第三十四幕 東海一の弓取り -天竜川決戦-
三月十日。
遠江国・天竜川
かつて“東海一の弓取り”と謳われた今川義元の治めた版図は、義元の子・氏真とその薫陶を受けた徳川家康によって、いま二分されていた。しかし、東海に両雄は並び立たず、義元の跡を継げるのは一人だけである。それは氏真なのか、また家康なのかは、直接に矛を交えて決めるしかない。その戦いが、目前に迫っていた。
場所は遠州屈指の大河・天竜川。大河故に浅瀬が少なく、激戦が予想される。
両軍の布陣は東側に今川方。その数は北条の援軍を加えて一万五〇〇〇余と西側に布陣する徳川方の八〇〇〇を大きく引き離していた。兵の数で開きは、それだけで勝敗を決してしまう場合もある。
「徳川は武田に備えて満足に兵を集められぬ様子。この合戦、貰いましたな!」
今川の本陣では、有利な戦況に明るい雰囲気であったが、総大将の氏真は口を真一文字に閉じ、真剣な眼差しで並べられた楯の上に広げられた地図を睨んでいた。
(兵の数では家康を上回った。されど儂の器量では、これでようやく五分に持ち込んだに過ぎぬ)
如何に優勢であっても、氏真には家康に勝っている気がしなかった。
「御屋形様。御指示通りの陣立てで布陣いたしましたが、如何様にして徳川を攻められますか」
今川の軍権を預かる朝比奈泰朝が主に訊いた。
主に合戦では泰朝が氏真より委任されて指揮を執ることになるが、氏真は全てを泰朝に委ねたわけではない。予め陣立てを指定して伝えており、合戦に於ける策まで秘した。泰朝がやったのは、大まかに伝えられた陣立てを細部まで詰めたことだけである。
その氏真の指示は先陣に朝比奈信置と瀬名信輝、中翼に岡部元信、本陣前を泰朝を据えること。他には何も指示はなかった。故にこそ、泰朝はここで主の真意を問うておかねばならない。
ついに氏真が重たい口を開いた。
「何もない」
「は……?何もないとはどういう意味でしょうか?」
意外な主の言葉に泰朝は戸惑いを感じた。これは軍議に参加している諸将も同じだ。だが氏真の表情は至って真面目である。
「そのままの意味だ。我が方は兵力で徳川を圧倒しておる。ならば、その優位を生かして平押しで攻めればいい」
と氏真は淡々と述べた。
「畏れながら、徳川との兵力差は大きな武器にございます。何もしないというのは、少々勿体ない気がしてなりませぬ」
思わず隣で聞いていた正綱が訊ねた。
概ね他の諸将も正綱の意見に同様のようで、揃って頷き、賛同を示している。確かに正綱の言う通りに兵力の勝る状況で、平攻めというのは余りにも芸がなかった。
「ここは、一隊を割いて徳川の側面もしくは背後に回り込ませるのが上策にございましょう」
「いや、思い切って中入りは如何でしょうか。これ程の差があるのならば、二千ほど割いても合戦への影響は少ないかと存ずる。中入りが成功すれば、楽に勝利を拾えましょうぞ」
正綱の進言に便乗するようにして、周囲からは様々な発言が出る。意見を言わないのは、北条から援軍として参陣している北条綱重くらいなものだ。
「無用じゃ。一切の兵を割くことは罷り成らぬ」
それを氏真は全て却けた。その頑なな態度に誰もが首を傾げて疑問を感じたが、氏真も氏真なりに考えた末の結論だったのだ。
「何故にございましょう?」
「家康を侮るな。こちらが隙を見せれば、奴は必ず衝いてくるはずだ。余計なことをしてはならぬ」
「ですが……」
「くどい!我らの策は、各々が目の前の敵を撃ち破る。ただそれだけでよい」
きっぱりと言い切った氏真であるが、内心は違っていた。
(戦の駆け引きで家康に敵うわけがない。儂に出来る事と言えば、余計なことをしないことだけよ。後は、家来どもの奮戦に期待するしかない)
皆がアッと驚くような奇策で敵を討ち破る。それに憧れがないといえば氏真も嘘になるが、そのようなことは不可能だということを氏真は理解している。家康との差は、そう簡単に埋まるものではないし、この先も埋まらないだろう。そして家中に於いても、家康に対抗できる人材は皆無だ。その中で家康に勝つにはどうしたらいいのか。その導き出した答えが、余計なことをしないことだった。余計なことをしなければ、少なくとも家康が衝け込んでくる隙は生じなくなる。
