第三十八幕 再出仕 -義昭に残された希望-
元亀元年(1570)四月二十七日。
京・二条城
越前守護・朝倉義景が京を去ってより数日後、足利義昭の奏請によって元号は永禄より元亀へと改められた。改元は朝廷及び征夷大将軍の手によって行われるのが通例で、改元が実行されたということは、義昭の権威を朝廷が将軍と同等に見なした。そういうことになる。
遂に義昭は、兄・義輝に並んだかに見えた。
「改元が成ったとはいえ、余の言うことを誰も聞かぬ。如何に余の将軍宣下がまだとはいえ、不届きな奴らめ」
ところが義昭は失意のどん底にあった。
既に義昭の周りには人らしい人はいない。武田信玄は織田領の切り取りに忙しく動いており、軍事の責任者・無人斎道有は戦のことしか頭にないようで、鷹尾城から一歩も動こうとはしなかった。また朝倉義景は上杉の侵攻に備えるという名目で、義昭の制止を無視し、京洛の守護を放棄して自国へと引き揚げた。残った連中は頼りにならない奴ばかりで、管領に就任した畠山昭高は家中を纏め上げるのに精一杯で幕政に関与しているどころではなく、側近衆には義昭が満足するような妙案を捻り出せるような智恵者はいなかった。能力では他を圧倒する松永久秀がいるが、こちらはこちらで義昭の裁断など仰ごうとすらしない。また頼るには危険すぎる。
「玄蕃頭(昭光)、何ぞよい智恵はないものか」
そう訊ねる義昭の語気は、どこか弱々しい。
「そう仰られましても……。やはり武田様の御帰還までは堪え忍ぶしかございますまい」
「信玄か。織田領の制圧にさほど時間を要さぬと申しておったのに、何を手間取っておるのじゃ。甲斐の虎が聞いて呆れるわ」
義昭は憮然とした面持ちで言った後、“おらぬ者を当てにしても仕方あるまい”と切り捨てた。
もはや義昭の中で、信玄への評価は下がり続けている。甲斐で義信が挙兵したという話もあり、京へ戻ってくるかも怪しく思える。この後も義昭は昼夜を問わずに側近衆と協議を重ねていったが、状況は一向に好転せず、義昭の苛立ちだけを募らせただけに終わった。
悪戯に時だけが過ぎていくが、幸いにも戦局は両陣営とも決定打を欠き、概ね膠着状態が続いていた。この間に次なる一手を如何に打つかが勝敗を分かつのだが、謀反方の諸大名は一向に協調しようとしないどころか義昭の大義すら歯牙にもかけず、自らの利益の為に勝手に振舞い続けていた。
(これでは幕府の再建など夢のまた夢ではないか)
遅々として進まぬ改革に義昭の表情は曇ったまま晴れない日々が続く。
当初は精力的だった義昭が実行できたことと言えば、関所の再設置と荘園の回復だけに過ぎなかった。義昭の復古的な政策は寺社や公家からは歓迎の声が上がったが、利権を持たない農民や商人、切支丹からは大きな反発があった。これらの声を義昭は無視していたわけではないが、征夷大将軍とならなければ正式に幕府の役職を定めることも出来ない。いくつもの訴訟が上がってきたが、門注所の設置が終わっていないことを理由に全て見送られている。
小さな不満は確実に溜まっていった。
もちろん義昭も彼らの声を軽視していたわけではないが、肝心の朝廷工作は義景の不在から停滞していた。仕方なく義昭の方から二条晴良へ進捗を問い合わせるが、返ってくる答えはいつも同じだった。義昭の存在は、ひたすらに無視され続けた。
「不忠者どもらめ!」
次第に義昭は周囲に当たり散らすようになり、孤独を深めていく。
その義昭に無情な追い討ちがかかる。
「御報告申し上げます。越前一乗谷にて、岳父様が宰相様に処断されたようにございます」
「処断!?そのような事があるものか。何かの間違いであろう」
突然の訃報を義昭は誤報だと考えた。
原因は判らないが、仮に景紀へ何かしらの処罰が必要となった場合、義昭は自分に相談があるものと考えている。岳父・朝倉景紀は朝倉家の人間であるが、同時に公方家の縁者でもある。既に義景の一存でどうこう出来る人物ではなくなっているというのが義昭の認識だ。
その認識は景紀本人も持っていた。その上で自分は次期家督となった実子・景恒の後見、一族の重鎮という自負がある。この思い込みが景紀の寿命を早める結果になった。
「火急に諮るべき事案が生じた。すぐに登城せよ」
