第二十六幕 新宮党の再建 -七難八苦の果てに-
永禄十二年(1569)十一月二十八日。
出雲国・月山富田城
今より凡そ三年前のこと、山陰の要所として雲州・尼子氏の本拠であった月山富田城は、激闘の末に毛利の治めるところとなった。城代には天野隆重が任命され、山陰地方を統括する吉川元春の麾下で尼子の旧臣たちを支配していった。かつては山陰山陽八ヵ国の大大名の家来として君臨していた彼らは、誰もが過去の栄耀栄華を昔語りに日陰者として朽ちていくしかないと思っていた。
しかし、それが将軍・足利義輝の西征によって覆ることになる。今や城内の至るところでは、尼子家の軍旗・平四つ目紋が翻っている。尼子が富田城に戻ってきたのだ。
高梁川の合戦で毛利に勝利した義輝は、元就に出雲の割譲と旧守護・尼子義久の解放を認めさせ、奉公衆として働いていた尼子勝久ら一党は宿願だった御家再興を果たした。立原久綱や山中鹿之助らは主に先んじて入城し、幽閉先の円明寺からこちらへ向かっている義久を出迎える支度をしていた。
「…ようやく戻って参りました」
「そうよな。後は義久様を御迎え致せば、尼子の再興は成る」
懐かしい本拠で、苦労を共にした立原久綱と山中鹿之助は視線を交わし合うと完爾に笑った。二人は感極まった様子で、目には光るものが輝いている。
「本当に戻って来たのですね…」
鹿之助の脳裏には、三年前の日のことが蘇っていた。
三年前、二人はここで尼子の再興を誓い合った。久綱の勧めに従って決死の覚悟で城を抜け出した鹿之助は、凡そ三ヶ月かけて京へ辿り着いて幕府を頼ったものの、義輝は鹿之助の予想に反して勝久を尼子当主に認めなかったばかりか積極的に尼子を支援することはなく、勝久に禄を与えて奉公衆に加えるだけに留まった。
この時の鹿之助の落胆ぶりは、もはや言葉では言い表せないほどのものだった。
(時には公方様の御言葉を疑ったこともあったが、今となってみれば私の認識が甘かったのだろう)
鹿之助にとって尼子再興は全てであったが、義輝にとっては天下一統の一部に過ぎなかった。そのために時には義輝の言葉に怒りすら覚えた鹿之助であるが、ここに尼子の再興は成った。それは義輝の言葉が正しかったことを意味している。
「伯父上。我々は公方様に多大なる御恩を賜りました。公方様のお立場が苦しい今こそ、その御恩を返すべきときかと存じます」
鹿之助が力強く言った。
義には義を以て返す。そうしなければ、恥を掻くのは主君・義久だ。これを補佐し、強き尼子を取り戻すには更なる忠勤に励むしかない。現に因州攻めという主命が下されており、尼子として一定の成果を出さなくてはならない。そうしなければ、尼子は再び雲州を失うだろう。
「承知しておる。されど今は御家再興が果たされたばかりで義久様も戻られておらぬ。まずは御家の建て直しこそ肝要ぞ」
「は…はぁ……」
伯父の勇ましい言葉を期待した鹿之助であったが、意外にも久綱の歯切れは悪かった。それも仕方がなかった。久綱は鹿之助と違い、難しい立場に立たされていたからだ。
(今後、家中で力を持つのは我ら公方様の下で御家再興に尽力した者たちとなる。されど義久様の御心は、恐らく我らよりも安芸まで付き従われた側近衆の面々に注がれるはず。下手をすれば、家中を二分する事も有り得る)
皆が歓喜に湧く中で、久綱の眉間には皺が寄っていた。
御家再興により続々と旧臣たちが帰参、森脇久仍、大西高由、真木久綱、松田誠保などが義久の復帰を慶事として喜び、再び主君として仰ぐために戻ってきている。中には牛尾久信や佐世清宗など、かつて家中の上席にあった者たちもいる。これらの序列をどうするかは、全て久綱の手にかかっていた。
久綱の立場こそ明確であるが、御家再興に何もしなかった者たちを再び家老職へ据えるのは論外だ。かといって鹿之助を抜擢するわけにもいかない。流石に尼子再興の立役者とはいえ、鹿之助では若すぎて家中の者たちからの反発は必至だからだ。家老に据えずとも、重用するだけで問題が起こることも懸念される。また勝久の立場も曖昧となっている。一門衆筆頭といえば聞こえはいいが、名ばかりなものであることは誰もが承知している。勝久に御家を動かすだけの野心と器量はないが、捨て置くというのも勝久の下で戦った者たちからの反発は免れない。
