いつか起こりうる奇跡
春になって満開の桜を眺める度に僕はあの日を思い出す。暗くて深い森の中をコンパスも地図も持たずに彷徨っていたあの日。出口など見つけられず、食料も水もない危機的な状況に陥っていた。希望などそこには全く落ちていなく、ただ僕は永遠と絶望の中を苦しみながら彷徨うかそれとも命を絶つか。子供ながら究極の二択を迫られ、僕は発狂しそうになった。心が乱れたその時だ。頭上から薄紅色の花弁が僕の目の前に風に乗って降ってくる。その一つの光が虚構へと落ちていた僕を現実に引き戻す。
ふと上を向くと桜の花がまるで傘のように僕を覆っていた。灰色の雲の下ということもあって桜の鮮やかさは一層引き立っていた。花弁は雨のように降り注ぐ。共に泣いてくれているのだろうか。いや、そんなはずはない。植物に知能など存在しない。所詮は人間達の勝手な思い込みと比喩表現だ。そもそも共に泣いてくれて何になると言うのだ。同情してくれたところで一時の安らぎでしかなく、家に帰ればまた両親から暴力と暴言をぶつけられるだけで、結局何も変わらない。また苦しむだけの負のサイクルを回らなければならない。
「……死んだら……楽になれるかな……」
僕は齢五歳にして、生きることに悲観し死を選ぼうとしていた。馬鹿げたことを考えていたことはわかっていた。しかし、非力な子供に逃げ場所はない。本来ならば親がいる家こそが逃げ場所であるはずが輝にとっては逆に地獄であった。
児童相談所や友達の家に逃げても親と言う特権を振りかざし、無理矢理連れて帰り、そして、二度と馬鹿げた真似をさせないように暴力と暴言で恐怖という枷に繋ぐ。
また、子供であるが故に耐えるにしても今まで生きてきた年の倍以上の期間を耐えなくてはいけない。それは精神的に未熟な子供には荷が重すぎる。だから、死ぬという選択肢があるのだ。それを選ばなくては確実に、迅速に救われないのだから。
だが、死ぬことが唯一の救いだとしてもそう簡単に選ぶことはできないというジレンマを抱えていた。結局は激しい恐怖と痛みを死ぬまで味わうことを想像すると、体が震えて動かなくなる。
「誰か……助けて……」
僕は隙間風でかき消されてしまうほどか細い声で救いを求める。
幼い僕でもわかる。この声は誰にも届かない。だって誰かに聞かせようとしていないからだ。都合良く助けてくれる正義のヒーローは現れることなく僕はまた地獄の日々を送るはずだった。
でも、運命の歯車は突然狂い始める。
「あなた、どうしたの?」
体育座りで蹲っていると正面から可愛らしい声がかけられ、僕は咄嗟に顔を上げる。
目の前には僕と同い年くらいの少女がいた。白いシャツにふわふわとしたパステルピンクのスカート。シルクのような美しい金髪に宝石のように綺麗なスカイブルーの瞳。まるで人形のような愛くるしい姿に恋心がまだ生まれてないはずの僕の心の鼓動が速くなる。
「あなた、泣いているのね。ちょっと待ってね」
彼女に指摘された時、僕は自分の頰に触れる。微かに感じる小さな水の感触。彼女の可憐さに見惚れて、自分が悲しみにふけっているのをすっかり忘れてしまっていた。
すると彼女はスカートのポケットから薄いピンクのハンカチを取り出し、僕の瞳から零れる涙を拭きとる。
「これで大丈夫だね」
彼女はくしゃっとあどけない笑みを僕に向ける。
優しさというものを良く知らない僕にとって天使というのは彼女のことを指すのかと初めて知った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
自然と感謝の言葉が口から流れ出す。その言葉にも彼女は笑みで返してくれる。僕の心に熱が帯びる。
「どうしてあなたは一人でいるの?」
少女は徐に僕の隣に腰かけるとその人形のような可愛い顔で覗き込んでくる。普通ならば部外者は首を突っ込んでくるな。余計なお世話とあしらうのが普通なのだろう。
「逃げてきたんだ」
でも僕は彼女に話してしまった。彼女からは狂う前の母と同じ匂いを感じたからだ。傍にいると何故だか心が落ち着き、眠たくなる。久方ぶりに味わった安心に甘えてしまった末の行為だった。
「鬼ごっこでもしていたの?」
彼女のごく普通な子供らしい発想に、僕は首を縦に振る。あながち間違いではない気がしたからだ。親という鬼から逃げる鬼ごっこ。しかし、絶対に逃げ切ることができない理不尽な遊戯。
昔飼っていたカマキリを思い出した。家から数百メートル先にある小さな原っぱで捕まえた大きな腹が特徴の雌のカマキリ。そのカマキリに餌を与えるためによく同じ原っぱで大小様々なバッタを捕まえていた。無慈悲にも捕まえられたバッタはカマキリが頂点に巣食うケースに落とされる。抵抗する手段を持たないバッタは当然捕食されないよう逃げ回るが狭いケースの中では逃げ切ることは不可能であり、最終的にはカマキリの養分となって短い生涯を終えることになる。僕はその光景をケースの外側から観察していた。
