第一章 ”陶酔”
突然の思いつきで始まった物語。プロットもない。打ち合わせもない?そんな、思い付くがままに3人でつぶやきリレーをしながら作った小説です。
始めたのは2年前-。暇でしかたない時につぶやくだけだから、こんなに時間がかかるのも無理はないのです。
みんな卒業しちゃって、学校には僕だけ残された訳ですが、それでも僕は、これを完成させるのが使命だと頑なに信じて-。
プロローグ
金木犀の香りが立ちこめる通学路の上で、僕は蒼空を見上げていた。
眩しくて、切なくて―。右手を上げようとする。だけど太陽光を遮ったのは、僕の”左手”だった。二ヶ月前のあの日、僕の肉体は変容した。手の運動神経の接続が、完全に逆さに変容してしまったのだ。
―二ヶ月前。夏休みも半分を過ぎた八月の午後。渋谷のスクランブル交差点の四隅は信号待ちの人たちで固められ,それは一つのオブジェとして成立していた。 オブジェの先端を任されていた僕の目には対角線で揺れる別のオブジェ―。これが陽炎ってやつか。そう、ひどく暑い日だった。
バイトに向かう途中だった僕は、暑さから身を守るため細い路地へと足を運んでいた。夏の魔手から逃れ得たことに安堵し、狭い蒼空を見上げた。
足が見えた―。正確にはビルの窓に両手をかけ、ぶら下がっている人影を見た。五、六階の高さだろうか。暑さにやられたかと目を疑った。人影ではなくヒトだと直感的に解った僕は、真夏の吐息を吐き出すことも忘れて駈けだす。
―その刹那。ソレは自由落下を優に超える初速で落下を開始した。y軸方向の軌跡とx軸が交差するゼロ地点へ至る瞬間、すなわち、四秒後の空間を観測した。
『だから僕は、右手を伸ばした―。』
目が覚めて自分が仰向けに倒れていることを理解した。夢だったのか?しかし落下してきた人間とソレに触れた右手の映像が鮮明に頭に焼き付いている。あの一瞬の感触を思い出すように僕は右手を顔の前にかざした。右手?首元に嫌な汗が流れる。(なぜ僕は左手を挙げているんだ。)
あの日から僕の手の動きは逆転した。最初はかなり困惑したが、慣れというものは優秀かつ恐ろしいもので、今では筆記くらいまでなら体をコントロールできるようになった。ただ、とっさの行動には苦手だ。落ちそうになったペンをつかもうとして左右逆の手を出してしまうことがよくある。
第一章 "陶酔"
急勾配になっている通学路を息をはずませ登り切ると、趣のある校舎が見えてくる。旧帝大医学部に漂う独特の空気を吸い込みながら、校舎へと足を進めた。やっと息を落ち着け講義室の席に座り窓辺を眺めていた僕の隣に、見慣れない女子生徒が座った。それが、僕と”野中灯里”との邂逅だった。
「運命の歯車に乗せられた仔羊達は決して鳴くことを許されないの」
独り言か?と思いつつ、少しだけ顔を横に向ける。肩まで伸びた漆黒の髪。透き通るような白い肌。僕の視線を捉えると彼女は小さく笑った。「こんにちは田中安芸くん。私も貴方の同類よ。仲良くしましょう?」
なんなんだこの娘は?僕の体の変異のことを知っている?あの日以来ただひとりを除いて誰にも話していないはずだ。僕が当惑していると、その娘は「混乱するのも無理ないわ。」と紙片を一方的に手渡し、講義が始まってもいない教室を後にした。
―午後四時に、運命を刻む歯車を抱く塔の前で待ってる―
塔?ああ、時計塔のことか……。手紙の内容よりも、彼女を観たときに発火した、何か懐かしい感覚が気になっていた。授業も終盤にさしかかった頃、目の前の景色が突然、霞んで見えた。なんだ?視界が二重に見えているのか?
