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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第四章 ~忘恩の守護大名~
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第二十五幕 義信挙兵 -武田を継ぐ者たち-

永禄十三年(1570)三月八日。

甲駿国境


富士川での三ヶ月余りの対陣が終わった。互いに戦意のない状態での対陣では両軍とも大した疲弊はなく、新たなる戦場を求めて移陣していった。今川氏真は徳川家康から遠江を取り戻すために西へ向かい、氏政は悲願である関東平定を成し遂げるために東へと戻って行った。


そして武田義信は父との決着をつけるために甲斐へと帰る。その帰路で義信は、富士の霊峰を横目に眺めながら物思いに耽っていた。


(また私は愚かなことを始めようとしている。笑うがいいさ、虎昌)


義信は天にいる亡き傅役へ語りかけていた。


飯富虎昌。甲山の猛虎と称された武田随一の猛将で、彼が率いる赤備えは家中最強だった。唯一、義信の謀叛に賛同し、露見した後はその命を以て全ての責任を負った武田の宿老。その虎昌の御陰で今の義信はある。返しきれない程の恩があった。


(ここで負ければ、虎昌の死が無駄になる。失敗は許されぬぞ…義信!!)


義信は自らに奮いをかけた。


相手は甲斐の虎・武田信玄である。並大抵の策では勝てない。脳漿を絞りきり、考え得る最高の策でなければ屍を晒すのは自分の方となるだろう。しかし、義信に負けは許されない。既に義信は、出してしまった犠牲の上に立っているのだから。


(私は武田の信義を守る)


信玄の代で失われた武田の信義を取り戻す為には、まずは譜代家臣らの掌握が不可欠である。彼らを御しきれなければ、父の打倒などほど遠い。


「皆を集めてくれ」


甲府へ帰還した義信は、陣触れを発して躑躅ヶ崎館へ甲斐の諸将を集めた。とはいえ全員が在国しているわけではない。内藤昌豊や浅利信種などは上野に赴いており、山県昌景は三河、馬場信春や春日虎綱などは信濃へ先行して入っている。在国している者は、義信に同行して駿河へ下っていた者や一部の譜代家臣だけとなる。


義信の命令に続々と兵が参集してくる。ここまでは信玄の命令通りなので、誰も疑問を抱いてはいない。全員が揃うと、義信を上座にして一同が大広間に集まった。


その席で義信は父との決別を宣言した。


「父とは袂を分かつ。我が家は新羅三郎義光公より続く源氏の名門じゃ。世を乱し、信義に(もと)る父の行いは、先祖代々の名誉を汚す忌むべきもの。父上の野心は、やがて武田の旗に集う者たちへ不幸をもたらすであろう。儂は武田の嫡流に生まれた者として、これを見過ごすわけにはいかぬ」


淀みない口上からは覚悟の程が窺い知れた。同時の諸将の顔色は青醒めていった。


「いきなり何を申されるのです。戯れ言にしては度が過ぎましょう」


衆議の席から声が上がった。判らなくもない。突然のことに、義信の言を現実のものとして受け容れられない者が大半だった。


「太郎。気が触れたのではあるまいな」


発言者は伯父・河窪信実だった。親族衆に属し、河窪村を領していたことから河窪姓を称している。北条との国境に位置する雁坂峠の守備を任されており、信玄の信頼も厚い。


「思い直すならば今のうちぞ。今ならば、儂の責任に於いて胸の内に閉まっておく」


親族衆筆頭の武田刑部少輔信廉が、ギロリと周囲を睨み付けた。


信玄と容姿が似ている信廉の威圧は、流石に迫力があった。違いと言えば、信玄には圧倒的は覇気があるということだが、甲斐府中に残っている者たちからすれば、それは些細なことだった。


「刑部少輔殿。若君は御屋形様とは別の道を歩まれる」


その声に答えたのは、穴山信君だった。それは信君が義信に味方することを表明したに等しい。これに小山田信茂が続いた。


「左様。されど若君は賛同せぬ者を処罰される考えにはない。次の戦は味方同士のものとなる故に、去りたい者は去っても構わぬ」


甲斐国内でも大身の二人が義信へ加担したことで、他の者たちは一様に口を閉ざした。


二人が義信方についたのには理由がある。


信君の所領は今川領に接しており、一部は駿河にもある。また信茂の所領は北条領に接している。義信は氏真の後見役であり、北条家は信玄ではなく義信を同盟相手に選んだ。彼らからすれば、本領を確保するに当たって義信と敵対する事は避けたいのが本音だ。そうは言っても義信に味方して信玄と戦うという決断に至ったのには、重大な理由があった。


それは信玄の病だった。


信玄は労咳を患っている。その所為で昔から体調を崩すことがあり、それは二人もよく知っていることだ。信玄は絶えず療養しては体調の管理に努めており、今まで生き長らえてきたが、主治医の話ではいよいよ無理が利かなくなってきているらしい。武田家中最大の秘事であるが、嫡男故に義信はそれを知っていた。


