白狐
あれから、半年が立った。あれから、というのは、異国の二人から襲撃を受けたあの日から、という意味である。
遠は相変わらず、山城千代のもとへと通い続け、結局育女塾は中退した。週に一、二度しか行くことができなかったからである。
雅は藩学に通い続けているものの、最近は唐草重盛という人のところで衛士見習いとして鍛錬を積んでいるらしい。いったいどういう話の流れでそうなったのかは遠には教えてくれなかったが、唐草重盛が雅を使部に推薦するために稽古をつけてくれるようになったのだ。
双子がそれぞれの道を歩きはじめて、約半年が立った今、遠は初めて四神殿の内部に足を踏み入れていた。
どうやら、半妖が入るのは初めてなのだという。まわりの神官たちの目はどこか冷たく、そして戸惑っていた。
四神殿とは、和ノ国を守る四体の神々がいらっしゃる場所のことを指す。和ノ国の中心部にあり、将軍家の城の次に大きな建築物にあたる。
四神殿の中央には、見たこともない半透明の青い柱がずどんと立ち、それを囲うようにして四つの部屋が置かれている。北側の部屋には玄武、東側の部屋には青龍、南側の部屋には朱雀、西側の部屋には白虎と札が置かれていたが、戸はなかった。戸があるであろう場所には黒々とした穴があり、結界が張られている。この結界を解くことができるのは四人の守乙女だけだった。
千代は遠の隣に立っていた。白い小袖に、緋袴―――――和ノ国の少女たちが憧れる守乙女の正装を身につけて。
身に余る光栄だと、遠は思う。遠は千代により、〝神〟と会わせていただくことを許可されたのだ。 支女としては珍しいことではないが、半妖としては初めてのことなのだという。
本当にいいのですか、と遠が何度も訪ねたが、千代がいいのだと頷いてくれたので遠はしゃんと背筋を伸ばして立っていた。
千代は白虎の部屋の前で結界を解いている。高速で術式が解かれていくのを見て、遠はほうっと息をついた。
「遠、解けたよ、おいで」
千代が強引に遠の腕を引っ張る。
「え」
腕を引かれるままに遠は、黒い穴へと吸い込まれていった。
白虎―――――絵巻などで見たことはあったが、実物はそれらとは全く異なっていた。
目の前に座り込む巨大な白い虎…きっと彼を一枚の紙に描こうなんて到底無理な話だろうと遠は思う。
白、というよりも、白銀に近い体毛に、黄金の瞳…―――――巨大な体躯を丸めて白虎は遠を見つめていた。
しかし、すぐに興味がなくなったのか金色の瞳を閉じて彼は体勢を崩す。
遠は目の前にいる四神の一角、白虎に見入らずにはいられなかった。
なんて美しいのだろう、なんて荘厳なのだろう、そしてなんて…なんて神々しいのだろう。
「悪いね、遠。急に手を引っ張ったりして。あの結界は解けてもすぐに修復するようになっているから、すぐに入りこまなければいけなかったんだ」
「い、いえ」
遠ははっと我に返って、もう一度白虎に視線を移す。
私は今、神の御前に立っている。
失礼のないようにしなければ。
「白虎、おはよう、昨日はよく眠れたかい?」
『ふん、老いぼれめ。俺の眠り具合がよかろうとわるかろうと、お前には関係ない』
白虎の声は、とても低かった。
千代は白虎の言葉に、けらけらと笑う。
「ははは、そうかい、それは申し訳ないね。あの子が遠。いつも話していただろう、半妖の子だよ」
遠は動くことができなかった。半妖である自分が、神である白虎のお傍に駆け寄るのはなんだがおこがましい気がしたからだ。
『半妖の民…妖狐の民だろう。外見は普通の人間だが、なにか術を使っているのか』
「は、はい、陰の術で耳と尻尾を隠しております」
『なぜ?』
「…え…?」
「半妖の民が迫害されていたことは知っているだろう、白虎。あんまり意地悪をするんじゃないよ」
『うるせえ、老いぼれ。知っている。俺が聞いたのは、なぜ俺の前で術を使い姿を隠しているのかということだ』
遠はなにも言うことができなかった。
そんなこと、言われたって。
困る。
真っ青になった遠を見て、白虎はため息をついた。
『いや、まあいい。本質を見ようともせず、忘れていくのが人間だ。だが千代、なぜ今日この娘を連れてきたんだ?』
「これから守乙女たちで会議があるんだ。その間、遠をあなたに会わせようと思ってね」
