第三幕 心の刃
「桜ノ守のことを聞きたいってぇ?」
宗次朗の質問に、大和田は口の中の米粒を飛ばしながら、眉を顰めて大袈裟に聞き返してきた。
午前中の授業が終わり昼休み。
混雑する学生食堂の一角で、同じ卓に並んで座る宗次朗を含めた四人。
昨日の約束を果たす為、大和田達三人組に学食へと案内された宗次朗は、思い切って咲耶のことを聞いてみた。
昨日転校してきたばかりの自分に比べれば、同じ学校、同じクラスの三人の方が詳しいかもしれない。そう思ってそれと無く聞いてみたのだが、三人組の反応は困惑と共に僅かな恐怖が表情に混じる。
今日も咲耶は学校を休んでいるから、少しばかり気になってしまった。
特に田宮は表情を青くして、固まるように食事の手を止めていた。
「不良っぽいからって、ビビり過ぎだろう」
「田宮君は一年の時、桜ノ守さんに投げ飛ばされてるからね。そのトラウマを思い出したんだろう」
「投げ飛ばされたって、咲耶ちゃんに?」
流石に驚くと、大和田が飛び散った米粒を拾いながら、苦笑いをする。
「アレは田宮が悪いだろう」
「田宮君は、高校デビューしようとして粋がった挙句、桜ノ守さんに絡んで投げ飛ばされたんだよ」
「……知ってるか? 人間って片手で人一人を、体育館の屋根の上まで投げ飛ばせるんだぜ」
当時を思い出してか、田宮はどんよりとした表情で茶碗のご飯を口に運ぶ。
「咲耶ちゃん、当時から不良だったのか?」
「んだなぁ。俺が知る限り、田宮だけじゃなくて、先輩の不良連中にも速攻で絡まれてたぞ……ほんでもって、全員返り討ち」
「入学して三ヶ月は校門前に、桜ノ守さん待ちの不良が列を作ってたっけ」
味噌汁の湯気で曇った眼鏡を、浅野はハンカチで拭い、またかけ直す。
「でも、夏が終わる頃には、それも治まったみたいだけれどね」
「半年足らずで、町の不良を制圧しちゃったんだ」
それは何とも、パワフルな話だ。
ヤンキー漫画だったらその半年間で、単行本が二十冊は出版出来るだろう。
「他にも服装や髪の色、生活態度で指導室に呼び出されることは数えきれないし、深夜の繁華街を頻繁にうろついてるって噂も良く聞く」
「そーそー。物騒な話じゃ、ヤクザ相手でも構わず喧嘩売るとか。C組の小関って奴が塾の帰り道で、血だらけで蹲ってる桜ノ守を見たことがあるって」
「血だらけって……流石にそれは盛り過ぎでしょう」
浅野は胡散臭げに眼鏡を押し上げが、田宮はいやいやと箸を持つ手を左右に振った。
「マジだって。驚いた小関っちがさ、慌てて駆け寄って救急車呼ぼうとしたんだけど、余計な真似すんなって、携帯取り上げて投げ捨てちまったんだ。なにすんだーって、携帯取りに行っている内に、桜ノ守は何処かえ行っちまったんだって」
「むむむぅ。まるで怪談話だなのう」
呻りながら大和田は、丼に残った米粒一つまで、綺麗に箸で摘んで平らげる。
血だらけという言葉に、宗次朗は引っ掛かりを覚えた。
彼女の素行から想像すれば、誰かと喧嘩をしたのだと思うのだろう。しかし、宗次朗はほんの僅かだとしても、桜ノ守咲耶の事情を知っている。
考え込むよう視線を伏せる宗次朗に気づかず、三人は話を進める。
「二年になっても浮いてるっつーか、人を寄せ付けないっつーか、独特の雰囲気を持ってるよなぁ桜ノ守。なぁ、大和田っち。お前、桜ノ守が誰かと話てるのって見た事ある?」
「いや、俺は無いな。浅野は?」
「僕も無いけど、しいて言うなら……」
三人の視線が、一斉に同じところに向けられる。
「……えっ?」
物思いに耽っていた宗次朗は、視線に気が付くと、自分のことを指差した。
