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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第一章 ~上洛~
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第三幕 永禄八年 夏 -決戦の時、迫る-

六月二十五日。


若狭の失陥を重く見た三好・松永らは前将軍・義輝へ対し、将軍・義栄の名で討伐令を出した。しかし、傀儡将軍である義栄の力は有名無実化しており、世間の反応は薄かった。


三好・松永が義輝の暗殺を目論見、将軍職を簒奪したことは既に天下に広く知れ渡っていた。故に表立って義栄に味方する大名は殆ど皆無であり、危機感を募らせた三好日向守長逸は幕府の役職を乱発し、手当たり次第に周辺勢力を味方へ引き込もうと画策した。


具体的には…


関東管領を北条家に、上野守護を武田家に任じることによって義輝の味方になるであろうと予測された上杉輝虎を牽制する策に出た。しかし、この軽率な行動は上野守護を武田に任じることへ北条家が不快感を示し、武田からは義輝を襲った理由を詰問されるという事態になり、使者は“義栄など何処の馬の骨か分からん御仁の命令など聞く理由がござらん”との返事と共に這々の体で帰って来た。ならばと西国の毛利に期待をかけて西国探題へ任じたが、ここでも使者は歓迎されず役職への就任も辞退された。


これを地方の有力大名には三好の影響力が弱い所為と考えた長逸は、三好家の強大さを知る近隣の諸大名へ守護職を与えることにした。しかし、義輝の生存と若狭の失陥を知る彼らは三好・松永の卑劣なやり方に揃って反発、唯一守護職を受けたのは美濃の斎藤龍興だけに終わった。


龍興は国中に“将軍・義輝が信長を美濃守護に任じる”という噂が広まっており、事の真偽を確かめるために越前へ使者を遣わしていた。これをまだ若狭へ出陣する前の義輝が否定しなかったので、龍興は藁を掴む気持ちで守護職就任を受けたのだ。


しかし、この龍興の軽挙な行動は斎藤家の崩壊を早める一因となった。


結局、味方らしい味方を得ることの出来なかった三好方は、配下の将へ守護職を与えることによって政権の盤石化を図るしかなくなった。


管領   細川信良(晴元の嫡男)

管領代  三好義継

御相伴衆 三好長逸(山城守護も兼任)

御相伴衆 松永久秀(大和守護も兼任)

摂津守護 三好政康 

丹波守護 内藤宗勝(同年八月に死去)

河内守護 三好康長

和泉守護 岩成友通 

淡路守護 安宅信康

阿波守護 細川真之

讃岐守護 十河存保


長慶存命時までは主家であり守護家の細川一族を傀儡とし、名目上の守護としていた三好・松永であったが、ここにきてようやく完全に操れる将軍を手にしたことにより一族の守護化を図った。しかし、地場固めを怠った急場の策であったことは誰の目にも明らかであり、反三好勢力を勢いづかせる結果に終わる。


そこに、かつて三好長慶が誇った栄華は微塵も感じられなかった。


=======================================


七月二十日。

越前一乗谷・義輝の新御所


数日前より安養寺から仮普請の終わった新御所へ居を移していた義輝の許へ、久しぶりに細川兵部大輔藤孝が戻ってきた。


「兵部!ようした!」


義輝は開口一番、藤孝の働きを労った。二日前、文によって加賀一向宗との和睦が成ったことを報されていたからだ。


「はっ。加賀一向宗は本山(石山本願寺)の意向もあり、上様が上洛中は矢止めに応じるとのことにございます」

「大義じゃ。これで上洛の道も開けたと申すものよ」

「若狭の争乱も鎮まったとか。おめでとう存じます」

「なに、大したことはなかったわ」


実際に若狭出兵は半月ほどで終わるという、考えた以上に早期決着となった。最初にしては上出来であろう。しかし、その割には義輝の瞳には僅かな悲壮感が漂っている。その理由が将軍職の剥奪にあることは藤孝も察するところだ。


「越中門徒にも加賀衆の方から停戦を呼びかけて頂ける運びとなりました。直に上杉殿の上洛も叶いましょう」

「うむ」


相次ぐ吉報に義輝は満足そうに頷いた。


先月末、義輝が若狭から戻ってくると上杉輝虎が上洛に応じたという報せが届いた。義輝がこれに歓喜したのは言うまでもないが、何よりも喜ばせたのは輝虎の上洛が十月末辺りになるという報せだ。これは義輝が京を目指して出陣をする時期となり、それに合わせて朝倉や浅井など味方勢力が上洛準備に取りかかれるということを意味している。早ければ、今年中に帰洛が叶うかもしれない。帰洛さえ叶えば、将軍職への復帰も認められるだろうと思われた。