(今川義元の子が数頼みの戦しか出来ぬとは滑稽よ。されど甲州殿の御陰で、家康の倍する兵を揃えられた)
後は、合戦に臨むのみ。武田義信がくれた好機を失してはならない。
「すぐに戦を始める。悪戯に時を労しては三河の徳川勢が駆け付けて来よう。その前に終わらすぞ」
氏真が開戦の合図を告げる。
今ごろ甲斐では義信が挙兵しているはずだ。初戦の相手は、信濃の信玄方だろう。それに三河へ侵攻するはずだった部隊も含まれるはず。つまり義信の挙兵は、数日の内に家康を縛る枷が外れることを意味しており、数日の内に氏真が優位が崩れるのは間違いない。
決戦の時は、今を於いて他にはなかった。
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辰の刻(午前八時)に合戦は始まった。
「今川と徳川。どちらが上が今一度、奴らに身を以て思い知らせてやれ」
法螺貝を鳴らしたのは、今川方だった。先陣を任された朝比奈信置、瀬名信輝が前進を始め、それに合わせて両翼も動いていく。
「落ち着いて構えよ!敵の数が如何に多かろうと、三河武士には臆してはならぬ」
内藤正成が前線に近い位置で指揮を執り、鉄砲隊に指示を出す。
天竜川は水量の多く、浅瀬が限られる。この点が守勢の徳川方とって有り難かった。浅瀬に重点的に兵を配置すれば、少ない兵でも充分な防戦が可能となる。後は群れをなして川へ飛び込んでくる今川方を撃ち倒していけばいい。
「撃てッ!」
大きな爆音が戦場に轟き、直後に今川の兵卒たちが倒れていく。
「…くッ!止まらぬか!!」
正成は思うように進まぬ展開に歯噛みして悔しがった。
天竜川は下流に行けば行くほど浅瀬の多くなる。今川方もそれを知っているので、岡部正綱に天野景貫、安部元真を麾下に据えて三〇〇〇の兵で攻勢を仕掛けてきた。これに対して徳川方の右翼に預けられた人数は、僅か一二〇〇でしかない。しかも防戦に必須の鉄砲が、圧倒的に欠けていた。
「こうも鉄砲が少ないのでは、防げるものも防げぬか。御屋形様は、何故に鉄砲を織田へ貸し出したりしたのだ。少しは状況を考えて頂きたいものだ」
正成が批判めいたものを口にするが、誰も咎めなかった。その感情は徳川方全ての将が抱いているものと同じだったからだ。
合戦前、家康は突如として陣を離れて三河へと戻った。幸いにもすぐに戻って来たが、帰ってきた家康が三河へ赴いた理由を明かすことはなかった。ただ一点、織田家へ鉄砲を貸し出すことだけが告げられた。しかも、その数は三〇〇挺。織田家からすれば大した数ではないかもしれないが、徳川からすれば総数の四割に相当する。これから厳しい合戦を控えているという時に、大きな痛手だった。
「放てッ!」
先ほどの数倍の銃声が天竜川に鳴り響いた。天野景貫隊からの反撃の銃撃である。本多隊が構えた楯が吹き飛ばされ、その威力の凄まじさが伝わってくる。流石は鉄砲に早くから着目していた今川義元が育てた軍勢である。確実に今川方の鉄砲はこちらよりも多かった。
「それっ!かかれッ!!」
景貫が軍配を振るうと、長柄隊が突撃してきた。その背後では押し太鼓が何度も叩かれ、それに奮い立った兵たちが撃破の声を上げながら突き進んでくる。
だが正成は慌てない。それで動じるほど三河武士は柔ではないのだ。
「弓隊、今ぞ!」
正成の号令で、楯を押し倒して突撃してくる天野隊へ向けて幾百の矢が降り注いでいく。
徳川方は先に布陣した利を生かし、天竜川一帯に膨大な柵を構築していた。城に比べれば粗末なものだが、ないよりはマシだ。ここに籠もって可能な限り相手に被害を与えるのが全軍に課せられた基本戦略だった。
「俄造りの柵などに!」
「そうはさせるか!」
矢雨を潜り抜けた今川兵たちが、柵を乗り越えようとよじ登ってくる。正成はそれを槍で突かせて阻むが、如何せん数が違った。次第に乗り越える兵たちが増え、一部の柵が破られると堰を切ったように内藤隊の陣は今川によって蹂躙される。
「ここが踏ん張り時ぞ!怯むなッ!!」
正成が愛槍を振り回し、兵たちを一緒になって迫る天野隊へと駆けだして行く。その隣では、鳥居隊も安部元真と戦闘を開始しており、やはり苦戦を強いられていた。
「これではいつまで持たせられるか判らぬぞ」
