序幕 夜桜
夜の闇に舞い散る桜の中、鬼と少女が戦っていた。
馬鹿な事を言っていると、現場を直に目にしている少年も思ったのだが、何度袖で瞼を擦り頬を抓っても、瞳に映る目の前の光景は夢や幻でも無ければ、妄想の中の出来事でも無かった。
鬼はまさしく、人知を超える化物だ。
昔話に出てくるような、虎柄のパンツに金棒を持っているわけで無いのだが、あの存在を一言で表すならば、化物以外では鬼と呼ぶしか適切な単語が思いつかない。
二メートルを悠々と超える巨躯は、岩石と甲殻の中間のような質感をしている。
二足歩行はしているモノの、人の姿とはかけ離れており、鋭い爪と頬まで裂けた口から覗く牙は、どちらかと言えば獣染みた印象を受ける。その中で鬼と明確に表現した理由は、額から伸びる二本の角から。
我ながら単純だと、こんな状況下でも呆れてしまう。
一方対峙するのは、高校生らしき一人の少女だ。
真っ直ぐ癖一つ無い亜麻色のロングヘアーに、セーラー服を着た美少女は、息を飲むほどの気高さと孤高を身に宿している。
不良少女、とでも呼ぶべきか。
今時では漫画でしか見た事の無いような、スリットの入った丈の長いスカートを穿き、両手には革製のフィンガーレスグローブを装着していた。
「……う、嘘だろ」
反射的にベンチの後ろに隠れた少年が、震える言葉を吐き出す。
ここは町を一望出来る、高台の上にある公園。
節電対策の為、午後10時を過ぎると外灯が全て消されてしまうので、公園の中は闇に閉ざされていたが、今夜は満月だからか、夜の公園は驚くほど明るかった。
桜の名所の名に相応しく、美しく舞う桜吹雪。
その中で月夜に照らされ、対峙する鬼の美少女は、見入ってしまうほど神秘的な光景だ。
少年に恐怖は無く、ただただお伽噺のワンシーンの如き光景に、瞳だけでは無く心まで見惚れ奪われてしまう。
隠れている少年の姿に気づいていない美少女は、フッと唇を邪悪に吊り上げた。
「桜吹雪に誘われて現れるたぁ、随分と風流じゃあないか。ええっ?」
「……キサマ、ハ、ナニモ、ノ?」
挑発的な少女の物言いに答えるよう、鬼は合成音のような声を出す。
一方で少女の口調は、見た目よりずっと力強く乱暴だった。
少女はへっと笑い親指で下唇を撫でると、拳を握りファイティングポーズを取った。
「桜ノ守咲耶。アンタらマガツモノを狩る祓い人さ……覚えておく必要はねぇぜ」
「ソノミカラワキデルキ……ソウカ」
「つまらねぇ問答をするつもりはねぇ」
咲耶と名乗った少女は構えた右手を上に向けると、バキバキと指関節を鳴らした。
目の錯覚か。拳を握った瞬間、稲妻のような黄金色の光が飛び散る。
瞬間、鬼は大きく裂けた口をグワッと開いたかと思うと、丸太の如き腕を振り上げて咲耶に向かい突貫していく。
一歩踏む込む度に、地震が起きたかのように地面が揺れる。
速度自体は大したことは無いが、軽自動車に匹敵する体躯と重量だ。
背は高いが細身の咲耶では、どうにもならないだろう。
しかし、咲耶は真正面から迫る鬼を見据えるだけで、躱す素振りどころか防御する様子も無い。
鬼は走る速度を上げ、肩を突出しタックルの形で咲耶を押し潰そうと突き進む。
「――あ、あぶっ!?」
接触する寸前、思わず少年は声を上げてベンチの上に顔を突き出してしまう。
だが、予想に反して、目の前に広がるのは意外過ぎる状況だった。
大きく空気が爆ぜるような音が響き、舞い散る桜花が渦巻くよう吹き飛ぶ。
岩石のようなデコボコとした肩を突出し、突貫していった鬼に巨躯は、差し出した咲耶の細腕一本で、アッサリと止められてしまっていた。
足元には引き摺った跡も無く。咲耶は微動だにしていないのだろう。
右手の平で硬い鬼の肩を受け止めた咲耶は、顔を上げてニヤッと不敵に笑った。
「軽いぜ鬼の大将。もしかして鬼は鬼でも、そんなゴツイなりをして、非力な餓鬼でしたってオチか?」
「……ゴ、ゴゴ。オノレ……ッ!?」
「遅ぇよ」
