第四十二幕 三英傑 -信長の逆襲-
五月七日。
美濃国・大垣城
この日、徳川家康の来援を重く見た武田信玄は帰国を決断した。それが美濃での戦局に大きな影響を及ぼすことは判っている。だが、ここで天下獲りを諦める訳にはいかない。自らの手で嫡子を討つことになろうとも、信玄は正当なる源氏の世を創るために天下を治めなくてはならないのだ。その為には帰国して謀叛を鎮め、武田を一つに纏め上げて再上洛を果たすしかない。その道しか、信玄には残されていなかった。
問題は帰国を隠し通せるかどうかだ。織田信長が信玄の帰国を知れば、確実に動き出すと見られる。また味方に漏れれば“所詮は武田殿も本領が大事”と見なされ“ならば儂も”として六角承禎あたりの勝手を許し兼ねない。元々承禎は武田家の下位に甘んじる男ではない。誇り高き宇多源氏の末裔として、足利幕府で管領代まで務めた家柄は武田に見劣りはしない。信玄の力が減少した今、その命令に反することなど承禎は躊躇しないだろう。所詮、六角承禎という男は天下の大局を見通せぬ輩に過ぎなかった。もし承偵に先見の明があるのなら、教興寺合戦の折りに三好長慶に勝利して天下人の地位に君臨していただろうし、永禄の変の時には真っ先に義輝支援を表明して新政権で重用されていたはずだ。そういう点で、承禎は天下獲りの機会を何度も逃している。その実感を本人が抱いていないのは、その程度の能力しかないことの裏付けでしかない。
故に信玄の不安は、どちらかと言えば味方に対しての方が強かったのだが、今回は運が悪かったと言うしかない。何故ならば、この地には信玄の才を凌ぐ者が三人もいたのだ。一人は言わずと知れた織田信長。信玄がもっとも警戒する男で、その実力は英傑の名に相応しい。そして援軍として現れた徳川家康も発展途上ながら潜在能力は信玄を越えていた。今も本領を狙う今川氏真を捨て置き、信長の援軍に訪れるという決断をしたばかりだ。本領の喪失を懸念して決戦に踏み切れなかった信玄との差は語るまでもない。この土地に縛られない思考は、戦国の世の次を見据えられる者のみが持つ特徴と言えるだろう。
残る一人は、信玄が警戒を怠った人物、伏兵とも言える存在・木下藤吉郎秀吉である。底知れぬ大器は、甲斐の虎すらも飲み込む程に大きい。
その秀吉がいる大垣城では、徳川の登場に活気を取り戻していた。
「半兵衛。御屋形様の援軍に徳川様が来られた。こりゃ近々動くぞ」
家康来援の報せを聞いた秀吉が竹中半兵衛重治の肩を叩いて笑う。かなり興奮した様子なのは、言葉が早口になっていることからも判る。一方で半兵衛の方は醒めたように冷静だった。
「徳川様の来援には驚きましたが、これでようやく五分に持ち込んだに過ぎません。あの御屋形様が動かれるとは思えませぬが……」
秀吉の言を重治は否定した。
徳川の援軍を得て状況は改善したが、まだ足りない。自分が知っている織田信長は、勝つための条件が揃わなければ絶対に動かない人物である。それは兵力に於いてもそうだし、戦術などあらゆるものが考慮される。言うならば、勝つべくして勝つ人物なのだ。言葉にすれば簡単であるが、その状況を作り出すことは容易ではない。それを可能としてしまうのが、織田信長の恐ろしさである。
故に半兵衛は、信長はまだ動かないと思った。
「いや、御屋形様は動く」
と、秀吉は断言した。骨の髄まで信長の影響を受けてきた秀吉には、主は動くと直感で知っていた。
「徳川様と共に岐阜城の後詰に動かれると?」
「何を呆けておるか。御屋形様は儂を救いに動かれるのよ」
「……御屋形様が秀吉殿を救いに?ふふっ、戯れが過ぎましょう」
自信満々に言い切る秀吉を見て、半兵衛は堪らず笑ってしまった。
考えれば不思議なものである。信長が動くのもそうだが、それが何故、岐阜ではなく大垣なのか。大垣城を拠点に岐阜城の回復に動くつもりなのだろうか。半兵衛はそこを理解しかねていた。