「はて?左様なことならば、敦賀に立ち寄ればよいものを…」
一報を受けた景紀は、不思議そうに首を傾げた。
義景は帰国する途上で敦賀を素通りしている。会って義景へ息子の死の真相を聞き出そうと考えていた景紀が拍子抜けしたのはつい昨日のことだ。“何かある”と違和感を抱いたが、息子のことが知りたいという気持ちが勝った。
そして景紀は一乗谷へ登城し、命を散らした。表向きは無礼討ちだった。
「おのれ!義景め、余を軽んじるか!」
義昭の双眸に怒りの炎が灯る。
ただでさえ義景は、義昭の命令を無視して帰国している。それだけでも腹に据えかねるものがあったが、今回は特別だった。義昭の鶴ノ方への愛情は本物で、悲報に暮れる妻の姿を毎日と眺めるにつれて義景への感情は怒りから憎しみへ変わっていく。
だとしても、義昭には何も出来なかった。
「どうすればいいのじゃ……余は」
強烈な虚脱感が襲い、義昭は力なく床へとへたり込んだ。そこに足利幕府再興に燃えていた頃の気力は、もう残っていないかに見えた。
義昭の前途は、暗闇に包まれていた。
絶望の淵に立たされた義昭が向かった先は、東山にある東福寺だった。
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四月二十八日。
京・東福寺
東福寺は九条家に縁の深い禅寺で、京五山の一つに連なる。あの尼子勝久が入れられていたのも、この東福寺だ。もちろん今回の謀叛劇で義昭の庇護を受けた側であり、失った荘園を取り戻したばかりでなく造営料として金銭が寄進されている。それ故に義昭へ対して住職ら寺の者たちは非常に好意的だった。
義昭が東福寺を尋ねたのは、ここに軟禁されている三淵大和守藤英に会うためである。
「これは……義昭様」
突然に来訪した義昭に藤英は驚いた。
これまで義昭はおろか謀叛方に於いて藤英へ会いに来た者はいなかった。何度か下っ端の兵が尋問に訪れたのみで、それ以外は寺の者と言葉を交わすだけだった。
義昭と藤英が最後に会ったのは、まだ謀叛が起きる前のことだ。僅かに半年前のことだが、随分と以前のことに思える。
「いや、ふと和州に会いとうなってな」
義昭が頬を緩ませるが、何処かぎこちなかった。
「何かございましたか」
その様子に気付いた藤英が優しく声をかける。藤英は謀叛の概略こそ聞かされているが、本気で義昭が謀叛を起こしたとは思っていなかった。どちらかといえば担がれた側であることを正確に見抜いている。足利幕府の歴史を知る者ならば、その程度は簡単に看破できる。だから義輝の天下を妨げた義昭に対して、憎むような気持ちはさらさらなかった。
「……実は、な。和州、そなたの智恵を借りたいのだ」
堪りかねた義昭が語り始める。話は二刻にも及び、それを延々と藤英は黙って聞いていた。知りえなかった義輝の情報を得るいい機会だったということもあるが、義昭の落胆は目を覆うほどのもので、とても口を挟めるものではなかったのだ。苦痛で表情は歪み、時折に嗚咽を漏らす主君の弟は、とても小さく見えた。
「御話は、判り申した」
話を終えた義昭に対し、藤英が静かに告げる。
義昭の主張には偏りが見られるが、その政治的な姿勢は実のところ藤英も似たような考えを持っていたので、理解するのに抵抗はなかった。ただ藤英の場合はあくまでも将軍家に仕える臣でしかなく、自らの主張が通らないからといって謀叛に及ぶ考えはない。意見に相違があろうとも主の命令は絶対なのだ。そこが藤英と義昭の立ち位置を決めていた。
「して、某の智恵を借りたいとは?」
藤英が話の核心に触れる。
「和州は兄上の片腕として、山城のみならず京畿の政を代行してきたであろう。この状況で、もはや余が頼れるのは和州しかおらぬ。余を助けてはくれまいか」
義昭は畳に手をつき、恥を忍んで藤英へ頭を下げた。義昭と藤英は政治の分野に於いては師弟の間柄にある。僧籍にあった義昭にとって、藤英は傅役と言ってもいいだろう。藤英だからこそ、誇り高い義昭は素直に頭を下げられた。
(義昭様はそこまで……)
これは藤英の心を大きく打った。
「義昭様。もう終わりに致しませぬか。上様に全てをお返しすれば、後は某が身命を賭して御取り計らい致します」