「父の病は篤く、もはや長くはない。その父の最後の悪足掻きで、武田を潰えさせるわけにはいかぬ」


義信から病のことを聞かされた二人だったが、最初は信じなかった。信玄の様子はいつもと変わらなかったからだ。しかし、今回の天下獲りは信玄らしくなかった。常から慎重な信玄が、博打に近い天下獲りに打って出た。不思議に思いながらも従っていたが、それが余命が近いとなれば合点がいった。


そうなった時、武田家は誰が継ぐのだろうか。順当に行けば嫡男の義信であるが、義信は信玄へ謀叛を起こした過去があり、親子の仲は御世辞にも良いとは言えない。一方で四男の勝頼は信玄の寵愛した側室・諏訪御寮人の子である。(次男は盲目、三男は夭折している)親子仲は良好で、この勝頼に家督を譲っても不思議ではない。


(四郎殿は、とても当主の器ではない)


信君は勝頼が好きではなかった。勝頼は気性が激しく思慮に欠ける嫌いがあり、理知的な信君とは馬が合わなかった。何度か評定で揉めたこともある。ましてや勝頼は諏訪家に養子に行った身である。信玄の姉を母に持ち、娘を妻としている信君には、どうしても勝頼を武田の当主として仰ぐ気にはなれなかった。


これに対し、義信は家中の者たちの意見によく耳を傾ける。また一門衆の絆を重んじ、軽々に扱うことはなかった。


「各々方、何を黙っておられるのか。これは謀叛ぞ!」


板垣信安が大音声を上げて立ち上がった。


信玄の命によって、かつて家中筆頭の“両職”として活躍し、村上義清と戦った上田原の合戦で討ち死にした板垣信方の名跡を継いでいた信安は、信玄へ多大なる恩がある。その忠義心から義信が謀叛に奔るところに黙っていられず、これを防がんと立ち上がった。


「謀叛を起こした若君を取り押さえる。さあ手伝って下され」


信安は声を張り上げて呼びかけるが、誰も応じなかった。目線を合わせまいと地に伏せ、貝のように口を閉ざしてしまっている。伯父である信実と信廉も動く気配がない。


「どうなされたのじゃ!うぬら、御屋形様を裏切って若君に従われるつもりか!」


誰もが判っているのだ。義信、そして信君と信茂が意思を同じくしている以上は、ここでの抵抗が如何に無意味であるか。恐らく周囲には、息のかかった衛兵が配されていることは容易に想像がつく。


「拘束せよ」


信君の号令で、数人の衛兵が現れて信安の腕を掴んだ。誰もが予想した事態だった。


「伯父上、無理に私に付き合うことはありませぬ。ここで私と父上の戦いを見ていて下され」


義信の言葉に、二人の伯父は黙ったまま頷くだけだった。


これにより甲斐は、義信によって掌握された。


=======================================


三月十日。

三河国・武節城


“武田義信の謀叛”


武田家中を揺るがす驚愕の報せは、信玄の策によって各地に散らばっている一門、重臣たちの足を一斉に止めることになった。三河侵攻を任せられていた実弟・諏訪勝頼もまたその一人であった。


「あ…兄上が謀叛だと!?それは真のことなのか」

「はっ!既に義信様の軍勢は信濃へ入り、上原城を占拠してございます」

「くッ…!」


勝頼が俄に表情を歪めた。複雑な心境である。


母は違えど、義信を兄として慕う気持ちは勝頼にもある。特に兄は何かと身内には優しく、家中の者たちと意見を対立させることが多い勝頼にも理解を示し、気を配ってくれていた。この辺り、義信が亡き典厩信繁を尊敬しているところが垣間見えていた。


ただ勝頼は、父を慕う気持ちの方が大きかった。


(兄上…、何故に謀叛など起こした。今が武田にとってどれほど大事な時期か判っておらぬのか)


父にとって天下を獲る最大で最後の機会。それをふいにしてしまう兄の行動を勝頼は許せなかった。何故に兄はこうまでして父と対立する道を選ぶのだろうか。力こそ正義と信じる勝頼には、義信が父を嫌う理由をどうしても理解することが出来なかった。


「大炊介。田峯城(だみねじょう)の三郎兵衛(山県昌景)を呼べ」


勝頼は側近の跡部大炊介勝資に命じた。


現在、勝頼は三信国境に位置する武節城にいる。ここは徳川麾下の菅沼定忠(すがぬまさだただ)の属城だ。三河侵攻に当たって信玄は菅沼氏へ調略を仕掛け、これを味方に引き入れていた。昌景は先行して定忠のいる田峯城へ入っており、三河侵攻軍の主力を担っている。兵にして三〇〇〇を預けられており、勝頼の二〇〇〇と合わせて五〇〇〇となる。これが三河侵攻に信玄が当てた総数だった。


数が少ないと思われがちだが、それは信玄が美濃方面つまりは上方に重点を置いている為だ。その中でも充分に戦果を上げるため、徳川の主力を今川家へ向けさせ、間隙を衝く形で三河へ入っている。故に可能だった昨年十一月の侵攻を三月まで遅らせていた。