鬼が右腕を振り上げたと同時に、咲耶の左拳が素早く顎を下から打ち抜く。
「――だらあッ!」
顎が跳ね上がり身を逸らし、無防備になった鬼の身体へ、掛け声と共に右のジャブを二発叩き込む。
砕け散るような打撃音と共に、岩石肌に拳ほどの陥没が生み出される。
それでも鬼は気丈に咢から荒い呼吸音を発すると、右拳を引いた隙を狙い顎への一撃で跳ね上がった頭を、咲耶の額目掛けて振り下ろした。
見ている少年が思わず目を逸らしてしまうような、鈍く痛々しい打撃音が響く。
咲耶の額に叩きつけられたのは、岩も同然の鬼の頭だ。
互いに額を付き合わせたまま、時間が止まったかのように静止する。
数秒の沈黙の中、咲耶は軽く頬を吊り上げた。
「……へっ」
「ゴガ」
先に動いたのは鬼の方。
攻撃を仕掛けた側がダメージを受けたのか、額を離すと鬼はよろけるように数歩後ろへと下がった。
鬼の額には深い罅が走り、動く度に割れた表面がポロポロと崩れ落ちる。
「……雑魚がよぉ」
笑みを見せながら、咲耶は発する声色にドスを聞かせる。
人とは思えない頑丈さに気圧され、鬼はまた数歩、距離を取るよう下がるが、咲耶はさせまいと離れたぶんだけ、一歩ずつ足を踏み込んだ。
「この咲耶様に殴り合いで勝とうなんざぁ……」
音が鳴り響くほど強く、両の拳を握り締めた。
全身から発せられる異様な気配の恐れを抱いたのか、鬼は息を飲みその場から逃げ出そうと身体を低くするが時既に遅し。
構えた両腕から、雷光が激しく爆ぜた。
「ガ、ガァ……コンナ、ハズデハ」
「一億万年早いんだよぉ、こっのダボがッ!!!」
刹那、両の拳から繰り出される乱撃が、鬼の岩肌を打ち砕く。
息を付く間も無い嵐のような拳の乱打は、削岩機のように固い鬼の肌を削る。
一呼吸の間。十秒にも満たない時間で、計六十発の拳打を浴びた鬼の身体は既にボロボロ。トドメとばかりに咲耶は大きく息を吸い込むと、既に光が消えかけている鬼の顔面目掛けて裏拳を放った。
強烈な打撃音が、空気を震わせる。
「涅槃に帰れやッ、鬼畜生ッ!」
顔面に突き刺さった裏拳の衝撃が、波状に広がり桜の花びらを上空に舞い上げた。
その中を同じように、鬼の巨躯も軽々と宙を舞う。
打ち上げられゆっくりと弧を描く鬼の身体は、唖然とした様子で固まる少年のすぐ目の前。木製のベンチを押し潰すように落下した。
「――うわっ!?」
慌てて少年は逃げようとするが、慌て過ぎて足が絡まり尻餅を突いてしまう。
鬼がベンチを押し潰し、舞い上がる砂埃や砕けた木片が顔にぶつかり、少年はペッペッと口内に侵入した異物を吐き出して、顔を手の平でゴシゴシと擦った。
一際強い夜風が吹き抜け、舞い上がった砂埃を吹き飛ばす。
砂埃が無くなり、ベンチも潰されてしまった所為で、隠れていた宗次朗の姿が露わになってしまった。
裏拳を放った態勢の咲耶からも、宗次朗の姿がバッチリと確認出来る。
「……あ?」
「――なッ!?」
視線が真正面で交錯する。
しまったとばかりに固まる少年と、まさか見られていると思ってなかったのか、咲耶は驚きに表情を崩す。
一瞬互いに静止した後、咲耶の表情が見る間に険しくなっていく。
「あの、その……」
「テッメェ……見てやがったなッ!」
弁明を口にするより早く、咲耶が物凄い眼光で睨みを利かせる。
射抜くような鋭い視線が向けられ、少年は口籠ってしまう。
恐怖に竦んだのでは無く、まだ名前しか知らない謎の少女の瞳が、とても純真で綺麗だったから見入ってしまったのだ。
そしてその感想は、無意識に口から零れ落ちた。
「……可愛い」
「――はぁっ?」
思わず口にした単語が耳に届いたらしく、咲耶は訝しげな顔をするが、言葉の意味をハッキリと理解したのか、途端に顔を真っ赤にして狼狽し始める。
「ばばばば、馬ッ鹿野郎ッ! 可愛いとかっ、破廉恥なことをいきなり言うなこのダボがッ!」
戸惑いを悟られないように凄むが、顔が真っ赤で声が震えている為、全然取り繕えて無い。
