第七幕 公安四課特殊資料係
四月某日。
世間がゴールデンウィーク直前で盛り上がる中、斉門町の駅南。歓楽街の一角で、原因不明の変死体が発見された。
今月に入ってこれで、四件目。
行方不明者を合わせれば九件と、あと一つで二桁大台に乗ってしまう。
市民の動揺を抑える為、事件に関しては厳重な箝口令が敷かれた。
ここ三ヶ月、立て続けに起こっている変死事件を、何時までも秘密にはしておけないだろうが、事は事件を止めることの出来ない警察組織のプライドだけでは無く、もっと深い歴史の深淵にまで及んでいるのだ。
事件を公に出来ない理由は二つ。
未だ事件解決の糸口を掴めない事と、原因すら正確に特定出来ていないから。
数台のパトカーが平日の昼間で、まだ人の疎らな歓楽街の路地に停車している。
狭い裏路地に続く入り口を塞ぐよう、黄色いテープが張り巡らされ、野次馬やマスコミが入り込まないよう、制服の警察官が厳しい視線で見張っていた。
現場は酷く物々しいが、それ以上にピリピリとした緊張感が張り詰めている。
鑑識が忙しく現場検証する、路地裏の事件現場で、中年の私服警官が厳しい表情で顎を摩った。
「また事件か……ったく。一体この町は、どうなっちまったんだか」
度重なる変死事件に、中年警官は疲労の感じられるため息を吐いた。
中年警官の名前は竹中吾郎。現場主義の叩き上げで、後五年勤め上げれば定年のベテラン警部補だ。
一般的なベテラン警官のイメージとは違い、竹中は小太りではあるが、小ざっぱりとした清潔感のある風貌をしている。これは本人が綺麗好きなのでは無く、昨今の風潮から警察官に対する身嗜みにも、上から色々うるさく言われているから。
これも時代の流れかと、最近では諦め気味。
「オイ、サル! 何時までビビッてやがるんだッ! さっさと現場来い!」
竹中は振り向き、路地の出口に向かってそう怒鳴る。
怒鳴り声に反応し、慌てて姿を見せたのは、青い顔色をした若い刑事。
ハンカチで口元を押さえながら、現場検証をする他の警官の邪魔をしないよう、ペコペコと頭を下げながら竹中の下まで走る。
「す、済みません、ゴロさん。何分、まだ心の準備が……」
「何が心の準備だ、この青二才が!」
頭を下げる青年の後頭部を、竹中は軽くペシッと叩く。
叩かれた後頭部を摩る青年は、木下優作。去年から三門署に配属され、竹中とコンビを組む若手の刑事だ。
天然な性格故か、まだまだ新人気分の抜けきらない木下は、変死体の現場だと聞いただけで顔を青くし、吐き気を催してしまっている。前回、前々回は実際に嘔吐していたのだから、我慢しているぶんだけ成長しているのかもしれない。
本音で言えば慣れて欲しいと、竹中は思っているのだが。
「サル……お前、何時まで新人気分でいるつもりなんだ。いい加減に慣れろ」
「慣れろって、無理っすよゴロさん。俺、ここ最近ずっと肉が食えない状態なんですからぁ。その上睡眠時間も少なくて、寝不足なんすよ」
確かに疲れが溜まっているのか、木下の目元には隈がくっきりと浮かんでいた。
気持ちはわかるが、疲れているのは竹中も同じ。
「知るか。さっさと行くぞ、サル」
「……そのサルって呼び方も、止めて欲しいなぁ」
コンビを組んでから、ずっと呼ばれているあだ名だが、木下的にはしっくり来てないのだろう。
「木下だから、サルだろう。竹中と木下。ぴったりの主従関係じゃないか」
「木下藤吉郎と竹中半兵衛っすか? だったら、俺の方が主なんじゃ……」
「うるせぇ! ブツクサ言ってないで、さっさと仏さんところ行くぞ」
