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第三話 月を冠する城

          1


第三生域(サード・エリア)・ラーファ〉は八つある〈生域(エリア)〉の中で最も小さい。

 全体の形は真円に近く、海の中央に大きな陸地がひとつあり、あとは周辺に小島が散らばっているだけである。

 最大の特徴はやはり常に夜であるということだ。〈ラーファ〉では満月が東から上がって二十四時間かけて西へ沈み、すぐまた東から出てくるのである。

 国はフィンスターニス一国のみ。

 首都の名はカタリ。石造りの都である。ギルツの首都イノルドなどと比べると、二百年近く後退した時代の街並みをしている。電動車も少なく、いまだに馬車が走っている。気が長く、変化することにあまり興味を持たない長生種(エルダー)たちの性格の表れだと批判的に言われる場合もあるが、街灯や家々の明かりが夜闇に映えて美しく、この景観を目当てに訪れる観光客も多い。

 また世界でも有数の美術館や劇場、学問機関を有し、全国家と国交があるということもあって、この街には多くの種族が住み、行き来している。

 おかげで、アドルたちはすんなり城下に潜入できた。

 世界を股にかけて活躍する快盗団らしく隠れ家は各国に用意済みであった。街の外れ、カタリでは珍しい木造の古アパートがそれである。

 外から戻ってきたカノンに、リビングのソファからリーが声をかけた。

「おかえりなさい。どうでしたか?」

 カノンは両手の紙袋を揺らした。

「持つべきはかつての戦友ですか」

「調達屋だ。観光客相手にサギまがいの商売やって儲けているらしい。おかげで安く済んだ」

他人(ひと)のことは言えない身ですが、その人、いい死に方しませんね、きっと」

「アドルとニナはどうした?」

「出かけましたよ。デートだそうです」

 しかめ面でリーが見ているのは、有線による映像機(テレビジヨン)である。無線通信ができないため、映像の配信は有線で行なうしかない。カタリは〈神君〉のお膝元ということもあり、世界的に見ても配信ケーブルの設置が行き届いた都市だった。

 流れているのはフィンスターニスの国営放送で、アドルの手配写真が映っていた。

「何を考えてるんでしょうね」

「いつものことだ」

 すげなく答え、カノンはリビングと隣接するキッチンへ向かった。テーブルの上で寝ているティシャナを起こさぬよう椅子に移し、紙袋の中身を広げる。出てきたのは、箱詰めされた弾丸の山だ。薬莢はない。〈オーパーツ〉であるウロボロスは、弾の発射にも異界力が使われているからだ。

 ウロボロスの輪胴(シリンダー)をスイングアウトし、箱をひとつ開けて弾丸をわしづかみ、薬室(チェンバー)に入れていく。異界力による亜空間が作られた薬室(チェンバー)に、弾は次々と吸い込まれていった。

「いつものことって言いますけどね。今度ばかりは相手が悪いでしょう」

 リーはカノンに体を向けて訴えた。

「下手したら〈神君〉を相手にすることになるんですよ。勝算ありますか、これは?」

「あいつは負ける勝負をする奴じゃない」

「でも女性がらみですよ」

 弾を籠める手が止まった。

「それに……」

 リーはソファの背もたれにあごを乗せ、眼を伏せた。

「ニナさんは〈神君〉に会って色々と訊きたいことがあるようですが……そのあとはどうする気なんでしょう?」

「俺たちが心配することではないな。決めるのはあの娘だ」

 カノンは弾丸の装填を再開した。

「そうですか?」

 似合わぬものが、リーの口元に浮かんだ。

 嘲笑である。

「相手は〈神君〉ですよ。彼女の意思なんて無視して、どうにでもできる。大体、今回の件だって、衛士団に命令を出したのは〈神君〉本人かもしれないじゃないですか」

「〈神君〉がニナを邪魔に思っていたとすれば、今まで手を出さなかったのは不自然だ」

「彼女が指輪を受け取ったことで、邪推したとは考えられませんか? 万が一、彼女が娘だと主張しだしたら、〈神君〉の権威は少なからず揺らぎますからね」

 手を止めず、カノンはリーに眼を向けた。

「随分と食ってかかるな」

「別にそんなつもりはないですけど……」

「会いたいのか、父親に」

 リーは顔を上げてカノンを睨んだ。殺気混じりの怒気に、寝ていたティシャナが飛び上がり、背中の毛を逆立てた。

「すまん」

 カノンが謝った。無機質な謝意だったが、リーは眼を閉じて怒気を消した。

「いいですよ。父親ではあなたのほうが苦労していますからね」

「俺は会いたくても会えん。もし会えたら――」

 手にした弾丸を見つめる。

「こいつを脳天に食らわせてやるんだが」

 機械化された眼差しは氷点下の冷気を帯びていた。

「彼女がそんなことを考えるような事態にならなければい………いいっ」

 何気なく映像機(テレビジヨン)に眼を戻したリーは、驚愕の声を上げた。

「カ、カノン! ちょっとこれ!」

 画面を何度も指差す。

 カノンは銃を懐に入れ、リビングに移動した。ティシャナもあとについていく。

 画面には乱闘の様子が映っていた。黒い制服側は神国の衛士団で、濃赤色の制服側は〈GG〉だ。 リーが指差していたのは、〈GG〉側の先頭で暴れる片角の牛頭人種(ミノタウロス)である。

「何でフェイガスがこの国に……?」

 リーが呆然としていると、突然カノンが前に飛び出した。

 映像機(テレビジヨン)に手をかけ、画面に突っ込まんばかりに顔を近づけたカノンの眼には、つき合いの長いリーですら数度しか見たことのない感情――憎悪があった。

「ど……どうしました?」

 リーの言葉など聞こえないのか、カノンは画面を凝視し続けた。

 赤く光る機械の眼が見つめるのは、衛士団側の一人で、乱闘を離れたところから眺めてにやつく赤毛の男だった。


 この世界には、数多くの種族が生きている。多くは人型であるが、顔が牛であったり、背中に翼があったり、下半身が蛇体であったりと、様々に姿が異なる。

 そうなれば当然、美醜の感覚も違ってくる。風景、または絵画や彫刻といったものなら重なる部分もあるが、顔形の美しさとなると種族間の隔たりはあまりに大きい。人間種(ヒューマン)森精種(エルフ)が、大鬼人種(オーガー)蜥蜴人種(リザードマン)を見て、美しいと思うことはまずありえない。

 もしもあらゆる種族から『美しい』と思われる者がいるとすれば、その者の美しさはこの世の範疇に収まるものではない。

 肖像画の人物は、まさしくそのとおりの美貌の持ち主だった。

 人によって造られた者でありながら、この世ならざる美に生まれたのは、やはりその身で操る異世界の力の影響か。

 人間種(ヒューマン)の画家、ユージ・タカール作、タイトル『神君』。

〈神君〉を直接描いた作品は、この一枚しかない。他にも描こうとした画家はいたが、ほとんどの者が〈神君〉を目にした段階であきらめ、残りの者たちは製作途中で断念した。

 この絵を観る者は、種族に関わらず、まず絵のモデルの美しさに慄然し、陶然とする。そして作者に感嘆する。よくぞこれほどの美を描き切った――と。

 しかしニナは眉を逆立てて絵を見据えていた。美しいのは認める。実際、先ほどこの絵の前に立ったとき、数秒見惚れてしまったが、今は憎しみに近い感情を持って観ていた。

 この男のせいで、こんな所にまで来ることになったのだ。ついこの前までは、他の〈生域(エリア)〉に来ることなど生涯ないだろうと思っていたのに。

「しっかり覚えておいてね。人違いなんてしたら大変だから」

 能天気な声に思考を中断されたニナは、横のアドルをきつく睨んだ。

「あのさ……少しは緊張とかしないわけ、あんたは?」

 カノンが弾丸の補充に出かけた直後、突然アドルは『デートしよう』と言い出した。もちろん拒否したが、〈神君〉の顔の確認だと言われて押し切られ、反対するリーを残し、ここカタリ国立美術館に連れて来られたのである。

 ニナはつけ耳をして森精種(エルフ)に変装し、アドルは〝偽面〟で姿形は別人になっている。だからといって、不法入国者としての重圧(プレツシヤー)は簡単に消えるものではない。

 しかしアドルは、

「大丈夫だって」

 あっけらかんとしていた。

「堂々としてるほうが案外ばれないもんだよ。それに、ほとんど貸切状態だし」

 アドルの言うとおり、館内は人の姿を捜すのが難しいほど閑散としていた。

「ここって人気ないの?」

「いいや。ここの所蔵品のほとんどは〈大戦争(メガ・ウォー)〉以前にまでさかのぼる貴重な品々だし、歴史的価値も高い物ばかりだから、結構有名な観光スポットだよ。だから、おれたちみたいなのがいても全然不自然じゃないのさ」

「有名なスポットが、何でこんなガラガラなのよ?」

「おれたちのせいで、観光客が規制されちゃってるからね」

「だったら、私たち、ものすごく目立ってるんじゃないの?」

 アドルは口を『あ』の形にして固まった。

「あんた、本当に世界的な泥棒なの?」

 頭痛を覚え、ニナはこめかみを押さえた。

 馬鹿がうつると思い、隣の展示室へと移動する。残念ながら、馬鹿の元はしっかりついてきた。

 ニナは入口のところで、ちょうど出てきた数少ない入館者とぶつかりそうになった。軽い会釈を残して行ったのは、地元の者と思われる老夫婦だった。長生種(エルダー)ではなく、人間種(ヒューマン)なのは服装でわかる。ニナがマーセルにいた頃に着ていた物よりも、断然良い服であった。

