第三十七幕 長良川の対峙 -沈黙の睨み合い-
三月十二日。
美濃国・川手
織田信長の本拠たる岐阜城が建つ金華山の麓・川手に十数騎の騎馬が現れた。待ちに待った秋山信友隊の先手である。彼らは武田信玄の許を訪れ、間もなく到着する旨を伝えた。
「そうか。信友が来るか」
待望の報せに信玄は破顔して喜んだ。
今のところ兵力の不足こそないが、信玄の麾下には安心して兵を預けられる将領が不足している。信友の部隊には木曽義昌などが含まれており、到着すれば作戦の幅が大きく広げられた。
陽が沈み始めた頃、街道に軍勢の姿が見え始める。その様子に信玄は心を躍らせるが、暫くすると怪訝な顔つきに変化した。秋山勢の数が思っているよりも少ないのである。信友には五〇〇〇を預けていたが、どう見ても二〇〇〇程しかいない。昔から眼力は鍛えており、見間違えたことは考えにくい。
「信友、何があった」
開口一番、信玄は現れた信友に訊ねた。
「それが……」
信友の表情が重い。悲愴感が漂っている。どうやら悪い知らせのようだ。
「太郎義信様が甲斐府中にて御謀叛にございます」
「な……」
予想だにしない凶報に信玄は凍り付いた。まるで槍で胴を貫かれたような衝撃を感じた。
「間違いはないのか」
信玄の問いに、信友は黙って頷く。嘘であって欲しいという信玄の想いは、早々に露と消えた。
(どうして謀叛など起こす。儂の何が不満なのだ!)
信玄が心の内側で叫んだ。義信が謀叛した理由が、信玄には判らなかったのだ。
親子の確執は隠しきれようのないものだったが、それは今川攻めに端を発するものであったはず。義信が信玄の天下獲りを邪魔して、幕府に義理立てする理由はない。幕府権威の後ろ盾で義信が今川後見役として復帰したとはいえ、それを恩に感じている様子は義信にはなかった。
ならば、何故なのか。
「こちらを御覧くださりませ」
信友が一通の書状を懐より取り出して信玄へ手渡す。それは義信が主だった武田家臣たちへ送ったものだった。信友は自らに送られてきたものを忠誠の証として信玄へ差し出した。
その書状の中で義信は武田の天下獲りを否定し、信玄の方針を家運を傾けさせるものとして批判していた。
(信義など戦国乱世には存在せぬ。故にこそ、儂の手で乱世を終わらせねばならぬのだ。それが判らぬか、太郎よ)
信玄とて大名だ。家中の統制に信義が大切だということは百も承知している。ただ物事には順序というものがあるのだ。いま必要なのは乱世を治めるだけの力であり、その為には信義などに拘ってはいられない。
その信玄の想いは、遂に我が子に届くことはなかった。
「御屋形様、事態は切迫しております。太郎様の謀叛には穴山、小山田の両名が加わっており、既に甲斐一国は太郎様の手に落ちてございます」
「何ッ!?玄蕃頭(穴山信君)らが義信に同心しただと!」
予想以上の事態に信玄の表情は険しさを増していく。先ほどとは違って、その相貌には怒りの色が込められていた。彼らは義信とは違い、明らかに利害で信玄からの離反を決断していた。決して許せるものではない。
「予州は如何した」
突然、信玄が姿の見えない木曽義昌の所在を尋ねた。
秋山隊には、信濃木曽郡を領す木曽伊予守義昌が組み込まれていた筈である。義昌は信玄の娘を正室に迎えていることから準一門として扱われているので、この場に遠慮して現れないとは考えられない。まさか義信に同心して裏切ったのかと考えたが、それは違った。
「いえ、犬山城の警戒もございますれば、可児に留まっております。こちらへ呼び寄せますか?」
「いや、それはよい」
信玄は信友の判断は正しいと思った。信玄は犠牲を覚悟の上で合流しろと言明したが、義信の謀叛を知った信友は退路をきちんと確保した上で駆け付けていた。兵が少なかったのは、これが理由だったのだ。これならば、信玄はすぐにでも信濃へ帰還して義信を討つことが出来る。
「信濃へ戻られますか」
「…………」
信玄は判断に迷った。
信濃への帰還は天下獲りを諦めることに等しい。自らがいなくなったら、残るのは無能の輩ばかりだ。奴らに美濃の戦線を維持できるとは思えず、まず間違いなく信長にしてやられる。信友に美濃を任せるという方法もあるが、今は出来るだけ綱渡りはしなくない。
「美濃守は深志か」
「はい。雪解けを向かえ次第に出陣の予定でしたので、いつでも出られるかと存じます」