嫌そうな顔をする木下を伴って、竹中は路地の奥へと進む。
路地の最奥。
両脇をビルに挟まれ日の光が差し込まず、袋小路になっている路地の奥は、鼻を突く刺激臭に満ちていた。
匂いの原因は、地面に倒れた遺体から発せられる死臭だ。
死体を見た瞬間、木下は込み上げる吐き気に口元を押さえる。
原型など微塵もない、解体され肉片となりぶちまけられた人間らしきモノが、路地裏に散らばっていた。
辛うじて人の衣服や手足の破片から、この肉片が人間だということが推測出来た。
「うっ……こ、これは……」
「吐くんなら外に出ろ。現場を汚すんじゃない」
場馴れした竹中でも、顔を顰めるほど凄惨な光景。
辛うじて吐くことは堪えた木下が、ゴクリと喉を鳴らし、若干震える唇を開く。
「これってやっぱり、殺人……なんすかね?」
「わからん。わからんが、人間をこんな風にしちまう奴が、この世にいて欲しいとは思わないな」
例え殺人だったとして、こんな風に無残に、散らかすような殺し方に、何の意味があるのだろうか。普通、バラバラ殺人をする理由は、遺体を隠す為、運びやすくする為に行うこと。しかし、目の前のこれは、雑という言葉を通り越している。
これではまるで……。
「何か、動物の食べ残しみたいっすよね」
「……むぅ」
自然と零れた木下の感想に、竹中は否定も肯定もせず、難しい表情で呻った。
すると、路地の入口の方から、何やら騒がしい声が聞こえてくる。
見張りの警官の慌てたような声とどよめきに、二人は何事かと顔を見合わせてから後ろを振り返った。
路地の入口の方から、制止する警官達の声を無視して突き進む、サングラスをかけたスーツ姿の女性が、真っ直ぐ竹中の方へと近づいてきた。
目の前で立ち止まる女性を、竹中は胡散臭そうに睨み付ける。
「現場を担当する、三門署の竹中警部補ですね?」
「……なんだ、アンタ? ここは関係者以外、立ち入り禁止だぞ」
訝しげな視線に、女性はサングラスを外すと、ニコリともせずスーツの内ポケットから、警察手帳を取り出し、中を二人に提示した。
「警視庁公安部第四課特殊資料係の皇木宮穂です。よろしくお願いします」
「公安? 公安の四課が、何だって死体発見現場に……」
「特殊資料課? ……まさか、お前さん、死霊課か!?」
竹中は驚いたような反応を見せるが、いまいちピンとこない木下は、眉根を寄せながら「な、なんですか、それ?」と宮穂に聞こえないよう耳打ちする。
「今回のような警察組織の域を出た、特殊な事件を捜査、解明する特殊な組織です。詳しい内容は機密事項ですので、どうかご理解頂きたい。それと……」
クールな眼差しを、刑事二人にそれぞれ向ける。
「死霊課等と言うオカルティックな呼び方は、不名誉ですので以後、気を付けて下さい」
棘のある発現に、木下は申し訳なさそうに頭を下げる。
そして、もう一度竹中の耳元に口を寄せ。
「つまり、どういうことっすか?」
問いかけに竹中は渋い顔をして、苛立つように頭を掻き毟る。
「簡単に言うとだな……俺達はお払い箱ってこった」
そう言って不機嫌そうに下唇を突出し、正面の宮穂を睨み付ける、
強面のベテラン刑事に睨み付けても臆することなく、宮穂は涼しげな表情まま、血生臭い事件現場に早速指示を飛ばしていた。
★☆★☆★☆
息が詰まるようなテスト期間も終わり、待望のゴールデンウィークが訪れる。
兼ねてからの約束通り宗次朗の歓迎会と、テスト終了のお祝いを兼ねて、クラスメイト達数人と斉門町へと遊びに行くことになった。
