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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第四章 ~忘恩の守護大名~
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第二十八幕 元就の眼 -謀将たちの狂宴-

二月二十一日。

播磨国・姫路城


鷹尾城への出陣を終えて姫路へと戻った足利晴藤は、すぐさま宇喜多攻めの軍略を練るべく主だった者を呼び集めて評定を開いた。冒頭、晴藤の口から将軍・足利義輝が毛利へ派兵と引き替えに筑前を与えたことが伝えられる。毛利へ対して戦功に関わらず恩賞を約束されたことに誰もが驚きを禁じ得なかったが、義輝が気前よく一国を与えたことに諸将は感嘆の息を漏らし、この戦いの果てには自分も相応の恩賞に与れる可能性があることに顔を綻ばせた。


「毛利が本腰を入れてくるとなれば、宇喜多など一溜まりもあるまい」

「それどころではない。毛利の支援があれば、謀叛方との戦に勝利することも夢ではない。上様の勝利は疑いあるまい」


毛利の更なる協力に喜びの声を上げ、浮かれる者が大半だった。宇喜多は備前国内では善戦しているものの既に四面楚歌状態へと陥っており、毛利の参陣が決定打となることは間違いない。毛利は九州に兵を割いているとはいえ、上方へは六〇〇〇程度しか出していない。毛利の規模からすれば依然として万単位の派兵が可能だった。宇喜多の叛乱が鎮圧されるのも時間の問題であり、諸将が気抜けするのも当然と言えば当然かも知れない。


ただ晴藤は、そんな彼らを羨ましく思った。


(単に備前が平定されればよいという訳ではない。兄上は、私が備前を制することを御望みなのだ)


晴藤に課せられた責任は大きく、とても彼らのように気を緩ませられる状況にはなかった。これ以上、毛利が強大化することは兄の望むところではなく、しかもそれを口に出すことは憚られる。出してしまえば要らぬ疑念を諸将に抱かせてしまうからだ。故にこそ晴藤がその事を打ち明けたのは明智光秀と黒田孝高の二人のみに留まっており、少ない人数で打開策を生み出していかねばならなかった。


そんな折り、光秀が声を張り上げて言った。


「各々方に申し上げたい。毛利の加勢は頼もしきことなれど、備前の謀叛を毛利が鎮めれば左中将様の面目は如何なりましょうや」


途端に辺りは水を打ったように静まり返り、それだけに光秀の言葉が響いた。


(…よう申してくれた、日向守)


上手い言い回しだと晴藤は思った。光秀は義輝からの密命を晴藤の面目にすり替えることで、毛利に先んじて備前を平定する理由としたのだ。


「左様でござった。少々、気が緩んでおったようにござる。左中将様、申し訳ございませぬ」


彼らは光秀の言葉にばつの悪そうな表情を浮かべ、緩んだ口を真一文字に閉じて晴藤へ謝罪の弁を述べた。


「とは申せ、言葉から察するに明智殿には妙案がお有りかと推察いたすが…」


その中で一人だけ光秀へ冷たい視線を送る者がいた。名を別所吉親といった。伊丹・大物の合戦で討ち死にした別所安治の跡目を継ぎ、当主となった長治の伯父である。長治は若輩という理由で、その名代として評議に参加していた。


「是非にも拝聴いたしたく存ずる」


吉親の語気は強く、明らかに光秀へ対抗心を持っていることが判った。


赤松攻めでは播磨国内の問題であったにも関わらず、光秀によいところを全て持って行かれ、別所家は守護代として晴藤を補佐するという役目を果たせなかった。謂わば面子を潰された形だ。そのような意識は光秀になかったのだろうが、そう吉親が感じていればそれまでだった。光秀は義輝に進言し、事もあろうか別所のいるべき場所であるはずの晴藤の補佐役に収まってしまった。それに伴って蜷川親長が守護を解任されたことは、事情を知らない者にとっては光秀が追い出したという見方が主だった。


(失態を犯したのならば、大人しくしておればよいものを上様の寵愛をよいことに汚名返上の機会を得るとは明智も強欲なことよ)


吉親は侮蔑するように光秀を見ていた。


その心中を知ってか知らずか、光秀はどこ吹く風であった。光秀が晴藤の補佐に就くのは義輝が京を回復するまでのことで、以後は義輝の傍で力を尽くすことになる。こんなところで対抗意識を燃やすほど光秀は愚かではない。