『じゃあ、今日の話し相手はこの娘という訳か』
「ちょっと待ってください!そんなこと、私聞いてません…」
遠が会話を割って入ると、白虎は不満げに金色の両眼を細めた。
『俺と二人きりじゃ、まずいことでもあるのか』
首を伸ばして、遠に近づける。
遠はぶんぶんと頭を振って、うなだれた。
「も、申し訳ありません、そういうことではなく…あの、私なんかで、よろしいのでしょうか…」
『…俺がいいと言っている』
「…はい」
「じゃあ遠、私はもう会議だからこの部屋から出るけど、小一時間くらいで戻ってくるから。あんた一人じゃこの部屋からは出られないし、白虎の相手をしてやってくれ」
遠の返事も聞かず、千代は慌てたように部屋から出て行った。取り残された少女は、白虎を一度見て、目をそらす。
『お前は俺の、なにに脅えているんだ?』
白虎の呆れたような声音に、かっと遠の顔が赤くなった。
「あの…私…」
『しっかり喋れ』
「はい、すみません」
『…謝れということじゃなくてだな…』
白虎が立ち上がった。遠は驚いて一歩退く。
なんて、なんて大きいのだろう―――――太い足が、地を踏みしめるたびに小さく揺るぐ。
『…娘…遠、と言ったな。お前は俺の一番嫌いな性格をしているな』
「…っ…!」
『…俺が〝神〟だから、臆しているのか』
遠が目をそらすと、白虎はふんと鼻を鳴らした。
『神である俺が許すと言っているんだ。怯えるな、俺はお前が人間であろうが半妖であろうがどっちでもいい、臆するな』
遠の目の前に立ち、そして遠を見下ろしている。その金色の瞳を見て、遠は何度も頷いた。
白虎はぐっと顔を遠に近づけて、においをかぐ。
かあっと真っ赤になって蹲る遠に、白虎はふんと鼻を鳴らした。
『確かにお前、獣くさいな。今、妖狐の民はどうやって暮らしているんだ?』
遠は鼻が離れて行くのを確認して、立ち上がる。
「…えっと、山の中腹に集落を築き、みんなで生活しています。私の家は、少し離れたところにあります…」
『お前、兄弟はいるのか』
「はい、双子の弟が」
『名前は?』
「雅です」
こういった他愛もない話を続けている中で、白虎は立ちっぱなしで話すのもなんだと遠に座るように指示した。
白虎の問いに遠が答える、それを繰り返しているうちに、白虎が言った。
『今までの会話でお前自身のことはほとんど把握した。俺に聞きたいことがあれば訊ねていいぞ』
「ほ、本当ですか」
『いいと言っているんだ。聞き返すな』
「あの」
遠が口ごもると、白虎は面倒くさそうに耳を掻く。
『なんだ、言ってみろ』
「あの…聞きたいことというか、お願いなんですけど」
『ほう、神に〝お願いごと〟だと?図々しい奴だな』
こうは言いながらも、白虎は面白そうに笑っていた。遠も愛想笑いを返して、小さな声で要求する。
「…お体に、触れてもよろしいでしょうか…」
「白虎、遠、遅くなってすまないね。一時間どころじゃなかった、長い会議だった」
千代がため息をつきながら部屋に入ると、遠が白虎の豊かな体毛に触れているところであった。
白虎は遠を見て不可思議に首をかしげているが首の毛を触られると嬉しそうに目を細める。
(…分類するとすれば神といえども猫科…ああなるわけだ)
「山城さま!おかえりなさいっ!」
ぱっと遠が振り向いて、千代のもとへとかけよってきた。
「凄いんです、白虎さまのお体は、すごくさらさらしてるんですっ」
興奮した面持ちでいっきにまくし立てるものだから、千代は気後れしてしまった。
一通り遠の感想を聞いて、千代は遠に落ち着くように言う。
「…白虎、今日は楽しめたかい?」
千代が問うと、白虎は小さくうなづいた。
『この娘の態度は気に入らないが、ああ、話し相手にしてはよかった。老いぼれの話なんかよりもずっと面白かったな』
「ははは、皮肉がきついよ、白虎。笑えないね」
『…んん?どうしたばばあ、元気がないじゃないか』
白虎が首をかしげた。
千代はふう、と息をついてから、自嘲気味に笑う。
「今日の会議は散々だったよ。みんな頭の固いぼんくらばっかりさ。私を将軍さまに会わせるのが嫌なんだ。私の性格が将軍さまに影響するんだと!ばかばかしい!」
『…ああ、お前、将軍の幼いときに貿易についての講師を務めていたんだったな』