「色々な種族がいる街だけど……人間種(ヒューマン)が特に多いみたいね」

「住みやすいからね。なにせ『あらゆる種族は平等である』と言った御方の国だから」

「そんなこと言ってたんだ、あいつは」

 自分の育った環境を思い出すと、とても賛同しかねる言葉だった。

 いら立ち、足音を大きくして展示室に入ったニナの眼に、その絵は飛び込んできた。

 壁一面を使った巨大な絵には、多くの種族が描かれていた。おそらく描かれていない種族はいないと思われる数だ。それでもちゃんと絵の構図はまとまっており、晴天の下、皆が幸せそうに笑い合うという明るい絵だった。

 そんな大作に一点、不可解な箇所があった。

 絵の中央に、皆に囲まれて立つ者がいるのだが、その顔が黒く塗りつぶされているのだ。はっきりと残る筆の跡には怒りが感じられた。

 絵の前に立てられたプレートを見ると、先ほどの肖像画を描いたユージ・タカールの名前があったが、タイトルはなかった。

「元のタイトルは『世界』」

 アドルがニナの背後で言った。

「戦争が終結し、世界がひとつになった喜びを描いたものだけど……〈神君〉の不統治宣言を聞いた作者が製作途中で〈神君〉の顔の部分を塗りつぶしたんだ。世界をまとめてくれると期待していたのに、裏切られたと思ったそうだよ」

「くわしいじゃない」

「おれにとってはメシの種だからね。当時は戦争直後だったから、ものすごく叩かれたらしい。不敬罪だーなんて騒がれて、死刑にしちゃえーって言われたらしいけど、結局は〈神君〉自身が罪無しとして、この絵の顔もそのままにさせたって話だよ」

「何でよ?」

「さあ? 何か思うところがあったんじゃないかな。ちなみに作者のユージはこの判決に感謝したのか、この絵を完成させたあと、さっきの肖像画を描いて〈神君〉に献上した。で、その後、『これ以上のものは描けない』と画家をやめてしまったんだ」

「じゃあ、さっきのが最後の作品なんだ。高いんでしょうね」

「値段のつけようもないね。美術的、歴史的価値はもちろん、模写することさえできない絵画なんて他にはないから」

「盗んでみたら?」

「うーん……男の似顔絵盗んでもなあ」

「……訊いた私が馬鹿だったわ」

 ニナは絵を見上げた。全種族がひとつになった風景。しかし実際の世界は、この絵とはあまりにかけ離れている。

「そういえばさ」

 ニナは絵を見上げたまま言った。

「あんたは何で泥棒なんてしてんの?」

「おや。唐突だね」

「金目当てってわけじゃないでしょ。あんたたちなら、もっとうまく稼げそうだし」

「いやあ」

「褒めてないわよ」

 貧民街で生きてきたニナにとって、盗みは単に犯罪というわけではない。幸いにもニナはやったことはないが、生きるためにその行為に及ばざるをえない者たちもいるのだ。

 アドルもそうだったのかもしれないが、今は困窮しているようには見えない。そうなると、どうにもアドルの仕事は不純なような気がしてならなかった。とはいえどんな理由であれ、盗みが不純な行為だということもわかっている。だから、そのことは口にしない。

 しかしアドルの細められた眼は、こちらの考えを見透かしているようだった。

「でもね、ニナちゃん。その質問は『鳥にどうして飛ぶのか』と訊くようなもんだよ」

「生まれたときから泥棒だったとでも言いたいわけ?」

「それはいくらなんでも言いすぎだな」

 アドルは楽しそうに笑い、

「泥棒になる前にも色々あったからね」

 真剣な口調でニナを驚かせると、顔の左側に手を当てた。

 〝偽面〟が外され、素顔のアドルが現れる。

 縦に走る傷が左眼を塞いでいた。隻眼であることはわかっていたことであったが、こうはっきり見せられると、やはり驚きは禁じえない。

「……平穏無事な人生だったわけじゃないみたいね」

「恵まれてなかった――なんて言うつもりはない。少なくとも、生きているというだけで幸運だったと思わないと」

「そんなに……ひどかったの?」

 マーセルで見たアドルの顔を思い出した。貧民街で暮らしていれば、犯罪者に会うことなど珍しくもない。人殺しも何度か見た。獣のように凶暴な顔、背すじが凍りつくような酷薄な表情……だが、あんな冷たい表情は見たことがない。

 極寒の冬の風を思わせるあの眼差し……殺意、殺気の錬度が、そこらの犯罪者とはまるで違った。

 何を見、何を体験すれば、あのような極寒の相を浮かべられるようになるのか、想像もつかない。かろうじてわかるのは、この子供っぽい男が自分以上の地獄で生きてきたであろうということだけだ。

 ニナの哀れみの眼差しを切るように、アドルは人さし指を振った。

「環境がどうあれ、それを理由に無法者だってことを正当化する気はないよ。『快盗十ヶ条・その二。詐欺も強盗も結構。ただしスマートな仕事を心がけよ』ってね。一応の仁義は通してるつもりだけど、それでもおれは間違いなく悪党さ」

 白い歯を見せる笑顔からは、陰惨であったろう過去は感じ取れなかった。

「あんたのつけてる仮面は、それひとつじゃないみたいね」

 ニナはアドルの手の〝偽面〟を見て言った。

「仮面を被って、ルールで自分を縛って……。世界的な泥棒っていうから、自由奔放にやってるのかと思ったけど、随分と不自由じゃない」

「不自由イコール不幸じゃないよ。大体、自由すぎてもつまらない。むしろ、縛りがあったほうが、刺激が増して退屈しない」

 相変わらずのおどけた口調だったが、その言葉には感じ入るものがあった。

「不自由なことは不幸じゃない……か」

 ニナは顔を塗りつぶされた男を見上げた。

 すぐ眼を落とし、ため息をつく。

「マゾか、あんたは」

「ニナちゃんが攻めてくれるなら、喜んで受けに回るよ」

 体をくねらせるアドルに、ニナは眉間を押さえて呻いた。

「あんたって……どこまで本気よ」

「おれはいつも本気だよ。盗みも――恋もね」

 アドルは自然な動作で前に出て、ニナのあごを軽く上げ、ゆっくりと顔を近づけた。

 ニナは極めて冷静にアドルを殴り飛ばした。

「イヤッホイッ!」

 やっぱりうれしそうな声を上げて吹っ飛んだアドルは、頭を下にして床にのびた。

 その腕の時計が鳴る。

 ニナは壁にかかった時計を見上げた。各〈生域(エリア)〉では時差がある。だが、それにしても中途半端な時間であった。

「あんたねえ、時計くらい合わせなよ。そんなんで、城への潜入は大丈夫なの?」

「その辺は心配なく」

 アドルはあっさり起き上がり、アラームを止めた。やはり効いていない。どうやらこの男、殴られる瞬間、自分から後ろに跳んでいるらしい――ということまではニナにもわかったが、自分の怪力を無効化するというのは並みの体捌きではない。

「ニナちゃんのほうこそ。心の準備はいいのかな?」

「もちろんよ」

 声に震えが出ないようにするのは成功した。

「それは何より。明日が楽しみだ。……それにしても」

 〝偽面〟をつけ、アドルはしみじみと言った。

「おれたち、運命ってものを感じない?」

「また古臭い口説き文句ね」

「そうじゃなくてさ。おれと出会ってなかったら、ここまでは来れなかったでしょ」

「それは…………そうね」

〈神君〉に会いたいという願いを叶えようとしてくれる酔狂者など、世界中捜してもこの男くらいだろう。なにせ世界を敵に回すことになるのだから。

「そこのところは……感謝してるわ」

「いいって。おれはニナちゃんと一緒にいられるだけで幸せだから」

「あんたはいいかもしれないけど、カノンさんやリーくんまで巻き込んじゃって……」

「あいつらだって気にしてないって」

「そんなこと言って。最初は反対してたじゃない」

 しかし二人は結局アドルに従った。

「厄介なリーダーを持ったわね。同情するわ」

「ひどいなあ。それにリーダーって言っても、命令する立場にあるわけじゃない。前にも言ったけど、あいつらは不器用で、世間に身の置き場ってのを見つけられずにいたから――」

「――いたっ!」

 展示室に飛び込んできた声に、ニナはまず素顔をさらしたアドルを隠そうとしたが、泥棒はすでに別人の顔と姿になっていた。

「何だ、おまえら」

 カツラを被って変装したリーと、黒い背広(スーツ)に着替えたカノンが駆け寄ってきた。大雑把な変装が二人の焦りを物語っている。

「デートの邪魔しに来るなんて。それなりの理由があってのことだろうな」

「悪いニュースと、もっと悪いニュースがあります」

 リーが指を二本立てて言った。

「そういう場合、普通はどっちか良いニュースだろ」

「聞きたくないんですか?」

「おれが聞きたいのは、ニナちゃんからの愛の言葉……っ!」

 ニナは肘鉄でアドルを黙らせた。

「とりあえず悪いニュースから聞かせて」

「フェイガスがこの国に来ました」

「誰、それ?」

「おれたちを追っかけてる牛オヤジだよ」

 アドルはわき腹をさすって答えた。

「だけど、早すぎないか? おれたちがこの国に入って、まだ一日しか経ってないのに」

「わかりませんが、現に空港で衛士団ともめてましたよ。問題はその衛士団の一人です」

「俺の知っている奴がいた」

 アドルとニナはカノンに顔を向けた。

「知り合い? 傭兵時代のか?」

「俺のいた傭兵団をつぶした男だ」

 アドルの眼がすっと細まった。

「カノンさんのいた傭兵団を……?」

 まだカノンの過去を知らないニナに、

「たった一人でな」

 カノンはさらに驚くべきことを明かした。

「七年前、〈玩具兵団(トイ・アーミーズ)〉は〈崩壊の(コラプス・デイ)〉以前の遺跡発掘を護衛していて襲われたんだったな。襲撃してきたのは、確か……〈真黎明団(トゥルー・ドーン)〉」