会場は、学生らしくカラオケだ。
手回し良く事前に広い部屋を予約していたらしく、ゴールデンウィーク初日という混雑する時期でも、無駄な待ち時間無く部屋へ案内して貰うことが出来た。予定通りに時間を確保出来た反面、時間の延長は出来ないみたいだが、それは仕方が無いだろう。
飲み放題で四時間確保出来たのだから、打ち上げとしては上々だ。
当初の人数より増え、参加者は二十人近くに上る。
来れなかったのは家や部活動で都合が悪い人々や、テストで赤点を取ってしまい、ゴールデンウィーク初日を、補習で過ごす人物だけ。
マナーモードになっている携帯が揺れたので、宗次朗が取り出して液晶の画面を見てみると、メールの着信履歴が出ていた。
先ほど送った文章の、返事が届いたのだろう。
画面をタッチしメールを開くと、差出人の蘭には咲耶の名前が記されていた。
本文はというと。
『補習終わり……すげぇ疲れた』
とだけ書いてあった。
クスッと笑みを零して、宗次朗はメールのやり取りを開始する。
『テストで赤点なんか取るからだろ、自業自得』
『うっせ。あたしが忙しくてべんきょーする暇が無かったのは、お前が一番知ってんだろ』
『テストと言っても、前年度の復習みたいなモンだから、簡単だったろ? 最近の事情なんて、関係無いじゃないか』
『優等生様が何か言ってやがりますよ。ケッ、どうせあたしは馬鹿だっつーの』
『いじけるなよ……終わったんなら、こっちに来るか? 後二時間はあるから、急げば間に合うだろ』
『わざわざ盛り下げに行く必要なねぇだろ。そっちはそっちで、楽しくやってな』
「…………」
妙な気遣いをする咲耶に、メールを打つ手が止まってしまう。
気にすること無いのにと思っていると、続けてメールが着信した。
『後でちょっと面貸せ……協力、して欲しいことがあっから』
「……ッ!」
文章でもぶっきら棒だが、協力と言う単語を目にしただけで、何だか嬉しくなってしまう。
だが、嬉しいと思うと同時に、身が引き締まる思いも感じていた。
咲耶が協力を求める事と言えばやはり、マガツモノ絡みのことなのだろう。
『了解。改めてまた、連絡を入れる』
「おいおい、蘭堂~。なぁに携帯なんか見てんだよぉ、折角の歓迎会だってのにぃ」
送信した直後、そう言いながら横に座ったのは、飲み物を片手に持った田宮だ。
その隣には女子の笠原も、「そうよそうよ」と唇を尖らせていた。
「折角のカラオケなのに、蘭堂君ってば全然、歌ってないじゃ~ん。私、蘭堂君の歌、聞きたい……ね。ユウもそう思うわよね?」
「もう、メグちゃんったら強引よ? ゴメンね、蘭堂くん……でも、私もちょっとだけ、蘭堂くんが歌っているところ見たいかな?」
「ほらほらぁ。女子の期待に応えてやるのも、男の甲斐性なんじゃないか草食系」
言いながら、宗次朗の首に腕を回し田宮が絡んでくる。
酒を飲んでいるわけでも無いのにこのテンション。所謂、場酔いというヤツか。
「歌えって言われても、歌は苦手なんだよなぁ」
正確には、歌のレパートリーが極端に少ないのだ。
実家では音楽を嗜む習慣は無かったし、テレビやラジオも殆ど見たことが無い為、流行歌なんか知らないし、歌手やアイドルの知識も皆無。辛うじて歌える物と言えば、音楽の時間に歌うような童謡ばかり。
流石にそれをこの場で、盛り下げず歌い切れる度胸も技術も、宗次朗には無かった。
「う~ん。そだなぁ」
何とか誤魔化そうと、歌本を捲りながら考えを巡らせる。
今歌っているのは大和田。体育会系の癖に、随分とムーディーなバラードを、渋い声で歌い上げていた。