この世界には搾取する側とされる側。そして傍観する側の三者に分かれる。僕は傍観する側の人間になるものだと思っていた。しかし僕はいつの間にか搾取される側の人間となっていた。そうなった要因は十中八九搾取する側の両親の所為だ。
抵抗できないことをいいことに両親は僕に身勝手な怒りをぶつけてくる。ただ僕はその暴力から逃げることしかできない。僕は正にあの時のバッタそのものだった。
「……嘘だよね」
「嘘じゃないよ」
「なら何で泣いていたの?」
「喧嘩していたから」
「喧嘩でそんな傷は付かないよ」
嘘は通じないと言わんばかりに彼女は僕の首にできている赤い斑点状の傷を指さす。彼女の勘は子供の割には非常に鋭かった。女性の勘というものだったのか。何にせよ僕は慌てて傷跡を手で覆い隠す。服で上手く隠したつもりだったが、気が動転していたせいでいつの間にか傷跡が露わになってしまった。
僕から話を振っておいて誤魔化すなど行動が矛盾しているにも程がなかった。しかし、あの時の僕はあまりの苦しさにただ弱音を吐きたくはあった。だからと言って家庭の問題を部外者に首を突っ込まれたくはなかった。もし、彼女が下手にこの件に関わってしまったらあの父に何かされるかもしれない。他人の子でも自分に不利益を被ると気づいてしまえば躊躇することなく彼女に手を出すだろう。そのくらい父の人格は破綻していた。
なんと自分勝手な考えだろう。でも、矛盾を引き起こしてしまうくらい僕は追い込まれていたのだ。
「これは……」
傷跡を再認識した途端、痛みがフラッシュバックする。この傷跡が原因になった出来事を思い出すことすら怖気づいてしまい、体が小刻みに震えてしまう。一方的に押さえつけられ、泣き喚こうが父は一切力を緩めることなく僕に煙が立つ印を押し付ける。鋭い痛みがゆっくりと伝わっていき、そのまま皮膚を突き破るのではないかと思った。
最早血の繋がった子供にする所業ではなかった。
言うことを聞かない奴隷に対する仕打ちと大して変わらない。僕はそれほど親に愛されていなかったのだ。
「言い辛いことなのね」
僕の不穏な様子を見て、彼女は察していた。これは非力な子供だけで解決できる問題ではないと。流石の彼女も手の施しようがなく、震える僕をただ心配そうに見つめることしかできなかった。
それでいいのだ。彼女だけではどうにもならない。だからと言って彼女を通じて他の大人達に助けを求めても親という特権を乱用し、事態を有耶無耶にするだろう。たとえ、助けられたとしてもあの両親ならばどうにかして僕を取り返しては心中を果たすだろう。取り返せなかったとしても命を絶つだろう。
特に父親は世間では名の知れた存在でプライドが高くて完璧主義者。虐待したことが世間に広まり、自分の顔に泥が付くとわかれば躊躇なく死を選ぶ。実際、ある重大なミスを犯した際に椅子の上に立って、天井にかけたロープに首を巻いたことがあるのだから間違いない。
僕が救われようとすればきっと一つ以上の命が犠牲になる。僕がこの日々を耐えればもしかすれば犠牲は出ないかもしれない。出たとしてもそれは恐らく僕だろう。それなら僕は後者を取る。餌と同等の僕が誰かを犠牲にしてまで生きていても意味はない。例え、害なす存在を犠牲にしようとも僕の考えは変わらない。
心が弱いからだ。生きる意志が弱いからこんな考えに至ったのだろう。
だからもう彼女の助けは必要なかった。少しでも僕を気に掛けてくれただけでも十分救われた。そのお陰でもう少しだけ生きてもいいかと思えた。
僕は立ち上がろうと地面に手を置く。最後に彼女に精一杯の感謝を伝えなくてはと思いながらゆっくり膝を伸ばそうとする。これで彼女とは二度と会うことがないと思うと寂しさに涙が零れそうになる。たった一回のたった数分の出会いだけでこんなに印象を植え付けられるとは思ってもみなかった。名残惜しさを胸に僕はやっと立ち上がる。
そして、彼女との別れと感謝を言おう彼女の方を向いたその時。全身が柔らかくて温かい感触と甘い匂いに包まれる。
「大丈夫。私はあなたを裏切らないから。だから!」
耳元で彼女の優しい声が囁かれる。突然、抱き着かれ僕は冷凍庫に保管された生肉のように全身が固まる。
「あなたを……助けさせて!」
僕はまるで灰皿で頭を思いっきり殴られた時と同じ衝撃を味わった。今まで誰も僕の手を掴んでくれなかった。幼稚園の先生や隣人の大学生、祖父も祖母も、叔父すらも助けてくれなかった。みんな父に怯えて首を突っ込むことができなかったのだ。
でも彼女は僕に手を差し伸べた。電流が流れている鉄格子に囲まれた僕に戸惑うことなく隙間から細く白い手を。ひとつ間違えれば彼女は感電し、白い肌は一瞬で黒焦げになり、命の鼓動が止まる危険性があった。だが彼女は危険を冒していることに気づいていない。父の恐ろしさを知らないから事の危険さがわからないのだ。無知というのは何よりも恐ろしいものだと初めて思い知った。