 アドルの確認に、カノンはうなずいた。

人間種(ヒューマン)至上主義の過激派結社か。おかしな具合になってきたな、こりゃ」

 どんなトラブルを受けても楽しんでしまうようなアドルをして、この事実は笑みに苦味を加えるものだった。


          2


〈ラーファ〉における時間は、欠けることのない月が天元(てんげん)――天の中心に来たときを正午と定めている。今、月は東の空にあり、時間的には朝食時である。

 首都カタリの中央にある巨大な城は四方を高い壁に囲まれ、外には堀がめぐらされている。城内に入るには正面の跳ね橋を下ろして入る以外は、空を飛ばねばならない。

 城下町の中でひと際背の高い時計搭の屋上から、カノンは城の跳ね橋が下がり、十台の電動車が出てくるのを双眼鏡で確認した。

 コートの内側から、手の平サイズのディア・ムーンを取り出す。直径五センチほどの真球に加工したスカンダ石を、リング状の思念増幅装置が囲んでいる。〈虚空(ヴォイド)〉間通信は無理だが、風精種(エアリアル)の仲介はなく、遠吠銅(ハウリング・コツパー)よりも遠距離の通信ができるため、非合法作業中にはもってこいの品だ。アドルとリーが同じものを持っており、残念ながらニナの分は用意できなかった。

『出たぞ』

『了解。じゃ、行ってくる。良い子で帰りを待ってるんだよ』

 おどけた思念が返ってきた。

「……おかしいですよ、やっぱり」

 双眼鏡を外したリーは、思い切り顔をしかめていた。

 一昨日の夕方――といっても、この国では時間的な言い方でしかないが――から、状況はアドルたちとは関係なく変化していった。

 集めた情報によれば、空港に着いたものの入国を拒否されたフェイガスたち〈GG〉はアドルたちの密入国のニュースを知り、世界指名手配犯追跡という入国理由を手に入れた。ところがフィンスターニス政府はこれを誤報だったと発表し、フェイガスたちの撤退を求めたのである。

 もちろんフェイガスがそんなことで退くわけもなく、今度はルフティウムにおける数々の違法行為に関する説明を要求した。

 これに対し、最高議会議長ラムダ・ヴァン・ハルトマンが直接説明するという運びとなり、会談場所には城外の迎賓館が選ばれた。議長直々のお出ましとなれば、当然警備も多く、必然城内は手薄となる。

 まるで『入って来い』と言っているような状況だ。

 しかも確認した限り、議長についていった衛士のほとんどは亜人種であった。差別緩和政策のため、衛士には人間種(ヒューマン)が多く採用されているのにも関わらずだ。

「〈真黎明団(トゥルー・ドーン)〉の作意がはっきりと見えるじゃないですか」

 どうやら〈真黎明団(トゥルー・ドーン)〉は議会と衛士団に相当深く食い込んでいるらしい。

「わざわざ虎の口に飛び込まなくてもいいでしょうに……」

「だからこそ、俺たちを外に残したんだろう」

「ニナさんと二人っきりになりたかっただけって気もしますけど……」

 台詞はアドルへの不審だが、その表情は心底から仲間の身を案じるものだった。

「そこまで心配なら、一緒に行けばよかっただろう」

「言っても連れて行ってくれませんよ。むしろ、あなたのほうが言えば連れて行ってもらえたんじゃないですか? 仲間の仇がいるんですから」

「そいつがいるからこそ行けん」

「どういうことです?」

「七年前、〈玩具兵団(トイ・アーミーズ)〉の兵隊たちは完膚なきまでに破壊されていた。戦闘データもクラッシュしていて、かろうじて無事だったものに奴の顔があったにすぎない。奴が一人でやったというのは、残された傷の種類を調べたからだ。問題は……」

 カノンはわずかに眉を寄せた。

「明らかな同士討ちがいくつも起こっていたということだ」

「同士討ち? つまり裏切り者がいたと?」

「全滅したんだぞ」

「あ……。じゃあ、どういうことです?」

「推測はいくつかある。だが、断定はできない。わかるのは、数を増やして行ったほうが危険かもしれないということだ」

「そうかもしれませんが……」

 リーは不安な眼差しを城に向けた。

「安心しろ」

 カノンはリーの肩を叩いた。

「あいつは勝算のないことをする奴じゃない」

「それはわかっていますけど……」

「その計算が間違ってる場合も多いが」

「どっちなんです!」

「あいつに関しては、心配するだけ無駄だということだ。それに……」

 感情の浮かばぬ顔を城へ向ける。

「行き当たりばったりの臨機応変こそ、あいつの得意技だからな」


 貴族趣味のある長生種(エルダー)にしては、その城はいささか無骨な姿をしている。

 基部は大きな八角形で五つの階層からなり、八角形の角の部分には槍のような尖塔が建ち、城と言うよりも巨大な要塞めいている。

 しかし上空に月が来ると、この城は変わる。

 天元に月が来て直上からの月光を浴びたとき、城全体がほのかに白く輝くのだ。正面から見るとそれは巨大な王冠にも見える。

 そのためついた呼び名が〈月冠城(げつかんじよう)〉――ここの最上階、つまり天に最も近い部屋に、世界を救った男はいる。

 一方、城の最深部。地下三階の一室で、床石のひとつが沈んで穴が開いた。

 長年の間に溜まった埃が舞い上がる。穴から二人分の咳とくしゃみが聞こえ、しばらして止まると、仮面をつけた顔がヒョコッと飛び出した。

 アドルは小型のライトで室内を見回すと、体を捩って穴を抜けた。

 ステッキを小わきに挟み、続くニナを引っぱり上げる。

 ニナは周りに飛ぶ埃を手で払い、赤い服についた分も落とそうとしたが、長いスカートをつまんで振ったため、余計に埃を舞い上げてしまった。

 はっきり言って、潜入にはまったく適さないドレスであった。身にきついものではないが、とにかくスカートが長い。しかもやたらに胸元が開いている。昨日、アドルが買って来たもので、ニナは嫌がったのだが、『せっかくお城に行くんだから』、『城壁を越えるってわけじゃないし、大丈夫だって』とまたも押し切られてしまったのである。さらに首にはネックレス。中央につけられた森王の涙がライトの光を受けて輝いた。

「何なの、この部屋は?」

 周りには木箱がいくつも積まれ、奥のほうには小型の戦車や双ローター機が置かれていた。

「武器庫だよ。この城は〈大戦争(メガ・ウォー)〉のときに建てられたものだからね」

 城の無骨なまでの堅牢さは、当時、種の存亡の危機にあった長生種(エルダー)が生き残りをかけて建造したからだった。しかし、長期の戦闘を覚悟して完成させたものの、〈神君〉の登場により戦火にさらされることなく終わってしまった。

「そんなわけで使われることもなく、こうして二百年間、埃を被ってるってわけ。でも放っておかれたのは、ここの武器だけじゃない。この城も二百年間、ほとんど変わっていないんだ」

 最終決戦用にこれでもかと堅牢に造られたこと。また変化する意欲に乏しい長生種(エルダー)の性質。さらには〈神君〉が一番上にいて動かないということから、この城は二百年間、ほとんど改築されていない。外側を月の光で輝かせるようにしたのは、外観の無骨さに長生種(エルダー)の美意識が耐えられなかったからであった。

「各所に配置された砲台もそのままだし、上下水道だって風車を使って汲み上げた地下水を使ってるくらいだ。案の定、この抜け道もそのままだったよ」

「だけど、なんでこんな抜け道を知ってるのよ?」

「昔、ギルツの軍事施設に忍び込んだことがあってね」

 大戦時に秘匿された軍資金のありかを記した地図が目的だったが、結局その話は完全なデマだった。骨折り損だったうえに、〈GG〉だけでなく軍隊にまで追われるはめになったのだが、ただ逃げるのも腹立たしかったので一部の資料を盗み出したのである。