(…あれしかないか)
久綱は胸中に抱えた一つの案を実行に移すことにした。義久にとっては受け容れがたいことかもしれないが、御家の将来を思えば、ここは呑んで貰うしかなかった。
そして義久復帰の日がやってきた。
義久が本田家吉ら側近衆に伴われて月山富田城へ戻ってきた。山麓に築かれている山中御殿へ入り、広間に居並ぶ尼子恩顧の武将たちの前へ姿を現す。安芸での生活に不自由がなかったのか、義久の姿は健康体そのもので、精神的な病も無事に癒えているようだった。
義久がゆっくりと口を開く。
「其方らの御陰で儂はこの城に帰ることが出来た。其方らの忠節こそ、父祖の残してくれた最大の遺産である。儂は…」
そこまで言って、義久は言葉を詰まらせた。
精神を回復させたとはいえ、完全に元通りというわけにはならなかった。元々気弱なところがあった所為もあり、義久は随分と涙もろくなっていた。
「儂は其方らが示してくれた忠節に応えねばならぬ。それは儂が公方様の命に従うことで果たせることと思う。いま暫くは苦労をかけることになろうが、一層の忠勤に励み、共に家を盛り立てて欲しい」
その言葉に合わせ、家臣団の面々は一斉に頭を垂れた。
「さすれば当家の方針は、公方様の御指図に従いって山名祐豊の因幡へ攻め込むということで宜しゅうございますか」
「よい。後のことは久綱に任せる」
義久が久綱へ権限の委譲を伝える。本来であれば専横を誘発させるようなことだが、現状からして義久が采配を取れる状況にない。長いこと外界との連絡を遮断されていた義久は、現状の認識すら覚束ない状態なのだ。
「では早速…」
任された久綱が音頭をとって評定を進行させる。
「早急に御家の建て直しを図らなければなりませぬ。されど戦を控えているのも事実、故に悠長に評議している暇もないと存ずるが、拙者の一存で事を進めるのも乱暴でござろう。そこで本田殿に家老職へ復帰して頂き、某と二人で義久様を補佐したく存ずるが、如何でございましょうか」
「儂はよいと思うが、豊州(家吉)はどうじゃ」
「大役ではございますが、謹んで御受けいたします」
これは久綱の懐柔策だった。側近衆の筆頭格である家吉を久綱と同格に据えることで、その不満を取り除く。しかし、力関係をはっきりさせるために一番家老は久綱であって家吉ではないし、他の者を家老職に復帰させることはしなかった。
次いで久綱は知行割りを発表した。近々に出陣を控えていることを考慮し、概ね家臣団は旧領への復帰が前提となっていたが、領地が出雲一国に減少したために知行高は大幅に削減された。筆頭の久綱ですら五千石となり、万石を越えたのは一門衆の勝久のみだ。
その時、周囲から響めきが起こった。勝久の所領として宛がわれた地が新宮谷だったからだ
「立原殿。これは新宮党を再建させるという意味でござるか」
家老職に復帰したばかりの家吉が久綱へ訊いた。義久の心中を第一に想う家吉からすれば、晴久の決定を覆す久綱の仕置きを簡単に受け容れられないところがあった。
新宮党といえば、かつて尼子家中に存在した精鋭部隊のことだ。謀聖と称された尼子経久の弟・国久が率いて各地を転戦、多くの戦功を上げて尼子全盛期の源となった。しかし、晴久の時代となると立場が一変する。新宮党が保持していた権限を晴久は当主の支配権を脅かすものと恐れ、これを粛正したのである。これにより新宮党は壊滅し、国久と嫡子・誠久は暗殺されている。
しかし、これに久綱は正面から反論した。
「如何にも。勝久様は御家再興の旗頭でござる。その御家再興を果たした勝久様が、旧領に復されぬ道理はありますまい。当家は御家再興が成ったとはいえ苦しい立場にあるのは変わらぬ。ここらで過去の遺恨は全て水に流し、皆で御家の発展に尽くそうではないか」
