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初めてのお仕事は大変なんです

「ここを使え」

 スランがドアを開けたのは、明らかに女性向けの部屋だった。

 明るい薔薇色のカーテンと同色のベッドカバー。彫刻が施されたチェストの上には、華やかなドレスを着た陶器の人形が座っていて、中央の床には毛足の長いラグが敷かれている。壁際には小さな鏡台が置かれ、テーブルとソファまであり、ノエリアの住居兼仕事場の小さな部屋とは比べものにならないほど、広くて可愛い部屋にノエリアは戸惑う。


「奥様かお嬢様の部屋ではないの?」

すぐに住めるように整えられた部屋は、とても空き部屋とは思えないノエリアだった。

「いや、妻と娘はずっと前に病気で死んだ。流行病(はやりやまい)だったので、うつるのが怖くて医師も診察に来てくれない。どんなに強くなっても、剣の腕では妻と娘を守ることはできなかった」


 スランは最強ではなかっがそれなりに強い騎士だった。鍛え抜かれた剣で王都を守り、妻子を守る。それが騎士としての幸せだと信じていた。妻と娘のために強くなりたかった。

 しかし、病魔は彼から全てを奪っていった。戦うことさえできなかったのだ。


「でも、この部屋は誰かのための部屋なんじゃ?」

 確かに小さな子どもが遊ぶようなおもちゃがいくつか置かれているが、思い出のための部屋にしては整い過ぎていた。

「以前、ひょんなことから貴族令嬢を助けたことがあるのだが、遠くへ嫁に行ってしまってな。あの男と喧嘩でもしたら帰ってこられるようにと、この部屋を用意した。まあ、あまりに遠すぎて、彼女一人では帰ってくることはできないし、本当の父親もいるし、養女になった先でも大切にされていたから、ここを使う予定は全くないけどな」

 この国が変わる契機となった事件の被害者は、闘神と呼ばれ恐れられている最強の男と結ばれた。幸せになっていることは確認したスランだったが、それでも父親代わりを自認している彼は、戻る場所を用意してやりたかった。


「その人のこと、大切に思っているのね」

 親に売られて、男に体を開くしかなかったノエリア。誰も助けてくれなかったし、帰る場所もない。野垂れ死んでも誰も悲しまない。そんな境遇の自分をノエリアは初めて哀れに思った。

 昨日までは、娼婦しか知らなかったから、彼女にはそれが不幸だなんてわからなかったのだ。

「娘と同じような年だったからな。娘が生きられなかった分も、幸せになってもらいたいと思っている。俺の勝手な思い入れだったかもしれんが。そんな訳でここは誰も使っていない部屋だから、自由に使ったらいい。妻と娘の遺品が置いてあるが、邪魔なら俺の部屋に移すから」

「大丈夫。壊したりしない。見るだけでも楽しそうだから」

 貧困家庭に産まれたノエリアは、おもちゃで遊んだ記憶などない。色とりどりの積み木や可愛い人形は幼い頃の憧れだった。


「それにしても、お前は貴族女性より何もできないな」

 少し呆れたように、それでもノエリアを責める口調ではなく、笑いながらスランはそう言った。

「そんな雲の上の人と比べられても……」

 体を売ることしか知らないノエリアは、スランの役に立てなかったことは自覚している。そして、スランの役に立ちたいと思っていることも。

「貴族令嬢といっても案外普通の女だったぞ。惚れた男にメロメロでな。見ているこっちがいたたまれない。お前だって普通の女だろう?」

「私が普通の女?」

 娼婦としての自分しか知らないノエリアは、普通の女が何なのかわからず急に不安になる。


「湯を沸かしてやるから、今夜は風呂に入って寝ろ。明日から働いてもらうからな」

 小さな子どもにするように、スランはノエリアの頭を軽くぽんぽんと叩いた。それがなぜか嬉しくて、不安がなくなっていくように感じ、ノエリアは心から微笑んだ。




「やはり、使えんな」

 翌朝、遅く起きてきたノエリアに、スランは開店準備の手伝いをさせようとしたが、仕事が増えるばかりなので、早々に諦めた。

「ごめんなさい。役に立てなくて。また、借金が増えてしまった」

 配達されたばかりのパンを床にぶちまけてしまったノエリアは、涙目になって謝っていた。

 店に不利益を与えたのでノエリアの借金となる。それは彼女にとって当たり前のことだった。娼館では客が料金を踏み倒しても、娼婦の借金となったのだから。

「パンを運べと命じたのは俺だから、お前の責任ではない。借金などにはしないから安心しろ。このパンは客には出せないので、汚れたところを削って火で炙り俺たちの朝食にしょう。チーズもあるし。そう落ち込むな」

