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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第四章 ~忘恩の守護大名~
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第三十三幕 桶狭間からの覚醒 -武士の矜恃と名門の意地-

永禄三年(1560)五月十八日。

尾張国・沓掛城


尾参国境の地に天地を揺るがすほどの途方もない大軍が集結していた。数にして凡そ二万五〇〇〇。東海三国を領する“東海一の弓取り”今川治部大輔義元の軍勢である。乱世の到来より今まで、これ程の大軍を揃えられる大名家が育ったのは稀である。しかも東海三国という所領から考えても、今川勢の数は多かった。それは、それだけ義元の治世が安定し、完成していることを意味している。


沓掛城は尾張・織田家と駿河・今川家の境界線に位置する。この先は戦場。鳴海、大高の両城を織田の付城が取り巻き、兵糧が尽きかけて落城寸前に陥っている。それを救うべく義元が打った策が、大軍による後詰合戦であった。


「流石は御屋形様よ。さしもの織田も、まさか八つの付城が同時に攻められるとは思っていまい」


と、一隊を預かる松井宗信が高笑いを上げた。


周囲は陽気に包まれている。相手はうつけと評判の織田信長で、昨年に尾張を纏めたばかり。しかもその支配は脆弱で、この窮地に僅か三〇〇〇余りしか兵を集められていないという。圧倒的に優勢な立場にある以上、誰もが負けを考えずに勝利を確信していた。


「次郎三郎、大高への兵糧入れに抜かりはないな」


上段から、威厳に満ちた声が届く。


「はっ。今宵、丸根砦を攻撃すると見せかけて運び込む手筈にございます」


淡泊に答えた次郎三郎の言葉に、義元は口元を緩ませた。


「相変わらず愛想がないのう。されど、その落ち着きよう……、まるで歴戦の武者のようで頼もしく思うぞ。先が楽しみよなぁ」

「……はっ」


カラカラと笑う義元に、次郎三郎は苦笑いを浮かべて恭しく礼をした。その隠れた表情からは、冷や汗が滲み出ていた。


(頼もしく思うか。精々、出しゃばらぬよう気をつけねば……)


次郎三郎は、己の才が他人より秀でていることに気付いている。但し、それは義元も同じだった。人質同然の身である自分に、立身出世の道はなく、大志を抱くことさえ禁じられている。許されるのは、今川の手足となって働くだけ。念願の岡崎帰還が果たせる日は、いつやってくるのか。


(そう遠くはあるまい)


しかし、次郎三郎はその様に考えていた。


今川の所領が増えれば、義元が次郎三郎を危険視する必要はなくなり、岡崎くらいは返してくれるだろう。流石の義元も、忠功には恩を以て報いねばならないからだ。ならばそれまで、今川に勝利を献上し続ければいい。まずは織田の付城をどうするかである。


確かに付城を築いて城を攻めるという織田の発想は見るべきところがある。これならば攻城側も城に籠もっていることになるので、兵の犠牲は限りなく少ない。籠城側が勝つには付城を攻略するしかないが、一つの付城が攻められれば、織田方は別の付城から救援を派遣する。これでは埒が明かず、解決するには築かれた付城を全て同時に落とすしか方法がない。そして、それには途方もない数の軍兵が必要となる。


それをやってのけるのは並大抵のことではない。だが、やってしまった男がいる。その男こそが戦国が生み出した傑物・今川義元である。義元の父・氏親が整備した今川仮名目録を追加し、寄子寄親制度を確立させて戦国大名として天下に覇を唱えた男は、更なる野望へ向けて突き進んでいる。


(御屋形様は天下に望みを抱かれておる。この鳴海、大高の後詰はその第一歩に過ぎぬ)


若き次郎三郎は、その事実に気が付いていた。


義元は後詰合戦で織田方を撃破した後、あわよくば清洲まで手に入れるつもりだ。伊勢の商人たちも手懐けているのは、上洛への道である東海道の掌握を見越してのことだろう。上洛した義元が幕府の実権を意のままに操る。恐らくは管領・細川や三好長慶よりも確実に判りやすい形で幕府の実権を奪っていくはずだ。義元には、彼らにはない血筋という最大の武器がある。