藤英は義昭に降伏を薦めた。義昭が諸大名に担がれているのであれば、義輝に降伏すれば謀叛方は大義を失い瓦解する。幕府は義輝が再建させるので、義昭は弟として兄を支えればいい。
ただそれは、あくまでも外から見た藤英の考えだ。義昭は既に、自分から兄と違う道を進むと決めてしまっている。
「それだけはならぬ。兄上の手腕は認めるが、兄のやり方では幕府が在りし日の姿に戻ることはない」
「在りし日の姿ですか……」
藤英は複雑そうな表情を浮かべると、小さく頷いた。
(義昭様の御懸念は的外れではあるまい。上様が幕府を元の形に戻すつもりにないことは、儂も薄々だが気付いていること)
義輝の政を傍で一番見てきたのは、誰であろう藤英自身だ。何も唯々諾々と追従してきたわけではない。朧気ながら主の目指す先は見えている。藤英には、この兄弟が何処を向いているかがはっきりと判った。義昭は開祖・尊氏や三代・義満の御世への回帰を目指している。だが義輝は天下泰平を目指し、その為に幕府の形を変えることも是としている。つまり義昭は過去を、義輝は未来を見ているのだ。向いている先が違うのだから、二人が同じ道を歩めるはずもなかった。
(ただ上様も自ら進む道が正しいかどうか、迷われておられる。それを御助けすることこそが臣の道だ)
義輝と義昭のどちらかに付かなければならないのなら、藤英の答えは決まっている。
では臣として、いま自分がやれることはないのかと考えたとき、義昭の願いを斥けて寺に篭もっているのは論外だった。
「宜しゅうございます」
藤英は決断する。その言葉を聞き、義昭の顔はパッと明るくなった。
「そうか。余を助けてくれるか!」
「但し、某の主君はこれからも義輝様にごさいます。義昭様に御協力するのは、幕府を諸大名の好き勝手にさせない為にござる。それを受け入れて頂けるのであれば、知恵の一つや二つくらいお貸しいたしましょう」
「余には仕えてはくれぬのか?」
「……申し訳ございませぬ」
義昭の表情から笑みが消え、眉が曇った。そして何かを決断したかのように数回、小さく頷きを繰り返す。
「相判った。それで構わぬ」
藤英の条件を義昭は受け入れることにした。義昭にはもう打つ手がない。藁にも縋る気持ちで藤英を訪ねたのだ。ならば、藁に縋るしかない。
こうして義輝第一の側近・三淵藤英が表舞台へと復帰した。
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四月二十九日。
京・二条城
幕政に復帰した藤英は早速に城へ登城する。誰もが藤英を幕府方と目し、疑いの目で見ている。城内は針の筵であり、休まる場所はなかった。藤英も相当な覚悟をしてなければ、発狂していたかもしれない。
その藤英にも城内で嬉しい出来事が一つあった。御台所が義輝の嫡男を産んだことを知ったのだ。そろそろ産まれている頃だろうとは思っていたが、まさか願った通りに男児であったことは嬉しい限りだ。
「まさか上様に嫡子が生まれていようとは……」
藤英は心の内側から熱いものが湧き上がってくるのを感じた。そして主君の跡を継ぐことになるだろう幼子を守ることこそが、己の使命であるとはっきりと自認する。
ただ御台所に会いに行くことは避けた。近づいて在らぬ疑いを掛けられることを恐れたのだ。何れ、機もあるだろうと思い、藤英は義昭の傍で幕府のために働くことを優先させた。
おもむろに藤英が訊ねる。
「永禄元年(1558)の帰京の折、義輝様が三好修理大夫と交わした和睦を義昭様が御存知でしょうか」
「話だけはな。中身までは知らぬ」
義昭は興味なさげに返答した。
永禄元年の始め、義輝は近江にいた。実に五年間も京を離れており、この年の春に三好長慶から京を奪還するために前管領の細川晴元や六角承禎を巻き込んで挙兵に及んだ。戦いは暫く一進一退の攻防が続いたが、終始兵力で圧倒する長慶の有利は崩れなかった。しかし、長慶は将軍と敵対し続けることを嫌い、和睦に応じることになる。
ただ義昭にとって、それは忌むべき歴史である。事実として知ってはいるが、学ぶべきことはないと断じて内容まで知ろうとはしなかった。
「この和睦にて義輝様は山城の統治権を取り戻し、諸大名の調停に力を入れることになりまする」