信玄は四名臣の一人・馬場信春に謀叛の鎮圧を任せようと考えていた。
甲府を発つ前に信玄が練った戦略上では、いま動けるのは予備兵力として残してあった馬場勢と三河侵攻を控える諏訪勝頼だけとなる。両名ともそれなりの兵を率いているので、謀叛を鎮圧させるには充分なはず。その上で大将を任せるならば、老練な信春の方が間違いはない。若い勝頼では、感情を先行させて大怪我をすることもあり得た。
ただ皮肉にも、杖突峠で勝頼が義信に敗北するという事態がこの日に起きていることを信玄は知らない。
「ならば謀叛の鎮圧を美濃守に命じる」
それがいま信玄に出来る唯一のことだった。同時に、それは信玄が現在の戦力で信長に打ち勝たなくてはならないということだ。
難しい戦を強いられる。
一方で信濃でも状況は信玄が不利に動いていた。信玄の命令が早馬となって信濃へと飛んだのだが、義信が熊井城を占拠して街道を封鎖してしまっていたので、命令が馬場信春へ届くのに半月も掛かってしまったのである。
その間に義信の調略は進んだ。小笠原信嶺など信玄に反感を持つ旧信濃守護家の面々が義信へ合力し始めたのだ。彼らは義信を幕府方と思い込み、義信に協力すれば背後にいる将軍・義輝の覚えも目出度くなり、戦後は守護復帰とまではいかなくともそれなりの恩賞に与れるという打算でで動いていた。
しかし、それは信玄の生み出したツケと言い替えてもいい。信玄が信濃平定で行ってきた裏切りの数々が、求心力の低下と共に表面化し始めたのだ。
そして、謀叛の鎮圧は遅れに遅れた。
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三月十四日。
美濃国・墨俣
織田の陣に義信謀叛の報せが届いたのは、信玄に比べて二日遅かった。信長の反応は薄く、戦局を大きく変える報せであったにも関わらず、一笑に付しただけに終わった。
ただ動きは素早い。
「大垣へ使いを送れ」
「は…、ははっ」
側近の湯浅直宗は突然の命令に戸惑いを見せたが、すぐに居直って手配を進める。信長は使いを送れと言っただけで、中身にはまったく触れていない。これが織田家では当たり前である。信長の望みを先んじて掴み、形にしていくことが側近衆に求められる能力なのだ。
「大垣の木下殿へはこれを。六角の陣中には某が参る」
直宗は大垣城へ密偵を遣わすと同時に、六角の陣中へ乗り込んで義信謀叛を報せた。信玄は謀叛の事実を隠すはず。それをこちらから承禎へ報せることで、信玄への不信感を募らせようというのだ。
流れは織田へ向いてきた。ここから反撃と行きたいところだが、信長の機嫌は悪かった。絶好の機会だというのに、大垣城に篭もる竹中半兵衛が菩提山城へ近江入りの命令を下さなかったからだ。
「半兵衛は何をやっておる」
怒りを露にした信長が改めて催促を促すが、半兵衛は再考を求めてきた。義信謀叛を知った半兵衛は、即座に別の手段を構築、信長へ献策してきたのである。
「六角勢の士気の低下は、城内からも窺えるほどにございます。今こそ千載一遇の好機にございましょう。菩提山城の兵を使い、敵の注意を引き付けられれば城内から打ち出でて、六角の本陣を衝いて見せまする。御屋形様の御命令は、その上で三〇〇〇の兵と共に遂行いたしたく存じます」
というのが半兵衛の主張だった。これに信長は機嫌を悪くしていた。
要は菩提山城の兵を半兵衛は危険に晒したくないのだ。囮ならば、敵と交戦しても適当にあしらって城へ駆け込むことが出来る。実弟の重矩も命までは失わないだろう。だが信長の命令通りに少勢で近江へ入れば、二度と故地へは帰れないかもしれない。
「阿呆が」
それを信長は冷たく一蹴した。
何故に信長が半兵衛の策を退けたかといえば、六角勢の撃破を望んでいなかったからだ。岐阜の武田勢もそうだが、敵方の兵は凡そ二万余。こちらは墨俣に一五〇〇と岐阜の五〇〇〇、大垣の三〇〇〇、犬山に四〇〇〇と分散し、大きく劣る。もちろん尾張と伊勢には他にも兵がいるが、こちらはこちらで長島の一向一揆や北畠具教との戦いに必要で動かせそうにない。
信長は美濃回復後、軍勢を西へ向けなければならないという事情がある。一兵も無駄にできない状況にあり、犠牲を伴う半兵衛の策は論外だったのだ。可能なら、無傷で退かせるのが一番だった。
「もうよい」