「何故に岐阜ではなく大垣なので?」
半兵衛の問いに秀吉は目を丸くして驚いた。英知の溢れる軍師殿が困っている姿が事の他に可笑しかった。
「半兵衛ともあろう者が本当に気づいておらぬのか?御屋形様の眼は西を向いておられる。岐阜など最初から眼中にないわ」
と言って秀吉の視線も西を向く。信長の見ているものが、秀吉にも見えているようだった。
(そうか!大垣城に兵を向けられるのは上洛への障害となるからで、岐阜城に向かわれないのは無駄だからか)
言われて半兵衛はハッと気付いた。信長は無駄なことを厭う。一見、不可思議に思える行動も目的が上洛と考えれば、全て説明がついた。菩提山城の兵を近江に入れたのも、大垣城の兵を減らすためで岐阜は関係ない。今の状況で岐阜は救えないが、大垣だけならやりようはある。しかも大垣を奪えば、上方の門徒兵が中心の敵は兵站を断たれる。困らないのは、信濃と繋がっている武田の者だけだ。
(これは武田殿が読み違えるのも無理ないな)
信玄は信長を誘い出すべく岐阜の町を焼いたが、信長に岐阜を救う意思がなかったとしたら、信玄の行動は無意味でしかない。もし信長を誘い出したければ、信玄は大垣城を攻撃するべきだったのだ。誰もが本貫、本拠地を一番に考えるという固定概念を捨てきれない以上、信長の意図を読み切れる訳はなかった。そういう意味では、信玄も半兵衛も旧世代の人間ということになる。
(新しい時代を私は見られるのだろうか)
半兵衛は、ふと寂しくなった。生来、身体が弱い我が身で長生きが出来るとは思っていないが、秀吉や信長を見ていると近い将来に時代が大きな変革を迎えることを実感させられる。そこに自分がいる姿を半兵衛はどうしても想像できなかった。
(……よそう)
考えることを半兵衛は止めた。考えたところでどうにかなるものではないし、いま大事なのは目下の敵を討ち果たすことである。
「では参りましょうか」
「うむ。ようやくの反撃じゃ。御屋形様の御前で醜態は晒せぬぞ」
半兵衛は立ち上がる。秀吉が笑顔で頷いた。
「心得ておりまする」
織田軍が動いたのは、二日後のことだった。
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五月九日の早朝、ついに合戦が始まった。
最初に動きがあったのは大垣城だ。秀吉は城の守りを佐久間勢に委ね、城門を盛大に開け放って打って出た。同時に搦め手からは柴田勢が出てくる。まだ城外には織田の兵はいなかったので、六角承偵の虚を衝く形となった。
墨俣に動きがある前に秀吉が動いたのには訳がある。
「御屋形様の兵は少のうございます。敵の注意をこちらへ向けるため、先に打って出ましょう」
「うむ。それがよい」
城外から六角勢を攻撃する織田信長の兵は一五〇〇しかいない。六角勢は四〇〇〇なので、まともに考えれば苦戦は免れない。半兵衛が信長の身を案じる策を進言し、それを秀吉が受け入れたのだ。
「派手に暴れよ!」
秀吉の掛け声と共に兵たちが一斉に飛び出していく。皆、長い籠城戦で鬱憤が溜まっている。それを今日で終わりにするべく、囲いの外に出ようと必死だ。先頭を突き進むのは、木下隊一の巨漢・仙石秀久だ。
「どりゃりゃりゃりゃああ!!」
大楯を構えながら、雄叫びを上げて進む。その勇気と気迫に影響され、後ろを行く兵も勇躍し、築かれた土塁を飛び越えて柵に挑み懸かっていく。矢弾を射懸けられても、槍で突かれて前へ進むことを止めなかった。
「怯むなッ!俺らが最初に柵を越えるぞ!」
秀久が声を張り上げて味方を鼓舞する。
「ええい!しつこい奴らめ」
柵に群がる木下勢に圧倒される味方の姿を見て、承禎は苛立ちを募らせた。
