どんな善策だろうと苦しむ人はいるのです
王宮にはびこっていた既得権にしがみつき国民から搾取することしか考えていなかった貴族連中が、王太子とその妃の尽力により一掃され、愚かな者たちに担ぎ上げられようとしていた第二王子は、臣籍降下して公爵となった。
そして、流されるままだった愚王は退位し、本日、王太子が戴冠して新しい王となる。
生まれ変わる国の門出を祝福して、国中の教会の鐘が鳴り響いていた。
そんな鐘の音を陰鬱な表情で聞いている女性が一人。彼女の名はノエリアという。
ノエリアが産まれた頃、平民はとても貧しい暮らしをしていた。王都でさえも餓死者は珍しくなく、ある程度まで生き延びた女の子は親に娼館へと売られてしまうのも日常茶飯事だった。
ノエリアも十年以上前に売り飛ばされて、長年娼婦として客をとって生きてきて、気がつけば二十代後半になっていた。
国は確かに変わった。
本日より王宮から営業許可をもらった娼館以外は営業停止となり、無数に乱立していた格の低い娼館は軒並み店を畳んだ。ノエリアが売られた娼館もそんな店で、昨日最後の営業をして、本日全ての娼婦が僅かな金を渡されて追い出された。
営業許可の出た娼館は、娼婦の管理が行き届いており、客をとる度に客が払った料金の半額が娼婦に渡され、娼婦を辞める頃には慎ましく暮らすならば一生食うに困らないぐらいの金が貯まっている。そんな夢のような場所だった。
「悪いけど、希望者が多くてね。あんたではこの店は無理だから帰っておくれ」
無理だと思いながら訪れた認可娼館では、出てきた女将がノエリアを一瞥しただけで断った。朝から同じようなうらぶれた娼婦が何人もやってきているが、使えそうな女はいない。それでも同業のよしみで最初は丁寧に対応していたが、いい加減面倒になってきていて、女将はきつい物言いでノエリアを追い出した。
王都にある数件の娼館へ雇ってもらえないか頼みにいったノエリアだったが、どこにも良い返事を貰うことはできなかった。
未認可で客をとると、客も娼婦も騎士に逮捕されるとのお触れが出されていた。性病の蔓延を防ぎ、女性が低価格で体を売らされるようなことがないようにする法律だが、ノエリアのように長年娼婦をしていた女性の生きる場を奪う法であることも確かだった。
客と寝る以外に何ができるだろう。そう考えてノエリアはため息をつく。小さな場末の娼館なので、世話係など置いていなかったが、賄いはあったので料理の経験はない。洗濯は専門業者に任せていた。
狭い部屋の掃除と、少し大きいベッドを整えることぐらいしかできない。
ノエリアは王都に住んではいたが、自由に外に出ることは許されていなかった。
ノエリアはこれからのことを考えると、重い足取りで新しい王の誕生に湧く王都を歩いていた。
「お腹が空いた」
朝から王都をふらふらと歩き、目についた認可娼館に入っては断られ、また見知らぬ場所へ歩き出す。そんなことを繰り返しているうちに夕方になってしまった。朝には簡単な賄いが出たが、昼食は食べていない。
もう一歩も歩けないほどに疲れていたノエリアは、いい匂いに誘われるように小さな酒場に入っていった。
「いらっしゃい」
ノエリアが店に入ると、大柄な男が低い声でそう言った。まだ酒場に来るのには早い時間だからか、店内にはその男しかいない。
ノエリアが勤めていたのは場末の安娼館である。客は職人や土木作業員などの肉体労働者が多かったが、これほど発達した筋肉を持つ男を相手したことはなかった。
『酒場って、酒樽を運んだりするので筋肉が必要なのね』
勝手に納得したノエリアは、カウンターに腰掛ける。
「初めてのお客さんですね。随分と疲れているようだ。甘めのワインでも飲むか? 腹は減っていないか?」
微笑みながら静かにそういう店主にノエリアは力強く頷いた。
「朝から王都中を歩いたから、とても疲れたの。お腹もとても空いていて、腹の虫が鳴りそうよ」
ノエリアがそう言うと、店主は柔らかく笑った。大柄で怖そうだと思っていたノエリアだったが、その笑顔を見て安心した。
店主のスランは店に入ってきた女の身なりを見て、場末の娼婦だとすぐにわかった。派手な色の綿のワンピースは胸が大きく開いている。安物を着ているにしては色が白く、手も荒れていない。おそらく、営業不可になった娼館の娼婦で職にあぶれたのだろうと考えた。
かつてこの国は腐っていた。娼婦に身を落とすしかなかった女も多い。そんな娼婦を守る法律を施行するのは善策であるとはスランは思うが、護られた娼婦を買える男は限られている。営業を認可された娼館に通うには庶民の収入は少なすぎる。王都の住民のうち富裕層の割合は思った以上に低い。
王都では高級娼婦だけが生き残り、低層向けの低価格で買える女がいなくなる。
『性犯罪が増えなければいいが』
以前騎士をしていたスランは、そんなことを心配していた。
「とっても美味しそう」
茹でた大きなソーセージとチーズ、ナッツ類が載った皿がノエリアの前に置かれた。グラスに注がれたワインは血のような真っ赤な色をしている。小さめのかごにはパンが積まれていた。
フォークを突き刺してソーセージを口に入れたノエリアは、あまりの美味しさに絶句した。そして、夢中で頬張った。
空腹に染み渡るような美味しいワインを飲み、柔らかいパンに塩味のきいたチーズを挟んで食べてみた。それらは経験したことがないほど美味だった。
高級娼婦ともなれば貴族女性のような贅沢をしているが、場末の娼館では娼婦に贅沢させる余裕はない。食事も粗末なものしか出なかった。
「幸せ」
それはノエリアが今まで生きてきて初めて感じた幸せかもしれない。
「良かったな。もっとお代わりするか?」
スランに勧められるままにワインを飲み、笑顔を見せながら軽食をつまんでいくノエリア。
こんなに自由な時間を経験したのも初めてだった。
すっかり日が落ちて、ちらほらと常連らしい客が増えてきた。
楽しい気分でそろそろ安宿でも探そうかと席を立ったノエリアは、安物の鞄に手を突っ込んで探したが、娼館でもらったお金を入れていた財布が見当たらない。
「お金がない。落としたのかしら」
真っ青な顔でそう呟くのエリア
「人混みに行かなかったか? すられたのかもしれないぞ。今日は新しい王の戴冠で王都に人が集まってきているので、スリも多かったはずだ」
元騎士だったスランは、祝いの日にはスリが集まって来るのを知っていた。