冷徹な一言が半兵衛の使いへ告げられた。
「菩提山城の重矩に近江へ入るよう申し伝えよ」
半兵衛に見切りをつけた信長が、自ら菩提山城の竹中重矩へ出陣を命じる。重矩は即座に兵を動かし、関ヶ原を通って近江へと消えていく。当然、城の守備は完全に放棄した状態だ。信長からすれば、菩提山城に戦略的な価値はない。奪われたところで構わないとさえ思っていた。
これに動揺したのが六角承禎だ。
「これではせっかく取り戻した観音寺城を織田に奪い返されてしまうではないか!」
近江には大した戦力は残っておらず、下手をすれば浅井が寝返る可能性もあった。何せ浅井は当主の長政が幕府方に付いており、信長はその長政の義兄である。謀叛方であった久政が捕縛されて織田の手にあるとすれば、留守居の者どもが謀反方に留まり続ける理由はない。僅か二〇〇の兵といえど、充分に観音寺城を失う可能性を否定できなかった。
「この事を武田殿に伝えい」
すぐに承禎は近江への帰還を信玄に申し出るが、無論それを認める信玄ではない。信長の策を見抜いた信玄は、後手に回ったものの義信の謀叛を諸将へ明かし、既に留守居の将兵に鎮圧を命じたとして事態の収拾を図った。
「ふん!子に裏切られた者が何を偉そうに」
承禎の言葉には、侮蔑が込められていた。
武田の事情など承禎にとっては知ったことではなく、美濃攻めとて無理やりに付き合わされている感がある。目の前にいる信長へ復讐したい気持ちはあったが、それよりも旧領へ懸ける想いの方が強かった。本貫たる観音寺城に返り咲いてこそ、承禎は誇りと尊厳を取り戻せるのだ。
承禎は嫡子・義治を呼び寄せると、近江へ戻るように下知した。
「畏まりました、父上。されど武田殿に無断で兵を動かしてもよいのですか?」
「別に麾下の兵は武田殿のものではない。百済寺の僧兵ぞ。百済寺は我が領内の寺院なれば、儂の勝手で動かしても何ら問題はない」
その僧兵たちが信玄の申し出によって協力していることを忘れ、承禎は言ってのけた。下命された僧兵たちは困惑するものの自分たちの寺領まで侵される危険があると知ると、一も二もなく承禎に従った。
こうして大垣城から二〇〇〇が去った。信長は僅か二〇〇で十倍の敵を減らすことに成功したのだった。
「承禎の阿呆めがッ!」
またしても勝手に動く連中に信玄の我慢は限界に達しつつあった。
その信玄は対応を迫られている。この頃には信濃で勝頼が負けたことも伝わり、織田に対して何かしらの対策を打つ必要があった。
「如何いたしましょう」
不安そうな声で信友が訊ねた。
「逆転の秘策がないわけではないが……」
「まことでございますか!」
秘策という言葉に信友の表情は明るくなる。反面、信玄の表情は険しいままだ。
「信長と和議を結ぶ。奴をこちら側へ引き込むのだ」
大胆な作戦だった。
信玄は幕府方最大の大名である織田信長を謀叛方に引き込もうと考えていた。確かに対立しているとはいえ、武田と織田の関係は元々悪いものではない。縁戚関係もあるし、幸いにも交渉の担当だった秋山信友もいる。きっかけさえあれば、両者は再び手を握ることも不可能ではないように思えた。
問題は、交渉の糸口をどう掴むかだ。
(義輝へ対する謙信の盲従は見られたものではないが、信長が従っている理由がいまいち判らぬ)
本質的なことを信玄は考えていた。信長が何を求めているのか、実のところ信玄もよく判っていない。それでは交渉しようがない。
上杉は当初より足利幕府の権威を拠り所として大義を掲げてきた。関東への度重なる出兵や川中島の合戦もその例から外れるてはいない。しかし、織田家は違う。昔から幕府との関係はあったが、守護大名家ではない織田家は、どちらかといえば朝廷との関係を重視していた。義輝の上洛へ協力したのも、求められたからであって積極的な立場にはなかったと聞いている。また戦後、信長は幕府内で絶大な権力を握れたにも関わらずに管領への推挙を断っている。
そして信長には明らかに義輝の命令に反している行動があった。撰銭令を幕府に求めたこと、伊勢への出兵や伊丹・大物での突然の撤退らがそれに相当する。かと言って別の足利公方を推し立てて義輝へ対抗するようなこともしていない。
一見、信玄には信長が幕府権力の中に捉われることを避けようとしている風に見えた。だがそう考えると、信長が義輝に従っている理由も説明がつかなくなる。