「御屋形様の命により大高城へ兵糧を入れる!」


帰陣した次郎三郎は、麾下の兵に下知した。


それから一日が過ぎる。その日の出来事は、まさに次郎三郎にとって青天の霹靂(へきれき)だった。


暗雲立ちこめた空からポツポツと俄雨が落ち始める。次第に雨は勢いを増し、数間先の視界を閉ざしてしまうほど豪雨となった。


「雨か……」


顔面に打ち付ける降雨を見上げながら、次郎三郎は呟いた。


これが幼き次郎三郎が二年の人質生活を送った織田家の最期の日となるのか。あの織田信長は、どんな心境で今を過ごしているのだろうか。そういった感情が生まれてくるのは、次郎三郎が見事に敵勢の間隙を衝いて大高城へ兵糧を入れ終え、丸根砦を落として主命を果たして余裕が生まれていたからだ。既に鷲津砦も落ち、正光寺砦の佐々隼人正が討ち死にしたことで大高城から沓掛への道は今川方で固められている。尾張に於ける今川と織田の前哨戦は、今川の完封勝利といったところか。


そこへ一人の伝令がただならぬ形相で駆け込んで来た。


「も…申し上げます!桶狭間にて本陣が奇襲を受け……お、御屋形様が討ち死されました……」


男の報告に周囲が騒然とし始める。動揺に動揺を重ね、狼狽える者が相次いだ。


「御屋形様が討ち死になど、織田の謀略に過ぎぬ」


それを次郎三郎は一笑して吹き飛ばした。


余りにもあり得ない報せだ。この状況で、織田に勝利はない。そもそも野戦で総大将が討たれること事態が稀な事なのだ。その本陣には、五〇〇〇の兵がいる。そこいらの戦国大名ならば、総軍に値するほどの規模を今川義元が率いているのだ。討ち死になど、破れかぶれの織田が放った謀略に決まっている。


「まったくじゃ。いきなりの報せで慌てたわい」

「左様。されどこうなると、織田の慌てぶりが見えてきたな」

「そろそろ織田方の何れかより寝返りを申し出る者も現れる頃かのう」


一瞬にして落ち着きを取り戻した諸将は、狼狽したことなど忘れたかのように軽口を叩き合った。


「…………」


それも束の間だった。次郎三郎の発言を否定するかのように一人だけ表情を変えない者がいる。報せを持ち込んだ伝令の男だ。その絶望した蒼白の顔色は、根拠のない次郎三郎の発言では覆らない。それは、義元討ち死にの報せが真実であることを物語っていた。


受け止めるしかない。死んだのだ。あの今川義元が。


「……殿」


状況を察した側近・本多重次がそっと声をかけた。


言いたいことは判っている。義元の死は、次郎三郎の足枷が外れたことを意味する。これからの事を、本当の意味で考える時が訪れたのだ。


ゆっくりと、次郎三郎は重い腰を上げたのだった。


=======================================


永禄十三年(1570)二月二十五日。

遠江国・浜松城


朝霧の隙間から差す陽の光にほのかな暖かみを感じた徳川家康は、吐息を深くし、眠気の残った瞼をゆっくりと開いた。


「また桶狭間の夢か……」


家康は上体を起こし、右手を額に当てて見た夢を思い起こす。


あれから十年の歳月が流れた。世は足利幕府の再生へと向かい、東海は徳川と今川で二分するようになった。かつて今川義元が君臨した栄華は、もはや見る影もない。


あれだけ完成されていた今川家が、義元一人がいないだけで崩壊した。それは次郎三郎として義元を見てきた家康にとって衝撃だった。英雄は、常に一代限りなのか。


(織田家も、そうかもしれぬ)


思考を夢から現実へ呼び戻し、再び瞼を閉じた家康は現在の状況を整理する。


将軍・足利義輝の西征によって日ノ本全域が大きく揺れ動いている今、三河・遠江の徳川領は平時と変わらない。唯一の懸念材料であった石山本願寺の挙兵に伴う各地の一向宗の一斉蜂起も、家康が永禄五年に領内の一向一揆を根絶やしにしていた事で再発に至っていない。


これは家康の治世がしっかりと行き届いていることを示している。だが隣国・織田はそうではない。


家康の許には、再三に亘って織田家より援兵を請う使者が訪れていた。武田信玄の脅威と伊勢長島の門徒、北畠の北進と状況は理解するところだが、織田家には濃尾二ヵ国を始めとする二万余もの居留守の兵がいる。守戦に徹すれば、さほど慌てることもないはずなのに、徳川の助けを求めている。


織田家は信長という大黒柱を失っていることで、まったくと言っていいほど機能していなかった。


(信長殿がおらぬ織田家は、斯くも脆いものなのか…)