「その中に〈月冠城〉の詳細な見取り図があったのさ。まさかこんなところで役に立つとは思わなかったけど。いやー、なんでも盗っておくもんだ」

「あんた……今、さらっと言ったけど、軍隊相手にしたことあるの?」

「あのときは死にかけたなあ」

「しみじみ言うな。でも何でギルツの軍がこの城の図面を?」

「万一のためだろうね」

 アドルはライトで、部屋のドアを照らした。

「たぶんギルツだけじゃなく、他の国もそうだ。〈神君〉の力を警戒してるのさ」

「警戒? 〈神君〉が攻めてくるとでも思ってるの?」

「可能性の問題さ。その気になれば、世界を相手に戦えるほどの御方なんだから」

「…………」

 ニナは黙り込み、うつむいた。足が小刻みに震えている。

 アドルはステッキをわきに挟み、開けた片手をニナの肩に置いた。

 ニナは強い力で、その手を払い除けた。

「やめてよ。怖いわけじゃないんだから」

 顔を上げたニナの眼は、静かに怒りの炎を燃やしていた。

「何を怖がるって言うのよ。元凶は全部あいつなんだから。相手が誰であれ、きっちりケジメ取らせるわよ」

 強く握りしめた手が音を立てる。肉が締まるだけでなく、骨まで軋むほどの力がこもっていた。

 アドルはステッキで額を軽く叩くと、感慨深げに吐息した。

「……男らしいねえ」

「褒めてるの、それ?」

「もちろん! 女は度胸っていうじゃないか」

 アドルはニナの肩を力強く叩いた。

「ますます惚れたよ、ニナちゃん! 必ず〈神君〉に会わせてあげよう。大船に乗った気でいてくれ!」

 ライトで照らされた能天気な笑顔に、ニナは少し感心した。これから世界中の国々から恐れられている男に会いに行こうというのに、この男は恐がっていなかった。

 世界を相手にしても退かない――リーがそんなことを言っていたが、本当なのかもしれない。

 気がつけば、足の震えは止まっていた。

「よし……」

 ニナは両頬を強く叩き、気合いを入れた。

「行くわよ!」

「行こう!」

 アドルはおもむろに部屋のドアを開けた。

 光が二人の視界を奪った。

 白くなった世界で、複数の金属音が鳴る。眼が慣れると、自分たちに向けられた多数の銃口を見ることができた。

「……大船に乗った気でいろって言ったわよね?」

「進水式で沈没って感じだなあ、これは」

 軽口を叩くアドルだが、さすがに笑えるほどの余裕はなかった。


 最後の通信から一時間。定時連絡が入る時間だが、アドルからの通信はなかった。

「いきなりですか!」

 リーは頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「行くぞ」

 カノンは冷静だった。早々と踵を返す機械化人間(サイボーグ)を、リーは慌てて追いかけた。

 時計搭の内壁をらせん状に走る階段を、二人は急ぎ足で降った。

「同じ抜け道は使えないでしょうね。他の所は?」

「望み薄だな。これだけ早く発見されたということは、抜け道に張られていたんだろう。他の道となると――?」

 カノンはコートのポケットから城の図面を取り出したが、小さな影が飛んできて図面を奪い取った。

「ティシャナ」

 黒猫は図面をくわえたまま、下へ逃げた。

「コラッ! 何を」

「止めるぞ」

「ダメですって! それはマズイ!」

 ウロボロスを抜くカノンを制止し、リーは走ってティシャナを追いかけた。

 黒猫はその身軽さを遺憾なく発揮し、途中で階段から階下へダイブ。見事着地を決めた。

 リーも飛び降りたが、床に達するより早く、ティシャナは鋭い爪と牙を使って図面をズタズタに破り出した。

「ああああーっ! 何するんだ!」

 リーは着地と同時にティシャナに飛びかかったが、スルッとかわされ、そのまま床に顔面からダイブすることになった。

 遅れて床に降り立ったカノンは、顔を押さえてのたうつリーをそのままにしてティシャナに近づいた。

 黒猫は悪びれた様子もなく、前足で顔を洗うと、尻尾を立て前後に振った。

「……ついて来いと?」

 カノンの問いに、猫はもちろん答えなかったが、それが正解と言わんばかりに時計搭の出口へと軽やかに歩を進めた。

「ど、どういうことですか?」

 痛む鼻を押さえ、リーは首を傾げた。

「黒猫の誘いか。行き先には不幸しかなさそうだな」

「嫌なこと言わないでください。どうするんです?」

「不幸があるならちょうどいい。そこにはアドルがいるはずだ。だが、少し待て」

 意味を理解しているのか、ティシャナは振り返った。

「その前に連絡を入れる」

「どこに?」

 リーが尋ねた。ティシャナも不思議そうに頭を傾ける。

「俺たちだけ不幸になるのは面白くない。ついでに奴らも不幸になってもらおう」

 無感情な口調には、それと感じさせない意地の悪さが確かに含まれていた。


「入れ、こそ泥!」

 背中を蹴られたアドルは牢屋の床を転がり、頭を下にして奥の壁にぶつかった。牢が閉められ、鍵がかけられる。

 アドルは逆さまのまま、恨めしそうに牢屋の外を睨んだ。その顔に仮面はない。仮面とステッキは下卑た笑顔のグリアムが持っていた。

「いいざま――」

「何すんのよ!」

 ニナの肘をわき腹にくらい、グリアムは膝を折って苦悶した。

 周りの衛士たちが銃を向けるが、ニナは逆にそいつらを睨みつけてやった。

「こ、小娘……」

 グリアムが怒りで顔を真っ赤にして立ち上がった。

「やめろ」

 一触即発の空気が、そのひと言だけで散らされた。

 グリアムが顔を青くして姿勢を正す。衛士たちもあとに続き、さらに左右に分かれた。

 眼鏡をかけた衛士はニナの前に進み出ると、胸に手を当て深々とお辞儀した。

「ようこそおいでくださいました、姫君(プリンセス)

「誰よ、あんた」

「フィンスターニス国家衛士団の団長レイス・コールドと申します。お見知りおきを」

「見知りおきたくないわよ、あんたなんて……」

 丁寧な挨拶を突っぱねるニナだったが、語尾は尻すぼみになった。貧民街で生きた者の勘が、この女みたいな顔の衛士から極めて危険なものを感じ取ったのだ。

「御不快なところもありましょうが、どうか暴れないでいただきたい」

 レイスが頭を上げた。眼が合い、ニナは震え上がった。まるで全身に蛇が絡みついてくるような不気味な視線であった。

 ニナを立ちすくませたまま、レイスは牢屋に体を向けた。

「君がアドル・ペルソナか。名高い快盗にこうして出会えるとは光栄だよ」

「そりゃどうも」

 逆さまの体をひっくり返すと、アドルは胡座をかき、隻眼で油断なくレイスを見据えた。

「おれも光栄ですと言おうか? 〈真黎明団(トゥルー・ドーン)〉の首領(チーフ)殿」

 あからさまに驚きを見せたのはグリアムやその他の衛士で、レイスは眼鏡を軽く押し上げただけだった。

「一体何のことかな?」

「すっとぼけるなよ。そいつらだって、全員手下だろ?」

 アドルは衛士たちを指差した。二人を待ち伏せし、この地下牢まで連れて来た衛士たちは、全員が人間種(ヒューマン)であった。

人間種(ヒューマン)至上主義のテロリストが、こんな所で何してる?」

「貴様!」

 グリアムが牢の格子を殴った。

「こそ泥風情が、口の利き方に気をつけろ!」

「グリアム」

 鋭い声と氷じみた視線に押され、大男は下がった。

「馬鹿な部下を持つと苦労するな」

「まったくだ」

 手下をかばわず、レイスはアドルに微笑みかけた。

「思ったとおり。たいした男だな、君は」

「おまえに褒められてもうれしくないね。大体、褒めるほどおれのことを知ってるのか?」

「君の輝かしい戦歴は調べさせてもらった」

 紅を塗ったような赤い唇が笑みを深めた。ただし眼は一切笑っていない。

「どれもこれも驚くべきものだ。特にギルツの軍施設に忍び込んだときなど、戦車十台に装甲車八台、戦闘ヘリ三機を破壊したそうじゃないか。驚くばかりだよ」

「あちゃあ……待ち伏せされてるわけだ。抜け道使うの、ばれてたか」

 アドルは頭を掻いた。

「しかし、何でおれたちが来るとわかった?」

「わざわざ光路を使ってまでこの国に来たんだ。目的はわからないまでも、彼女が一緒というなら、〈神君〉のいるこの城に来ると考えるのは普通だよ」

「それで城を手薄にして誘い込んだわけか、ちくしょうめ」

「わかって来たのだろう? 賞賛すべき度胸だな。しかも捕まったというのに、まだ余裕を失っていない」

「『快盗十ヶ条・その九。絶体絶命の危機にあっても軽妙洒脱であれ』ってね。この程度、戦車に追いかけられたときに比べたら、ピクニックみたいなもんだ」

 ニヤリと笑ったアドルは、一変、表情を引き締めてレイスを睨んだ。

「おまえら、ニナちゃんをどうする気だ?」

「安心したまえ。議長は人知れず始末したがっているが、我々の主は別の考えをお持ちだ」

「主?」

 けたたましい足音が近づいてきた。

「レイス! 彼女が来たというのは本当か」

 やって来た青い長衣の若者はニナを見て、顔をとろかせた。

「すばらしい……実物のほうが何倍も美しいな」

「今度は誰よ?」

 うんざりとするニナに、

「あなたの夫となる御方です」

 とレイスが紹介した。ニナとアドル、合わせて三つの眼が大きく見開かれた。

「ニ、ニナちゃん。婚約者がいたの」

 アドルは格子にすがりついて叫んだ。

「そんなわけないでしょ! どういうことよ、それ」

 取り乱すニナに、レイスがうやうやしく頭を下げる。

「そのままの意味です。姫君にはリチアル様と一緒に、〈神君〉の名代として世界を統治していただきます」

「バカ言わないでよ! 何で私がこんな貧弱で頭の軽そうな奴と結婚しなきゃならないの!」

 指差されたリチアルは顔を引きつらせた。

「く、口の悪い娘だな。僕は一応、一〇七歳になるんだが……」

「ジジイじゃない! あんた、九〇も年下の女を嫁にしようっての 壁に頭叩きつけて死ね、この変態(ロリコン)! それがイヤなら、生まれてきたことを反省して〈虚空(ヴォイド)〉に飛び込んで消えて失せろ、童顔ジジイ!」