「兵部。輝虎が参るまで我らで軍略を練りに練らねばなるまいぞ」

「承知いたしております」

「そこでじゃ。朝倉とも図る必要があるが、一つ頼みがある」

「はい。何でございましょうか?」

「明智光秀じゃ。軍略を練るに当たってあれの智恵を借りたい」

「…なるほど、そういうことでございましたか」


藤孝としても光秀の有能さは理解している。自分とて、光秀を頼りにするところがあるからこそ将軍救出の一手を任せたのだ。そこに義輝が目を付けたということは、将来的に家臣化させるつもりがあることも同時に見抜いた。


「光秀殿だけを呼べば左衛門督殿に憚られましょう。故に朝倉殿の名代として景紀殿も招きましょう。さすれば景恒殿が代理で参るかと」

「おう、それがよい」


義輝が朝倉家中へそれほど信を置いていないことは藤孝も理解していた。その中でも唯一頼りとするのは敦賀郡司たる景恒・景紀親子のみである。この親子は義景が支持する景鏡派と対立しているために義輝寄りの方策を立てることが多い。


「それにしても本願寺がようも朝倉との和睦を認めたものじゃ」


朝倉家と一向宗の戦はもう数十年も続けられていることで、遺恨は深い。義輝の見立てでは上洛寸前まで縺れると考えていた。


「どうやら上方の情勢が慌ただしく、石山の門主が手を焼いているとか」


この頃、上方では義栄による新政権が周辺の寺社衆へ御教書を乱発していた。しかも手当たり次第と言って良く、その多くが寺社衆の権益を認めるものだった。寺社衆の中では新興の部類に入る本願寺としては敵対勢力も多く、義栄方の行動は好ましいものではなかった。元より管領・細川、三好長慶と対立してきた石山本願寺である。その三好と敵対する義輝を影ながら支援したとしてもおかしくはない。朝倉と敵対する北陸の一向宗へは、上意として言うことを聞かせればいい。


「どうやら、思ったよりも早く京へ戻れそうじゃ」


義輝の言葉通り、上洛は目前に迫っていた。


=======================================


八月一日。


総勢二万もの軍勢が美濃へ侵攻した。その行軍は神速の如し、稲葉山城を取り囲むのに一日もかからなかった。


尾張大名・織田上総介信長の軍勢である。


既に中濃は織田家の支配下に入っており、西美濃衆への調略も進んでいた。ここで信長は一気に斎藤家の本拠・稲葉山城を落とす作戦に出た。先代・義龍の死後、衰退著しい斎藤家は本拠を家臣の竹中半兵衛が僅か十七名で乗っ取るという事件を起こした。これが昨年二月のことである。


その後、半兵衛は城を龍興に返したが、自らの求心力が落ちていることを周辺国へ露呈する結果となり、人心は離れていく一方だった。中濃一帯も織田家に寝返り、守護職を信長に取られまいと逆賊の手先と成り果てる主君を家臣たちは嘆き、見限り始めた。


「猿(木下秀吉)よ。西美濃三人衆は如何にしておる?」

「はっ。人質を出す、とのことにございます」


猿と呼ばれた小汚い男は、身の丈に合わない大きな甲冑をガッシャガッシャと揺らしながら答える。


「ならば貞勝に受け取りに行かせる。者どもには儂の許へ参るよう伝えよ」

「ははっ」


そそくさと退散する秀吉と入れ替わるように入ってきたのは柴田権六勝家だった。その勝家に信長は命じる。


「城下を焼け」

「良いので?」

「構わぬ」


勝家は手勢に命じ、城下を焼き払わせた。斎藤道三が稲葉山の主になった天文二年(1533)より三十二年、美濃守護の土岐頼芸を追放し、この地が事実上の国府となった天文十年(1541)より二十四年後の今日まで繁栄を極めていた町並みは灰燼に帰した。


そして八月十四日。


西美濃三人衆(稲葉良通・安藤守就・氏家直元)らが信長の許を訪れ、臣下の礼をとった。中濃に続き、西美濃までもが織田家に寝返ったのだ。この事実は稲葉山城内に大きな衝撃を与えた。


翌日、未だ動きの見せない東濃の者たちに幻滅した龍興は密かに城を脱し、長良川を小舟で進んで伊勢長島へ逃れた。これにより稲葉山城は落城、東濃の地侍が信長への恭順を誓った。


ここに尾張織田弾正忠家の悲願であった美濃平定は成ったのである。


翌月、信長は居城を小牧山から稲葉山へ移し、名を岐阜へと改めることになる。


=======================================


九月四日。

越後国・春日山城


万余の兵が主君の合図を待っている。再び西上野へ進出してきた武田信玄を食い止めるために出陣することになっているのだ。


「いざ出陣!」


号令と共に、軍勢が隊伍を組んで進んでいく。幾重にも掲げられた真っ白な軍旗が戦列を乱さずに行軍を続ける光景は、まさに上杉勢の精強ぶりを感じさせた。そのまま軍列は三国峠を越えて関東へ入る。