同時に三人は頷く。
「桜ノ守さんが自分から話しかけるところなんて、僕が知る限り初めてだけど」
「そういや、咲耶ちゃんなんて親しげに呼んでるけどよ、お前らって知り合いなの?」
「いや、知り合いというか、何というか……」
強いてあげるなが、クラスメイト。それも昨日からの。
それだけなら、大和田達と大した違いは無い。いや、出会って間もない分、関係性で言えばずっと薄いだろう。
秘密を知っていることなんて、人に言えなければ何の関係性の証拠にもならない。
つまるところ、蘭堂宗次朗と桜ノ守咲耶は顔見知り以上、クラスメイト未満と言ったところなのだ。
箸を口に咥え、宗次朗は眉を八の字にして呻る。
「俺にもよくわからん」
何とも要領を得ない返答に、三人は何だそりゃと顔を見合わせていた。
答えを濁したわけじゃない。問いに答えられる正確な言葉が無かった。ただそれだけだ。
「まぁ、なんだ。次に絡まれた時には、俺達に言えよ。新しいダチ公の為に、鍛えに鍛えた俺の柔道技で助けてやるからよ」
「そう言って、一睨みされただけで固まっちまうのは、目に見えてるけどなぁ」
「……僕達三人共、ね」
情けない会話を交わす三人に、宗次朗は苦笑を浮かべながら、まだ半分以上残っている塩ラーメンを啜った。
長く考えすぎた為か、塩ラーメンの麺が、すっかり伸びていた。
★☆★☆★☆
午後の授業も滞りなく進み、放課後になった。
昨日は寮母である朱里の下ネタ攻勢により、ゴリゴリと精神力を削られた所為で、思ったより部屋の片付けが進まなかった為、今日こそ全て終わらせてしまおうと、大和田達と別れの挨拶を交わし、宗次朗は足早に寮へと帰宅した。
片付けている途中に、日常雑貨が幾つか足りないことに気づき、暗くなる前に近所のスーパーに買いに行こうと、再び寮を出たのがつい三十分ほど前だ。
買い物袋を右手にぶら下げ、夕暮れに染まる住宅街を、制服姿の宗次朗が歩く。
角を一つ曲がったところで、特徴的なセーラー服の後姿を見かけた。
「……アレは?」
スリットの入ったロングスカートを穿いている女学生など、一人しか心当たりが無い。
咲耶は車の邪魔にならぬよう、道の横で何やら数人の男達と話し込んでいる。
男子生徒は四人。制服から見て他校の生徒で、だらしなく腰履きしたズボンや、派手な色合いの髪の毛から、真面目な高校生にはとても見えない。
見た目で判断するのもアレだが、雰囲気的にも、道を尋ねているわけではなさそう。
どうするか逡巡しながら足を止めると、男子生徒の一人が脅しつけるような大声を咲耶に向かって張り上げた。
「テッメェ、桜ノ守っ。調子に乗ってんじゃねぇのかぁ、ああッ!」
「……っせぇな。デカい声出すなダボが。つか、誰だテメェら」
咲耶は面倒臭そうに、小指で耳を穿る。
「先週、お前にボコられたシゲ君の敵討ちだよぉ! 覚えてねぇなんて言わせねぇぞぉゴラァ!」
「覚えてねぇよ」
思い出す気も無い様子で答えると、男達の額にビギッと青筋が浮かぶ。
ただでさえ殺気立っていたのに、咲耶の発言が火に油を注いでしまったんだろう。
男の内の一人が睨みを利かせ、ヨタヨタと咲耶に詰め寄る。
「舐めてんじゃねぇよ女ッ! 俺ぁ女だからって容赦しねぇぞぉ。おおっ?」
「へぇ」
脅しつける態度にも怯まず、咲耶は逆に頬を吊り上げ笑みさえ浮かべた。
スカートのポケットに手を突っ込んだまま、睨み付ける男の視線を真正面から受け止める。
その眼光、その迫力は、数で勝る男達が、一瞬怯むほどのだった。
「どう容赦しねぇんだ。あたしに教えてくれよ?」