これが、中々に上手い。
「折笠は、次歌う曲は入れたのか?」
「私? ううん。まだだけど……」
「相原もそうだけど、二人が上手いからさ。少し気後れしてしまうな。田宮も、そう思うだろ?」
不意同意を求められ、一瞬戸惑うが、「お、おう。そうだな」と同意してくれた。
急に褒められ、目をパチクリさせた折笠は、照れ笑いを浮かべる。
「そ、そうかなぁ。まぁ、その、自信はあったんだけどね」
と、満更でも無い様子を見せる。
横の相原も照れてはいるが、嬉しそうにしていた。
ふむ。思惑通りの流れだと、宗次朗は心の中でニヤリとする。
「二人のデュエットとか、聞きごたえありそうだよな。相原は、ハモリとか出来る?」
「う、うん、ちょっとだけ」
他の人間が歌っている途中、こっそりと相原が鼻歌でハモリを入れていたのは、既にチェック済みだ。
「へぇ。だったら余計聞いてみたいな」
「しょ、しょうがないなぁ……まぁ、蘭堂君の歓迎会だし、リクエストのお答えするのも、クラスメイトの務めっしょ。ね、ユウ」
「うん。そうだね。私も頑張る」
二人は頷き合うと、宗次朗が差し出した歌本を受け取り、何を歌うか相談しながらページ捲る。
上手いこと誤魔化せたと内心で安堵し、今度は横の田宮に耳打ちする。
「じゃあ、その間にトイレ行ってくるから」
「お、おう……な、何だ今の流れるような言葉回しは。アレが草食系のトークマジックだと言うのかッ」
一人で何やらブツブツ言っている田宮を尻目に、宗次朗はノリノリのクラスメイト達の邪魔にならぬよう、そっと部屋を抜け出した。
ドアを閉め廊下に出ると、宗次朗はホッと息を漏らす。
申し訳ないとは思うが、女子二人の歌が上手かったのは本当だし、もっと聞きたいと思ったのも本当。トイレに行きたかったのも本当のことなので、別に嘘は何一つ言ってはいない。
「……次来る時までに、歌の練習しておこう」
そう心に誓って、宗次朗はトイレのある方へ向かい歩き出す。
予約で借りた部屋は広いし綺麗なのだが、トイレまで遠いのが難点だ。
今いる大人数ようの部屋は、カラオケ屋の一番隅っこに位置していて、トイレは長い廊下を反対側に曲がった先という、ちょうど逆方面にあるのだ。
有線のBGMと、他の部屋から漏れ聞こえる音楽を聴きながら、宗次朗は戻った後、どうやって誤魔化そうか考えながら、赤い絨毯の敷かれた廊下を歩く。
部屋とトイレのちょうど真ん中。
受付の前を通りかかった時、不意にある光景が視界に入った。
「ん?」
宗次朗は顔を向けた先、受付の正面は階段になっている。
この場所はカラオケ単体の建物では無く、複数のレジャー施設が楽しめる総合的な作りになっていて、正面のロビーから階段を上った先、二階部分がカラオケ専用のフロアになっているのだ。
下のフロアは正面玄関になっていて、ゲームセンターとボウリング場がある。
ゴールデンウィークということで、人通りは多いのだが、その中で宗次朗は不可解な一団に目を止めた。
「……あれは?」
正面入り口を入ってすぐ右側。
ゲームセンターのあるコーナーから、チャラ恰好をした男達が五人ほど。
それ自体は珍しくも何とも無いが、問題なのは彼らの囲まれるようにして、不安げな表情をしている少女の姿だ。
白のワンピースにストールを羽織った、見るからにお嬢様風の女の子。
年頃は宗次朗と同じか年下で、明らかに周囲の連中とは、毛色の違う装いをしていた。
迷惑そうな表情で、何かを訴えている様子だが、回りの男達はニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべるだけ。