上杉勢は沼田を経て厩橋城へ入った。


厩橋城は輝虎の関東出兵の拠点となっている城で、一時は武田・北条の手に渡ったこともあったが、今は奪還し、城代に北条高広を据えて守らせている。ここより南の地は敵の勢力圏、その中に上杉方の諸将が点在しており、輝虎の救援を常に待ちわびている。


「高広、状況を報せよ」

「はっ。六月に倉賀野城が落ち、周りの諸城もことごとく武田の手に落ちてござる。信玄め石倉城を修復し、我らの箕輪城救援を阻む算段かと」

「ううむ……」


状況が悪い。石倉城は利根川を挟んで対岸、目と鼻の先にあり、ここに武田の大軍が入っている。それは輝虎が厩橋入りする際にも確認できた。兵法の常道を行く信玄は、先に川を越えることが不利になると知っているために上杉勢を攻撃してくることはなかったが、悠長にしていてよい状況ではない。何よりも石倉城の役目は上杉勢を阻んでいる間に箕輪城を落とすことにあり、厩橋城攻略の為の拠点ではないのだ。


(だがこれでは……)


はっきり言って劣勢である。早期決着を着けなくては義輝との約束には間に合わない。輝虎が上野にいられるのは遅くとも今月いっぱいまでだ。箕輪城を救うには眼前の石倉城を攻略し、途上の和田城を抜かなくてはならない。それを成す時間は輝虎にはないが、せめて石倉城くらいは落として行かねば上野の形勢は逆転不可能なまでに陥る。


「利根川を氾濫させればよいのです」

「なに?」


唐突に上泉伊勢守信綱が発言する。信綱は義輝の使者として輝虎の許を訪れた以降、一族へ預けた上泉城へ戻り、かつての主家・長野家や北条高広を扶けていた。


「天文の初め頃か、利根川が氾濫して石倉城が崩落したことがございました」


天文三年(1534)、信綱がまだ二十代半ばの頃である。大雨によって水かさの増した利根川が氾濫を起こし、鉄砲水が石倉城を飲み込んだのだ。その時、僅かに残った三ノ丸の跡地に厩橋城が築かれることになった。


「石倉城は未だ(にわか)造りでござれば、大水に耐えられますまい」

「されどそれでは、この厩橋とて一巻の終わりぞ」


高広が反論する。石倉城が対岸にある以上、この厩橋も被害を被ることになる。強度の違いから、ただこちらの方が被害が少ないというだけに過ぎない。また関東攻めの拠点を失うことにもなる。


「承知の上でござる。管領様がその必要はないと仰るのであれば、それで構いませぬ」


自分の意見はただの提案に過ぎないと言い切る信綱。信綱とてこのような戦法で敵を討つことは本意ではない。やはり戦で堂々と決着をつけるのが筋道と考える性格だ。これには輝虎も同じであることを信綱は知ってる。しかし、同時に輝虎が上洛のために急いでいることも知っている。故に敢えてこのような方法を進言したのだ。


(厩橋を犠牲にすれば、武田に打撃を与えることが出来る。さすれば上野は元より信玄が儂の上洛を阻むことも留守を狙うことも叶わなくなる)


輝虎は迫られる。己の矜恃か、主君への忠義か。


(上様は妻子、母御を殺されてもなお生き恥を晒し、逆賊を討つ御覚悟をなされた……)


かつて春日山にて信綱に聞かされた話を思い起こす輝虎。義輝の無念に比べれば、今の自分の悩みなど大したことではないと気づく。


輝虎の眼がカッと見開いた。


半月後、石倉城は厩橋城と共に地上から姿を消した。氾濫した利根川の大水に飲まれたのだ。しかし、城ごと流された武田勢に対し、上杉勢は事前に厩橋を離れたことでほぼ被害は皆無だった。


数日後、輝虎は軍勢の大半を上野に残し、越後へ帰って行った。十月の初めのことである。



【続く】

まさかの二話連続投稿です。正直、疲れました。


また作中で信綱が軍師っぽいことになっていますが、そういう設定にしたのではなく、あくまで石倉城に限って“経験から物を言った”だけです。その後も軍師として活躍するわけじゃありません。


さて、次回から上洛編も盛り上がっていく予定です。若狭出兵では戦らしい戦を書けなかった(なかなか難しいのです、合戦を書くのは…)ですが、義輝と三好・松永の大合戦ではしっかりと書いていきたいと思います。

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