思えば、ここから義輝の反撃は始まったと言える。僅かとはいえ力と自由を手に入れた義輝は広く天下へ眼を向け、各地で反三好勢力の結集を図った。実際に義輝が行った諸大名の調停はこの時期に集中しているし、一定の成果があったことは織田信長と上杉謙信の上洛からも判る。
要は力を持たなければ何も出来ないと藤英は言っているのだ。
「まずは将軍家が力を持つことが肝要にございます。銭……は、そこそこ金蔵にございますので心配ありませぬが、兵がおりませぬ」
「それで、何をしたらよい」
「朝倉の山城守護職を解任なされませ。山城は幕領とし、義昭様が自ら采配なされるのです」
昂然と藤英は言い放った。それを受けて義昭は表情に不満の色を見せ始める。
「されど越前宰相には、この正月に山城の守護を任せたばかりぞ。舌の根が乾かぬうちに前言を翻すわけにはいかぬ。余の威信に関わる」
「御安心を。義昭様が批難されることはございませぬ。守護職解任は朝倉殿がその職務を放棄した結果にございます」
体裁を揃っている、と藤英は暗に含めた。元々義景に対してよい感情を抱いていない義昭は、事態が好転するならばと義景の守護解任を通達、山城は幕府が預かること発表した。
こうなれば藤英の思う壺である。山城は藤英にとって庭も同然であり、各所に手を回して十日ほどの間に二〇〇〇もの手勢を集めた。これは全て義昭の兵となる。少なく思えるが、いないよりは遥かにいい。手始めとしては充分だった。
この一連の動きは当然のように謀叛方の諸将に知れることになる。何れ邪魔が入るだろうが、その前に手を打っておく必要があると考え、ある男を召し出す。
「私めに松永殿を抑えよと?」
「その通りだ」
突然の出仕命令に困惑しているのは、武田家臣・武藤喜兵衛である。藤英は喜兵衛のことをよく知らないが、あの武田信玄が自らの留守を任せたほどの者だ。相当に優秀なのだろうと思い、召し出した。
下手な演技は不要と感じ、率直に言う。
「松永久秀は生来の野心家だ。天下を盗み取ろうとしておるのは明白、それでは信玄殿も困られよう」
「はて。主の考えは手前の遠く及ばないものにて、判りかねまする」
藤英の露骨な物言いに、喜兵衛は惚けた。ここで肯定してしまっては信玄の天下獲りを認めるようなものであったし、何よりも義輝の側近である藤英がいつのまにか解放されて、義昭の傍で政に口を出している。とりあえず警戒しておいて間違いはないと思った。
「武藤。このまま久秀の勝手な振る舞いを許しておくわけにはいかぬ。信玄が帰京するまでの間でよい。力を貸してはくれまいか」
「…………」
喜兵衛が押し黙る。と同時に目まぐるしく脳は回転していた。
久秀を抑えることは、喜兵衛に課せられた命である久秀監視の任に合致するので断る理由はない。喜兵衛としても義信謀叛という驚天動地の出来事が起こった以上、京に於ける武田の影響力の低下は計り知れず、足利公方の権威を利用して武田の存続を図れるのならば有り難い限りだ。喜兵衛は義景の帰国という大失敗をやらかしており、もう後はない。このまま手を拱いているわけにもいかない。
ただ懸念されるのは藤英のこと。いつ幕府方に寝返るかもしれない男の思惑に乗せられてよいのか、と自問自答した。
(申し出を受ければ、三淵殿の動きを見張ることも出来るか……)
打算が、言葉を生む。
「主に成り代わり、公方様に御力添えを致します」
こうして武藤喜兵衛は、義昭の側近として仕えるようになった。
その頃、京の周辺では事態は大きく動いていた。
【続く】
初めに謝罪です。前回、次は二週間も掛からないと言っておきながら、約束は守れたものの“ほぼ二週間も同然”の日数が経過しており、お詫びの言葉しか浮かびません。次回以降も更新ペースは変わらない予定です。
今回は義昭回でしたが、三淵藤英が久しぶりに再登場しました。彼の功績は弟ほどではありませんが、最後まで将軍(義昭)に尽くした忠臣として知られています。そこそこ能力もあったようで、拙作では義輝の側近として藤孝共々重用されています。
京で孤立している組が協力する形となりましたが、どこまで抵抗できるかはもう少し後の話です。次回は義輝を描き、その後は信長に戻ります。