四日目その1 福博であい橋
翌日は曇天で、気温も氷点下に迫る日だった。身支度を済ませ、朝食のトーストを食べながらテレビのニュースを流し見すると、年末に向けて寒さは更に厳しさを増し、今年は厳冬となるらしい。
興味深いニュースはやっていなかったので途中でテレビを消し、携帯端末でニュースサイトを眺めていると、博多で起こった毒物混入殺人事件の判決が来年早々行われる事が報じられていた。容疑者のファラピン人、カルロスは最後まで容疑を否認したらしい。もう少し関連ニュースを掘りたいところだったが出社時間が近づいていた為、私はコーヒーを飲まずに車に乗った。
事務所の入っている雑居ビルに着いたのは午前九時ちょうどだった。階段を昇っている途中で、二階廊下に人の気配を感じ取った。真っ先に思い付いたのは巻島の顔だったが、刑事事件に関与している今なら、巻島の方がまだマシかもしれない。私は息をひそめ、足音を殺して二階の廊下に出たが、それは不要な用心だった。そこにいたのは、太陽探偵事務所のドアを見つめる金田ミーアだった。
「危険だから外に出るなと忠告しておいたはずだが」
「あ……黒田さん、おはようございます」
振り返った金田ミーアは、以前と同じPコートを着ていたが、その下にはデニムパンツを着用しており、首元からは赤いタートルネックのセーターが見えた。彼女にしては派手な色合いに思えたが、多分、私の感性が古いのだろう。
「ここまでは、どうやってきたんだ?」
「タクシーで……ごめんなさい、居てもたってもいられなくて」
「いや、君が焦るのも無理はない。昨晩のうちに俺が話に行けば良かったな。どれくらい待っていたんだ」
「……五分くらいでしょうか」
「少なくとも、その倍は待っていたと見た」
「隠し事、できませんね」
「寒い思いをさせたな。中に入ろう」
私は苦笑しながら、金田ミーアの前に出て事務所の鍵を開け、先に彼女を中に入れた。その最中も周囲には気を払ったが、他に人の気配は感じられなかった。
暖房のスイッチを入れ、金田ミーアをソファに座らせてから、事務所奥のアンドロイド充電器でスリープモードに入っているコルネットを起こした。目覚めた時に客がいる状況は初体験のようで、コルネットは金田ミーアを見つめてきょとんとしていたが、簡単に事情を説明して飲み物の用意を命じると、いつもどおりの淡泊な返事をして給湯室へと向かってくれた。
「今、温かい飲み物を用意させている」
「そんな、気を遣わないで下さい。急に来たのは私の方なんですから」
金田ミーアは慌てて首を横に振ったが、私は命令を取り消さずに彼女の向かいへ腰掛けた。
「ちょっと面倒な事になるかもしれないからな。その前に体を壊しては大ごとだ」
「……じゃあ、御馳走になります。面倒な事というのは、ジョンの件ですね」
金田ミーアは、静かな口調でそう言った。相変わらず落ち着きのある少女だった。それでも内心ではショックを受けているのだろう。待機の指示を無視して太陽探偵事務所に来たのが何よりの証明だった。
「そうだ。弾丸が撃ち込まれた状態で見つかったので、刑事事件になる」
「ジョンは、まだ引き取れないのですよね……」
「だろうな。メモリーも抜き取られていたので、警察は君からの情報をあてにするだろう。今日の午後か、もしかすると明日になるかもしれないが、博多署か東署の刑事が、報告と失踪時の事情聴取に来ると思う」
「私は、どうしたらいいんでしょうか……」
「聞かれた事に正直に答えるだけでいい。俺に依頼した事も喋って構わない。アルバイトの事も言わざるを得ないだろうが、博多署の轟木という刑事が来たら、便宜を図ってくれるかもしれない」
「……もしかして、その轟木さんが来るように、骨を折って下さったんですか?」
「来ると決まったわけじゃない。コルネット、コーヒーはまだか」
私が催促の声を投げかけると、タイミングよく給湯室から盆を手にしたコルネットが出てきた。彼女はコーヒーを出し終えると、私を一瞥してから備品室へと入った。おそらくは、日課の備品管理をしに行ったのだろう。出されたカップはまだ少し熱かったが、私は構わずに一口飲んで、金田ミーアにも薦めた。彼女は砂糖を一杯だけ入れて、同じく一口だけ口にした。
「飲み終わったら、家まで送ろう。今度こそ外出しないように。後は、電話にはいつでも出られるようにしておいて欲しい」
「……お言葉に甘えた方がいいんでしょうね。そんなに危険なんですか?」
「私を尾行していた者がいる。ジョンに発砲した者がいる。少なくとも、この二つは事実だ。同一人物だと仮定すると、今も拳銃を片手にこの辺りをうろついているかもしれない」
「分かりました。ご心配をお掛けしてごめんなさい」
「それよりも、聞きたい事がある」
私はカップをテーブルに置き、低い声でそう言った。雰囲気が変わったのは金田ミーアにも伝わったようで、彼女は微かに目を鋭くさせて頷いた。
「先日、尾行者に思い当たりがないか聞いたな」
「ええ、伺いました」
「改めて考えて欲しい。本当に思い当たりはないのか? もちろん、発砲した者についても、情報があれば聞いておきたい」
「……黒田さんは、それを聞いてどうされるんですか?」
「気にしないで良い」
「もしかして、犯人捜しをするつもりですか? 危険ですよ」
「君には関係がない事だ」
「私の依頼だってジョンが見つかったから、もう」
「君には関係がないと言っている!」
私は強い声で金田ミーアの声を遮った。怒ったふりのつもりだったが、思いの外、感情に任せた声が出てしまって少々の焦りを覚えた。自分でも気が付かない怒りがあったのだろうか。そうだとしても、金田ミーアに対するものではないだろう。ジョンをあのような姿にした『かっちゃん』か、或いは、未だにその男を見つけられない、自分自身に対する感情かもしれない。