(私のことはどのように思われようとも構わぬ。私が憎まれることで勝利を上様へ献上できるのであれば、それでよい)


それが光秀の本音だった。


「無論。仔細は官兵衛より説明いたす」


故に光秀は、己が雄弁に策を語るのではなく孝高に丸投げした。孝高も播州勢から良い目では見られてはいないが、その能力は認められている。孝高が語る策ならば、心中はともかく諸将は受け容れる。


「では御説明を申し上げます」


光秀の呼びかけに応じ、後ろに控えていた孝高がサッと前に出てくる。


「まず備前へは二手に別れて侵攻いたします」

「二手?山陽道を進むのではないのか?」


評議に参加している孝高の旧主・小寺政職が首を傾げて疑問を呈した。


「山陽道は進みます。されど速やかなる備前の制圧を望むのであれば、二手もしくは三手に分かれるしかございません」

「判らぬでもないが、宇喜多へ打撃を与える前に兵を分けるのは如何なものか。仮に宇喜多が左中将様を狙って襲ってきたならば、防げるものも防げなくなる」

「ご安心下さいませ。宇喜多の本隊は毛利に相手をさせます故、こちらへは大した兵は向かって来ませぬ」


孝高の策、それは敢えて進軍を遅らせることで宇喜多の矛先を毛利へ向けさせるというものだった。謂わば漁夫の利を狙うということなのだが、より速やかにそして確実に策を進行させるべく孝高は備中守護・上野隆徳に早期の備前侵攻を依頼した。隆徳は毛利と同陣するので、その隆徳が備前に入ってしまえば、毛利もついて行かざるを得ないという訳だ。


毛利が先に備前へと入れば、兵力から考えても宇喜多の矛先は自然と毛利へと向く。加えて孝高は毛利の侵攻を備前国内で噂として流し、その注意を東よりも西へ向けさせようと考えていた。この辺りは国境周辺でもたついている大田原長時が役に立つはずだろう。後はこちらは宇喜多の留守を衝く形で備前を制圧していけばいいが、毛利の兵力を考えれば鎧袖一触に宇喜多を破ってしまうことも考えられる。そこで孝高は幕府へ降ったばかりの赤松政範を出雲街道を通って北から迂回させ、兵を二分して備前の平定を急がせることにした。


「左中将様。これで宜しゅうございますか?」


孝高が語り終わると、光秀は頭を垂れて晴藤へ伺いを立てた。


「味方である毛利を騙すようなやり方は好まぬが、評議の結果には従うしかあるまい」


溜息を交え、晴藤は小さく頷いた。


孝高が立案し、光秀が同意しているとなれば晴藤が口を挟む余地はない。他からも意見が出なかったことで晴藤は承諾の意を示し、まず直家に敗れた大田原長時と合流することにした。


しかし、この孝高の策は徒労に終わることになる。いや義輝の懸念が杞憂に終わったと言った方がいいかもしれない。


宇喜多直家、そして毛利元就の胸中にはある決断が秘められていた。


=======================================


三月十日。

伊予・大洲城


備前で宇喜多征伐が進んでいる頃、四国でも幕府軍が謀叛方を追い詰めていた。今や謀叛方最後の拠点である大洲城が陥落寸前となっていた。


四国で幕府に叛旗を翻したのは、伊予の河野通宣だけだった。それなのに鎮圧に時間を要してしまったのは、阿波と讃岐の両国に於ける政情が不安定だったからに尽きる。かつて三好家に従っていた国人衆たちへ松永久秀による調略の手が伸びていたのだ。大規模な叛乱こそなかったが、小さな抵抗はいくつもあった。中には数十という人数で抵抗した者もいたくらいだ。その都度、藤孝らは兵を出して治安を維持して回っていた。御陰で兵の参集が覚束ず両国の領主である細川藤孝と朽木元綱は国許を離れられることは叶わず、河野討伐を伊予守護・御牧景重に委ねるしかなかった。


その景重が河野の謀叛を甘く見て失態を犯した。河野の謀叛など簡単に片づくと考え、大して策も練らぬまま河野領へと迫ったのだ。しかも麾下の武将・西園寺公広と石川通清が人数を出し渋り、殆ど河野と大差のない兵しか集まらなかった。