 罵詈雑言に打ちのめされ、よろめくリチアルをレイスが支えた。

「お、おい……本当にこいつが〈神君〉の娘なのか?」

「育ちがちょっと悪いだけです。これからゆっくり教育していけばいいだけのこと。育てる楽しみがあってよいではないですか」

「うう……そ、そうだな」

 リチアルは無理やり自分を納得させたようだった。

 レイスはリチアルを離し、ニナに手を差し出した。

「こんな所では落ち着いて話もできません。どうぞ、上へ」

「イヤよ」

「そうおっしゃらずに」

 衛士たちの銃がアドルに向けられた。

「来ていただけますね?」

 ニナは従うしかなかった。

 見張りの衛士を残し、リチアルたちはニナを連れて行こうとした。

「ちょい待ち」

 全員が足を止め、アドルに振り返った。

「何かね?」

 レイスが訊いた。

「指輪はいいのか?」

 リチアルが、あっ、と叫んだ。

「そうだ、レイス。指輪はどうした?」

 レイスが眼で問うと、グリアムは首を横に振った。

「奴の所持品はすべて押収しましたが、指輪はありませんでした」

「なんだと」

「ご心配なく、リチアル様。指輪は外にいる奴の仲間が持っているはずです」

「ああ、そうだよ。だけど……」

 アドルは格子に寄りかかり、隻眼を細めた。

「何でそのことを訊かなかった? あれは彼女が〈神君〉の娘であることを証明する唯一無二の品だ。彼女をお姫様にしたいなら、真っ先に在り処を聞き出そうとするはずだろ」

「……君ほどの男なら、あの指輪を外に置いてくるだろうと思っていただけさ」

 レイスはリチアルを促し、ニナを連れて地下牢を出て行った。

「やなヤローだな」

 アドルは格子に背中を預け、最後の一瞬、レイスが自分にだけ見せた表情について考えた。

 唇の端を吊り上げたその笑みは、怖気を覚えるほどの悪意に満ちていた。


          3


「何か飲むかい?」

「いらないわよ」

 リチアルの勧めに、ニナは仏頂面で応じた。

 地下牢から出たニナはリチアルの執務室につれて来られた。衛士たちは途中で別れた。唯一、同行したレイスはニナの背後に立っている。おかげで背中が冷たくてしかたなかった。

「あんたは……この国の偉いさんなわけ?」

「最高議会の末席についている。家柄は議長のハルトマン家に継ぐ。〈神君〉の血を引く君とも充分につり合うと思うぞ」

 前髪をかき上げて微笑む。気障な態度だが、それなりに顔がいいので様になる。それを認めつつ、ニナは鼻で笑った。

「つまんない男ね。肩書きで釣れる女がほしけりゃ、町の酒場にでも行きなさい。ケツの毛全部引っこ抜かれて追い出されるのがオチだろうけど」

 リチアルはものを詰まらせたように喉を鳴らし、こめかみを痙攣させた。

「ほ、本当に育ちが悪いな……」

「あんたに言われたくないわよ。どうせ甘やかされたボンボンなんでしょ」

 ニナは背後のレイスを親指で指さした。

「いい? こいつらが何者か教えてあげようか」

「ん? ああ。〈真黎明団(トゥルー・ドーン)〉だということか」

「へ?」

 ニナはあごを落とした。

「知っているさ、そんなことは」

「……テロリストってことも?」

「我々はテロリストではありません」

 ニナは振り返ってレイスを睨んだ。

「我々の目的はひとつ――人間種(ヒューマン)を差別から解放させることです」

 レイスは使命感を感じさせる熱い口調で言った。

「あなたも知っているはずだ。この世界で人間種(ヒューマン)がどういう扱いを受けているか、その身をもって経験しているのだから」

「それは……」

 間違っても優遇される立場にはない。

「我々は一千年前の祖先の罪を、いつまで償わなくてはいけないのか……。あなたのいたルフティウムはもちろん、このフィンスターニスでさえ差別は皆無ではない。他の場所では、家畜同然に扱われている所まである。あまりに理不尽だとは思いませんか?」

「…………」

 沈黙は肯定の意であった。

「あなたがその気になってさえくれれば、世界は変えられる。〈神君〉の娘として、世界から争いと差別をなくすことができるのです」

「だから、レイスは僕に協力してくれるのさ」

 リチアルが誇らしげに言った。

「僕は人間種(ヒューマン)だからといって差別などしないし、種族の違いなんて小さなことだと思ってる。上に立つ者がしっかりしていれば、世界は平和を維持していけるさ」

 ニナは若い長生種(エルダー)を鼻で嘲笑った。

「だったらダメじゃない。あんたみたいなのが上に立ったら、世界は明日にでも滅んじゃうもの」

 気色ばむリチアルをいち早く手で制し、レイスはニナの顔を覗き込んだ。

「苦しむ者たちを救える力があるのに、あなたは彼らを見捨てるのですか?」

「私にそんな力ないわよ」

 ニナはレイスの不気味な圧力に抵抗し、きっぱりと言った。

「力があるのは、あんたらが私の父親じゃないかって思い込んでる男でしょ」

「その御方の血を引く者だからこそ、あなたは世界を救える」

「私は〈神君〉の娘なんかじゃない!」

 レイスを睨みつけて咆えた。

「大体、綺麗ごとばっかり言ってんじゃないわよ。世界を救う? そこのお坊ちゃんは単に権力がほしいだけじゃない。そいつを利用するあんたは、本当は何が望みなのよ?」

「ご理解いただけませんか……」

 レイスが悲しそうに顔を伏せた。だが、その一瞬、ニナはレイスの顔に、悪意をたっぷりと含んだ笑みを見た。

「あんたは――」

 机の風話器が鳴った。反射的にそちらを見て、顔を戻したときには、レイスは伏せた顔を上げていた。寸前に見せた笑みは、もうない。

 リチアルがソファを離れ、風話器を取った。

 相手と会話ののち、

「なんだと!」

 若き議員は驚愕の叫びを上げた。


「だから、これ以上近づくなと言ってるだろ! その牛の頭に脳ミソは入っていないのか! いいかげんにしないと、内政干渉で訴えるぞ!」

「これは内政干渉じゃなく、犯人逮捕だ! そっちこそ、長生きしすぎて脳ミソがミイラにでもなったか、ジジイ! 邪魔すんなら、てめえから檻にぶち込むぞ!」

 城の前で激しく言い争うのは、皺深い顔を真っ赤にしたラムダ最高議会議長と、彼の倍近い身長のフェイガス隊長であった。

 迎賓館で会談中のはずの二人がこんな所にいるのには、わけがある。

 会談が始まってすぐ、フェイガスに連絡が入ったのだ。相手はブルーローズのカノン・スパルカスと名乗り、仲間のアドルがすでに〈月冠城〉に潜入し、自身もこれからあとに続くと言って、一方的に通話を切った。

 フェイガスは当然だが、それ以上に驚き、慌てふためいたのはラムダだった。すぐに城へ事実確認をしようとしたが、先んじてフェイガスが隊員を率いて城に向かったため、護衛とともに追いかけたのである。

 始めはまだ互いに立場をわきまえた言動を取っていたが、すでに開始から十分以上。周りがげんなりするほどの舌戦は、単なる罵りあいになっていた。

「二人とも、もうやめてください」

 とうとうラスターが割って入ってフェイガスを止め、ラムダも秘書官に制止された。

「入る、入らないをどうこう言う前に、この入れない(・・・・)って状況をどうにかしましょうよ」

 フェイガスやラムダ、そして彼ら率いる隊員、衛士たちがいるのは、城の前は前でも、堀を挟んでの場所だった。

「だったら、さっさと跳ね橋を降ろせばいいだろう! こんな所で足止めくらってる間にアドルたちが逃げたら、このジジイを逃亡幇助で捕まえるぞ!」

「やったら、不当逮捕で訴えるぞ! 盗っ人どもがいるかどうかも含め、今、確認させている。少し待て!」

 舌戦再開かと思われたが、そこに風話器を持った衛士がやってきた。

「わしだ! 一体、何がどうなっている」

 奪うように風話器をつかみ、ラムダは唾を飛ばして怒鳴った。

 相手の返答に耳を傾けていたが、

「――なんだと」

 いきなり愕然と叫んだ。

「な、何を言っている? 貴様、一体――なん…………ふ、ふざける!」

 困惑、疑念、怒りと、老人の表情はクルクル変わった。

「……何があったんでしょう?」

 疑問をつぶやくラスターを残し、フェイガスはラムダに近寄って風話器を奪い取った。

「何をする! 返――」

「貴様。誰だ?」

 つかみかかるラムダをかわし、相手を誰何する。

『あなたは?』

「〈守護神の籠手(ガーディアンズ・ガントレット)〉守護騎士団第二隊隊長ルドルフ・フェイガスだ」

『これは失礼を。実は跳ね橋を降ろす装置が故障しまして』

「そんなことは訊いてねえ。おまえは誰だ? それにブルーローズは?」

『ブルーローズ? 何ですか、それは』

 疑問ではない。こちらを嘲る口調だった。

『こちらは跳ね橋のこと以外、何も起きてはいません。議長にもそうご説明しましたが』

「そうは見えなかったぞ」

 再びラムダの手をかわし、尋ねる。

「誰なんだ?」

「衛士団の団長だ!」

 訊くことを聞いて、通話を続けた。

「てめえ、何を企んでやがる?」

 ストレートに質問する。沈黙が返ってきた。

「おい――」

『世界に真の夜明けを迎えんがために』

 奇妙な言葉を残して、通話は切られた。

 フェイガスは風話器をラムダに投げ返すと、突進するような足取りでラスターに近づき、引き寄せ、耳打ちした。

「緊急事態だ。飛べる隊員とチームを組んで潜入し、跳ね橋を降ろせ」

 後ろを振り返り、ラムダが城内と連絡を取れと怒鳴り散らしているのを確認する。

「急げ。厄介なことになってるらしい」

「厄介なこと?」

「世界に真の夜明けを迎える――そんなたわ言ほざくテロリストどもが、確かいたよな」

 眼を剥くラスターの肩を押し、フェイガスは城門を見上げた。

 月は天元に近づきつつあった。


『……陛下に頼まれた仕事は無事完了した。しかしあの女は陛下の何なのか。あの腹にいる子は、一体誰の子か。信じたくはない。だが、疑念は膨らんでいく。いいや。私は何があろうと〈神君〉陛下を信じるのみ。たとえ私の疑念どおりだったとしても、それは墓まで持っていく。それが私の、フィンスターニス貴族の義務というものだ――』