「……ごめんなさい。余計な事を言って」
金田ミーアは憂いの表情を浮かべ、胸元に手を当てて言った。Pコートの奥には、肌身離さず持っていると言っていた母のロケットペンダントがあるはずだった。『ジョンが見つるように』と書かれた願いは、叶ったと考えるべきなのだろうか。
「いや、いい」
「でも、犯人の事は分かりません、本当に……。そもそも、犯人は何が目的なんでしょうか」
「……アンドロイドである事が、何かしら事件に関係している気はする」
「理由を伺っても良いですか」
「ジョンに撃ち込まれていたのは、県警に配備された警備用アンドロイドのゴム弾だった。その結果、県警は、警備用アンドロイドを製造しているベストエレキ社のマッチポンプを疑っている。それを信じるわけではないが、調査の過程で出会った関係者、関係団体にはアンドロイドに関連している者が多い」
「……どうして。どうして、アンドロイドがこんな目に遭わなくてはいけないんでしょうか……」
「頭のおかしい奴は今も昔も変わらずいる。そいつから迷惑を被る対象が、時代によって違うだけだ」
そう。ジョンを撃った人間は頭がおかしい。それは精神状態に限らず、ジョンへの対応からも窺える。私は、昨日見たジョンの状態に一点だけ大きな疑問を抱いていた。イエローハイライトアイを取り外せる技術があるのに弾丸は残していた事だ。メモリーを抜いて証拠隠滅を図ろうとするくらいだから、自身との接点となる弾丸を見落とすとは思えないが、未だにそれに対する答えは出てこないのだ。
「……そろそろ帰った方がいい。送ろう。帰りに調査に出るからコルネットも来い」
そう告げて立ち上がると、やや間があって備品室からコルネットが出てきた。私は事務所のドアを開けて金田ミーアとコルネットに手招きした。先に事務所から出たのは金田ミーアだったが、彼女はすぐに立ち止まり、廊下窓の外を眺めていた。視線を追ったが通行人は誰もいない。彼女の青い瞳は福博であい橋に向いているようだった。
「……黒田さんは、あの橋の名前の由来、知っていますか?」
「福岡と博多の文字を一つずつ取ったんだったな」
「そうなんですが、もうちょっと想いが込められているんですよ。この土地は、安土桃山時代の末期に黒田家が来てからは福岡と呼ばれるようになりましたが、それ以前は博多という地名だったんです」
「それは聞いた事がある。福岡派の武士と、博多派の地元商人で対立したんだろう? 最終的には『福岡県』となったわけだ」
「そうです。……でも、いがみ合うのは好ましい事じゃない。それであの橋は、福岡と博多を繋ぐ為に『福博であい』という名前を付けられたんです。橋だけじゃなく、駅や空港、区の名称なんかにも、博多という言葉をあえて残して博多を尊重したんです」
「あえて残した……」
「人間とアンドロイドも、いつかはそうして尊重し合えるようになるんでしょうかね……」
私は金田ミーアの言葉に答えず、ポケットから煙草を取り出して吸った。クリアになった頭の中では彼女の言葉が激しく反響していたが、人間やアンドロイドの未来について考えていたわけではなかった。そうして暫く立ち尽くしていたのを不自然に思ったのか、コルネットと金田ミーアの両名が私の顔を覗き込んだその時、私は答えに辿り着いた。
「……分かった! 来い、コルネット!」
私は目を見開いてコルネットにそう言い放つと、急いで財布から一万円札を取り出し、金田ミーアに強引に握らせた。
「え、えっ? えっ?」
「悪いな。大至急調べたい事がある。帰りはこれでタクシーを呼んでくれ」
そう早口でまくしたて、金田ミーアの返事を待たずに階段を駆け下りた。コルネットに事情を説明する暇もない。私はポケットから携帯端末を取り出し、自分で電話を掛けた。やくざの事務所の次に掛けたくない番号だった。
「はい、博多署です」
「刑事部の轟木警部をお願いしたい」
聞こえてきた声は人間かアンドロイドか、区別が付かなかった。先日、博多署を訪れた時の受付に似た声のような気はする。
「お名前とご用件をお伺いしても宜しいでしょうか」
「黒田だ。警部が追っている事件について、重要な話がある」
「少々お待ち下さい」
お決まりの返事を受けて保留音が流れたところで、ようやくコルネットが追いついた。なお追ってくるようアイコンタクトを送り、駆け足で福博であい橋へ向かう途中で、通話は再開された。
「お待たせ致しました。警部は只今外出中です」
「電話しておいてなんだが、よく素直に教えてくれるもんだな」
「黒田様からのお電話にはお応えするよう、言付かっております」
「さすがはトドさんだな。……分かった。では戻ってきたら、犯人はベストエレキ社の者ではないかもしれない、と伝えてくれ。折り返し連絡をくれたら、詳細はその時に話す」
そう告げて電話を切ると、後ろを走っていたはずのコルネットが、いつの間にか真横まで来ていた。顔だけを私へ向けながら駆け足で走る彼女は、どこか不気味に見えた。
「マスター、宜しければ現在の状況を伺っても宜しいでしょうか?」
「詳しくは向こうで話すが、さっき電話で喋ったとおりだ。ベストエレキ社は無実なんだよ」
「それでは、今からどこへ向かわれるのですか?」
「ベストエレキ社だ」
「……私には、矛盾しているように聞こえます」
「すぐに分かる」
私はそう言うと、スピードを上げて橋を渡った。何か大事な事を忘れているような気もしたが、それを考える暇はなかった。