「これならば充分に戦える」


その様子に通宣は強い自信を抱いた。


通宣は高森城、花瀬城、鴇ヶ森城(ときがもりじょう)、松ノ城、菅田城など周辺諸城を固めて迫る御牧勢に対抗する。兵力に乏しい御牧勢は攻めきれずに敗退を繰り返した。


また景重を悩ませていたのは河野の支城群だけではなかった。


豊後水道から伊予灘へ大友の水軍が姿を現した為、景重は集中して兵力を投じられなかったのだ。怒りを露わにした景重が事の次第を宗麟へと問い質すも、大友方は河野支援とは無縁の行動であるとシラを切った。はっきり言って舐められたのだ。景重は宗麟に相手にもされなかった。


「宗麟め。こうなったら河野を滅ぼして証拠を掴んでやる」


景重は激昂して力攻めを繰り返したが、城方の抵抗は激しく打つ手はなく、河野の牙城は一向に落ちる気配はなかった。


そこで再度、藤孝へ援兵を依頼した景重であったが、阿波・讃岐の国情に依然として厳しく、代わりに長宗我部元親を送ると返事を寄越した。元親の土佐は他の三国に比べて比較的安定していたが、かつて旧土佐国司家に仕えていた一部の者たちが今回の謀叛に乗じて叛乱を起こしていて河野攻めには参加していなかった。ただ彼らの挙兵は謀叛方に通じてのことではなく、規模も小さかった為にすぐに鎮められ、この頃には元親が兵を動かせる状況になっていた。


そして元親の到着後、形勢は幕府方へと傾き始める。河野方の拠点は一つ、また一つと確実に落ちていき、二月半ばには大洲城は裸城となった。


その状況に城内の通宣はというと、


「必ずや義昭様は援兵を遣わして下さる」


と言って兵たちを激励していたが、その言葉は皮肉にも宇喜多直家と同じだった。しかし、その期待は空振りに終わることになる。待てど待てども吉報は届かず、次第に味方の士気は低下していった。


そして極めつけは細川藤孝を始めとする四国勢の着陣だ。幕府軍は総勢で二万数千に達し、まさに通宣は四国中の軍勢を相手にすることになったのである。


「御牧殿、遅くなった」

「面目ない。この程度の城を落とせぬとは…」


駆け付けた同僚に景重は感謝した。


「来てくれたことは嬉しいが、国許は大丈夫なのでござるか」


景重は疑問に思うところを訊いた。藤孝が伊予へやって来られないのは、国内が政情不安定だったからだ。あれから状況が変化したとは思えなかった。


「国許は右兵衛督様が預かって下さっておる故、心配には及ばぬ」


藤孝は足利義助を一ノ谷から呼び寄せたことを明かした。


「なるほど、右兵衛督様か。考えたな細川殿」


これを聞いた景重は思わず唸った。四国に於ける平島公方の権威が根強いことは、伊予を預かる身としても感じていたことだ。十代将軍・足利義稙が阿波の地に逃れてきてから四十余年もの間、張った根は深く公方家が四国を離れてより三年足らずで消え去りはしなかった。未だ公方家を慕う声は多く、そこに目を付けた発想は長いこと足利幕府の権威と接してきた藤孝ならではと言ってよかった。


藤孝の策は見事に的中し、阿波と讃岐の国情は嘘のように静まり始めた。これにより藤孝は国許を離れることが可能となり、朽木元綱と共に伊予へ駒を進めたわけだ。これで両軍の兵力差は圧倒的となり、勝敗は決した。


それでも一月余りに亘って通宣が抵抗したのは生き残りに必死だったからだろう。しかし、援兵のない籠城戦に勝利はない。二万数千もの大軍に囲まれた大洲城は為す術もなかった。日を追うごとに城内の士気は落ち続け、この日、幕府軍の総攻撃が開始された。


大手門に殺到するのは長宗我部勢五〇〇〇。先手は勇猛名高い福留親政だった。戦闘は銃撃戦から始まり、親政が自慢の愛槍を振り回して次々と河野兵を屠っていく。これに看過された吉良親貞が立場を弁えずに突き進む。


