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ぼたん  作者: 雪見桜
番外編
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シュンの事情1




僕はいわゆる音楽一家と呼ばれる家庭で育った。

父が指揮者で母がピアニスト。

年の離れた兄や姉も当然のように音楽の道を志していた。

そういう環境が僕にとっての普通で。


公演や講習会で世界中忙しく飛びまわる両親。

物心つく頃にはすでに中学生でレッスン漬けだった兄や姉。

家族みんなが夢中になる音楽というものに興味をもって、後を追うように僕もその世界に飛びこんだのはごく自然なことだった。


家族内で圧倒的年少者だった僕は、何をとっても家族には追いつかない。

しかし、練習すればするだけ出来ることが増えて少しずつ偉大な家族に追いつけるようで嬉しかった。

小さな両手でも生みだすことのできる音楽というものが、僕は好きだった。

純粋に自分の手で何かを生みだすという行為自体が僕はたまらなく好きだったんだろう。

夢中になってピアノの練習をしたし、純粋に練習が面白かったんだ。


その好きという気持ちが崩れ始めたのはいつのことだったか。

ああ、そうだ。あれはきっとコンクールに出始めた頃だ。





「駿!なんだお前もう来てたのか。悪いな待たせて」


「駿ちゃん、久しぶりね。相変わらず可愛い」


「…兄さん、姉さん」



こんな昔のことを思い出していたのは、久しぶりに家族と会う予定が入っていたからだろう。

兄と姉の声で我に返り僕は立ち上がる。


会うのは3年ぶりだ。

今やもうプロの音楽家をしている2人と会う機会はめったに訪れない。




「父さんも母さんも楽しみに待ってるぞ、さあ行こう」


「駿ちゃん、聞いたわよ。日本で有名な歌手になったんですって?色々お話聞かせて」



ニコニコと笑いながら2人は僕の肩を押す。

その目は親しみに満ちていて、温かい。

そう、この人達は元来優しい人達なのだ。

そんなことすら忘れていた気がする。


兄達に案内されて歩きながら再び思い出すのは昔のこと。





『ピアノ界の新生現る!』




いつからだったろうか、自分に他とは違う才能があると知ったのは。

気付いた頃には僕の名前は独り歩きし始め、世界中のコンクールに参加していた気がする。


いつしか、純粋に音楽だけを追い求める世界じゃなくなった。



そもそも僕はコンクールやコンテストといったものに価値を見いだせなかった。

純粋に音楽ができれば満足で、人と争って優劣を決めるということに疑問しかなかったのかもしれない。

周りがそうしろと強く進めるから参加していたにすぎない。

そこに自分の意志はなく、仮にあるとするなら、賞を取るたび家族が褒めてくれるというそれくらいのもので。


第一コンクールに参加し始めた年齢が小学生に上がるか上がらないかそれくらいの頃だったのだ。

いくら音楽が得意とは言えども、音楽的な感情の機微や過去の天才達の残した音のメッセージなど理解できるはずもない。


僕にあったのは、飛びぬけて澄んでいると言われた音と、英才教育故の年齢にそぐわない技術力だけだった。しかしそれだって、別段感受性が豊かだったわけじゃない僕からしてみればよく分からないことで。