時折、進むことを無理やり促すよう、肩を背中から軽く叩いたりしている。
「上手いこと取り囲んで、周囲から見えないようしている辺り、確信犯か」
女の子を取り囲んだ男達は、そのまま視界から外れ別の場所へと消えて行った。
見てしまった以上、放って置くことは出来ないか。
宗次朗は携帯を取り出し、田宮のアドレスから素早くメールを送る。
『トイレ。混んでるみたいだから、ちょっと遅くなるかも』
心配して探しに来たところを鉢合わせぬよう、メールで予防線を張って置く。
「何も無かったら無かったで、それはそれでいいしな」
携帯をズボンのポケットにしまい、宗次朗は速足で階段を下りていく。
下のフロアは上より更に人通りも多く賑やかで、そして広い。
逆に考えれば、女の子を連れて悪さをしようにも、外に出たりしなければ、これだけの人出。誰かに見つかる可能性が高いだろう。
「だが、方向から考えて出口じゃなかった」
周囲に不審がられないよう、視線だけで周囲を観察する。
親子連れ、カップル、友達同士。様々な人々が入り乱れていた。
警備員だっている施設内で、騒ぎになるような事は避けたいはず。
「だとすると……非常口か」
そう推理し、宗次朗は視線を上げて、非常口の案内板を探す。
緑色をした誘導灯は直ぐに見つかり、それを目印にして宗次朗は建物の奥へ進む。
二階に続く階段の脇をすり抜け、位置的にはボウリング場とゲームセンターのちょうど中間。そこは避難経路と業務用を兼ねる通路になっていて、立ち入り禁止の看板が出ていることから、人の出入りが極端に少なくなる。
普段はあまり使われないのか、従業員が通りかかる様子も無く、有線のスピーカーも無いようなので途端に静けさが増した。
賑やかな喧噪が聞こえる中、宗次朗は慎重に足音を殺して歩く。
正面には曲がり角があり、壁の誘導灯は右を示していた。
「――止めて下さい!」
「――ッ!?」
震える女の子の悲鳴が奥から響き、瞬間、宗次朗は地面を蹴った。
のんびりとした雰囲気は消え、目付きに鋭さを帯びた、忍びの顔付きへと変わる。
苦無。は、不味いので、サービスで貰った飴を手の平に握り、角を曲がって走る速度を加速させた。
角に飛び出した先に見える光景。非常口と書かれた扉の前で、嫌がる女の子の両腕を拘束し、無理やり連れだそうとする男達五人の姿があった。
警告を発して、此方に注意を向けさせる必要は無い。
「――ふっ!」
まだ気づいていない男達に向け、宗次朗は手に持った飴を投擲する。
鋭く空を切って飛ぶ飴玉は、女の子の手首を掴んで、下卑た笑いを浮かべる男のこめかみに直撃した。
「――ガッ!?」
飴玉が砕けるほどの勢いに、男は思わず掴んだ手を離し、こめかみを押さえて蹲った。
「――な、なんだっ!?」
突然の出来事に動揺しながら、男達は何が起こったのか慌てふためいた様子で、キョロキョロと首を巡らせる。
一人が走ってくる宗次朗に気づいたが、もう遅い。
十数メートルの距離を一瞬にして詰めた宗次朗は、気づいた男の腕を掴むと、声を出す間も与えず後ろに捻り拘束する。
そこでようやく、全員の視線が宗次朗に集まった。
口元を両手で覆い怯えた様子の女の子に、宗次朗は視線を向けた。
「一応確認しておくが、コイツらは友達か?」
問いかけに女の子は、辛うじて首を左右に振った。
ならば謝罪する必要な無いなと安堵し、宗次朗は後ろ手に拘束した男の腕を、少しだけ強めに絞る。