六角勢は近江出身で、勝ち戦に便乗する形で美濃にまで出て来ている。ここは命の懸け所ではないし、麾下の百済寺の僧兵にしてみれば手伝いの手伝い戦だ。兵の士気は決して高くない。両軍の事情は、明らかな気迫の違いを兵たちに与えていた。それでも六角勢が戦えているのは、自分たちの方が数が多いという認識の上に立っているからだ。もし今、背後を信長に襲われれば六角勢は確実に壊滅すると思われた。
「武田殿へ支援を要請する。墨俣の信長が動くだろうから、その足止めをお願いしたいと伝えよ」
自軍の弱さを知っている承禎は、信長が動くことも予測していた。
戦国の世を生き抜いてきたという自負がある。天下人・三好長慶と戦ってきた経験が何も身についていないわけではないのだ。この場合、籠城方の行動を単独とは思わない。確実に外部と連絡を取り合っているはずだ。ならば、敵の連携を断てばいい。目の前の敵だけなら、何とか押さえ込む自信はある。不幸だったのは、承禎が信玄の不在を知らなかった事だ。
承禎の伝令が武田の陣へと駆け込んでいく。
「六角殿より伝令です。織田方に動きがあった模様」
「そのようだな」
承禎の報せに信友は驚かない。物見は逐一放っており、大垣城の織田が動いたことは少し前に報告が入っている。
「して、六角殿は何と?」
「支援要請です。墨俣の信長が動くかもしれないので、足止めをお願いしたいとのこと」
「足止めか……。儂は動けぬな」
信友の表情が強張り、険しさが増していく。
主・信玄がいない以上、信友が動くわけにはいかない。軽々しく動けば、不在が明るみに出る危険があった。
「……ここは斎藤殿に御願いするしかあるまい」
「斎藤殿に?役に立つのですか」
信友の判断に土屋昌続が疑問を呈す。昌続は近江で龍興が醜態を晒したのを見ているので、どうしても過小に評価してしまう。
「言いたいことは判るが、他に方法がない。斎藤殿には、ここにいる兵の半数を預ける。能力が足りない分は、兵の数で補って貰う。土屋殿には申し訳ないが、軍目付として一隊を率いて斉藤殿を支援して欲しい」
「それならば……」
昌続が不承不承に同意した。
岐阜包囲に用いている兵は一万四〇〇〇を数える。岐阜城に五〇〇〇がいるとなると、半数は割ける限界だった。如何に凡愚な龍興といえど、織田方の倍近い兵を与えられれば支援に失敗することもあるまいし、自分が補佐するのならば尚更だ。
信友は承禎が城方の攻撃を撥ね返す間だけ信長の動きを封じてくれればいいという程度で、龍興へ信玄の名で命令を送るが、この判断が裏目に出る。
「信長が相手か。しかも大兵を与えて頂けるとは、武田殿に御好意に感謝いたす」
信友は不安の証として龍興へ大兵を与えたのだが、当の本人は信玄の配慮として受け取ってしまった。信長へ恨みを晴らす機会を得たと勘違いした。
昌続は当然、釘を刺すが……
「思い違いをなさって貰っては困ります。斎藤様の御役目は織田の足止めであって、撃破ではありませぬ」
「何を申す。織田の兵は徳川を加えても五千に届かぬというではないか。こちらは七千、それに地の利は儂にある」
自信たっぷりに言い切る龍興に昌続は呆れた。確かに龍興は美濃の地勢に明るいかもしれないが、それは信長も同様なのだ。ならば、こちらに地の利があるとは言えない。
「行くぞ」
逸る龍興は、昌続の制止を振り切って出撃してしまう。
龍興は早速に長良川を越えて大垣城へ向かった。この辺りの地理は知り尽くしているので、行軍は順調そのもので、昌続の不安も少しは解消していった。
「あれは敵か。信長ではないようだが……」
暫くすると目の前に敵軍の姿が見え始める。最初は信長か、と思ったが、よく見ると旗色は黄色ではなく白色だった。龍興の進路を塞いだのは、徳川勢三〇〇〇。悠然と林立する軍旗は、まさに強者の雰囲気を醸し出していた。
徳川勢からも、迫る斎藤勢の姿が確認できた。