「……上等だぁ、このクソ女がッ!」
男達が殺気を高め、そう怒鳴った瞬間、宗次朗が動いた。
修行で培った脚力と歩法で、一瞬にして十数メートルの距離を移動してしまう。
「――ちょっと待った!」
「――な!?」
「……チッ」
突然、咲耶との間に割り込んできた宗次朗に、詰め寄ろうとした男達は思わず足を止め、表情に驚きを浮かべた。
彼らからしたら前触れも無く、突然目の前にあらわれたようなモノだ。
舌打ちを鳴らした反応から、咲耶は会話している途中で、宗次朗の存在に気づいていたのだろう。
宗次朗はニコニコと笑顔を浮かべながら、正面にいる男の肩を両手でポンポンと叩く。
手に持っていた荷物は、何時の間にか咲耶が持たされていた。
「な、なんだテメェ……邪魔すんな!」
「落ち着きなって。事情は全く持って知らないで飛び出して来たけど、暴力は良く無いと思うんだけど」
若干の戸惑いを見せながら怒鳴る男達に、ニコニコとした視線を巡らせながら、宗次朗は友好的な口調で諌める。
当然、そんなことではいそうですかと、引き下がるような連中では無い。
「ざっけんな! 何も知らないってんなら、それこそ邪魔してんじゃねぇぞ」
「まぁ、知ってても邪魔するんだけどな」
「ああん! 喧嘩売ってんのかぁ?」
男達は威嚇するように、厳つい表情で睨み付けてくる。
しかし、宗次朗はビビるどころか、眉一つ動かさない。
「売ってもいいけど、買うのは無理だろう……その手じゃ」
「……あん? 何言って……なんじゃこりゃあ!?」
指を差す宗次朗に怪訝な顔をして視線を向けると、何故かビニール紐で男達の親指同士をくっ付けるようにして、横並びに結び付けられていた。
固結びでガッチリと。
「く、クソッ!? なんだんだよぉ、これはっ!?」
「痛でででッ!? おい、急に引っ張るんじゃねぇ!?」
振り払おうと乱暴に動かせば、横に男の腕も同時に動き、てんやわんやの大騒ぎに。
親指同士が結び付けられているので、上手く解くことも出来ない。
男達が何とか親指の拘束を解こうと、怒鳴り散らしながら試行錯誤している間に、宗次朗は後ろを振り向き、呆れ顔の咲耶に向かってウインクを一つ。
物音を立てぬよう、輪になって紐を解いている男達の横をすり抜けて行く。
鞄から取り出したカッターナイフで紐を切り、ようやく拘束から抜け出した頃には、既に宗次朗と咲耶の姿は無くなっていた。
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追ってこられないよう、住宅地をグルッと反対側から回り込む。
ここら辺なら大丈夫だろうと二人は走るのを止め、軽く息を吐き出した。
三門市でも古い地区に入るのか、同じ住宅地でも寮や学校周辺とは違い、昔ながらの日本家屋が立ち並んでいる。車も通行禁止になっているらしく、とても静かで落ち着きのある雰囲気だが、決して寂しさを感じさせない温かみがあった。
夕暮れに赤く染まる所為か、不思議と人間の本能にある郷愁を誘う。
少しばかり懐かしく思えるのは、宗次朗の田舎と風景が似ている所為だろう。
足を止めると咲耶は舌打ちを鳴らしてから、手の持った荷物を宗次朗の胸に押し付ける。
「随分と小手先が器用なんだな。忍者やめて、マジシャンになった方が、稼げるんじゃないのか?」
「ああいう小手先の技術こそ、忍びの真骨頂なのさ。荷物、持っててくれてありがとう」
笑顔で預けていた荷物を受け取り、中身を覗き込む。
雑誌をまとめて捨てる時に困らないよう、買い置きとして購入して置いたビニール紐が、まさかあんな場面で役に立つとは思わなかった。