嘆く正成を余所に今川方の攻勢は強まっていく。兵力の違いをまざまざと見せ付けられていた。
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右翼の劣勢。それは徳川軍全体でも同じだった。相次ぐ苦戦の報告に、本陣では家康がしきりに親指の爪を噛み砕いていた。
「御屋形様!何れの戦線からも苦戦を報せる早馬が参っております」
「判っておる!」
譜代の臣・夏目吉信の問いかけに、家康は声を荒げた。想定していたとはいえ、こうもあっさりと劣勢に陥るとは思わなかった。
今川方は初手で一万を投入してきた。これを支える為に家康は五五〇〇を投入している。この時点で家康は本陣以外の予備兵力を殆ど出し切ったことになる。援軍を出す余裕などなかった。各々の奮戦に期待し、戦線を維持すると共に勝利をもぎ取るしかない。幸いにも今のところ“援軍を請う”と弱音を吐いている者はいないらしい。皆、今川へ対しては特別な感情があるようだ。
「平八と小平太はどうしておる」
焦りに支配された家康が、前線の様子を問う。
「善戦しているようにございますが、敵もなかなか手強い様子」
「ちっ……」
家康は思わず舌を打った。
侍大将として頭角を現してきた本多平八郎忠勝と榊原小平太康政を家康は先陣に据えた。今川の攻撃を受け止め、その後に反撃へ移る。その時に彼らの突破力は大いに役に立つと考えてのことだ。
「氏真さえ敗走させれば、北条など気にする事もないと思っていたが……」
家康の狙いは一つ。中央突破だった。
東海の利権を争う徳川と今川であるが、援軍の北条にとっては手伝い戦だ。その戦意は低いはずと見た家康は、今川方のみに戦力を集中させる策に出た。左翼に一五〇〇を割いて防戦させ、残る兵力を全て今川に当てる。そうなれば徳川六五〇〇と今川一万の合戦となる。弱兵の今川に氏真が相手ならば、前線さえ崩せば駿府へ逃げ帰るはずと家康は踏んでいた。
しかし、それは甘い考えだった。
氏真は岡部元信を中央に据えて徳川方の突破を阻んできた。元信は桶狭間の合戦でも鳴海城を守備して義元の首を取り返したほどの勇将だ。その強さは家康も知っている。これを崩すために本多忠勝と榊原康政が反撃に転じようと躍起になっているが、兵力差もあって押され気味なのが現実だ。氏真が残している兵力を鑑みれば、突破は容易ではない。この策に拘りすぎれば、恐らく徳川は負ける。
(氏真が斯様な手堅い戦をするとは……)
大兵力による平押し。特別なことをしないだけに対応策に苦慮する。
「……儂は、負けぬぞ!」
そして家康は、また親指の爪を嚙み始めるのだった。
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合戦は激化の一途を辿る。
浅瀬の少ない上流付近では北条勢の戦意が低いこともあり、他とは違ってそれほど苦戦はしていなかったが、中流から下流付近では今川方が圧倒的に優勢だった。特に下流での攻勢は凄まじく、岡部正綱らほぼ全軍が川を渡って徳川方の陣へと乱入していた。
青木貞治が討たれ、正成の子・正貞も戦死した。鳥井元忠も実弟・忠広を失い、敗退を繰り返している。既に開戦前に彼らがいた場所は、今川方のものとなっている。今はギリギリのところで戦線は維持されているが、右翼が食い破られるのは時間の問題だった。
そんな中で鬼神の如き働きを見せたのは、本多忠勝であった。自慢の愛槍・蜻蛉切りを繰り出し、バッタバッタと敵を薙ぎ倒していく。今川兵はその強さに恐れをなし、戦場では忠勝を中心にポッカリと穴が空いたように空間が出来ていた。
「どうしたッ!俺を倒さねば、御屋形様には届かぬぞ!!」
忠勝の咆吼の度に、その眼前には今川の骸が増えていく。だが劣勢は覆らない。忠勝がどんなに頑張ろうとも活躍は個人の域を出ないのだ。
「平八、無事か?」
「小平太か!無事に決まっておろが!」
そこへ康政が駆け付けてくる。救援に来たわけではなかった。両者の位置が近づくほど戦場が狭まっていたのだ。それほどまでに徳川は追い詰められていた。
その急場に、康政が忠勝に話しかけてくる。
「頼みがある」
「頼み?介錯以外なら聞いてやらんこともないぞ」
「このままでは埒が明かぬ。敵の大将を討つしかない」
「討つ?この状況でどうやって討つのだ」