 丸パンを拾ったスランは、器用に短剣で汚れを削ぎ、チーズを乗せて薪オーブンにぶち込んだ。いい匂いが漂ってくる。


 スランの役に立ちたいと思い頑張っていたノエリアは、失敗ばかりで落ち込んでいたが、やはり空腹には勝てず、いい匂いに惹かれてスランが指差すカウンターの前に座った。

「美味しい」

 上に置いたチーズが少し焦げた丸パンは、ノエリアがそれしか言えないぐらいの美味しさだった。

「けっこう高級なパンを仕入れているからな。味はいいはずだ。捨てるのはもったいないからいっぱい食え」

 幸せそうに頷くノエリア。そして、娼館での貧しい食事を思い出し、不幸をまた一つ知ることになる。


「そうだ。名前を聞いていなかったな。俺はスラン。この酒場の店主だ。お前は?」

「ノエリア」

「ノエリアか。良い名だ」

 親に売られたノエリアは、名前も娼館で付けられた。親にもらった名は忘れてしまっていた。

 娼婦を区別するだけの記号でしかなかったノエリアという名は、スランに呼ばれたことにより、愛おしいものに変わったと感じるノエリアだった。


 忙しく働くスランの邪魔にならないように、ノエリアは黙ってスランを見ていた。

 何もしなくてもノエリアは退屈など感じない。男性の勤労する姿は珍しい。重そうな酒樽を軽々と持ち上げ、床を掃きテーブルを拭く。グラスを並べ、緑の葉や黄色い野菜を鍋で煮始める。冷ませば昨夜ノエリアが飲んだ野菜ジュースになるらしい。

 ノエリアにとって、全てが新鮮だった。楽しいと思える時間だったが、スランを手伝えないのが悔しい。


 

 買い出しに行ったスランが侍女の制服を購入してきた。紺色のワンピースに真っ白いエプロンが付いている。古着だが洗濯されていて清潔だった。

「新しい服はすぐに手に入らなかった。王宮からの放出品が市場で売っていたので買ってみた。しばらくそれで我慢してくれ」

 王宮では使用人が一新されたのを機に、侍女の制服も新しくした。そして、旧制服が貧しい地区に配られることになったが、売ることも容認されている。


 二階の部屋に戻ったノエリアは、露出の多い派手な安物のワンピースを脱いで、侍女の制服を着てみた。小さな鏡台に映してみると、娼婦には見えないのではないかとノエリアは満足する。

 もう娼婦ではないとスランが言ったから、ノエリアは酒場の客に娼婦だと思われたくはない。

 


 そんな時を過ごしていると、夕方になり開店時間となった。

 最初に訪れたのは常連客だった。彼は貴族の屋敷に務めている使用人らしい。もちろん、勤め先は言わないが、長々と愚痴を言うためにスランの店を訪れるようなもので、スランは苦手にしていた。

「ノエリア、あいつの愚痴を聞いてやってくれ」

 小声でスランがそう言うので、ノエリアは張り切った。


「今度うちに入ったノエリアだ。愚痴の聞き役だから、思う存分語ってくれ」

 スランから客に紹介されたノエリアは、客の隣に座って微笑んだ。

「うちの旦那様ときたら、人使いが荒いんです。その上、気難しくて大変なんですよ」

 少し前ならば貴族の悪口を言っただけで切り捨てられていたが、今は改革が進み、主人であっても理由もなく使用人を罰することはできない。それでも貴族は十分に横柄で理不尽な存在である。しかし、酒場に通えることができるほどには給金が良いので辞めることはできない。


「しかも、そんな些細なことで鞭を持ち出すんだよ。酷いよね」

 ノエリアは黙って微笑みながら聞いている。貴族の屋敷のことなど想像もできないので、口を挟むことができないのだ。

「奥様やお嬢様だって、暴言を吐くんだよ。貴婦人なんて幻想だよ」

 スランに言われた通り、時折うなずいて黙って聞いているノエリアを客は気に入ったようで、大いに飲み食いして満足して帰っていった。


 我慢強いノエリアは、案外接客には向いているのかもとスランは思っていた。

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