 日記の文字には、綴った者の苦悩が見て取れた。

「どうだい?」

 酒の臭いがついた息を吐き、リチアルが訊いてきた。

「父上の驚きがよくわかるだろう。そりゃそうだよな。まさか二百年近く、座っていただけの〈神君〉から直接命令が下ったんだ。その内容が、端女(はしため)を一人、国外に送り出してほしいときた。おまけに、その女が妊娠していたとくれば……答えはひとつしかないよなあ」

 リチアルはグラスの酒を飲み干して笑い、また酒を注いだ。

 ニナは日記を閉じた。

「こんなものが……」

 呆然とつぶやいた。

「父上はラムダのジイさんと一緒に〈大戦争(メガ・ウォー)〉で〈神君〉を支えた信頼の厚い臣下だったが、ラムダに頼まず、父上を選んだのはやっぱり頭の柔らかさだろうな。ラムダがそんな命令を受けたら、神君の名誉を守るために命令を無視して君の母親を始末していたはずだ。日記を見せたときのあいつときたら……傑作だったぜ!」

 馬鹿みたいに大口を開けて笑い、酒をあおる。先ほど議長と〈GG〉がやってきたと報告が入り、レイスが処理のため部屋を出て行ったあとから飲み続け、聞いてもいない自分の計画の経緯を話し出したのだ。

 このボンボンの器の小ささを、ニナはすでに見抜いていた。酒で不安を紛らわせようとしているのが何よりの証拠だ。世界を支配しようという男でないばかりか、そんなことを思いつくような男でもない。レイスの手につながる操り糸が見えるようだった。

 これ以上、操り人形をかまっていても意味はない。レイスのいない今がチャンスだった。

 ニナはテーブルを見た。木製で、天板が分厚い。

 また酒を注ぐリチアルに、

「ねえ」

 と声をかけ、体を前に乗り出す。ついでに、大きく開いた胸もとをさりげなく強調した。

「そのお酒って高いんじゃないの?」

「これか? 君のような生活をしてきたら、まずお眼にかかれないような一品さ。僕の生まれた年の酒なんだぜ」

 それはすごいわね、と棒読みで言い、相手の視線を見つつ、テーブルの下に手を入れる。

「それじゃあ、このテーブルもやっぱり高かったりするの?」

 リチアルの眼が下を向いた瞬間、ニナはテーブルをすくい上げた。

 リチアルの顔面を叩いたテーブルに、スカートを跳ね上げて前蹴りを放つ。

 細い足は分厚い天板を蹴り砕き、リチアルの顔面を捉え、ソファから吹っ飛ばした。

「さよなら、頭の足りないボンボン!」

 捨て台詞を置いて、ニナはドアへ走った。

 途中、スカートの裾を踏んでつんのめった。

 アドルを呪いながらドアノブに手を伸ばす。

 手は空をつかんだ。逆の手首をつかまれ、引き止められたのだ。

 引っぱられ、反対側の壁まで放り投げられる。背中からぶつかり、肺の空気が押し出され、一瞬、眼の前が暗くなった。

「口だけじゃなく……行儀まで悪い女だな」

 リチアルは顔に刺さったテーブルの破片を引き抜きながら言った。傷がみるみる塞がっていく。蹴りつぶされた鼻も、元の形に戻った。

 この二代目のボンボンが長生種(エルダー)であることを、すっかり忘れていた。

「優しく礼儀作法を教えてやるつもりだったが……気が変わった。体に教え込んでやる」

 リチアルの姿がかき消えた。長生種(エルダー)が本気で動けば、その動きを捉えられる種族は数えるほどしかいない。

 しかし――本人が望んだことではないが――ニナも普通の人間種(ヒューマン)ではなかった。

 横に身を投げ出し、捕らえようとするリチアルの手をかわした。

「よけてんじゃ――っ」

 ニナの投げた酒瓶は、治ったばかりの鼻に命中した。

 リチアルがよろめいた隙に、ドアへと走る。

 今度はドアノブをつかめた。

 一気に押し開けようとすると、外から引っ張られ、たたらを踏んだ。

「おや? どちらへお出かけですか、姫君(プリンセス)

 悪意に満ちた微笑がニナを凍りつかせた。

「おおっと、そのまま」

 滑るようにレイスの横を抜けてきた赤毛の衛士が、短剣の先をニナの首に当てた。

 刃で押されて後退すると、レイスが部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。

「随分と仲良くなられたようですね」

 リチアルは皮肉な物言いのレイスを睨んだが、すぐ捕まったニナに眼を戻した。

「シリック……そのままにしてろ」

「お待ちください。今はそんなことをしている場合ではありません」

 リチアルの怒りの矛先が再びレイスに転じた。

「どうしたんだ。ラムダや〈GG〉は……」

「現在、跳ね橋を上げて、足止めしています」

「足止め? 追い払えと命じ――」

「城内の反抗勢力は七割がた制圧しました。亜人種の衛士どもはともかく、長生種(エルダー)を行動不能にするのに手間取っていますが、そう時間はかからないでしょう」

 何を言っているのか、リチアルが理解するには時間がかかった。

「何を……何をやってる! それじゃあ、まるで反乱じゃないか!」

「反乱ではありません。これは浄化です。世界が真の夜明けを迎えるための」

「レイス、気でも違ったか!」

「どこまで馬鹿よ、あんたは!」

 ニナは刃先が首を傷つけるのもかまわず振り返った。

「いいかげん、気づけ! こいつらは凶悪なテロリストで、あんたを利用しただけ! いいように使われてたのよ、あんたは!」

 リチアルの顔から表情が剥げ落ちた。肩を落とし、おろおろとニナたちを見回してようやく理解したのか、顔を真っ赤にした。

「レイス! き、貴様、僕を……この僕をっ!」

「ひととき、良い夢を見られたと思ってくだされば幸いです」

 レイスが慇懃に言うと、シリックが甲高い声で笑った。

「そうそう。それに俺たちが親父をぶっ殺したから、議員の椅子に座れたんだ。感謝してくれよ」

 リチアルの眼が限界まで見開かれた。

「父上を殺……。あれは事故では……」

「事故ですとも。我々の仕組んだ」

 レイスは左手を口元に当てて笑った。

「さて、リチアル様。真実を知った今、誇り高き長生種(エルダー)の貴族として、どう行動いたしますか?」

「……決まっている」

 愕然とした表情が、みるみる鬼面に変わっていく。

「よくも僕をコケにしてくれたな、人間種(ヒューマン)風情が――っ!?」

 怒号を引いて突進した長生種(エルダー)は、衝突寸前で跳ね返り、部屋を横断して壁に激突した。

 レイスの体は青い鱗状の光に包まれていた。

「〝海王甲(かいおうこう)〟リヴァイアサン」

 口元に沿えた左手で、青い指輪が輝いていた。

「……〈オーパーツ〉だと……?」

「ええ。我々人間種(ヒューマン)の祖先が生み出した英知の結晶。世界の在り様さえ変える力です」

「自惚れるなよ、人間種(ヒューマン)

 壁から離れたリチアルに、もう激突のダメージはなかった。

「貴様らの祖先は自分たちの愚かさ故に滅んだ。貴様もそのひそみに倣え」

「あいにく、過去のあやまちを繰り返すつもりはありません」

 レイスは左手を降ろし、鱗状の光壁を消すと、冷たい視線でリチアルを射抜いた。

「貴様こそ――自らの愚かさを悔いて逝け」

「ぬかせ!」

 リチアルが突っ込むと同時に、レイスの右手の指輪が赤い閃光を放った。

 またも若い長生種(エルダー)の体は吹っ飛び、壁に貼りついた。

「こ、今度は何……?」

 壁から背を離し、胸を押さえたリチアルは感触の奇妙さに眉を寄せた。

 顔を下に向ける。手は背中まで抜ける大穴にすっぽり入っていた。

 まるで穴を塞ごうとするように、もう片方の手も穴に入れ、リチアルは前のめり倒れた。

「あの世で父親に誇るといい。真の夜明けを迎える手助けができたことを」

 レイスはまだ輝きを残す赤い指輪を、嘲笑を浮かべる唇に当てた。


          4


 地下牢の狭い詰め所に、グリアムはのっそりと巨体を入れた。見張り役の下級団員二人が、机に広げたカードを隠して立ち上がる。

「どけ」

 グリアムは二人を押し退け、奥へ進んだ。そこにある机にはアドルの所持品が置かれていた。時間の合っていない腕時計や中身の少ない財布。青い薔薇。数枚の名刺(カード)。煙玉に光玉。小型のライト。短眼鏡。遠吠銅(ハウリング・コツパー)使用の遠隔操作爆弾。携帯用のディア・ムーン。極細のワイヤーの束……そして左側だけの白い面と黒いステッキ。

 グリアムが手にしたのはステッキだった。

「あの、何か?」

首領(チーフ)の命令だ。あのこそ泥を始末する」

 嘘だった。命令など、何も出ていない。それどころか、レイスはもうアドルのことなど忘れているかもしれない。

 だが、グリアムは恨みを忘れることはできなかった。なにせ一度は腕を落とされたのだ。このまま放っておいても、この〈生域(エリア)〉ごと消し飛ぶが、それでは気が済まない。