忠勝が苛立った声を出す。
理屈の上では康政の言うことは判るが、周囲を敵に囲まれて現状維持が精一杯の状況で、敵の大将を討ちに行く余裕が何処にあるというのか。
「俺の部隊をお前に受け持って欲しい。その間に、大将を探し出して討つ」
「本気か!?」
「それしかない。石川殿には既に後援を依頼した」
康政の言葉に、忠勝は黙ってコクリと頷いた。
既に背後で二陣として布陣する石川数正の軍勢も、先陣を抜けてきた一部の兵と戦闘を開始している。しかし、忠勝たちほど余裕がないわけではない。あるとすれば、自分が抜けられれば本陣が襲われるという使命感だ。それが数正の腰を重くしている。こちらが頼らなかったこともあるが、その所為で数正はこれまでも積極的に支援へ動こうとはしなかった。
それが一転して康政の依頼を引き受けた。何故なのか。
「その様なことを考えている暇もないか……」
目の前には依然として群がる今川の大軍がある。忠勝が気にするところは、そこではない。
「承知した」
覚悟を決めた忠勝が、蜻蛉切りを構え直す。
肩から下げた大数珠が、まるで念仏を奏でるが如く鳴っていた。
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左翼の優勢、朝比奈信置が中根正信の撃破するなど相次ぐ吉報に氏真は戸惑っていた。
「勝っているのか……。あの家康に?」
それが率直な感想だった。
確かに家康に勝つべく策は練った。考えに考え抜いた策だが、家康に一瞬で打ち砕かれるのではないかと恐れを抱いたのは何度だろうか。それを払拭するように、味方が優勢の報せが飛び込んでくる。
「御屋形様、もう一息でございます」
「う…うむ。そうだな」
泰朝の言葉に氏真は大きな安心感を抱いた。
各地で今川方は優勢だった。唯一、徳川方の戦果と呼べるのは瀬名信輝を榊原康政なる者が討ち取ったことくらいだが、差して湧き出る感情はなかった。信輝は武田信玄の駿河侵攻に際して早々に降伏した一人であり、氏真の駿河返還で帰参を果たしていた。もはや信輝に氏真は一族としての感覚はない。瀬名氏は家康の正室・築山殿の実家で、下手をすれば寝返り可能性も捨てきれない。故に討ち死にを覚悟で危険な先陣へ据えたのだ。それが討ち死にしたところで、家康に勝てるなら氏真は満足だった。
「如何でしょう。ここらで総攻めを命じられては?」
「…………」
泰朝の進言に氏真は腕を組み、暫し思慮に耽る。
「いや、止めておこう。今のままで勝っているのだ。勝利を焦る必要はあるまい」
だが氏真は泰朝の進言を退けた。余計なことをするのを畏れたのだ。
その直後のことである。前線から早馬が飛び込んできた。
「申し上げます!家康が本陣を前に進めて来ました!!」
「死にに来たか、家康ッ!」
隣で報告を聞いていた泰朝が興奮した面持ちで大きな声を上げた。だが氏真は、この状況で前に出てくる家康に対して、言葉では言い表せない恐怖を抱いた。
「……家康!!」
氏真の軍配を握り締める拳に、思わず力が入った。
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家康が本陣を動かした先は、今川勢のところではなかった。
「北条を敗走させる」
そう告げて左翼に全軍を動かしたのである。
家康の本陣には一五〇〇がいる。いま疲れ切っている徳川方に於いて、戦意旺盛な唯一の部隊だ。それがついに動いた。
「御屋形様!危険にございます!お止め下され!」
当然なように夏目吉信は止めに入る。ここでの突撃は死にに行くようなものだ。しかも家康は天竜川を渡る気だった。吉信には、そこが三途の川に思えてならなかった。
「黙れッ!一切の留め立ては許さぬ!!」
そう言って家康は素早く馬に跨がると、吉信の諫止を振り切ってしまう。こうなると吉信は後を追うしかなくなる。本陣に残された一五〇〇が、全て左翼へと進んでいった。
そして家康が動いたという報せは徳川全軍へと伝わる。これに聞いて、看過されない者は三河武士ではない。どの部隊も疲れ切った身体にもう一度、鞭を入れて踏ん張り始めた。
「家康が来る?」
徳川の意外な動きに一番戸惑いを覚えたのは北条綱重であろう。家康が命を賭して自分を狙ってくる理由が判らない。