凡そ二刻の激闘の末、幕府軍は大手門を突破した。次々と兵が城内へと侵入していく。


「…もう終わりだ」


その様子を見ていた通宣は戦意を完全に喪失してしまった。


この後、通宣は大友を頼って城外へ落ち延びようとしたところを御牧勢によって発見され、敢えなく討たれてしまう。これにより景重は運良く守護の面目だけは保てたのであった。


大洲城の陥落により、四国は再び義輝の手に還った。


=======================================


三月二十六日。

安芸・郡山城


幕府方への降伏を決めた宇喜多直家は、元就に挨拶へ赴くために郡山城を訪れていた。だがここへ至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。交渉を初めて一月余りしか経っていないが、それを直家は一年にも長く感じた。


最初、実弟・忠家を毛利へ派遣しても元就の態度はそっけなく、“幕命により降伏は認められない”として直家の申し出を断ってきた。西から上野隆徳が攻め寄せ、東には足利晴藤の軍勢が備前へ討ち入る隙を窺っている状況で、直家は焦りを募らせていく。迫り来る軍勢を相手に一度や二度、退けるくらいは造作もないことだが、これでは何れ滅亡することは避けようがない。何としても宇喜多は毛利の庇護下に入る必要があった。


「ふん!元就め、貴様の本音は判っているぞ」


直家は毛利の回答が建前に過ぎないと見ていた。何故ならば、上野勢に比べて明らかに毛利の動きが鈍かったからだ。その所為で隆徳は備前へ入った直後に立ち往生してしまい、一向に前へ進めていなかった。


この隙に直家は、幾度となく毛利へ使者を遣わす。すると元就は徐々に態度を軟化させ、ようやく降伏が認められるに至った。宇喜多側は直家が安芸吉田を訪問して元就へ謝辞を述べることになり、その間は沼城を吉川元春が預かることに決まった。蚊帳の外へ置かれた隆徳が激怒しているという話が伝わってきたが、直家にはどうでもいいとして捨て置いた。


そして直家は郡山城の一室で、遂に元就と対面した。


「此度は当家の降伏を認めて頂いただけではなく、こうして陸奥守様への御目通りを叶えて頂きましたこと厚く御礼申し上げる次第にございます」


直家は淀みなく口上を述べた。それを受ける元就は上機嫌のようで、終始笑みを絶やさなかった。やがて満足そうに頷くと、直家へ言葉をかけた。


「宇喜多殿、よう決断なされた。後のことは儂に任せられよ。上様にも儂から取りなそう」

「はっ。宜しく御願い仕ります」


元就の(しわが)れ声に、直家は深々と頭を下げた。その頭部には武門の象徴たる(まげ)は既になかった。格好も法体姿であり、剃髪して仏門へ入ったことを示していた。やり過ぎという感覚は直家にはない。仏門に入れば命を奪われることもないだろう打算があってのことだ。必要とあれば、隠居すらしよう。生きてさえいれば、何れ機会は訪れるのだから。


(この様子だと、儂の思惑通りに事が進みそうだな)


直家は床に頭を伏せながらほくそ笑んでいた。


降伏は宇喜多と毛利の間で行われているので、今ごろ東備前ではいくつもの城が幕府の攻撃によって奪われているはずだ。口惜しい事ではあるが、そう遠くない未来に取り戻せると直家は考えている。毛利の庇護下でならば、生き延びられるという確信があった。


というのもここに至る過程で、直家は将軍が毛利に筑前の領有を認めたという情報を掴んだからだ。驚きはしたが、やはり将軍は元就へ対して遠慮がある。そのように直家は感じた。


そしてもう一つ直家を驚かせたことがあった。


(元就の形貌には驚いた。これはひょっとすると…)


痩せ細った元就の姿に直家は目を疑った。ただ痩せているのではない。数多くの人の死を見てきた直家には、元就の命が尽きる日がそう遠くないことを悟った。それは、そう遠くない未来に直家の待つ機会が訪れることを意味している。


(元就は大内と尼子を喰らって大きくなった。ならば儂は、毛利を喰らってやろうぞ)