一人の武将として織田信長という存在を大きく認識している家康としては、この織田家の混乱ぶりは意外だった。今や将軍家に並ぶほど大きくなった織田家であるが、信長一人がいないだけで、この有様である。あの今川義元を討ち破った織田といえど、完璧ではなかった。


(我が徳川家も、儂がいなくなれば滅びるのか)


このところ家康は、そのような心境に陥ることが多い。桶狭間の衝撃は、未だ家康の行動を縛っている。


いま家康が織田領へ侵攻すれば、確実に織田家は滅ぶ。尾張を手にすれば、徳川の国力はかつての今川義元が手にしたものと同等となり、天下で覇を競う権利を得ることになるだろう。そういう邪な望みが、家康の中にないわけではない。


だが家康は浜松を動かなかった。そのような手段で大きくなった家は、確実に凋落の一途を辿る。故にこそ家康は、武将として尊敬の念を抱く武田信玄に対しも、今回の件は馬鹿な真似をしたものだと思っている。


「殿、半蔵にございます」


襖越し人影が現れる。旗幟鮮明でない今川家の調査を命じていた徳川の忍・服部半蔵正成である。


「富士川に動きあり、近く陣払いが行われる模様」

「…やはり今川と北条の対陣は芝居であったか。となれば、今川はこちらへ向かってくるな」

「今川には武田義信がおりまする。殿の言われた通り、狙いは当領地かと」

「ふん!御曹司が調子に乗りおって!」


家康が語気を荒げる。


思えば虫のいい話だ。元々三河は松平家の領地であるし、遠江に至っては今川家からの申し出により徳川に譲られた土地だったはず。如何に氏真が言おうとも、奴に徳川を攻める大義名分はない。


(義元公ならいざ知らず、氏真如きに構っている暇はないのだ。儂は、ここで終わるような男ではない!)


家康の目指す先は、義元が届かなかった高み。その道に氏真が立ちはだかるなど分不相応もいいところだ。貴様など、初めから眼中にない。


「さっさと蹴散らすぞ。もはや今川の時代は終わったのだと、あの御曹司に知らしめてやれ」

「はっ!必ずや」


家康の出陣の命に、半蔵は力強く応えた。


今川家へ虐げられてきた松平の恨みは深い。命令は瞬時に末端の将兵たちにまで届けられ、浜松城は将領たちの逞しい気勢に包まれた。


そして家康が八〇〇〇の兵を揃え、決戦の地である天竜川へと向かおうとした矢先、家康の許に三河を任せてある酒井忠次より早馬が到着した。


「武田が動いたか」


それを聞いて、まず家康が思ったのが武田の三河侵攻だった。


武田が伊那郡に兵を集めていることを家康は掴んでいる。恐らくは今川の支援が目的であろう。雪解けと共に兵を進め、こちらの兵力を二分させる策だ。既に家康は三河へ兵を割いていることから、その点では武田の策は成功していると言える。


しかし、使者のもたらした情報は武田の侵攻ではなかった。


「いえ、実は……」


使者が(おもむろ)に家康へ耳打ちする。その報せに、家康はカッと目を見開いて驚いた。それが只ならぬ報せと判り、家臣たちも何事かと心配そうに主の反応を黙って見守った。


「まさか……。それは真なのか?」

「はい。我が主が直々に目通りし、確認しております。むしろ私が遣わされたのは、先方の指示によるもにございます」

「…………」


一時の沈黙の後、家康が口を開く。


「暫し離れる。お前たちは先に天竜川へ向かっておれ」

「殿!?」


予想外の言葉に、家臣たちは一斉に戸惑いの声を上げた。


「まさに今川が攻めて来るという時に、離れなければならぬ理由とは一体……」

「左様。どのような報せかは判りませぬが、今は大事なる時でございます」


すかさず鳥居元忠と大久保忠世が反対する意見を口にするが、家康は冷たかった。


「言えぬ」


そうして家康は、家臣たちの引き留める声を無視して、送られてきた使者と共に忠次のいる三河へと向かったのであった。


=======================================


三月七日。

駿河国・駿府城


ついに富士川での対陣が終わった。北条氏政は相模へと帰国し、頼れる武田義信は父との関係に決着をつけるべく甲斐へ入った。そして今川氏真は、北条の援軍五〇〇〇と共に駿府へと戻った。