何と気なしに、二人は並んで歩き始める。
「えっと……咲耶ちゃん今日、学校休んでたみたいだけど……」
「アンタ、アレだよな」
言いかけた言葉を遮るよう、咲耶が口を開く。
顔は向けず、態勢もスカートのポケットに手を突っ込んだままだが。
「一見、迷ったり悩んだりしている風だけど、実際は物事に対して躊躇しない奴だよな」
「…………」
思わず宗次朗は、口を堅く結んで黙ってしまった。
「いや、ちょっと違うか。一応、逡巡はしてるんだろうけど、決断に迷いが無い。聞きたいことは聞くし、やりたいことはやる。一度決断したことは、迷いも躊躇も後悔も無い。その上、不利にならないよう用意周到だ」
視線を宗次朗が持つ、ビニール袋に落とす。
「転校してきて、まだ一週間も立たない内に、荷物が溜まることを予測して、いざその時に困らないよう、ビニール紐を購入して置くなんて、普通の高校生は考えねぇよ」
「……考えすぎだ。俺が人より几帳面な可能性だってある筈だろ?」
「アイツらが絡んでるのを見た時点で、割って入るつもりだったんだろ? その上で親指を拘束出来るよう、ビニール紐をちょうど良い長さに切り分けていた」
言いながら、咲耶は確信を持つように、視線を宗次朗に向けた。
中々に鋭い観察眼に、宗次朗は内心で驚く。
すると、咲耶は向けていた視線を細める。
「そういう風に、本心を隠して内心で人を値踏みしている様も気に入らねぇ……悪いがあたしは、その手の感情の動き、人より敏感なんだよ」
「……見透かされてるなぁ」
苦笑しながら、宗次朗は頬を掻く。
「その反応を見る限り、昨日呼び出したのは、事情を聴く為っていうより、敵か味方かを判別する為か」
「敵か、関係無いか、だ」
味方などとは思ってない。咲耶は突っぱねるよう、言葉を訂正する。
「……正直、アンタのことは計りかねてる」
視線を緩めると、咲耶はそう心情を吐露した。
宗次朗は真剣な表情で、咲耶の言葉に耳を傾ける。
「悪い奴じゃないってのは、何となくだがわかる。けどよ、アンタの浮世離れした気配が、どうもあたしの鼻に付くんだよ……あたしの近しい匂いがするから、なのかもしれねぇが」
「……鼻に付く、か。こりゃ参ったね」
困り顔で、宗次朗は自分の頭を掻く。
別に悪口を言っているわけでは無いのは、戸惑うような咲耶の気配を見ればわかる。
それに、無為に彼女を警戒させてしまう理由には、宗次朗も心当たりがあった。
「その、正直に言うとさ……苦手なんだよな、笑うのとか」
「……はぁ?」
怪訝な顔をする咲耶に、宗次朗は淡く微笑みかける。
「刃の下に心あり。忍びは自らの感情や本能を、完璧にコントロールしなくてはならない。感情的な忍びほど、使えないモノは無いからな。俺も子供の頃から自分の感情をコントロールする術を、徹底的に叩き込まれた」
咲耶は此方を見つめたまま、無言だった。
驚いた気配は伝わるが、浮世離れした考え方と世界観故に、実感として把握しきれないのだろう。
咲耶が闇に生きる者なら、宗次朗は影に生きる者。
同じ歴史の裏側の住人でも、その道筋は明確に違う。
「ま、蘭堂が何で浮世離れをしてるのかは、ちょっとはわかったさ。んで? そんなド田舎の忍者が、何でまた三門市になんかに転校してくんだよ。蘭堂、しゃよ、う? だっけ。名前からして、アンタの家の流派なんだろ?」
予想していた問いとは言え、改めて聞かれると宗次朗は口籠ってしまう。
言い辛い雰囲気を察知したのか、咲耶はあ~と呻りながら、誤魔化すように唇を尖らせた。