つまり久綱は“勝久様の功績を以て国久様らを赦免するべし”と説いていた。新宮党の再建は、その象徴になるだろうし、勝久の立場を守ることにも繋がる。
「されど…」
として尚も意見をしようとした家吉の機先を制し、久綱が一通の書状を取り出す。
「これには公方様の御許しも得ております」
そう言って久綱は御教書を義久へ手渡した。確かにそこには義輝の花押が記され、勝久の功績として新宮党の再建を認める旨が書かれていた。久綱は義久が復帰するまでの僅かな間に義輝へ使者を遣わし、許可を得ていたのである。
本来ならば新宮党の再建は義輝が口を出す案件ではない。しかし、尼子の兵力を当てにしている義輝としては、新宮党の再建は望むところだった。故に許可を出した。出雲復帰が義輝の支援に拠る以上、如何に家中の事と言えど義久が新宮党の再建を拒むことは、これで不可能となった。
「上様の御命令とあれば否とは申せぬ。勝久には新宮谷を与えよう」
「あ…有り難き仕合わせに存じます」
勝久は感激して上気し、喜びに満ち溢れた様子だった。顔とて覚えていない父だが、家に対する想いは人一倍強い勝久だ。今まで言葉にはしなかったが、心の中では父祖の罪を晴らしたいという想いを抱いていたのだろう。
この仕置きに、鹿之助は目を輝かせながら眺めていた。
(流石は伯父上。見事な御考えと存ずる)
久綱の仕置きは、複雑な家中の調和を保つ唯一の方法だろう。幕府を上手く動かした久綱を鹿之助は頼もしく思った。
その久綱がチラリと鹿之助を見た。
(ん?)
訳も分からずに首を傾げた鹿之助だったが、知行割りを義久が認可し、全員に伝えられるとその意味を知ることになった。
「わ…私が勝久様の与力とは…!?」
率直な驚きだった。
そもそも山中家は尼子庶流にも当たる歴とした直臣である。それが勝久付きの与力になるとは思わなかった。ただ理屈は通っている。今までは鹿之助たちが代わりを務めていただけで、僧籍にあった勝久には家臣団らしい家臣団がいるはずもない。かつて誠久に仕えていた者たちは、譜代衆の何れかに付属させられてしまっているので、鹿之助らがいなくなれば勝久の家臣は一人もいなくなってしまう。そうなっては困るので、久綱は一部の者たちを勝久の下へ残すことにした。
(伯父上は私に新宮党を率いろと申されるのか)
勝久に戦の采配が取れないことは久綱も承知していることだ。その上で与力に任命されたのは、自分に勝久を支えろという意味に他ならない。
(ならば、やってやろうではないか)
メラメラと闘志を湧かせた鹿之助は、強く握り拳をつくった。鹿之助の眼には、次なる戦場の光景が映っていた。
=======================================
その頃、天下を震撼させた謀叛が最初に起こった因幡国は、群雄たちの草刈り場となっていた。当初は山名祐豊が鳥取城を接収後に旧領回復を目指して各地へ兵を出していたが、そう上手く事は運ばなかった。
西方の伯耆国からは南条元清が侵攻、南方では義輝により美作国の代官・石谷頼辰が国人衆を率いて攻勢を懸けていた。謀叛方は朝倉義景率いる山陰勢の帰洛したために、祐豊は単独で彼らと戦うしかなかった。
「因幡は山名の治める地ぞ。余所者が勝手してよい地ではないわ!」
それでも父祖代々の地を取り戻すとして息巻いていた祐豊であったが、名門の地盤は既に脆く崩れ去っていた。
まず頼辰は因美国境に位置する香音寺城を攻めた。城主の佐々木駿河守は支えきれずに自害して果て、次の標的になった唐櫃城では城主の木原元信が抵抗したが、三日の内に落城した。頼辰は軍勢をさらに北上させ、景石城主の用瀬左衛門尉は幕府へ恭順を示して城を明け渡した。
これにより因幡国内では反山名の気運が高まり、元々反発的だった八上郡の毛利氏や八東郡の矢部氏、丹比氏などが呼応、因州の南三郡は幕府方の版図へ加えられた。
「順調ではないか。これならば上様によき御報告が叶おう」
首尾よく成果を上げられた頼辰は気をよくしたが、上方で義輝が敗戦したと伝わると国人たちの動きが鈍くなった。さらに備前で宇喜多直家の離反が確実となると、義輝の命により撤退を余儀なくされた。
