9.シュン
そこにいたのは、昨日まさにその綺麗な音を紡いでいた人。
キーボードと歌声を響かせていた、シュンさん。
道端に設置されたベンチに座っていた。
今さら、そこにベンチがあることに気付く私。
やっぱり音楽のことになると他の事が抜けてしまう。
カアッと熱くなる頬を押さえて、固まってしまった。
「ピアノ」
「え!?」
「ピアノ、するんだっけ」
シュンさんは昨日と同じく淡々と言葉を発していた。
抑揚の少ない声だけれど、表情もあまり変わらないけれど、不思議と怖いとは思わない。
言葉が上手く出てこなくて必死に頷けば「そう」と一言だけ返ってきた。
そうして訪れる沈黙。
どうすれば良いのか、悩む。
私は人と話すのが得意ではなくて、人との距離の掴み方がいまいち掴めないから。
けれど。
「別に、無理して話さなくて良い」
「え?」
「…無理は、疲れる。そこ、座れば?」
最低限の言葉ながら気遣いに満ちた彼の言葉。
緊張して体はガチガチとするのに、心が何だか温かくなって私はぎこちなく隣に腰かけた。
きっちり人一人分くらいの距離を空けて。
どうやらシュンさんもあまり話すのが得意な人ではないらしい。
やっぱり続く沈黙。
ただただ同じベンチで距離を空けて座っているだけの私達。
それでも何だか居心地は悪くない。
それもなんだか不思議な感じだ。
初めての感覚だった。
だから、勇気を出して聞くことが出来たんだと思う。
「シュンさん、はずっとピアノですか?」
昔からピアノを習っていたのかと世間話みたく聞きたかったのに、緊張しすぎて変な言葉になってしまった。
言ったそばから情けなくなって顔が熱くなる。
けれど、シュンさんは一切笑うことなく、真面目に答えてくれた。
「ん。ピアノとバイオリンとクラリネットとドラムとギター、声楽も少し」
そうして言われた言葉に目を瞬かせる。
「シュンさんは…若い、ですよね?」
「君よりは若くない」
「でも、若いです、見た目が」
「若くない、先週成人した」
…十分若いと思ったけれど、それは口に出さなかった。
でも、本当ならこの人予想以上にすごい人なのかもしれない。
だって20歳でそれだけの楽器を演奏できる人なんて早々いない。
「元の専門はピアノ。今は声楽のつもり、だけど」
ぼそりとぎりぎり聞きとれる声量で彼は言った。
“元の”という言葉になんとなく引っかかりを覚える。
だってあのキーボードだって、十分にプロレベルの実力だった。
正直な話、技術面では今まで出会った人の中でも相当上位に入る実力だと思う。
勿論私なんかよりもうんと上だ。
「…昔クラシックピアノをしていた。家が、音楽一家」
私の疑問を正しく読み取ったらしく、シュンさんはそう答えてくれた。
すごく人の感情に聡い人だ。
音楽一家でそれだけの楽器の経験があるシュンさん。
きっと英才教育というものなんだろうと悟る。
ウチも音楽一家といえばそうだ。
楽器全般人並み以上に弾ける母と、楽器は弾けないけれど音楽好きで耳の肥えた父。
そんな環境で育つと、やっぱり周りにも音楽仲間は集まる。
情報も入りやすい。
だから、音楽一家に育つ人の英才教育がどういうものなのか、人よりは分かる。
この人は、たぶん本格的に学んだんだろう。
将来その道に進むために。
けれど、それにしたってやっぱり実力者だと思う。
小さな頃から英才教育を受けて技術の高い若手は意外と多くいる。
それでも、そこから抜けだせるほどのものを持つ人はほんの一握り。
この人はその一握りかもしれない。
漠然と、そんなことを思った。
「君は、何を弾くんだ?」
「へ?」
「ピアノ、だけじゃないだろ」
初めて聞かれた問い。
無機質に見えるその端正な顔から、わずかに好奇心が見えた…気がする。
「ピアノと、ギターと、歌を少し、だけ」
「やっぱり。あれだけ耳が良いなら、そうだと思った」
素直に答えれば、納得したようにシュンさんはそう言う。
正直な話、私の場合はそんなに誇れるほどの技術があるわけじゃない。
普通の人に比べれば、それは昔からやってる分弾けるだろうけれど、コンテストとかそういうものには出たこともなかったから。
楽器の基礎と、原理・特性くらいは両親に習った。
けれどそこからはほぼ独学に近い形で覚えた。
当然、将来のピアニストや指揮者達のような完成度を持っているわけじゃない。
「ほ、本当、大したことないです」
若さと技術不足。
少しコンプレックスな部分もあるから、思わず声だって小さくなってしまう。
「…似てる、な」
ぼそりと、シュンさんが言う。
その意味が分からなくて首を傾げる私。
けれど、その答えは返ってこない。
代わりに聞こえたのは、音だった。
ポケットにあったのか、気付けば手元にハーモニカを持っている。
気まぐれに音を重ねているんだと思う。
それでも規則正しくコードが並び、心地いい和音が響く。
紛れもなく音楽を本格的にやっている人の音だと思う。
「…やっぱり、綺麗」
そして、その響きはやっぱり驚くほどに澄んでいて。
こんなに透明感のある音、中々出ない。
私は間違いなく出せない。
この人の紡ぐ音は、キーボードでも声でもハーモニカでも透き通っている。
やっぱり、この人は一握りだ。
紛れもなく天賦の才を持った、一人。
強く実感する。
けれど、そう思った直後。
「けれど、足りない」
そう彼は言った。