直家は笑い出したい気分を堪えたまま平伏し続けた。


「宇喜多殿。そのように顔を伏せたままでは話も出来ぬ。面を上げなされ」

「…はっ」


静かに直家が面を上げると、そこにはにっこりと笑う元就の姿があった。


その後、城内では直家を交えて祝宴が催された。その席で元就は直家を呼び、一つ訊ねた。


「宇喜多殿が持参された土産物はどれも素晴らしい逸品ばかり。これを儂が独り占めしていては家臣たちに申し訳がない。皆に分け与えたく思うが、宜しいか?」

「全て陸奥守様へ差し上げたものでございます。陸奥守様の好きになさって下さりませ」


気にする様子もなく、直家は元就の申し出に首を縦に振った。途端、皆の耳目が元就へ集まる。


「皆、宇喜多殿の御厚意に感謝するのだぞ」


そう言って元就は直家からの献上品を自分の前に並ばせた。太刀、陣羽織、茶碗に茶釜、扇子や反物もある。どれ艶やかなものばかりであり、それだけに直家が元就への降伏に全てを懸けていることが窺えた。


「これはどういうものかな?」

「はっ。これは我が領内で採れる…」


元就は一つ一つを直家に説明させた後、気前よく褒賞として家臣たちに分け与えていく。歓声が沸き、広間は喜びの声で満ち溢れた。直家からすればどうでもいい行事でうんざりとするばかりであったが、これも我慢の内と堪えてやり過ごしながら、家臣と一緒になって献上品に目を輝かせる元就を見ていた。


(毛利元就も大したことはないのう。所詮は先の短い老いぼれに過ぎぬか…)


この様子に直家は元就を侮った。そして何れ自分が毛利の全てを手にする日が来ることに確信を持ち始めていた。


「さて、これは儂から宇喜多殿にじゃ」


最後の一つを配り終えた元就が、ふいに直家へ言葉をかける。手には徳利と杯を持っていた。


「これを以て我らは主従となる。されど儂は宇喜多殿を我が息子のように思うておる。これはその契りの杯よ」


と言って元就は高らかに笑い、手招きして直家を自らの傍へと呼び寄せる。


多少、世辞が過ぎるがこういう儀礼的なことを経ずして宇喜多の降伏は認められない。直家は頭を低くして杯を受け、酒が注がれる。


「有り難く頂戴仕ります」


直家は一言、御礼を述べた後に勢いよく杯を(あお)った。


「う…ぐッ……!?」


その直後、直家は極度の震えと寒気に襲われた。身体中に異様な衝撃が走り、それでいて内から熱いものが込み上げてくるのを感じる。口元から赤黒い液体が漏れ出し、床に溜まりを造った。


そして力なく床に倒れ込む。


「も…もとなり……貴様……!!」


床を這いずりながら直家は“毒を盛ったのか”と言おうとしたが、言葉にならなかった。至るところで身体が痙攣(けいれん)を起こし、動けないのだ。


直家が必死になって頭だけを動かし、視線を元就へ向けるが、視界がうっすらとぼやけ始め、まともに直視することが出来ない。


「おや?如何なされた、宇喜多殿。まだ酔われるのは早うござるぞ」


だがはっきりと元就が冷笑を浮かべているだけは判った。こちらの異常に驚いた様子はまったくない。まるで予定されていたかの如く、(もだ)え苦しむ直家をじっと見据えている。


「宇喜多殿、よう覚えておくとよい。謀多きは勝ち、少なきは負ける」


諭すような、そして見下すような口調で元就が言った。


「儂は経久公のように甘くはない」


かつて謀聖と称された尼子経久は、元就の資質に気付いていながらもその命を奪うことはなかった。いや、奪おうとした時には遅かったのだ。高齢により自ら出陣できない代わりに晴久へ元就討伐を委ねた。しかし、晴久は三万という大軍を率いながらも元就の前に敗北を喫した。


そして元就は尼子を滅ぼした。故に、ここで直家を生かしておくような真似を元就はしない。直家を誘い出すべく義輝が毛利へ筑前を与えたという噂を流し、元就へ遠慮があると思わせた。上野隆徳が激怒しているという話も真っ赤な嘘であり、事前に諮ってのことで、幕府と毛利の間に何も隠し事はない。筑前を得た以上、備前にまで手を出すことはしない。きっぱりと諦め、毛利の忠誠を示す。義輝に警戒を抱かれてしまえば、元就が生きている内はいいが、死んだ後の保証はない。いつか御家取り潰しを招くかもしれないのだ。