頼辰は凡そ一月ほどで因州を去ることになった。
一方で西から因州へ乱入した南条元清は、頼辰と違って祐豊の打倒が目的ではなく、あくまでも自領の拡大に主軸を置いていた。よってまずは伯耆に隣接する気多郡の切り取りにかかった。当初は山名勢とぶつかることもなく諸城を攻め落としていった元清が、湖山池の西岸なる吉岡定勝の丸山城へと攻め寄せると、勢いは完全に削がれた。
「このような小城一つ攻め落とせぬとは…」
元清は歯噛みして悔しがった。
さして大きくない丸山城であったが、逆に少ない兵でも守りやすいという利点があった。丘陵地全体に堀や土塁を張り巡らしており、攻め上がる南条勢に対して定勝は矢弾を雨あられのように放ち、岩石や巨木を落としては抵抗した。しかも南の箕上山に兵を伏せており、思わぬ位置からの反撃を受けた南条勢は、僅か二日間の攻防で五〇〇に近い犠牲を出してしまった。
これを好機と捉えたのが湖山池東岸の天神山城にいた山名祐豊である。石谷勢が帰国し、残る敵を南条勢に定めていた祐豊は、攻め倦ねる南条勢の横っ腹を衝いて一気に勝利をもぎ取ろう考えた。
「落日の山名など恐れるに足らず、返り討ちにしてくれるわ」
一方で元清も負けずと吼えた。山名勢の接近を知ると、一時的に軍を退いて待ち受けたのである。しかし、山名勢八〇〇〇に対して南条勢は五〇〇〇しかおらず、城攻めの失敗もあって士気も低かった。勢いがよかったのは最初だけで、中盤に差し掛かると兵力差が戦況に現れ始める。元清が叱咤激励しても部隊は建て直さず、止む無く元清は西の大杉城まで兵を退いたが、そこでも支えきれずに鹿野城まで後退することになった。
「忌々しい山名め。すぐに挽回してみせるわ」
苛立ちを隠せない元清に家臣の一人が進言した。
「ここは尼子を頼るしかないかと」
「莫迦な。尼子が我が家にしてきたこと、忘れたか」
「されど“尼子と共に山名を攻めよ”というのが公方様の命でございます」
「そうであっても、尼子は頼らぬ。そもそも家が滅び、公方様の支援なくして再興を果たせなかった者どもに今さら何が出来ようか」
長らく尼子と敵対し、国を追われていた経験のある元清には、安易に尼子を頼る気にはなれなかった。かといって形勢を覆せる手はなかった。
「陸奥守様を頼るしかあるまい。使者を遣わし、援兵を請う」
そう決断した元清だったが、元就からは“上様の命にて尼子殿が遣わされる故、暫し堪えて待たれよ”という返事が届いた。
これに元清は苦虫を噛み潰したような表情となったのは言うまでもない。
その後、山名勢も鹿野城を攻めきれず、両者は長く睨み合うことになる。
=======================================
三月二十二日。
因幡国・鹿野城
ついに尼子勢が因幡の地に姿を現した。数にして凡そ四〇〇〇ほどとかつて数万を率いた山陰の王の面影はなかったが、紛れもない尼子の軍兵たちである。大将は新宮党を再建させた尼子勝久、山中鹿之助や横道正光など尼子再興の為に戦った者たちや松田誠保、秋上宗信を従えての来援だった。尼子勢は鹿野城の西側に布陣した。
「鹿之助。本当にあの大軍に勝てるのか」
勝久が不安そうな表情を浮かべた。勝久の視点からは倍する山名の軍勢は確認できても、城に籠もっている南条勢の姿は見ることが出来ない。今まで幕府の大軍の中に身を置いていた勝久が不安を覚えるのも仕方がないと言えた。
「数は互角にございますが、我らは城の内外から敵を挟み撃てる利がございます」
「なるほど、そういうものか」
「はっ。どうかご安心くださいませ」
勝久に不安を与えないよう表情を変えず言って退けた鹿之助であるが、内心は勝久と同じように不安を抱えていた。
(この軍勢で、いったい何処まで戦えるのか)
実際に尼子は俄造りの混成軍であることは否めない。尼子勢と言えるのは全体の六割ほどで、残りは西伯耆の神西元通などの協力者たちだ。本領に復帰して凡そ四ヶ月たったが、今の尼子にはこれが限界だった。