「言いたくないことなら、別に無理して聞こうとは思わねぇけどよ」
「難しい理由や、複雑な事情があるわけじゃ無いんだ。これは、俺の我儘なんだよ」
「我儘?」
聞き返す言葉に、宗次朗は頷いた。
「……閉鎖的な田舎町で、限られたコミュニティの中で、修行漬けの日々……子供の頃は何の疑問にも思わなかったけど、十歳を過ぎた辺りかな。色々と疑問に思い出したのは」
蘭堂斜陰流忍術は、知名度こそ低いモノの、代々血で連なった歴史ある一族。
先祖から続く伝統と掟、秘術を守る為、血族の人間は否応無く修行を義務付けられる。
宗次朗も例外では無く、直系の家系である彼は物心付く前から、厳しい修行に明け暮れていた。
切っ掛けは、外から来た風変わりな老人との出会い。
趣味で日本の各地を放浪し、偶然宗次朗と知り合った老人は、彼に外の世界の様々なことを教えてくれた。
元々、好奇心が人より強かった宗次朗は、外の世界に憧れを抱くようになるのと同時に、修行漬けの日々を送る自分の人生に、疑問を感じるようになった。自分なこのまま、忍者でいるべきなのだろうかと。
宗次朗の迷いは師である父親や、祖父に直ぐに見抜かれてしまう。
厳しい叱責を受けた宗次朗だったが、興味の想いは押し殺せず、ある日決死の覚悟で両親にこう告げたのだ。
『俺は、忍者としてでなく、一人の人間として高校生活を送りたい』
真剣な言葉に両親が示した反応は、怒りでは無く落胆だった。
その後、紆余曲折はあったが、祖父母や両親の信頼が厚い妹の協力もあって、宗次朗は村を出てここ三門市で、普通の高校生として転校することが決まった。
その代償として宗次朗は、一族の頭領となる資格を、失ってしまったのだが。
「そんなわけで、蘭堂宗次朗はこの三門市に転校してきたわけ」
「……つまり、アンタは実家を追い出されたってわけか」
歯に衣着せない言葉に、宗次朗は苦笑する。
「追い出されたって言っても、学費も生活費も出して貰ってるから感謝はしてるさ。ただ、祖父母が大激怒してるから、少なくとも卒業するまでは、里帰りも出来ないけどな」
「そっか」
そう言って話の終わりを告げるよう、一息つくと、咲耶は素っ気なく頷いた。
関心が無いわけでは無く、彼女なりに気を使った結果、当たり障りのない反応を選んだのだろう。
長々と愚痴のような話に、最後まで付き合ってくれたのが、何よりの証拠だ。
話が終わると二人の間に沈黙が流れ、宗次朗は何だか気恥ずかしくなり、誤魔化すように痒くも無い後頭部を掻いた。
まさか故郷を出て三日ほどで、この事を話すとは思ってもみなかった。
自分の事情は気にせず、これから仲良くしよう。
宗次朗がそう言葉を発するより早く、咲耶は真剣な眼差しを此方に向けて口を開いた。
「だったらさぁ、蘭堂。もうあたしに関わるな」
「……それは」
「普通の高校生をやりたいんだろ? だったら、あたしなんかと関わらない方が、身の為だ。あたしは普通じゃないし……不良だしな」
感情の薄い言葉で、咲耶は宗次朗を突き放す。
もう興味は無い。そう告げるよう宗次朗の肩を、片手で軽く叩いた。
「助けて貰ったことは礼を言うよ……じゃあな」
軽く挨拶だけを残して咲耶は、スカートのポケットに両手を突っ込むと、何事も無かったかのよう一人で歩いて行ってしまう。
返すべき言葉を持たない宗次朗は、夕暮れに遠ざかる背中を、黙って見つめていた。
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三門市から一つ隣りの駅前は、斉門町と呼ばれるこの辺りで一番大きく、栄えている繁華街だ。