 ステッキで手の平を叩き、硬さを確かめて笑う。〈オーパーツ〉としての使い方はわからないが、人の頭をかち割るには充分な硬さだった。

 牢屋へ向かうと、見張りの二人がついてきた。

「上はどうですか?」

「ああ、城内の制圧はほぼ完了してる。問題は外の〈GG〉だが、ラムダのジジイを脅して足止めをさせているから心配ない」

〈GG〉を呼び寄せるとは予想外だった。こちらの混乱を狙うにしても、デメリットが大きいはずだ。

 どうせまとめて消えることになるのだが、邪魔されてしまうと脱出の時間がなくなる。後ろの二人などはどうでもいいが、自分の代わりはいない。自分はレイスに選ばれた者――真の夜明けを迎えた世界を担わねばならないのだ。

 この復讐にも時間はかけられない。牢屋に到着するなり、ステッキで格子を叩いた。

「おい! こそ泥……?」

 牢屋の中を見て、グリアムは呆れ、絶句した。

 どれほど怯えているかと期待していたのに、アドルは牢屋の真ん中で寝転がっていた。

「おい、コラ! 起きろ!」

 さっきよりも強く叩いた。ついてきた二人が、強い音に首をすくめた。

 しかしアドルは反応しない。

 さすがに様子がおかしいことに気づき、薄暗い牢屋に眼を凝らす。

 今度は驚きのあまり、絶句した。

「誰だ、あれは!」

 グリアムは振り返って叫んだ。言われた二人は顔を見合わせ、牢屋を覗き込んだ。

 うつ伏せに寝た人物は青い背広(スーツ)ではなく、衛士団の黒い制服を着ていた。顔は見えないが、髪は背中まで伸びる黒髪で、明らかにアドルではない。

「おまえら、何を見てた! まんまと逃げられやがって!」

「し、知りません!」

「誓って誰も出ていないし、入ってもいません! 牢屋を開けてもいない!」

「じゃあ、あれは誰だ! どう見てもあの野郎じゃねえぞ!」

 グリアムは格子をつかんで引っぱった。長年使われていない牢屋だが、長生種(エルダー)の城の牢屋なので、格子は特殊合金製。強化も機械化もしていない人間種(ヒューマン)の力で壊せる代物ではないし、第一、どこも壊れていない。

「まさか、どっかに抜け道でもあったってのか? 開けろ! 早く!」

 牢屋を開けさせ、中に入る。

「おまえらも来い! 壁や床の怪しい所を調べろ!」

 二人に命じておいて、グリアムは倒れた衛士の頭をつかんで引っぱった。

「起きろ! おまえは――」

 眼鏡をかけた中性的な顔に、息を呑む。

「レイス様」

 叫んだ瞬間、あごを突き上げられた。

 仰け反るグリアムの脇を抜け、レイス・コールドの顔を持つ人物は、衛士二人を瞬く間に殴り倒してしまった。

「お、おまえは」

 振り返るレイスが、自分の顔をひと撫でする。

 中性的な顔も黒い衛士の制服も空気に溶けるように消え、青い三つ揃いをまとい、〝偽面〟ロキで左半顔を隠したアドルが現れた。

「な、何で……? おまえの仮面はあっちに……まさかニセモノ だ、だが、どこに隠して!?」

 ニヤニヤと笑うアドルは、再び顔をひと撫でした。

 仮面が消えて素顔になり、もう一度撫でると仮面が現れた。

「自分の顔に……!? そんなペテンで……っ!」

 グリアムは砕けんばかりに歯軋りし、ステッキで床を叩いた。

「ふざけやがって!」

「それはこっちのセリフだ。誰も来ないもんだから、待ちくたびれたぞ。上で何かあったらしいが、ニナちゃんはどこにいるんだ?」

「やかましい! てめえも人間種(ヒューマン)だったら、あんな合いの(・・・・)なんかに肩入れすんな!」

 アドルは小さく眉をひそめた。

「俺たちは人間種(ヒューマン)の復権のために戦ってやってるんだぞ! おまえやあのガキみたいにそれを邪魔する奴は裏切り者だ!」

「ガキ?」

「ああ、そうだ。あの夜、あのガキが騒いだせいで予定のルートが使えなくなったんだ。そのせいで、貴様らに出くわして……〈GG〉にも動く口実を与えちまったんだからな!」

「……その子をどうした?」

 声音の変化に、怒り狂ったグリアムは気づけず、肩を揺らして笑った。

「胸を撃ち抜いてやったよ! あれは死んだろうさ。だが、てめえには銃なんて使わねえ! こいつで脳天かち割ってやる!」

 巨体が突進し、元の所有者の頭にステッキを振り下ろした。

「……?」

 気持ちいいくらいに手ごたえがなかった。

 軽く背中を押された。指先が触れた程度の強さだったが、グリアムは突進の勢いを止めるタイミングを失い、顔から壁に突っ込んだ。

 何が起きたか理解できぬまま振り返った瞬間――眉間、人中、あご先、喉、鳩尾の五ヶ所を衝撃が貫いた。再度壁に激突し、後頭部を強かに打ちつけたが、そのおかげで意識を失わずに済んだ。

「何をしてる。おれを殺すんじゃないのか?」

 挑発的な言葉に、朦朧としながらもステッキを振るう。また空振り――ではなく、ステッキはグリアムの手ではなく、アドルの手にあった。

 五つの急所を打ったのは、いつの間にか取り戻されたステッキによる突きだったのだ。

 しかし五つの打撃はほぼ同時だった。

 ひと呼吸の間の五連突き――並大抵の技量ではない。

 ここでようやく、グリアムはアドルの変化に気がついた。

 マーセルで一度見た顔だったが、前回よりも殺気の強さと冷たさが増している。

「他人はいくらでも殺せるのに、自分が殺されることは想像したこともないか?」

 静かな声が、吹雪の冷たさと激しさでグリアムを凍てつかせた。

「『快盗十ヶ条・その七。無用な殺人はするな』。……とはいえ、おれも法なき場所に生きる者だ。手に血をつけないなんて綺麗な生き方はしてない。――だけどな、無法の法ってのもある。殺すなら、殺される覚悟くらいしておけ」

 黒いステッキが透明になり、青い光を帯びる。

「女子供にしか手を出せないというなら構わない。そのまま逝け。それが嫌なら――」

 隻眼が凄愴な光を放った。

「来い」

 前に飛び出したのはグリアムの意思ではなかった。アドルの殺気に囚われた体が、命ぜられるままの行動を取ってしまったにすぎない。

 それも一歩目で終わった。

 縦に一閃された〝妖刀〟メフィスト――青い斬線は、グリアムの体を抜け、背後の天井、壁、床をも斬り裂いた。

 一拍置いて、グリアムは左右(・・)に横倒しになり、気絶した衛士たちにのしかかった。

 衝撃で眼を覚ました衛士たちは上に乗ったものが何かわかると、悲鳴を上げて押し退け、腰砕けのまま牢屋を飛び出した。

 だが、横から出てきた拳と蹴りにやられ、またも気絶させられた。

「アドル!」

「おお、おまえら。ようやく来たか」

 現れたリーとカノンに、アドルは手を上げて応えた。すでに殺気は消え、表情も口調もいつもに戻っている。

「無事か」

「おお」

「あんまり心配かけさせないでくださいよ」

 二人ともふたつになったグリアムの姿は視界に入っているが、まったく気にしていない。彼らもまた、アドルと同じ世界に生きる者たちであった。

 牢屋から出るアドルに、リーは詰め所から持ってきた私物を渡した。

「ニナさんは?」

「連れてかれた。上で何が起きたんだ?」

「僕らが城に潜入したことを、フェイガスに連絡したんです。そしたら城の連中、跳ね橋を上げて城に入れないようにしたみたいで」

 アドルは眉をひそめ、カノンを見やった。

「どう思う?」

「おかしな行動だな。ニナやおまえを隠す場所ならいくらでもある。籠城などすれば、何か起こっていると教えるようなものだ」

「だよな。問題は何をしてるかだが……」

 籠城で稼げる時間内で事を起こそうとしているとすれば、〈真黎明団(トゥルー・ドーン)〉の計画はもう最終段階に達していると見て間違いない。

「でもふたつばかり計算違いがあるな」

 アドルは腕時計を左手に巻いて言った。

「何ですか?」

 リーが訊いた。

「ひとつは、おれたちが城内にいて、しかも自由に動けるようになっているということ」

「もうひとつは?」

 カノンの問いに、アドルは胸に青薔薇を挿しながら失笑した。

「あの牛オヤジ相手に、籠城なんかが通用すると思ってるってこと、だ」


 城門の内側では、衛士が三十人ほど銃器を持って待機していた。全員が人間種(ヒューマン)で、強化や機械化を肉体に施した〈真黎明団(トゥルー・ドーン)〉の構成員である。