一人となった今川氏真の真価が問われる時が訪れたのだ。


「お帰りなさいませ」

「うむ。留守中に大事はなかったか」


留守を任せていた岡部正綱に氏真が訊く。


「領内では特に。されど徳川の軍勢が天竜川に集まっております」

「…こちらの動きを読んだか。流石は父上にも認められた男よ」


途端、氏真の瞳が哀しみに包まれる。


父は何かと不出来な自分に対し、次郎三郎の話を引き合いに出して氏真を師事した。それに氏真がどれだけの劣等感を抱いていたかを父は知らない。氏真は家康より四つも年長である。それなのに、早くも差があった。本来であれば、家来であるはずの家康と主である氏真に同じ能力は必要のないことなのだが、どうしても比べてしまうのが、若さだろう。氏真がそれまで昏倒していた和歌や蹴鞠以外に剣術を倣い始めたのは、丁度そんな頃の話だ。


(父は家康の才を愛していた)


それが自分の為だったことは今の氏真にも判る。しかし、若いときに抱いてしまった感情は、そう簡単に忘れられないものだ。父・義元に追い着くには、まず氏真が越えなければならぬ壁は家康という存在だった。現にそれは、今も高く存在している。


十年前のこと。


「申し上げます!桶狭間にて御屋形様が討ち死になされました!」


まさに青天の霹靂。今もその声が、氏真の脳裏に強く焼き付いている。


あの時は目の前が真っ白になったものだ。父は“うつけの信長”など軽く蹴散らし、すぐに帰ってくるものとして疑わなかった。名目上で家督を継いでいたとはいえ、氏真の担う荷は未だ軽かった。しかし、父が死んだことで、それが途端に抱えきれないほどの重みになった。もし寿桂尼という存在がなければ、氏真は何も出来なかっただろう。


その直後に起こった家康の叛乱。氏真は圧倒的な国力の差がありながらも八方に手を尽くしたが、三河一国を明け渡さなくてはならなくなった。この時、やはり家康の方が秀でているのだと実感させられた。


(寿桂尼様。私の行いをどうかお許し下さいませ)


氏真は、天にいる寿桂尼へ向かって許しを請うた。


今から氏真がやろうとしていることは、寿桂尼の遺言を破ることになる。だが、やらなければ氏真は、今川という名跡を本当の意味で継いだことにはならない。家名存続だけを考えれば、確かに寿桂尼の遺言に従う方がいいが、氏真にも意地がある。父にも、そして寿桂尼にも見放されたままでいたくはなかった。


「御屋形様。如何なされますか」

「どのみち家康とは戦うのだ。誘き出す手間が省けたと思えばいい」

「…お…おおっ!何と頼もしき御言葉か」


主らしからぬ威厳の満ちた発言に、正綱はかつての義元を氏真に重ねて見た。


「戦はそなたと五郎兵衛(岡部元信)、それに左京亮(さきょうのすけ)(朝比奈泰朝)が頼りだ。しっかりと頼むぞ」

「はっ。徳川如き、所詮は当家の属将に過ぎなかった者。お任せ下さい」

「うむ。頼む」


そして氏真は再び駿府城を後にした。西へ向かう傍らで、桶狭間へ向かう父の心境はどういうものだったかを考えた。


(何の不安もなかったのだろう。私とは大違いだ)


報せによれば、徳川の数は凡そ八〇〇〇とある。こちらは一万五〇〇〇なので、倍する兵力を抱えていることになる。野戦に於いて、この差は致命的と言っても過言ではない。しかし、氏真の心は不安でいっぱいだった。


(家康に勝てば、この不安から解放されるのだろうか)


答えのない疑問を、氏真は揺れる輿の中で何度も繰り返した。


今川氏真と徳川家康。奇しくも桶狭間で今川義元が死んだことにより、対立した二人の直接対決が間近にまで迫っていた。




【続く】

お待たせしました。凡そ二週間ぶりの投稿となります。


毎回と言い訳がましくて申し訳ないのですが、暫くの間はペースを戻せそうにないことが判りましたので御報せ致します。楽しみにして下さっている方には本当に申し訳なく思います。ただ滞る分に関しては、ゴールデンウィーク辺りに巻き返しが出来そうなので、一気に話を進めたいと思います。


さて今回、話を桶狭間からスタートさせてみました。


家康と氏真にとって今川義元という存在が大きかったことを印象づけたかったのですが、どうだったでしょうか?また織田信長の存在も、後世で家康が江戸幕府の立ち上げに諸大名の力を削ぎまくって徳川だけを大きくした影響が多く含まれていると思っています。


次回は天竜川での話となります。質の徳川に数の今川とどちらに軍配が上がるのか。そして家康が三河へ向かった理由は?まあそれは次々回かその次あたりで判明することになります。

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