「敵がこちらへ対して備えを築いていない今が好機でございます。すぐに攻めかかりましょう」
「ん?南条勢との繋ぎを取らなくてよいのか」
速攻を求める鹿之助に対し、勝久は疑問を呈した。
「勝久様。南条殿であれば、上手くこちらへ合わせてくれましょうぞ」
代わりに返答したのは、南条元清をよく知る元通だった。元通は元清の尼子へ対する感情を知っており、下手に繋ぎを取ればどちらが主導権を握るかで揉めることは判りきっている。それよりは戦を始めてしまった方が上手く行くと思っていた。
「皆がそう申すなら、そのように致そう」
それに異見するほど勝久は戦を知らない。促されるまま開戦を決断した。
尼子が動き、その様子が山名方へも伝わる。
「御屋形様、尼子に動きがございます。どうやらこちらへ攻めてくる様です」
「ふっ。尼子を退ければ、城方の士気は失墜しよう。その上で南条の伯耆領有を認めれば、城を明け渡して帰国するに違いない」
連日の勝利ですっかり気が膨れ上がっている祐豊は自信たっぷりに言った。
祐豊には尼子と南条を破って伯耆や出雲まで一気に攻め取ってしまおうという考えはない。老齢な所為もあり、堅実に因幡を取り戻そうという考えしかなかった。故に尼子は退ければさえすればいいとしか思っていなかった。
だが、尼子の考えは違った。復帰第一線である。何が何でも勝利で飾りたいという想いが強かった。
(意外と手応えがない?もしや一気に押し切れるのではないか)
前線で山名方と搗ち合った鹿之助は、戦場で培った肌の感覚で敵の弱さを感じ取った。
「我が隊が敵の中央を突破する。後の者は我に続くがよい」
鹿之助が三日月の前立をきらりと輝かせながら、得物を天高く掲げて敵の中へ突っ込んでいく。鹿之助の率いる部隊は義輝の下で戦ってきた兵たちで、練度も高い。山名の中翼は食い破られ、祐豊は思い描いていた展開とは異なって窮地に追い込まれた。
突出する山中勢を祐豊は、田結庄是義と八木豊信を繰り出して挟撃する策に出た。
「左近将監(是義)と但馬(豊信)に左右から挟み撃たせよ。落ち着いて対処すれば、必ずや防げる」
兵力の多い山名勢なら可能な策戦ではあるが、城の押さえに軍勢を割けざるを得ない祐豊の思惑は外れた。勝久が神西元通と松田誠保を出撃させて鹿之助を援護させたからである。山名方は鹿野城の押さえに半数を割いているので、尼子へ振り向けられる兵力が限られていたのだ。祐豊は目の前の尼子勢に捉われて、そのことを軽視してしまっていた。
山名方は次第に劣勢に追い込まれ、このままだと尼子だけで勝ってしまい兼ねない勢いだった。
「いかん!これでは儂の面目は丸潰れぞ」
城内で合戦の様子を窺っていた元清は即座に出撃を命じ、一気に山を攻め下った。これに臆した山名豊国が敗走を始めたことで決着がついた。豊国は祐豊によって因幡守護に認められており、その敗走は因幡国衆の逃亡を誘発したのである。
鹿野城外に於ける戦闘は尼子・南条方の勝利に終わり、これをきっかけに因幡に於ける情勢は徐々に幕府方に傾いていくのであった。
【続く】
皆さま明けましておめでとうございます。
本年第一発目となりましたが、私の正月は休みなしの忙しさで投稿が遅くなってしまいました。申し訳ございません。
さていよいよ西国でも動きがありました。新宮党も再建され、鹿之助の念願が叶った形となりました。また義久が出陣していないのは領内の仕置きが完全に終わっていないからであり、何れ出て来る予定になっています。流石に尼子総出で出張れるほど国力は回復していません。それでも尼子が勝ってしまいましたが、当時の尼子軍は結構つよかったようで、御家再興戦でも何度か毛利にも勝っています。このような者たちですら生き残れなかったのですから、戦国の世とは厳しいものだと今さらながら思います。
また新宮党ですが、一応は晴久の粛正で解党したことにしています。引き継いだとされる尼子氏久の存在が曖昧だからです。誠久の嫡男ですので、連座させられたと考えるのが妥当と思い、そうさせて頂きました。
1/13 タイトルに誤りがありましたので訂正しました。