「如何なされますか」
「大将首となれば大手柄だが、川を越えてくるとなるとそれは死兵だ。相手をすれば、こちらが思わぬ痛手を負うことになる」
徳川に対して何の遺恨もない綱重は、戦況を冷静に分析していた。今川と徳川が勝手につぶし合うのは大いに結構なことだが、関東制覇を悲願とする北条にとって、こんなところで損害を被るのは本意ではない。麾下の兵は、関東平定にこそ使われるべきというのが綱重の考えだ。
「適当に相手をしたら兵を退く。後は今川殿に御任せすればいい」
そう配下に告げて、深追いしないように使番を走らせた。
だが家康の動きは、綱重が予想するよりも速かった。笠原康勝の戦死が告げられると、綱重は先ほどまで余裕だった表情を一気に引きつらせた。
家康が動くよりも早く、それに叱咤激励された渡辺守綱の反撃により康勝は討たれたのである。家康の本隊が到着する前の事だった。徳川を甘く見た代価は大きかった。
「敵を突き崩すならば今ぞ!我に続けーッ!!」
家康の大音声が轟く。それに一丸となった三〇〇〇の兵が続いた。
歓声と地響きが唸りとなって北条勢を襲う。機を見るに敏な家康が、ここぞとばかりに突撃を仕掛けてくる。その攻撃に晒された大藤秀信の部隊は霧散し、綱重も窮地に陥る。北条勢は戦意の低さもあって、一度陥った混乱から立ち直るのに時間がかかった。
「退けッ!退くならば追わぬ!!」
そう家康が各地で触れ回させたことにより、北条勢の逃散は相次ぎ、綱重も抗戦を諦めて東へと去った。ここで踏み止まる理由が北条にはない。
戦況が大きく動いた瞬間だった。
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北条の敗走は優勢だった戦況を一変させるには充分だった。右翼が崩壊し、今川の側面ががら空きとなった状況で、川を渡っている者どもが戦線を維持できるとは思えない。勝敗が決したのだ。
全てを悟った泰朝が主へと宣告する。
「我らの負けです。拙者が家康を引き受けますので、その間に御屋形様は退かれなされ」
「退く?あと一歩で徳川の備えを突破できるのだぞ。それを前にして退くと申すのか」
氏真は諦めきれないといった表情で、泰朝を見る。
「我らに残された兵力では、家康を押さえるのが精一杯にございます」
「ならば、家康を押さえている間に五郎兵衛が敵陣を崩せば……」
「側面を敵に晒されたことで、兵たちは浮き足立ちます。如何に戦巧者の岡部殿とは申せ、この状況で徳川の備えを崩すのは至難の業にございます」
悔しさに表情を滲ませるのは、泰朝も同じだった。もし北条が退かなければ、いや退いたところで敗走でなければまだ打てる手立てはあった。しかし、敗走してしまったならば、もうその兵力は当てにできない。
「庵原殿に岡部殿を支援させます。今ならば、まだ次がありまする」
泰朝は強い口調で主に決断を迫った。
確かに北条は敗走したとはいえ、時間をかければ建て直す。こちらも優勢だった御陰で兵の損傷は今のところ少ない。対する徳川も、勝利したところで多くの犠牲を払っている。天竜川で敗北しても、第二戦を行うだけの力は氏真には残されていた。
「……やはり勝てぬのか、家康には」
泰朝にも聞こえないほど小さな声で、氏真は呟いた。
確かに次があるかもしれない。しかし、自分が優位な状況で戦える機会は、これが最後な気がしてならなかった。
氏真は静かに目を閉じ、込み上げてくる感情を必死になって押さえつける。
「……兵を退く」
その命令が、全軍に届けられたのは間もなくのことだった。
天竜川での決戦は、徳川方に軍配が上がった。
【続く】
今回も二週間ぶりの投稿です。
やはりというか、合戦の結果は皆さまの予想通りだったでしょうね。家康の勝ちです。ただ少しは成長した氏真を見せられたのではないかと思います。
戦の分かれ道は、氏真が総攻めを拒否したところです。あそこで総攻めに移っていれば、家康が左翼へ向かう余裕はなくなっていました。しかし、己の器量に限界を感じていた氏真は、余計なことをするのを避けました。それが勝敗に結びついたわけです。
家康は義元の上を目指し、氏真は義元の背中を追い求めていた。これが両者の差であると私は思っています。
次回は信玄回となります。