8.高い壁
「お前な、仕事が忙しいのは分かるがこれはマズイ」
「えっと…」
「努力してんのは知ってるがな、なんで化学と数学だけこんなに悪いんだお前。赤とかそういうレベルですらないぞ」
「あ、え…」
職員室奥の生徒指導室で始まったのは、お説教だった。
矢崎先生はどうしたもんかと頭を抱えている。
化学と数学。
何度やっても全く理解できないのだ。
先生の言うとおり赤点取るか取らないかとかそういうレベルですらない点数。…つまり万年一桁の点数しか取れない。
その代わり文系科目は万年9割越えだったりもする。
バランスが悪いのだ。
「国語英語は文句ないんだがな。数学教師として辛いんだぞ」
「す、すみませんすみません」
「分からないことがあるならすぐ言え、良いな?さすがに留年は嫌だろ」
矢崎先生がため息混じりにそう助言をくれる。
生徒のことをちゃんと気にかけてくれる先生だ。
期待に応えたいのに応えられないのが何とも悲しい。
「で?」
「へ?」
「どうだ、クラスの奴等とは馴染めたか?」
「……みんな、良い人です」
「…つまり馴染めてないか」
成績の話をした後、先生はさりげなく話題を変えた。
たぶん、こっちが本題なんだろう。
ただでさえ私は高校生になるのが1年遅れた立場だ。
今のクラスメイトも本来なら1年下の子達。
その事情を知っている先生は心配してくれているんだろう。
私のこの仕事についても、「それが中島のために良いことならば」と言って応援してくれている。
「その、緊張、しちゃって…うまく喋れなくて」
「あー、だろうな。今でさえガチガチに固まってるし。ま、ここまで話せるようになっただけ進歩した方か」
「でも、まだ」
「焦る必要はないぞ。大丈夫だからあまり気負い過ぎるなよ、何でもかんでも」
「は、はい」
肩をポンと叩いてくれた先生。
そしてニヤリと笑った。
「新曲、でるんだろ?昨日テレビ見て知ったけど。ウチのカミさんが随分楽しみにしてんだわ」
「え…」
「裏話とかあったらいつでもよこせ、良いな?安心しろ、お前のことは一切言ってないから」
「や、えっと」
「芸能関係の知り合いがいるって言っても興味示さなかったアイツが奏のことだけは楽しそうに聞いてくれるからよ。夫婦円満のため、よろしく頼むぜ」
「は…は、い」
どうやらこっちも本題だったらしい。
裏話も何もないから、曖昧に頷いて面談は終わった。
そうしてトボトボと川沿いを歩く。
今日も私だけオフの日だった。
千歳くんの方が本格的に忙しくなってきて、事務所の人はそっちにかかりっきりだ。
これが録音とか新曲宣伝の収録とかだったら私も同行するんだけど、今回はグラビア系だ。私じゃ何もできない。
新曲発売近くにならないと露出しない千歳くん。
各方面からオファーはたくさんくる。
音楽誌中心に仕事をこなすから、雑誌に出るのは稀だ。
それでも数が少ないわけではないから、千歳くんはここから忙しい。
半年に1度程度のペースで新曲を出している奏。
デビューして3年目でやっと5枚目。
露出する頻度もそんなに多くない。
ライブだって1年に1回だけしかしていないから、まだ2回だけだ。
だから、3カ月も前からこうして話題にしてくれている。
特に今回は前回の発売から10カ月と長い時間が空いたから、今まで以上にオファーが多いんだとか。
ありがたい話だ。
いつか私達が2人共高校を卒業して本格的に社会人になった時、その時からがまた大きな勝負だと思う。
今はまだ千歳くんのビジュアルと若いという話題性が先行している。そのうえ露出を抑え気味にしてレア感も出ているからこうして周りが話題にしてくれているんだ。
千歳くんには素晴らしい才能があるけれど、それでも芸能界はそんな人達がたくさんいる厳しい世界。
その中で私達はまだまだひよっこだ。
自分よりうんと才能も技術もあるような人達とこれからは競っていかなきゃいけない。
音楽活動が増えてレア感が下がっても「価値ある存在」として話題にしてもらえるようなアーティストにならなければ生き残れない。
それはずっと2人で言っていることだ。
だからこそ、この話題にしてもらっている間に良質なものをたくさん生みださなければいけない。
世間様に浸透させられるくらい、人を惹きつけなければ。
どんなに大好きな趣味でも、仕事となってお金が動くとなると重く感じることだってある。
責任は重大で、プレッシャーもたくさんで。
「難しいなあ」
色んなしがらみの中で、それでもなお真っ直ぐに伝えたいことを伝えるというのは想像以上に大変だ。
リュウの凄さを実感するのは、こんな時。
彼はそんなしがらみの中でも、あんなに光り輝いて真っ直ぐと心を届けた。
それまで彼を知らなかった私が強く惹きつけられるほどに。
まだ、私では遠い。
「本当に綺麗な曲、だったな」
ふと昨日のことを思い出した。
リュウはタツさんと名乗っていて、シュンさんって人と一緒に歌っていた。
すごく綺麗な曲を。
心が洗われるような曲を。
「どんな曲、だったっけ。えっと…」
オフになるといつも通う河原。
その道の隅をのんびり歩きながら、私は音をひとつずつ思い出していく。
歌詞までは思い出せない。
けれど、メロディーを覚えている範囲で口ずさむくらいはできる。
自分の鼻歌では昨日のクオリティには到底及ばなくて。
けれど気分がそれだけで上がっていく気がする。
「…耳が良いな」
「え、あ、え…!?」
「……どうも」
声をかけられたのはそんな時だった。