「どうやら相手は武田ではなく斎藤のようです」
「斎藤?……ああ、織田殿に国を追われた斎藤か。何とも張り合いがない相手だ」
側近・阿部正勝の言葉に家康は不満そうに呟いた。倍以上の軍勢を目の前にしながら、余裕の様子を見せている。家康にしてみれば、この戦は天竜川合戦に比べれば楽な戦いである。
「織田殿からは敵の侵攻を阻んでくれればいいと言われたが……」
家康は迷っていた。
こちらは待ち構えるように布陣していたため鶴翼で布陣しているのに対し、相手は魚鱗に近い長蛇である。信長から返して貰った鉄砲もあるので、足さえ止めれば勝機は充分にある。そして何よりも信長に敗れた龍興へ自分の背中を見せるのは癪だった。
「こちらから攻めてみるか」
信長の依頼は敵の足止め。成功すれば、大垣城の解放は成るだろう。しかし、それでは徳川が援軍に駆けつけた甲斐がない。そもそも信長からは求められていない援軍を家康からわざわざ買って出たのだ。それは、この戦いが徳川の戦であるということだ。
(儂が戦いを終わらせる)
そういう想いが家康の中にはあった。徳川家康という男は、いつまでも信長の後塵を拝している人物ではない。この戦いに勝ち、三河・遠江の二カ国を治める。その先にあるのは、かつての主がいた高見だ。期待以上の結果を出さなければ、そこには到達できない。
「まず敵の勢いを削ぐ」
「はっ」
家康の命令を正勝が前線に通達する。
ぞろぞろと兵たちが前線へ出て行く。その手に持っているのは多数の鉄砲だった。織田から返還されたものと合わせて四〇〇挺あるので、敵の足を止めるには充分な数だ。それを率いる大将は、徳川の重鎮・酒井忠次である。
「放てッ!」
忠次の号令で銃口が火を噴き、斎藤兵が地面に倒れる。
堪らず斎藤勢は足を止めた。思いの外、敵の鉄砲が多かったことに驚いたのだ。その為、徳川に第二射を放つ余裕を与えてしまった。そこへ天野康景、高力清長が突撃していく。その後ろには、鬼の作左こと本多重次が控えている。三河三奉行が徳川の先陣だった。
「先手は貰った!このまま戦を決めるぞ」
康景が吠え、徳川勢が疾駆する。人数で劣る徳川が勝つには、今の勢いのまま押し切るしかない。神速の如く敵に押し寄せ、長柄での叩き合いから白兵戦へと移っていく。両軍入り交えての激戦が始まった。
「押し返せ!」
徳川に対し、土屋昌続が向かっていく。龍興に期待できない以上、ここは自分で何とかするしかなかった。自らも槍を取り、兵たちと一緒に戦場を駆けた。
その頃、承禎の許には先に送った伝令が返答を携えて戻って来ていた。
「武田殿からの返答です。支援に斎藤勢を送るとのこと」
「龍興をか?あんな奴が何の役に立つ。もう一度、催促いたせ」
承偵の言葉には侮蔑が込められていた。信玄が龍興を見下していたように、承偵も龍興を下に見ていたのだ。
「されど既に支援の軍勢は動き出しております」
「ちっ……」
思わず舌を打つ。
「武田殿は血迷うたか。秋山あたりに任せればよいものを、よりによって龍興とは……」
信玄の判断を承禎は“らしくない”と思った。信玄とて龍興の実力を知らぬはずはないし、岐阜の旧主たる者をわざわざ外す理由を掴みかねた。暫く思案して、一つの結論に辿り着いた。
(賢しい男よ。この期に及んで兵力の温存を図ったか)
信玄は嫡男の謀叛に遭った。ならば自身の兵は惜しいはず。僅かに二〇〇〇とはいえ、ここで消耗させるのを避けたいと思ったのではないかと承禎は勘繰った。結局、信友の判断は様々なところで誤解を生み、少しずつ戦線を崩壊させていくことになる。
そのきっかけを作った男は、やはり織田信長だった。
「支度が整いました」
「ならば始めよ」
湯浅直宗の言葉に信長が静かに告げる。
