それは愛とは呼べないかもしれないけれど
遠くで複数の蹄の音がした。それは徐々に近づいてくる。
スランはノエリアを片手で抱きしめ、再び剣を抜いた。
スランが薄板を蹴り飛ばしたため、眩しい光が入ってきているぽっかりと開いた出入り口を、スランは警戒して睨みつけていた。
そこから、大柄な男の顔が覗く。
「スラン?」
その男に名を呼ばれて眉間に皺を寄せるスラン。
「アルノー?」
それは、かつて共に強さを求めてしのぎを削っていた同期の騎士であった。
「隊長、女性は見つかりましたか?」
アルノーの後ろから若い騎士が倉庫の中を覗き込む。そして、中の惨状を見て顔色をなくしていた。
大股で中に入ってくるアルノーとその部下。
ノエリアはスランが捕まってしまうのではないかと心配して、彼を隠すように前に出るが、体格差があるためにもちろん隠すことはできない。
素肌の上にスランの上着を着ただけのノエリアは脚が殆ど露わになっていた。胸の谷間も見えている。若い騎士は顔を赤くしていたが、それでも目線を外さない。
「アルノー、マントを貸せ」
スランは若い騎士からノエリアを隠すように再び前の出て、顔を腫らしたノエリアを見ても、うめき声を上げてのたうち回っている与太者たちを見ても、全く顔色を変えないアルノーに頼んだ。
「隊長に何てことを! 不敬だぞ」
若い騎士の濃紺のマントとは違い、アルノーのマントは真っ赤であった。王都を警備する隊の隊長である証である。騎士の誇りでもあるマントを気楽に貸せというスランのことが、若い騎士は許せなかった。
スランに詰め寄ろうとした若い騎士を手で止め、アルノーは自らのマントを外した。
「スラン、犯人逮捕の協力に感謝する。これをお嬢さんに」
スランはアルノーから差し出しされたマントでノエルアを包む。ノエリアの足が隠されたのを確認したアルノーは後ろを振り返った。
「皆、こちらへ来い。誘拐と傷害、婦女暴行の容疑であいつらをしょっぴけ」
数人の騎士たちが小走りに倉庫内へ入ってきた。
「婦女暴行は未遂だが、強盗を付け加えておけ」
スランは床に転がっているノエリアの小さな財布を指さした。
「わかった。財布は一旦預かっておくが、それでいいか?」
アルノーがそう言うと、若い騎士が財布を拾う。
「ああ、ところで馬を貸してくれないか? ノエリアを早く連れ帰りたい」
「お前、調子に乗るなよ! 隊長を誰だと思っているんだ」
若い騎士がスランに怒鳴る。
「真っ赤な鞍下を付けているのが私の馬だ。好きに乗っていけ」
アルノーが外を指さした。
足にマントを巻きつけるように包まれているので、ノエリアは歩くことができない。スランは軽々とノエリアを横抱きにして歩き出した。
「八人相手に怪我一つしていないのか。まだ腕は衰えていないようだな。酒場の店主をしていると聞いているが、スランはそれで本当に満足しているのか?」
やはりアルノーは表情を変えないが、長年の付き合いのスランには彼が残念に思っているだろうことが読み取れた。
「ああ、俺は満足しているぜ。毎日が楽しい」
それは嘘ではない。妻と娘を病魔に奪われ、スランは酒に溺れた日々を送っていた。彼は自分のように酒に逃げなければ生きていけないほど辛い思いを抱えた人々を癒したいと思い、『スランの癒し亭』を開いのだ。
「そうか」
スランを見送るアルノーは一瞬辛そうに目を細めたが、すぐに表情を戻して部下たちに指示を出した。
「痛くないか?」
手綱を持ったスランの腕に囲まれるようにしてノエリアは馬に横座りしている。馬の速度をゆっくりにして、痣だらけのノエリアに負担をかけないようにしているスランだが、それでも上下に揺れるので痛いのではないかと心配である。
「大丈夫。これぐらい慣れているから」
ノエリアの客の中には娼婦には何をしてもいいと思っている男がいて、そんな客に強くぶたれることも稀ではなかった。
それでも、誰もノエリアを心配などしなかった。痣の残る体を見て次の客が不快そうにするだけだった。
スランの気遣いはとても嬉しい。そしてまた、現在の幸せと過去の不幸を知るノエリアであった。
ノエリアはそっとスランの逞しい胸に体を預ける。マントを通じてもわかる暖かさが、ノエリアの痛む体を癒してくれるようだった。
店の前に着くと、スランは馬から降りて店の横の馬止めに手綱を引っ掛けた。それから、ノエリアを抱きかかえて馬から降ろし、彼女を横抱きのままスランは店に入る。そして、一旦店の椅子にノエリアを座らっせた。
「温めの湯を沸かしてやる。痛いと思うが体を洗って清潔にしておけ。今夜は店を休みにするから部屋でゆっくり寝ていればいい」
「でも、私のためにお休みにしたりしたら駄目だから」
スランの役に立ちたいのに、邪魔ばかりしていることがノエリアには辛かった。
「俺もたまには休んでもいいだろう? 毎日店をやっているんだから」
スランがノエリアの頭を撫でながら笑う。
忙しく働いていた方が妻と娘のことを思い出さずに済むので、スランはほぼ店を休みにしない。ノエリアは娼館と同じく月のものがある三日だけ休みをもらっていた。
スランは紙に臨時休業と書き店の入口に貼った。そして、アルノーから借りてきた馬に水と人参を与える。
その間、ノエリアは風呂に入り、いつもより温めのお湯を浴びて、体に付いていた砂や埃を洗い落とした。
風呂場の小さな窓からは、隣の屋根に消えそうな真っ赤な太陽が見えて、ノエリアの体をオレンジ色に染めていた。その光の中でも所々赤く変色している痣は痛々しく目立っていた。
ノエリアは風呂を出て、寝衣代わりのスランの古くなったシャツを着た。
スランが部屋で寝ろと言ったので、彼女は二階への階段を上がる。心配そうなスランが二階までついてきた。
「口の中が切れていて、固いものを食うのは無理だな。何か欲しいものはないか? まだ市場は営業している時間だから、何でも買ってきてやるぞ」
「スランが欲しい」
ノエリアは願いを口にしたことがない。望んでも叶えられることなどなかったから。
搾取され続けて、それが不幸だとも気が付かずにノエリアは生きてきた。
誰にも愛されたことのない彼女には愛など理解できないだろう。しかし、スランを欲しいと思ってしまった。それは、雌として優良な雄を求める本能だったのかもしれない。
スランは答えに困り、黙っている。
「スラン以外何も要らない」
ノエリアの目から涙が流れ出て、切れた唇に届く。ノエリアが唯一望んだもの。それも手に入らないのかと思うと本当に悲しくなる。唇の痛さと涙のしょっぱさは、とうに涙は枯れたと思っていたノエリアに、初めて男に抱かれた辛い記憶を思い起こさせて、再び涙を流していた。