駅前を北口に抜けると、若者向けのお店が数多く並び、休日は周辺の学生達が大勢遊びに来る人気のスポットとなっている。反対に駅南は大人向けの歓楽街となっていて、北側とは雰囲気が一変し、また違った賑わいを見せていた。
特に夕方以降は、駅南は深夜遅くまで、煌びやかな歓楽に満ちるだろう。
当然、栄えているぶんだけ、治安というモノは悪くなる。
治安が悪ければ、取り締まる警察もまた、ピリピリと神経質になってしまう。
例えるなら、風変わりな外国人が歩いているだけで、職務質問をしてしまうような。
「……確かに、パスポートを拝見しました。お仕事は何を?」
「個人で美術商を営んでいまして。日本へは、その買い付けに」
徐々に人通りが多くなり、外灯が灯り始めた通りで、制服の若い警官に呼び止められた外国人男性は、気分を害する素振り一つ見せず、にこやかな笑顔と流暢な日本語で、実に模範的な対応を示していた。
紳士的な対応に、当初は疑いの目を向けていた警官も、途端に申し訳無さげな顔をする。
「失礼しました。最近、この辺りは物騒でしてね……ここだけの話、三ヶ月で原因不明の死亡事件が、数件立て続けに起こっとるんですよ」
「ああ、それはとても恐ろしい。お仕事、ご苦労様です」
バツが悪いのか、聞かれても無いのに、警官は言い訳めいたことを口にする。
職務質問を受けた外国人は、細身の長身で顎に短い髭を生やし、ソバージュのかかった肩まであるロン毛姿。黒いスーツを上下に着込み、パナマ帽を被った風貌は、警官で無くとも怪しく思ってしまうだろう。
しかし、提示したパスポートも本物で、見た目に反して対応もフランクだ。
この人は、最近起こっている事件とは、何も関係無いだろう。
警官はそう判断して、敬礼をする。
「ご協力ありがとうございました。ここらは治安の悪い場所もありますので、お気をつけて下さい」
「ありがとうございます……ああ、おまわりさん」
行こうとする警官を呼び止めると、振り向いた彼に外国人男性は、包み紙で包まれたお菓子を幾つか手の平に乗せ差し出した。
「これ、ワタシの好きなチョコレートです。よかったら、お一つ如何ですか?」
「あ、ああ……では、一つだけ」
警官が一つ取ると、外国人男性は笑顔を見せてから、ああと何かを思い出したような顔をした。
チョコをポケットにしまいながら、警官は首を傾げる。
「そういえば、この先の路地を進んだ町の外れ。古い工場や建物が並んだ辺りで、何やら怪しげな人達がいるの、ワタシ噂に聞いた覚えがあります」
「古い工場? ……ああ」
指差した方向を見て、思い当る節のある警官は大きく頷いた。
「都市開発のツケって言うのかな。あの辺りは廃ビルや廃工場が、多いんです。その所為で無許可の業者やら何やらが、廃材やらを勝手に置きっぱなしにしとるモンで、その類でしょう……最近はなりを潜めてると思ったのに、参ったなぁ」
「ハァ。そうなんですか」
困ったように帽子を取り、警官は頭を掻く。
「まぁ、そこは今度、様子を見に行くとしましょう。では、本官はこの辺で」
そう言うと警官はもう一度敬礼してから、人の行き交う繁華街を、パトロールの為に奥へと進んで行った。
外国人男性は笑顔で手を振り見送る。
姿が人ごみに隠れ見えなくなると、手を下ろして身を翻した。
上機嫌に鼻歌を歌いながら、チョコレートの包み紙を解き、口の中に一つ放り込む。
深い苦みの甘味の中に隠れる、ほんのりの滲む鉄の味。
痺れるような鉄の味を楽しむように、彼はニンマリと頬を吊り上げて、嗤った。