そして爆音が戦場に轟いた。鉄砲にしては、音が大きい。明らかに使用している火薬の量が違っていた。轟音が轟音を呼び、喚声が木霊する。地獄絵図とは、まさにこの事をいうのだろうか。
「な……なんなんだ、あれは!?」
攻撃を受けた承偵は、訳が判らずな狼狽えた。
六角勢を守っている柵が中央から折れ、着弾した地点では大きく土が舞っていた。その様子を見て、織田勢は喝采を上げ、六角勢は悲鳴で応えた。
「新型の種子島は充分に使えますな」
「試射は行っているのだ。当たり前だ」
嬉々として喜ぶ直宗とは対照的に信長は何処までも醒めていた。
織田軍が使用した新型の鉄砲は大鉄砲というもので、通常のものより口径が大きい。ちなみに大鉄砲自体は珍しいものではなく、大友宗麟や毛利元就、北条氏康なども所持しているのだが、織田軍の特徴はその大きさにあった。通常、三匁ほどの種子島に対し、三〇から五〇匁ほどが中心だった大鉄砲の中で、織田軍のものは一〇〇匁砲が二八門、二〇〇匁砲が五門あった。二〇〇匁砲は未だ試作の段階を抜け切れていないが、一〇〇匁砲は充分に実戦に耐え得る性能を有している。
これが信長の持つ切り札だった。
西征には間に合わなかったが、帰国した信長の許に完成した大鉄砲があった。信長は大鉄砲を信玄に対抗し得る切り札として用いることを決め、今まで秘匿していた。大鉄砲を使えば、速攻で敵を討つことも可能だ。大垣城さえ奪い返せば、美濃での戦局は決し、上洛の道は開ける。
大鉄砲により六角勢は大混乱に陥った。流石に陣地は大鉄砲の数の少なさから一部が損壊した程度に終わったが、綻びさえ生めば、それを広げるのは差して難しくない。ここに織田軍が攻撃を仕掛ければ、城の内外から挟撃された六角勢の命運は決する。
「これはいかん!」
状況の拙さは信友を焦らせた。今の状況で打てる手は限られる。
「こうなったら儂が動くしかない。山県殿には申し訳ないが、ここを頼みたい」
信友は自ら救援に赴くことを決めた。岐阜の織田を目の前にして兵を割くのは危険だが、このままでは負けてしまう。負けてしまえば、信玄の不在を隠すどうかの話ではなくなる。連れて行ける兵は僅かだが、ここは踏ん張りどころだ。相手とて余裕があるわけではないが、まだ逆転できる可能性は残されている。
そんな思いも無情に裏切られることになる。いざ信友が出撃をしようと馬に跨った時、東より新手の接近が報せられたのだ。
「旗印は沢瀉の紋、尾張の水野勢だと思われます」
「尾張勢だと!?尾張勢は犬山ではなかったのか」
「一千ほどしかおりませんので、恐らく一部をこちらへ回したものかと」
「……くそっ!!」
信友が悔しさの余り激しく唇を噛む。口元からは、血が滴り落ちる。
目の前の敵は、撃破できない規模ではない。いや自らの腕に覚えのある信友としては、撃破する自信はある。あるが、問題は時間だ。信友が水野勢と戦っている内に確実に六角は敗れる去る。
(どうする。ここで軍勢を壊滅させるわけにはいかんぞ。御屋形様が戻られた時に反撃する力を残しておかねばならぬ)
次の瞬間、信友の思考は可能な限り兵力を温存することに移った。この辺りの切り替えの早さは、信友が歴戦の将たる証だろう。
「岐阜の包囲を解き、可児まで退く。土屋殿には撤退の合図を出す」
「已む得まいか。されど斎藤はどうする?退けと命じて従うとは思えんが……」
「……置いていく。さすれば土屋殿だけでも無事に撤退できる」
「いいのか?」
「……全ては御屋形様の為だ」
信友の顔が苦渋で歪む。他家の人間とはいえ、一旦は味方とした人間を捨て駒のように扱うのは、流石に信条に反した。しかし、主の為にも軍勢の保持は絶対だ。今なら麾下の軍勢と昌続に預けた兵を逃がすことができる。信玄が率いて戻ってくる兵と合わせれば、充分に反撃は可能だ。
そして事態は急を告げてくる。
「申し上げます!六角勢が持ち場を捨て、近江へ逃げ始めました」