「将軍さまを幼いだの未熟だだの言っておきながら、一番あの子を子供扱いしているのは、あいつらさ」
ふくれっつらの千代は、苛立っているのか異常に早口だった。
隣で会話に入れない遠は沈黙を決め込む。安易に口を出してはいけないことのような気がした。
千代は今よりもう少し若いころ、確かに将軍の貿易学の講師を受け持っていた。それは有名なことで、あまり国のことに詳しくない遠でも知っている。
現将軍・西織 春臣。〝外国将軍〟と呼ばれるほどの外国好きで知られている。齢十八のときに将軍職を父から引き継ぎ、新たな制度を多々取り入れた。
西織春臣が将軍に就任するとき、反対の声が多かった。
その第一の理由が、西織春臣の幼さにあった。たった十八の子供に何ができる。気まぐれで国を滅ぼすのがおちだと散々もめた。
しかし、前将軍であった春臣の父・西織 春久には春臣以外の子供がいない。春久の妻・梅は身体が弱く春臣を生むときも酷い難産だったという。二子は望めない。言わずもがな、和ノ国の国民だれもが知っている事実である。
春久は、世間知らずのお坊ちゃんだった。将軍職に嫌気がさし、たったひとりの息子にそのすべてを押し付けた。
この国は終わりだ。
重臣たちは嘆いた。
だが、春臣は十八の若造とは思えぬほどの聡明さで国の財政を整えた。
いや、若造であったからこそ、彼は和ノ国の古い戒めをいとも簡単に破って見せた。
鎖国は平和の象徴である。
個人の貿易は許されず厳しい規制が強いられ、異国の書物を輸入するなど言語道断。和ノ国の民は小さな世界を生きざるを得なかった。
春臣はまず、規制の緩和を成功させた。貿易所と呼ばれる機関を新たにつくり、その初代貿易管理の長に千代を選んだのだ。
千代は積極的に異国の書物や食べ物、技術などの輸入を可能にした。
和ノ国の人々ははじめ、その変化に戸惑い、そして怯えた。
春臣に避難は集中し、城に人々が殺到。
春臣はそれを強引に武力で治め、さらなる反感を買った。
しかし、若き将軍は今まで細々と行われていた輸出に目をつけていた。
和ノ国の細かい技術は、和ノ国の民が思う以上に精密だった。
春臣は近隣の国々に和ノ国の木工技術などを約三年間にわたって広めた。結果、和ノ国の技術は異国に強く求められた。
輸入以上に輸出を増やし、和ノ国の財政は右肩上がりとなった。そうすると国は潤い、人々にも余裕が生まれる。また新たな技術が生まれ、人々はその生活に慣れていった。
春臣はそれから、聴公部という機関をつくり、超大国・ガリア帝国の世界新聞を和語に翻訳して発行している。
世界新聞は世界の国々の状況を詳しく書いており、毎日配布しているがまだまだ需要は少ないらしい。
雅信が遠のために一週間おきにまとめてもらってきてくれる。遠は世界新聞が大好きであった。
「…古臭いじじいどもはね、この国の変化について行けないのさ…、皆恐がってる。自分が取り残されることに怯えている。だから否定するしかないのさ、かわいそうな人たちだよ」
千代は疲れているようであった。いつもはしゃんとのびた背筋であるが、今日は丸くなっている。顔色も悪かった。
「怖いなら、知ろうとすればいいのにね」
確かに、ここ何年かで和ノ国は大きく変わった。柔軟にその変化についていくことは、難しいことなのかもしれない。
大きな歴史の流れに身を投じるのは、勇気がいることなのだろうか。
山奥で生活する遠らに、変化の影響はまだ出ていない。
だが、山を下りればその変化を遠ははっきりと感じることができる。
この国で生肉が食べられるようになったのもつい最近だ。
『じじいどもだってこの国の流れについてくるようになる。そのうち〝びいる〟を和ノ国で一番消費するようになるだろう。そんなものさ』
白虎が高らかに笑うと、千代が噴き出した。
「ビール、だよ白虎。あれはうまいねえ、しゅわしゅわしてて」
〝ビール〟がわからない遠は、首をかしげたが千代が少し、元気を取り戻したようなのでほっとしていた。
「…遠、あんた、今日は帰りな。結界を解いてあげよう、一人で帰れるね」
「え、あ、はい、だいじょうぶです」
「明日は同じ時間にまた四神殿においで。私はまた会議だからね。白虎の相手をしてあげなさい」
「はい、わかりました」