微笑ましく視線を細めると、咲耶は苛立つように大きく舌打ちを鳴らす。
「チッ……テメェ。いきなり妙なこと言い出しやがって、さては痴漢野郎だなぁ? こんな夜中の公園を、一人でうろついてやがるんだから、そうに決まってる」
「いや、それは君だって……」
「うるさい。黙れ、モヤシ野ろ……ッ!? 離れろッ!」
言いかけて、表情を険しくした咲耶は、手を振り払いながら怒鳴る。
急な言葉に少年は理解が及ばず、頭にハテナマークを浮かべるが、肌に感じる夜風とは違う底冷えのする薄ら寒さに、ゾクッと背筋を震わせた。
嫌な気配を追うように視線を向けると、倒れている筈の鬼の姿が消えていた。
薄暗い夜の視界が、不意に暗くなる。
月に雲でもかかったのかと思い視線を上げると、顔にパラパラと砂のような物が降りかかった。
「――馬鹿野郎ッ! 這ってでもいい、さっさと逃げろッ!」
咲耶が叫び駆け寄ろうとするが、もう時は遅い。
全身が割れ、ボロボロになった鬼はその巨躯を跳躍させると、少年へ目掛けむしゃぶり付くように大きな咢を開いた。
夜を照らす満月を背に隠し、鋭く生え揃った牙が吸い込まれるよう首筋に突き刺さる。
咢が落ちる。少年の首筋を、胸元まで食いちぎろうと。
「――ッ!?」
悲鳴を押し殺すように、咲耶が大きく息を飲む。
アレは助からない。
頭を丸呑みに出来るような大きな咢で、首筋に食い付かれたのだ。即死なら幸い、致命傷なら数秒間、少年は死の恐怖と苦痛を味わう羽目になる。
苦い後悔が胸に広がり、怒気が咲耶の拳を震わせた。
「――ッ!? こっのぉ……え?」
原型を留めないほど、粉々に殴り砕いてやる。
自らの不甲斐なさと怒りを拳に込め、いざ振り上げようとした咲耶だったが、首筋を食い付かれた少年の姿に我が目を疑った。
正確には、少年だと思っていた物を見て、だ。
「……に、人形?」
「……ナ、ニ?」
鬼も異変に気付いたのだろう。
噛み付いた柔らかい布地から咢を離し、目の前のそれにしげしげと視線を落とす。
何時の間にすり替わったのか、噛み付いたのは少年では無く、少年と同じ背格好と雑多な作りをした人形だった。
「――びっくりしたなぁ、もう。俺じゃなかったら、死んでいたぞ」
安堵するような少年の声が闇夜に響くと、月明かりの中、幾筋の鈍い光が煌めく。
四方八方から、鋭利な金属製の刃が飛来し、鬼の巨躯を滅多刺しにした。
いわゆる、苦無と呼ばれる物だ。
ただでさえ罅割れ、脆くなっている肌に無数の苦無が突き刺さり、鬼は断末魔の咆哮を上げるように上を向くと、押し潰すように真上から何かが落下し、上を向いた鬼のちょうど鼻先に着地する。
ストンと、もう片方の足で軽く鬼の顔を踏み込むと、鬼の巨躯は砂崩れでも起こすかのよう、バラバラと崩れ去っていった。
岩と砂の山と化した鬼の亡骸。
頭頂部にいるのは、首筋に食い付かれたかと思った、先ほどの少年だった。
目の前で起こった出来事に、今度は桜ノ守咲耶が驚く番だ。
「……アンタ、一体、何者なんだ?」
「聞かれて名乗るも烏滸がましいが、聞かれたんなら答えましょう」
口上のように高らかと喋り上げると、少年は何処からか赤いマフラーを取り出し、自分の首筋に巻きつける。
身に纏う雰囲気は、普通の少年と侮っていた、数秒前とは全く違っていた。
鋭く存在感がある、研ぎ澄まされた刃のような気配に、咲耶の視線は釘付けになった。
咲耶を見てニッコリと、先ほどの人懐っこさとは違う、深い影を宿す瞳を向ける。
「蘭堂斜陰流忍術、元次期頭領。蘭堂宗次朗」
「忍術って……アンタ、まさか?」
「そう。何を隠そう、忍者でござる! なぁんてね」
薄い笑みを浮かべながら、宗次朗はパチッと片目を瞑って見せる。
忍者とは名ばかりに、全然忍ぶ様子の無い宗次朗の態度に、咲耶は反応に困り暫し唖然と口を開いていた。
蘭堂宗次朗と桜ノ守咲耶。
月夜に照らされる桜吹雪の中で、こうして二人は初めての対面を果たしたのである。