一旦閉じた目を開いた時には、 講義室には僕以外の人間が消えていた。世界中の静寂をこの空間に集めたんじゃないかと思うほどの静けさ。空気中の分子までもが運動を停止しているようだ。時間までも失われたような感覚に呆然としていると、突然後方から足音が聞こえてた。
誰だ?振り返ると「僕」がいた。その輪郭は曖昧で見てとることは難しい。しかし、僕は「僕」だと確信した。「僕」であるその輪郭は片側の口角のみ上げるような笑みを浮かべると「まだそんなところで停滞しているのか。」と、まるで万象を理解しているかのような口調で口を開いた。
「その右手は、世界から目を遮るためのモノじゃないだろう?差し伸べるためにあるのだろう?」意味の解らないことを言う。「何に?いや、ダレに?それは、お前が”決めた”ことだ。」時間は状態の変化を観ることで知覚できる。だから僕の時計の針は止まっているのだ。
「僕」はそれだけ言うと振り返り歩き出した。僕は右手を伸ばし「僕」に触れようとしたが、その瞬間、目の前を走る閃光―。目を開けるとそこにはいつもの講義風景が映っていた。ノートや参考書を仕舞い始める学生がチラホラ見え始める。時計の針は午後三時四十九分を示していた。
僕は寝ていたのか?いや時間の経過はほぼ零だ。頭の中に疑問符がたくさん浮かんだが、いつの間にか握り締めていた紙片に気づき、先刻のことは無理矢理夢だと思い込むことにした。それよりも彼女だ。僕も皆に倣い机の上の教科書を片付け、教室を出た。幸い時計塔はすぐ近くだ。
講義室を出て、僕は駆け足で時計塔へと向かう。なぜだか僕は、屋上へ登らなきゃいけかった。(なんだ、この感覚……。)その瞬間、脳と肉体は確かに一連なりでは無かった。流れるような動作で右手で屋上のドアノブを回す。彼女は、野中灯里はそこにはいなかった。
腕時計を確認すると午後四時を二分ほど過ぎていた。
(―悪戯だったのか?)
しかし彼女は明らかに僕の体のことを知っている。夕暮れの空に彼女の顔を浮かべていていると背後に人の気配を感じた。「遅くなってごめんなさい。奴らを片付けるのに手間取ってしまって。」
彼女はさっきと変わらない姿でいた。「奴ら……?」
「一から説明する必要があるわね。まずあなたの体の異変は二ヶ月前にあの子を助けた時から起こった……。とか考えているのでしょう?けれど、それは因果の誤りよ。地震の後花瓶が倒れていたからといって、地震が原因とは限らないわ。」
「あなたは本当に、"右手”を伸ばしたの?その手で何を掴んだのかしら。」僕は左手を強く握りしめて彼女を見る。「精神のホメオスタシスは、時に肉体をも騙し得るのよ。ことによっては、私の敵とあなたのソレは同じなのだから……。」彼女の難解な言い回しに、僕は辟易した。
大きく溜息をついて一旦彼女から視点をそらす。(精神のホメオスタシス?彼女の敵?)何度彼女に疑問をぶつけようと口を開きかけたことだろう。しかし”識ること”に恐怖を感じている自分がソレを抑えている。僕には黙って話の続きを聞くこと以外に選択肢は残されていなかった。
「あなたが”右手”を伸ばした先には本当にあの子がいた?」
「確かにあなたが気がついたときに、そばに倒れていたのはあの子かもしれない。けれどもあなたが手を伸ばして助けようとした人影は、本当にそこに存在していたのかしら。私の敵はそれらの境界に存在しているの。」
「あの現場にもう一度行ってみなさい。そして、あの子に会うといいわ―。」
灯里は金木犀の香りを置き去りにして立ち去った。僕は、あの子が今何処にいるのかを知らない。だから、事件の第一発見者で、僕が最も信頼している人の元へと向かう。それは、妹の”香澄”だ。