「御屋形様、それは……」
信友が口篭る。明らかな否定の意思の表れだった。
「やはり無理か」
信玄は残念そうに呟いた。元々そのような想像はついていた。
信長との和議には、奪い取った地の回復が前提である。つまり近江や伊勢、美濃の返還となり、謀反方に従っている諸大名との利害に大幅な調整が求められる。現実的に、それは無理は話になる。
(もっとも儂が目指す世では信長との共存は有り得ぬ。奴が儂の下に付くことを認めるとも思えんしな)
言い出した信玄も和議が現実離れしている策だとは理解している。そして、それは自らの信条とも相反する結果を生み出してしまう。
正統なる源氏の世では、平氏の台頭は考えられない。大乱の引き金となるからだ。となれば信長が信玄の下位に甘んじることを受け入れるしかないが、それは考えられない。
残る策は、信長を撃破してしまうことだ。
悪い報せが続いてはいるが、美濃の状況だけを見れば信玄が不利というわけではない。どちらかといえば、若干ではあるが優位を保っているくらいだ。いま墨俣へ押し寄せれば、勝てる見込みは充分にあった。
他方で信長も信玄の侵攻には備えている。墨俣城を解体し、一ノ谷で見せたように陣城を築き上げ、その背後には多数の鉄砲を配している。長良川を天然の堀としているだけ一ノ谷よりも厄介だった。ここに押し寄せれば、途方もない犠牲を強いることになるのは容易に推測ができる。その犠牲を一向門徒たちに押し付ける求心力が、今の信玄にはなかった。
とはいえ馬鹿の一つ覚えのように敵が待ち受けるところに押し寄せるのは凡将のすることだ。もし信玄が信長と決戦に及ぶなら、岐阜を攻め立てて信長を誘き寄せる。本拠の陥落が目前となれば、如何に信長といえば堅陣から出て来ざるを得ない。そこを叩くのは、然して難しくない。
ただそれを成すには、やはり精強なる武田兵が必要だった。秋山勢の二〇〇〇だけではとても足りない。
「されど案としては悪くはありませぬ。時間稼ぎにはなりましょう」
「ん?」
ところが信友の指摘で信玄の考えは変わった。和議の有用性を別のところで見つけたのだ。
「馬場殿が太郎様の謀叛を鎮圧するまでの間、時を稼ぐ必要がございます。和議の話は、それを叶えてくれましょう」
「もっともじゃ。早速に始めい」
「はっ」
長年に亘る信玄の撫育は実を結んでいた。信玄の足りないところ、見えないところを見事に補完してくれる家臣を信玄は頼もしく思った。武田の強さは、信玄と有能な配下たちによって生み出されいる。それを実感した瞬間だった。
こうして武田と織田の和睦交渉は始まった。不思議と信長も武田方の申し出を跳ねつけようとはせず、当初はまんざらでもない様子を窺わせていた。
(信長め。打つ手がないと見た)
これを聞いた信玄は、思わず頬を緩ませた。
信玄は信長の意図を正確に読み取っていた。後方で火が付いているのは織田も同じである。伊勢では長島一向一揆が挙兵し、北畠具教が北進して上野城を攻撃している。滝川一益が清洲の兵を率いて援軍に駆け付けてはいるが、僅かに状況が改善した程度に過ぎない。
義信謀叛の鎮圧が先か、伊勢の平定が先か。
果てしない睨み合いが、一月以上も続いた。
【続く】
三日ぶりの投稿です。何やら書き始めた当初のことを思い出しますね。ともあれお約束していたように遅れている分の投稿です。最近では更新に二週間ほど掛かっていますので、その埋め合わせをG.W中にやってしまおうと考えています。もう一話ほど期間内に投稿できるかは判りませんが、次も二週間は掛からない予定ですので御安心を。
さて信長と信玄の対峙が続いていますが、両者とも決定打に欠ける状態です。まあ無理もありませんね。その中で義信謀叛の状況を少し更新させて頂きました。
皆様も御存知のように信玄は信濃平定でも結構な無茶をやっています。本来なら勝頼の代から信忠の甲州征伐で表面化する内容ですが、義信の謀叛で一部時期が早まった感じです。ただ彼らからすればどちらも武田でありますので、明確に叛旗を翻したとは言いがたい状況にあります。
次回は美濃の対陣は御休みで、京の話となります。拙作では義輝に近い人物として描いている彼が、かなり久しぶりに登場することになります。
※副題が以前の話と同じだったので変更しました。ちゃんと確認していなかった私のミスです。申し訳ありません。