飲食代は体で払うのです
「幾ら持っていたんだ?」
料金を支払おうとしたが、全財産を入れた財布が見当たらず呆然としているノエリアにスランが尋ねた。
「銀貨が十五枚入っていたの」
ノエリアは娼館から毎月幾ばくかの給金をもらっており、客がチップをくれることもある。娼館の外へ出たことは殆どないノエリアだったが、月に数度服飾店や雑貨屋が娼館に商品を持って売り込みに来るので、買い物をしたことはあった。銀貨の価値もそれなりに知っていて、酒場の支払いは銀貨一枚でお釣りがくるはずだった。
「たったそれだけで放り出されたのか? 安い宿に泊まったとしても一ヶ月もしたらなくなるぞ。酒場などで飲み食いしたら半月も持たない。で、これからどうするつもりだったんだ?」
高級娼館の娼婦ならば、客の話し相手ができるぐらいの教養を身に着けているが、場末の娼館の娼婦は客と話などしない。一晩娼婦を買えるほど裕福な客は殆ど来ることはなく、短時間でいっときの快楽を得て帰っていくのだ。
そもそも、客は教養もない低層の男たちだ。時間があったとしても娼婦に賢さなど求めてはいない。
事実、ノエリアは年齢の割には幼い口調で、かなりぼんやりした印象がある。まともな職を得ることは難しいだろうとスランは考えていた。
「とりあえず宿に泊まって、そのうち考えようと思っていたの」
そのためのお金がなくなり、落ち込んでいるノエリア。この調子なら今日金を失くさなかったとしてもすぐに無一文になってしまいそうだど、スランはため息をついていた。
「金がないのならば、今日の飲食代は体で払え。閉店するまでそこで待っていろ」
ノエリアの顔がぱっと明るくなる。
持ち金が足らず、男衆に殴られて血だらけで娼館から放り出された客を見たことがあるノエリアは、料金を支払えなければ殴られるのではないかと恐れていた。
体格のいいスランに殴られたら骨が折れてしまうのではないだろうかと心配していたので、体で支払えるのなら、ノエリアにとって願ったり叶ったりだった。ちなみにノエリアの一時間の料金は銅貨三枚。今夜の飲食代より安い価格だ。
嬉しそうに椅子に座り直したノエリアの前に、スランが野菜のジュースを置いた。
「体にいいジュースだ。飲んでみろ」
青緑の毒々しい色に驚いたノエリアは恐る恐る口をつけてみる。少し青臭いが嫌いな味ではない。
「不思議な味」
微笑みながらノエリアは飲み干した。
夜も遅くなり客も増えてきて、ノエリアは店内を伺うように見ていた。
騎士であったスランが店主なので客層は悪くない。貴族はさすがにいないが、ノエリアの客のような低層の男ではなく、きちんとした職を持つ紳士たちだった。ただし、酒を楽しんでいるような明るい客はいない。
沈鬱な表情でグラスを重ねる客に、スランは酒とつまみを忙しそうに配っていた。
スランの接客態度は無愛想だが、安全で明朗な会計を売りに、スランの店はそこそこ繁盛している。
『店主さん、四十歳ぐらいかな。ちょっと経験がないぐらい大柄で筋肉質だけど、乱暴にされたら痣ができるかもしれない。でも、わざとではないけど、無銭飲食しようとしたんだから、優しくしてくれなんて贅沢は言えないよね』
十年以上娼婦をしていた経験があるので、ノエリアは様々な客を知っている。殴られるのは日常茶飯事だ。下手だと怒鳴られ売女と貶められたことも数知れない。
体に傷をつけると追加料金が発生するので、傷が残るほどの酷い扱いはなかったが、痣ぐらいは珍しくない。
ノエリアがぼんやりとそんなことを考えているうちに、閉店時間がやってきた。いつもならノエリアが最後の客をとる時間だ。
「さあ、働いてもらうぞ。グラスを洗って布巾で拭いてくれ。その後は店の掃除と明日の仕込みの手伝いだ」
スランがそう言ったので、
「はい?」
ノエリアが聞き返した。
「仕事は一度で覚えろ。とりあえず、流し台でグラスを洗え」
不機嫌そうに言いながら、スランはテーブルの上のグラスや皿を集めている。
「あの、体で払うのではないのですか?」
「だから、労働で返せと言っている。性交渉の意味ならば、俺は犯罪者になるつもりはないからな。知っていると思うが、無認可で客をとれば娼婦も客も騎士団にしょっぴかれるぞ」
誤解していたノエリアは顔を赤くしながら、流し台の前に行った。
しかし、洗い物などしたことがないノエリアは戸惑うばかりだ。
「昼間井戸から汲み上げてその樽に水を貯めているから、弁を開ければ水が出る。石鹸の泡をたわしに付けて、グラスをこすり、水で洗い流すんだ」
まずはスランがやって見せて、ノエリアにグラスを持たせたが、
「きゃっ!」
泡で滑ったのかグラスを落として割ってしまう。
「おい、割れたグラスをそのまま触るな。手を切ってしまうぞ。グラスは俺が洗うから、お前は床の掃除をしろ」
ベッド以外は小さなタンスしかない狭い部屋に住んでいたノエリアは、椅子や机という障害物が多数置かれている、それなりの広さがある場所の掃除には慣れていなかった。
机の下に入り込んで出られなくなったり、テーブルを拭く布巾で床を拭こうとしたり、バケツの水をひっくり返してしまったりと、余計に仕事を増やしてしまう。
料理など危なっかしくて、とても頼めない。下手をすれば火事になってしまいそうだ。
とにかくノエリアは酒場の店員として最低だった。いない方が余程ましなぐらいだ。
「とりあえず、今日は寝ろ。明日は客の相手でもしてくれ」
疲れ果てた声でスランは店の二階へと続く階段を指さした。
「でも、お客をとったら捕まるんじゃ?」
「誰が客と寝ろと言った! お前はもう娼婦じゃないんだ。自分が望む相手以外とは寝たら駄目なんだぞ。わかったな」
「私が望む相手?」
ノエリアにはスランの言う意味がわからない。親に売られて娼婦になった。今まで一度も客と寝たいなどと望んだことはない。これからも望むとは思えない。
「とにかく、客とただ話すだけでいい。いや、会話は必要ない。黙って客の愚痴を聞いて、時たま頷いていろ。それぐらいはできるだろう」
酒に逃げなければいられないほど辛い思いを抱えた者が安心して飲める店を目指して、この『スランの憩い亭』を開店した。スランの思惑通りそのような客が来店するようになったが、長い愚痴を聞かされて辟易する時がある。いくら何もできないノエリアでも、客の愚痴を聞くぐらいはできるはずと思ったスランは、接客を任せてみることにした。