていた。
刺すような寒さだというのに随分薄着な少年は肩を大きく上下させている。その頭上では風に激しく揺れしなる並木が不気味な葉擦れの音を響かせ、少年の胸の内に燻る憤怒を虚しい焦燥へと変えていた。
みつめる視線の先に、見知らぬ者が見れば蠱惑的に映るだろうが、その本性を知る者であれば戦慄するであろう魔性の微笑をした男が一人、月に背を向けて立っている。
背後から月光に照らされた姿は逆光で黒々と蔭っているが反面、後光が射し込むように荘厳に輝いてもいた。
男は静かに数メートル先で痛みに耐える少年を見据えている。
「ーっ」
ぼたぼたと朱色の液体が左肩から指先へつたい、地面にいくつもの円を作った。
だが少年は痛みよりも己を徐々に侵食し蝕む内なる思考に唇を噛み、拳を痛いくらいに握り締めた。
深く爪が食い込み皮膚が悲鳴をあげた。
狂おしい程の衝動が全身を駆け巡っていた。切ない恋に軋むかの如く心の臓がドクドクと脈打って張り裂けんばかりの刹那さと苦しさが込み上げた。
本能的な快楽を追い求める体に、少年は胸ぐらを引っ掴んで膝から崩れた。
男は見透かしたように唇を吊り上げて嗤う。
そして、苦しむ少年に歩みを進め、うっすらと唇を開いた。
うっとりと耳をかたむけてしまいそうな艶やかな声が少年の耳元で囁く。
「抗わず身を任せればいい。その衝動に」
思考が溶けて理性が薄れていく自身に少年は焦りを一層濃くした。
「さぁ、解き放つんだよ」
甘い声が響く。
「や、めろ。」
「苦しいだろう?楽になればいい」
「やめろ!!」
放った手刀は虚しく空を掻いた。
軽やかに宙を飛んで少年から離れた男はその瞳に冷たく少年の姿を捕らえている。
「無駄な足掻きだよ。どんなに否定しても、君は所詮。私と同類」
激情する憎悪を込めた目で少年は男を睨んだ。だが、その瞳は狂おしい刹那さに水面を映した鏡のよいに潤んでいる。
そんな少年の苦しむ姿に、男は寂しげな悲しいような表情を浮かべた。が、それも一瞬のことで直ぐに妖艶な笑みをして言った。
「いつか君も、ここまで来るよ」
ザアァァァ!
風が横殴りに吹き付け、咄嗟に少年は目を閉じた。
「っ!」
男は闇に消えていた。
―また、取り逃がしてしまった。
「くそっ!」
本能なのか、何かが明らかに男の言葉に共鳴しはじめている。
―なら、次に奴は誰を狙う?
納得するのは御免だが、そういう自分だからこそ、男の思考が読めるのかもしれない。
亜麻色の柔らかな髪、ほっそりと白く真っ直ぐ伸びた手足。滑らかな細い輪郭。触れずともしっとりとキメの細やかだとわかる肌。陽光に照らされた様な透き通った鳶色の瞳。
あどけなさが残るものの、垢抜け知性を感じさせる秀麗な面持ち。
それら全てが、瞬時に脳裏にうつった。
「あの娘だ」