 四肢を機械化した部隊長に、伝令が駆け寄ってきた。

「外の様子は?」

「相変わらず、ラムダが騒いでいるだけです。〈GG〉、衛士団。共に動きはありません」

「城内の部隊は?」

「制圧は完了しています。そろそろ移動を開始するかと」

 部隊長は腕時計を確認した。

「よし。俺たちも準備はしておくぞ。遅れれば、この〈生域(エリア)〉と心中だからな。制御室の連中にも伝えてこい」

 伝令に命じ、門の上にある跳ね橋の制御室を見上げた。

「――? 待て!」

 伝令を引き止めたのは、先ほどまで制御室の窓から洩れていた明かりが消えていたからだった。

 突然、跳ね橋が降り始めた。

 昇降用の鎖が断ち切られた橋は勢いよく地面を叩き、人々の足を浮き上がらせた。

「げ、迎撃準備!」

 部隊長は地面に足が戻るより早く、命令を飛ばした。混乱しかけた部隊は寸前で正気に返り、隊列をそろえ、城外へ銃を向けた。

 全員が眼を見張った。

 城外の者たちは倒れてきた橋に驚き、全員が遠く離れている。

 しかし、ただ一人、倒れた橋のすぐ先に立っている者がいた。

 頭部以外を銀色のプロテクターで固めた牛頭人種(ミノタウロス)は右側の角がなかった。

「〈守護神の籠手(ガーディアンズ・ガントレット)〉守護騎士団第二隊隊長ルドルフ・フェイガスだ!」

 大声で名乗った牛頭人種(ミノタウロス)は銀色のフルフェイスメットを被り、

「抵抗しなければよし! 抵抗してもよし! どちらにせよ――」

 グッと両足に力を入れた。

「全員ぶちのめして、とっ捕まえる!」

 フェイガスはラムダが止めるのも聞かず、突進してきた。

 無茶に無謀をかけ合わせたような行為だったが、意表を突かれるほどでもない。部隊長は冷静に命じた。

「射て」

 命令はすみやかに実行された。

 しかし結果は伴わなかった。

「――――っっっ!?」

 三十人以上の一斉射撃をもってしても、猛牛は止まらなかったのである。

 無茶と無謀が力で捻じ伏せられる光景に我が眼を疑う部隊は、そのままフェイガスの突進をくらった。何かの冗談のように、人間が高々と宙を舞っていく。

 ギリギリのところで突進をかわした部隊長は、両腕に仕込まれた小型ミサイルをフェイガスに向けようとした。

 その眼前に、人が降ってきた。

「な……っ」

 制圧を終えた制御室から飛び降りたラスターは双剣で部隊長の四肢を斬り飛ばし、地面に転がした。

「突入っ!」

 ラスターの号令で、守護騎士団第二隊――通称野牛部隊(バイソン・チーム)はその名にふさわしい突進力をもって城になだれ込んだ。


 その音と衝撃は、城の中にいてもわかった。

 城の上階へと向かう螺旋階段の途中で、レイスは立ち止まった。

「何だ?」

 ニナを挟んであとに続くシリックも訝しむ。

 レイスは虚空を見つめ、

「城門が制圧されたか。さすがは音に聞こえた野牛部隊(バイソン・チーム)。開かない扉は力ずくとは。それに……」

 眼鏡を軽く押し上げた。

「アドル・ペルソナも仲間と合流したようだ」

 ニナとシリックは、それぞれ真逆の表情を浮かべた。

「ちょっとまずくないですか? 時間は……」

「全員にブルーローズと〈GG〉を足止めしつつ、ゆるやかに後退するよう伝えろ」

「それじゃあ、全員が脱出するのは無理じゃないかと」

「何か問題が?」

 事もなげに訊くレイスに、シリックはさすがに小さく眉を寄せたが、うなずいた。

「……わかりました。じゃあ――」

「おまえも行け」

 共鳴通信機(ハウラー)を片手に、シリックは固まった。

「俺も……?」

「おまえも決着をつけたい奴がいるはずだ。安心しろ。おまえなら時間内に始末を終えて戻って来られる。それとも自信がないのか?」

「そういうわけじゃ……」

 シリックは観念したようにうなずいた。

「わかりました。でも置いてかないでくださいよ」

「おまえはグリアムと違って役に立つ。捨て駒にする気はない」

「だといいですけどねえ……。じゃあ、ちょっと行ってきますよ」

 シリックは飛び上がると、壁を跳ね飛んで階下へと消えていった。

 レイスが脇に寄り、ニナに先に行くようあごで指示する。

 ニナは一瞬抵抗を考えたが、やめた。長生種(エルダー)を一撃で絶命させられる相手に、いくら腕力で勝っていようと素手でかかるのは危険すぎる。何よりも、この男の見えない中身が不気味だった。アドルも似たようなところはあるものの、あちらは巧妙に隠しているといった感じだが、こちらは覗いても見えないどす黒い闇が詰まっている感じだった。

「あんた……何を企んでるのよ」

 横を抜けるとき、訊いた。

「世界に真の夜明けを迎えさせる」

 レイスの手がニナの金髪を梳いた。

 振り払おうとしたが、すばやく手は引っ込められた。

「何よ、世界の夜明けって!」

熟寝(うまい)を貪るこの世界の眼を覚まさせるのだ。必要ならば、胸倉つかんで頬を引っ叩いてでも」

 低く笑い、レイスは上がれと眼で命じた。

 ニナは忌々しげに舌打ちし、階段を上がりながら、

「逃げ出したんなら……さっさと来なさいよ」

 と、どこかにいる泥棒に文句を言った。


 照明の破壊された廊下の闇に、発砲による赤い光がいくつも瞬く。

「必死だな」

 廊下の角から顔を出したアドルは、髪と頬に銃弾がかすめたので慌てて引っこんだ。

「あいつら、妙に焦ってないか?」

「〈GG〉が突入してきたんじゃないですか? さっきのあの音、跳ね橋が降りた音でしょうし」

「うーん……どうもそれだけじゃなさそうなんだよな」

 アドルたちはここに来る途中、リチアルの死体を確認した。死体の状況からして、やったのはニナではないだろう。そうすると、犯人はレイスたちしかいない。リチアルを殺した以上、ニナを傀儡にして世界を統治という話はやはり偽りだったのだろうが、では本当の計画とは?

「〈真黎明団(トゥルー・ドーン)〉は人間種(ヒューマン)至上主義のテロリスト。テロの主な目的といえば――」

「要人の暗殺」

 カノンが撃ち返しながら、簡潔に答えた。アドルが首肯し、リーが眼を丸くする。

「〈神君〉をですか? どうやって? 一国の軍隊を相手にしても傷ひとつ負わなかったような人ですよ」

「だけど不死身ってわけじゃないだろ。まあ、銃やナイフくらいで、どうにかなる相手じゃないだろうけど」

 アドルはステッキの握りでこめかみをコツコツ叩き、

「となると、考えられる方法で、やる側のあいつらがあれだけ慌てるってことは――」

「爆破か」

 カノンが先を取って言った。

「〈神君〉を殺そうってくらいだ。並大抵のものじゃないんだろ。そりゃ焦りもするか」

 アドルはうんざりと納得した。

「だが、それほどの爆発なら逃げる時間もあるまい」

「何か方法があるんだろ。少なくとも、あのレイスって野郎は自爆を選ぶような奴じゃない。でも時間の猶予がないのは間違いないな。ここは主義に反するけど、強引に――」

 アドルがポケットから出した光玉を、横からリーが奪い取った。

「おい?」

「奴らは僕が引き受けます。二人は先に行ってください」

「待てって。いくらおまえでもあの人数はきつくないか?」

「ニナさんを〈神君〉に会わせるんでしょ」

 リーは軽い口調で言った。

「だったら、そっちを優先させてください。必ず会わせてあげてくださいね」

「随分と献身的だな。……ハッ! まさか、おまえも彼女のことを」

「一緒にしないでくださいよ……」

 ため息を吐き、リーは苦笑した。

「〈神君〉が彼女の父親なのかどうか、まだわかりませんけど、親のせいで苦労させられる辛さはよく知ってますからね。聞きたいことを全部聞かせて、文句のひとつ、ふたつ言わせてあげてください。それと……もしどうしようもなくひどい奴だったら、一発、代わりに殴っといてください」

「殴る相手が誰か考えて言ってくれよ。ま、いいけど」

 アドルはリーの肩をポンと叩いた。

「死ぬなよ」

「あなたより先に死ぬ気はないですよ!」

 リーは言うなり、光玉を通路の向こうに放った。

 閃光が闇に慣れたテロリストたちの眼を射る。

 眼を閉じたリーはテロリストたちの中に飛び込み、拳と蹴りの嵐となった。人間が紙の人形ようにバタバタと倒れ伏していく。

 混乱に乗じて、アドルとカノンはその場を走り抜け、先を急いだ。

「アドル」

 戦闘音が聞こえなくなる所まで来たとき、カノンが背後から声をかけてきた。

 返事の前に、いきなり突き飛ばされた。一瞬後、アドルが元いた位置を飛んできたナイフが貫く。

 カノンは頭上を振り仰いだ。

 天井の照明にぶら下がった赤毛の男――シリックはカノンを小馬鹿にするように笑うと、照明を揺らした反動で飛び、壁から壁へと飛び跳ねながら脇の通路へと消えていった。

「行っていいぞ」

 アドルは服の埃を払いながら立ち上がり、何か言おうとするカノンに手を突き出した。

「敵討ちって柄じゃないか? 気取ってる場合かよ」

 カノンは小さく眉を寄せた。心中を悟られた戸惑いの表情である。

「行けよ。あの野郎に、きっちり落とし前つけさせてこい」

「……一人で平気か?」

「子供扱いするな。お姫様を助ける騎士(ナイト)は一人で充分だぜ」

「騎士を名乗るのはフェイガスたちだ。俺たちは泥棒だろう」

「あ、そっか。じゃあ、泥棒らしいことをしてこよう」

「アドル」

 カノンはウロボロスの輪胴(シリンダー)を回転させながら仲間を呼んだ。

「何だよ? おまえも〈神君〉をぶん殴れとか言うんじゃないだろうな」

「俺とリーを城に入れたのは、ニナの黒猫だ」

「……へえ」

 アドルの眼が鋭く光った。

「俺たちも知らない抜け道に案内してくれた。おかげで無事に入れた――それだけだ」

 カノンはコートのポケットからオリハルコンの指輪を出し、指ではじいてアドルに渡した。

 走り去る黒コートの背中を見送ったアドルは、指輪を手の平で転がしながら顔を上げ、

「とうとう我慢できなくなったか?」

 天井を見透かすように隻眼を細めた。





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