全ては毛利の家を子々孫々にまで残していく為に。それが元就の答えだった。


「お…のれ……」


最期の力を振り絞り、憎しみの籠もった言葉を力なく吐き出す。


過ちは浦上宗景を屠るべく感情を優先させたこと。不利な状況が直家の智恵の鑑を曇らせたこともあっただろう。だが何よりも直家が量り損ねたのは元就の心底、御家存続に懸ける想いだ。野心旺盛な直家には、元就も同様だと思い込み、それが理解できなかった。


これを最期に直家の意識は途絶え、再び戻ることはなかった。人を裏切り続けた者の末路は、哀れなものだった。


=======================================


三月三十日。

摂津・花隈城


四国の平定と宇喜多直家の死、さらには因幡で尼子勝久が山名祐豊の軍勢を討ち破ったという報せも届いた。また手に入りにくい東国の情勢だが、上杉謙信が上洛を目指して北陸道を進んでいるという情報が断片的に聞こえてきている。


(もう間もなく…間もなく京へ戻る時が来る)


ゆっくりと、そして確実に決戦の時が近づきつつある事を義輝は肌で感じていた。


各方面に出払っている軍勢を集結させるのには今暫く時を要するし、それらを纏めて上方へ向かうのは相応の物資が必要となる。日を置かず博多からは武具弾薬、兵糧が運び込まれているが、全軍を賄えるだけの量にはまだまだ遙かに遠い。しかし、残る敵は限られ始めている。


「その前に丹波を取り戻しておくか」


呟くようにして、義輝が今後の方針を口にする。


丹波は依然として謀叛方が押さえている。波多野秀治の弟・秀尚(ひでなお)が八上城で籠城を続けているが、寄せ手の一色義道は攻めきれずにいる。八上城が要害で兵力が乏しいというのもあるが、何よりも義輝が丹波中に檄文を送って謀叛方に反目する者たちへ挙兵を促したことが主な要因だ。近々一万を越える兵を丹波に入れるという具体的な義輝の呼びかけに、謀叛方へ恨みを持つ丹波の国人たちはついに立ち上がった。


丹波北部・山家(やまが)城の和久義国が呼応、赤井直正の甥・忠家が島清興の助力を得て八上城と黒井城の中間に位置する大山城を奪取し、籾井教業も間隙を衝いて籾井城を奪い返す。後は備前より戻った晴藤を投入し、一色義道を片付ければ丹波の回復は成る。


義輝が打ってきた布石は着実に成果を見せ始めていた。宣教師・ガスパル・ヴィレラからも色よい返事が届いており、もう一息といったところだ。後は東で動きがあるのを待つだけだ。伊丹・大物の合戦で敗北した時はどうなるかと思ったが、天は義輝を見放してはいなかった。足利幕府の天命は、未だ尽きていないことを義輝は堅く信じた。


そこへ蒲生賦秀が現れる。その表情は暗く、今の義輝の心中とは相反するものだった。


「どうした忠三郎。何ぞ悪い報せか?」


義輝が一笑し、訊ねる。


もしや八上城が落ちたかと思ったが、よしんば八上城を失ったところで戦局を左右するほどのことではない。死んだ者には悪いが、取り戻せば済む話である。各地で優勢に事を進めている幕府方の前には些事である。


だが賦秀の義輝の予想もしないことだった。賦秀は重い口を開き、泣くような声で告げる。


「昨夜、京にて…御台所様が若君を御産みになられたようにございます」

「な…に……」


その時、義輝の心が激しく揺れた。衝撃が天をも貫いた。




【続く】

二週間ぶりの投稿となります。遅くなって申し訳ありません。


さて今回で西国のドタバタはほぼ決着がついたことになります。元就の生き様というのか、元就は大内と尼子の失敗を毛利で繰り返さないようにしようとしていると私は感じていました。その結果が直家の死へとさせて頂きました。これにて備前は完全に幕府方の手に帰すことになります。


また忘れられていたかもしれませんが、前章の西国出兵前にご懐妊であった御台所が世継ぎを生みました。しかも最悪のタイミングです。これに関する動きが次回の話となります。


尚、最近は更新ペースが落ちてしまう申し訳なく思っています。お詫びと申しますか、次の連休は時間が取れそうなので早めに更新したいと思っていますので、ご安心頂ければと存じます。

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