「どうして……僕に関わろうとするのさ!」
「辛そうなあなたを放ってはおけないから!」
彼女の潤んだ青い瞳が彼女自身を物語っていた。彼女はお人好しで優しすぎる人だ。例え地面から火が噴き出ていようが上からギロチンが落ちてこようが手が届く範囲に困っている人がいるなら命を懸けてでも助けようとする。それは称賛されるべき勇気だろう。だが同時に叱るべき無謀でもあった。世の危険を知らないからこそ無謀なことができるのだ。
だからこそ嬉しかった。涙が出る程。知らないとはいえ危険を顧みず、僕を救おうと躍起になってくれたことが。
「お母さんとお父さんに叱られて……殴られて……。ちょっと僕が反抗したら煙草を首に押し付けて……」
彼女との間に隔てる壁は音を立てて崩れ落ちていく。
らしくもない涙声で僕は今までずっと受けていた苦しみの日々を躊躇うことなく彼女に吐露する。
「怖かった……殺されるかと思った」
「……よしよし、辛かったね」
彼女は僕の話を嫌な顔一つせず親身になって聞いてくれた。それどころか同情して、一緒に泣いてくれた。まるで子犬の頭に愛情を捧げるかのように僕の頭を丁寧に撫でてくれた。彼女に頭を撫でられる度に心がふっと浮くような安心感に包まれる。この感覚に覚えがあった。まだ優しかった頃の母に抱かれた時と同じ感覚だった。
「名前は?」
「僕は道木輝……」
「輝君か」
いい名前だねと呟くと彼女は僕からそっと離れる。そして、僕の赤くなった目を見つめ、その小さな口を開く。
「なら、輝君。約束してもいい?」
「何を?」
「私はあなたを助けます。だから、いつか私を助けてくれない?」
「いつかって……」
僕は顔をしかめる。別に交換条件がのめないわけではなかった。
「いつか」という不確定な未来を約束されても困るのだ。
「いつか」は果たしていつ迎えるのか。明日かもしれないし、一週間後かもしれない。短ければ僅か数分後、長ければ一年以上先になるかもしれない。最悪いつかは二度と迎えることがないことだってあり得る。現に僕は今までいつかを待ち続けていた。先の見えない道を歩くというのは想像以上に苦しい。
だが、彼女はそんなことは知る由もなかった。きっと生きてきた場所も立場も違うからだ。
「君と僕がまた必ず会うとは限らないから……」
「逢えるわよ」
「どうして言い切れるの」
「だって私達、友達じゃない」
僕の顔はモアイ像のようになる。あまりの根拠のなさに何も言えなかった。この世界はオンラインゲームではない。メニューを開いて、フレンド欄から僕を選択しても彼女の前に現れるなんて幻想は起きない。
でも、友達という親しい関係でなければ不確定な「いつか」の約束を結ぶことなどしないだろう。だから、答えなくてはいけなかった。友達として。
「わかった。どんなことがあっても僕は……君を助ける」
僕は覚悟を決めた。たとえ「いつか」が遠くても、永久に迎えられなくても待ち続けようと。それが僕にできる唯一の返礼だ。
「でも、無理はしないで」
「どうして?」
「折角できた友達を……失いたくないから」
「ありがとう。輝君」
彼女は僕の額に水滴が水面を跳ねるようなキスした。女性からの初めてキスをされて心臓が破裂しそうになった。
そして彼女は助ける準備をするために僕の前から去っていった。正直、このまま戻ってこないだろうと察していた。他人の家庭の問題を少女一人で解決するのならそもそも僕は彼女と出会うことはなかった。たとえ彼女が大人に協力を求めても果たして素直に手を貸してくれるか。きっと余計なことに首を突っ込むなと足蹴にされるかもしれない。
だけどそれでも僕は良かった。彼女に出会ったことで暗い道に一筋の光が差し込んだ。光を辿ったところで本当に外に出られるとは限らないし、出られたとしても詳しい距離もそこまで辿り着く時間もわからない。ただ、目指して歩けば「いつか」は辿り着くことができる。不確定であるが故に生まれた希望は僕にとっての十分な救いとなった。
僕は待ち続けた。彼女と約束した「いつか」を。
ランドセルを桜の根本に置いて、図書室で借りた本を読みながら待った時もあった。
葉のない桜の下で綿のような雪が降り注ぐ中、透明な鼻水を垂らしながら必死に耐えた時もあった。
友達と喧嘩して顔に痣ができ、随分といい顔に仕上がっていた時もあった。
卒業証書を片手に抱えた時もあった。
暑苦しい制服姿で受験生向けの教材と睨み合いながら彼女との再会を待った時もあった。
子供にとって途方もないくらい長い月日が流れても彼女と「いつか」は決してあちらからは訪ねてこなかった。だからと言って彼女の居場所おろか名前すら知らない僕にできることは何もなかった。
そして、彼女を迎えられないまま僕は十回目の春を迎えることになった。