「――てでででッ! て、テメェ、何しやがる!」
「人助けだよ。普通の事だろ?」
「――テメェ!」
拘束している男に構わず、別の人間が宗次朗に向かって拳を振り上げる。
宗次朗は拘束していた腕を離し、背中を思い切り蹴ると、殴りかかろうとした男と蹴り飛ばした男が正面で激突し、もつれ合うように地面に倒れた。
その隙に宗次朗は素早く女の子の側まで移動し、近くの男の顎を掌底で打ち抜く。
「――ぐふっ!?」
「こっのやろ……ッ!」
顎を打ち抜かれた男が白目を向いて倒れると、最後に残った一人が額に青筋を浮かべ、ポケットのナイフを取り出そうとするが、それより早く宗次朗の伸ばした人差し指が、男の鼻先に突き付けられた。
ナイフを取り出した態勢で、男は固まる。
女の子を背中に隠しながら、宗次朗は不敵な笑みを浮かべた。
「王手だ。まだ続けるか?」
「うっ……ううっ」
僅かに発する殺気の所為か、指先を向けられただけなのに、男は怯えたようにダラダラと額から脂汗を流す。
無言のまま睨み合う両者。
その隙を狙って、最初に飴玉の投擲で倒され、こめかみを押さえ足元に突っ伏した男が、こっそりとナイフを取り出そうとしたのを、気づいた宗次朗が鼻先を爪先で蹴り飛ばし黙らせた。
「お、俺達は、ただ、ナンパしてただけなのに……なんなんだよ、テメェは!?」
酷い言い訳だと、宗次朗は視線を細めた。
男の恫喝が怖かったのか、後ろの女の子が怯えるように、宗次朗の服を握る。
「この子を怖がらせてる時点で、ナンパなんか成立してないだろ。無駄に騒ぎを大きくしたくないなら黙って……」
「――そこで何をやっている!?」
立ち去れ。
そう言おうとした瞬間、怒気に満ち満ちた声が廊下に響いた。
振り返ると何時の間に現れたのか、モデルかと見紛うほどの整った顔立ちをした美少年が、怒りの形相で角に立っていた。
美少年の姿を見て、後ろの少女があっと声を漏らす。
「く、蔵人!」
「知り合いか?」
服を握ったまま女の子は頷くが、事情を話すより先に、蔵人と呼ばれた美少年はますます怒気を高める。
「……貴様ら。夕鶴から、妹から手を離せッ」
殺気の満ちた視線に、宗次朗の背中にゾクッと悪寒が走った。
ヤバい。
本能が警笛を鳴らすと同時に、蔵人は自分の指先を噛み切ると、血が流れる指を空中で回す。
すると、空間で血が絵でも書くよう形作られると、僅かにそれが赤く発光した。
蝶だ。空間に刻まれたのは、血で描かれた蝶だった。
後ろから夕鶴と呼ばれた少女が、息を飲む音が聞こえた。
「――駄目ッ。止めて!?」
「――爆ぜろ、下郎ッ!」
怒りのあまり、制止の声も届かないのか、蔵人が言葉を発すると、血で作られた蝶に似た物体は宙を舞い、宗次朗の目の前の男の前へと飛来する。
「……えっ?」
理解の追いつかない男の胸元に蝶が届いた瞬間、小さな爆発と共に破裂し、衝撃で男を吹き飛ばした。
勢いよく飛ばされた男はそのまま背後にある、非常用の扉に激突。
気絶したのかそのままズルズルと地面に落ち、渾沌してしまった。
「……今のは」
宗次朗は驚く。
今のはもしかして、咲耶に近しい力なのだろうか?
気絶した男は服こそ僅かに焦げてはいるが、命には別状は無さそう。
しかし、蔵人の怒りはまだ収まらないのか、今度はその視線が、宗次朗に向けられていた。
「……何だか、想定していたより、面倒な状況になるようだな」
カラオケで歌わなくて済むかもしれないが、遅れて戻る言い訳はどうするべきか、宗次朗はそんなことを考えながら、何時でも動ける態勢を取っていた。