上手いとか下手とか音が綺麗とかよく分からないと考えていたことを僕ははっきり覚えている。



しかしコンクールは、目に見えないもので競い合って、目に見えないもので評価される。


審査員が好む弾き方。

その曲の鉄板の解釈方法。

好評価に繋がりやすい音の重ね方。



そんなものを意識したレッスンを重ねるごとに、どんどん息苦しくなっていく。

自分の音楽と言うものが分からなくなっていく。

言われるままの音を紡げるだけ技術力があったというのがさらに良くなかったんだろう。

本人の意志とは裏腹に周りの評価は何故かぐんぐん上がっていった。


年齢と容姿と家系と、今思えばネタにしやすい題材は揃っていた。

今なら分かるが、そんなことなど分からない昔の僕はただひたすら周りの期待が重かったのだ。




『ねえ、駿は楽しい?何か苦しそうに見えるけど。私で良いなら話聞くよ?』



そんな中でそう聞いてくれたのは、同じ先生に師事していた姉とちょうど同じ歳くらいの人だけだ。

由希と名乗ったその人は、素養はあまりないが本当に楽しそうにピアノを弾くと先生が言っていた人。


僕が小学低学年ですでに息苦しさを感じていたのに、中学まで何とか正気を保っていられたのは彼女のお陰だと思う。

だから忙しい合間を縫って様子を見に来てくれる彼女に僕は懐いたし、実の姉以上に慕っていた。

由希さんの傍は息がすごく楽だったから。



けれど、ひとたびピアノの椅子に座れば、そのとたん体中がズンと重くなる。


小学高学年。

いつしかピアノ漬けな僕は、放課後も休みも全てピアノに吸い取られていく。

そんな調子だから友人もできなかったし「あの子は普通とは違うから」と一線を引かれ、人付き合いというものも分からないまま成長していった。

そうなると尚更感情の機微なんて分からない。


周りから多少ちやほやされていた記憶はある。

「すごいですね」「天才だな」「将来は日本を代表するピアニストだな」

けれど何一つ心に響かない。


何がすごいのか自分自身分かっていない。

分からないことを追い続ける世界は息苦しくてたまらない。

評価ありきの世界の何が楽しいのか分からない。



苦しい、苦しい、苦しい。

けれど今ピアノを手放せば、僕に何が残る?

そう思うと抜けだすことも出来なかった。


家族は皆多忙で、かまってくれない。

けれど賞を取ればその時だけは気にかけてくれる。

先生だって、ピアノの才能がある僕だからこそこうして気にかけてくれる。

周りの人も、学校の人も、誰もかも皆僕のことをピアノを通してしか見ない。


そんな状況で、ピアノを続ける以外の選択肢が当時の僕には見つけられなかったのだ。




息が苦しくてたまらなかった。

それを理解してくれる人も由希さん以外いなかった。

けれどそんな由希さんだって、大学生になれば当然忙しくなって自分のことにいっぱいいっぱいになる。

僕のことばかり構っていられない。



楽しい気持ちで始めたはずの音楽。

いつから重りになったのか分からない。

ただ、苦しみから解放されたかった。

そんな思いを誰にも言えないまま、中学生になった。



新しい制服に身を包んで楽しそうにはしゃぐクラスメイトを遠目で見ながら、僕の心は重い。

どんな時でもピアノのことしか考えなければいけないような気がして、息苦しい。


次のコンテストでも最優秀賞を取れるだろうか。

中学生にもなれば周りにもどんどん上級レベルのピアノ奏者は出てくる。

そうなった時に僕は勝てるのか?

そもそも勝つって何にだ。勝ってどうするつもりだ。


強いプレッシャーと共にぐるぐるとずっと渦巻く答えの見えない悩み。

自分の音楽を信じられない僕が、自信を持つことだって当然できなかった。




そうして悩み続けて、いつでもどこでも考えたくなくとも頭の影にピアノがちらつく。

そうするとどうしたって辛い以外の言葉が浮かばなくて。


悩むあまり注意力散漫になっていたんだろう。




その怪我をするきっかけは、あまりにお粗末なものだった。

文具を買いに自転車で書店まで向かっていた時のこと。

どうしようという漠然とした悩みのまま自転車を走らせていた僕は、道路の隅のアスファルトが崩れていた事に気付かなかった。


あ、と思った瞬間にはもう遅い。

車輪が突っかかって、バランスが崩れ傾いでいく。

真横に倒れていって目に入ったのはコンクリートの堅い地面。

どんどん近付くそれから守ろうと手を付いたのは、咄嗟のことだった。


勢いよくついた手に何か強い衝撃が走ったのは分かった。

痛みが来たのはその後のこと。




「折れてますね。1カ月は安静にして下さい」



それが、僕の人生を大きく変える転機だった。

あんなに逃げたいと思っていたピアノから離れる機会は案外あっさりとしていたのだ。








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