伝令の顔には焦りの色が見える。この先に対する不安を抱えているのだろう。
結果として大垣への救援は間に合わなかった。大兵を預けた龍興も徳川を破れず、信長も切り札を用いることで予想以上も早く六角勢を崩壊に持ち込んだ。全て見通しの甘さが原因。信玄の不在さえ隠し通せれば、織田は動かないと思ったのがそもそもの間違いだった。
信友は戦場からの撤退を決める。
それから信友の行動は素早かった。すぐに昌続に使いを送り、撤退する旨を伝えた。この時、時間が惜しい信友は昌続に殿軍を龍興に任せたという嘘をついた。当然、何も知らされていない龍興は土屋勢の撤退に狼狽した。
「な…なに!?どういうことじゃ!なぜ土屋が兵を退く!」
悲鳴に近い声を上げて、龍興が問う。未だ六角勢が敗れたことを知らない龍興には、昌続が兵を退かせる理由を知る由もなかった。
「判りません。ですが、どう見ても戦って敗れたとは思えませぬ」
「ええい!判らぬなら武田殿に問い合わせい」
苛立った声で龍興が側近に下命する。だが帰ってくる答えはなく、送った使者は誰一人として帰って来ない。土屋勢が退くまでの時間を稼ぐため、全て信友によって斬られてしまっていたのだ。龍興は、無残にも見捨てられたのだった。
「追い立てよ」
土屋勢の退却を見て、家康は攻勢を強める。三奉行を前面に押し出し、鉄砲隊を側面へと回り込ませた。それでいて自身の本陣も前に進めたので、押し出されるようにして徳川の兵は敵を飲み込んでいく。そして土屋勢が抜けた穴から龍興の側面ががら空きとなった。
「撃ち掛けよ!」
酒井勢から猛烈に鉄砲を浴びせられた斎藤勢は、大きく陣形を乱した。そして裏崩れを起こす。
「お……お前たち、何処へ行く!おい、戻って来い!」
龍興の制止に兵たちは従わない。元々彼らは朝倉の兵であり、龍興の命令に絶対ではなかった。逃げ延びて越前へと帰れば安全だという思いが彼らに戦う意義を失わせた。
「戦え!戦え!戦わぬか!!」
龍興の声を嗄らした叫びは虚しく、崩れかかった部隊を押し止めることは不可能だった。
「撤退を!このままでは、ここも危のうございます」
「阿呆!稲葉山は儂の城ぞ!あれを取り戻すまでは、取り戻すまでは……!!」
旧領への拘りが、龍興の撤退を遅らせた。隊伍は乱れ、周囲では味方が次々と討たれていく。それでも龍興は戦場に留まったが、もはや命を懸けて龍興を守ろうとする者は皆無だ。徳川からすれば、そんな龍興を捕らえるのは簡単だったが、その危険を冒す理由が家康になかった。
「殺せ」
家康の命令で、忠次の鉄砲隊が龍興を捉える。狙いを定め、火蓋を切った。
「う……ぐッ……!!」
無数の銃弾を身に受け、落馬した龍興は力なく大地に横たわった。その目線の先に稲葉山の頂を見ながら、息絶える。
かつて美濃一国を治めた太守は、自らが城主を務めた城の前で屍を晒すことになった。
斎藤右兵衛大夫龍興、享年二十三。父・義龍の死により若くして家督を継いだ戦国大名は、隣国に生まれた英傑にその運命を狂わされる一生を送ることになった。
そして岐阜は、信長の手に帰した。
【続く】
美濃での完全決着となった今回ですが、一万字を越えそうだったので、なかなか纏めるのに苦労しました。承禎の行方とか省いた部分は次回に持ち越す予定です。
今回は三英傑が集う場面となりましたが、抜群の戦略眼で敵を討ち破ることになりました。今後、特に秀吉の出番は少なくなる予定ですが、家康は準レギュラーに格上げとなるでしょう。以前よりは出番は多くなると思います。
尚、織田軍による大鉄砲の初見は石山合戦勃発時(信長公記)らしいので、このタイミングとなりました。なかなか織田勢らしくなってきたと思います。
さて次回も実は信長の話です。美濃を取り戻した信長が如何に行動するかを描き、義輝へ場面を移していきます。