それから暫くして、昌景が武節城までやってきた。


「待っておったぞ。兄が謀叛を起こしたことは聞いたな。これより軍を返し、その兄を討とうと思う」


勝頼が方針を語った。その言葉には既に迷っている様子はない。


幸いにも三河侵攻は始まったばかりであり、徳川の軍勢は顔を見せていない。今ならばこちらも損害を出しておらず、退くことは容易である。


「御待ち下され。太郎様の謀叛は確かなのでありましょうか。もし確かならば、御屋形様の下知を仰ぐのが筋にございましょう」

「何を悠長に申しておる。父に繋ぎを取るには、織田領を進まねばならぬのだぞ。その間に兄が好き勝手に信濃を切り取るのは明白だ。それを座して見ておるつもりか」

「されど…」


昌景は口籠もった。その表情は、何処か暗い。


(太郎様…、何故に謀叛を起こされたのですか。これでは何のために兄者が死んだか、判らぬではありませぬか)


謀反人を許せないという感情は昌景にもある。しかし、同時に昌景は義信の傅役・飯富虎昌の実弟であった。その虎昌の死は、義信を守るためのものだった。


「源四朗(当時の昌景の呼び名)よ。儂が諫めても太郎様の気は変わらぬ。故にお前が御屋形様に謀叛を報せよ。されど儂が太郎様を担ぎ出した事にして伝えるのじゃ」

「何を仰せです。それでは兄者が悪者になってしまうではありませぬか」

「儂の事はよいのだ。それよりも太郎様は武田を継がれる御方。ここで死なせる訳にはいかぬ」


断固たる兄の決意を知っていたからこそ、過去に昌景は涙を呑んで信玄へ義信謀叛を伝えた。そして兄の死を意味のあるものとして受け容れられていたのだ。それが義信の謀叛で全て台無しとなった。怒りがないと言えば嘘になるが、それを義信へ向けることは兄が守ろうとしたものを自ら壊すことになる。その葛藤が、昌景を迷わせていた。信玄へ下知を仰ぐというのも、その葛藤から自ら答えを出せないことによる逃げ道であった。


「信濃には深志城に馬場信春殿、海津城に春日虎綱殿がおりますので、南から四郎様が進撃すれば、諏訪の地で太郎様を三方から挟み討てることになります」

「うむ。大炊介の申す通りじゃ」


勝資が勝頼に追従するようにして献策する。武田の宿老である勝資であるが、既に次期家督を目して勝頼に接近していた。信玄が考えの異なる義信ではなく、諏訪御寮人の子である勝頼へ家督を譲ると予測している。


(万一でも儂が負けることはない)


その勝資の策で、勝頼は確信を持った。


そもそも勝頼は麾下の軍勢で合戦に及んでも勝てると踏んでいる。兄は戦下手ではないが、合戦に於いては勝頼も並々ならぬ自信を持っている。その上に策で上回っているのだから、負けようがないと勝頼が思うのは自然だった。


「兄を討つことに躊躇いがないわけではないが、謀叛も二度目となれば許されぬ。皆、心してくれ」


勝頼が決意を語り、出陣を命じる。


その後、合流した昌景の軍勢と共に高遠城へ戻った勝頼は、北上して義信のいる諏訪の地へ向かった。


=======================================


三月十二日。

信濃国・杖突(つえつき)


甲斐の軍勢五八〇〇を率いて信濃へ入った義信は、まず上原城を占拠した。この地を拠点に周辺諸城の攻略に着手、兵の大半が留守をしていた為に諏訪湖一帯は僅かな間に義信の支配するところとなった。


「さて…まずは上々といったところか」


初手を成功させた義信であるが、気を緩めはしなかった。


信君と信茂に部隊を任せ、上原城に残っていた義信は各地に分散している武田の家臣たちに自らの心情を吐露した書状を送る。


「駿河への侵攻、上方での謀叛方の勝利で一度の栄誉に預かり、気を良くしている者もいるだろうが、そのようなものが長く続くわけがない。信義を失えば、家運は傾き、家は潰える。それは我らが祖・新羅三郎義光公の例を見れば明らかである。よって私は断言する。武田の歩む道は、天下獲りなどではない。信義を守り、武田の家を子々孫々にまで繋いでいくことである。同じ家の中で争う事に心を痛める者もおろう。故に私に味方してくれずとも罪には問わぬが、父に味方することだけは止めて欲しい。そうなれば、如何に私とて其方らを討たねばならぬ」


武田の祖・源義光は兄・義家を支援して後三年の役を戦い、栄誉を勝ち得た。しかし、義家の死後に本家筋である河内源氏棟梁の座を狙って失脚している。それを義信は持ち出し、父の行いを批難したのである。


このような真似をしたのは、義信としては彼らを敵としたくはなかったからだ。父に勝つためにも、そして戦後に武田を生き残らせる為にもだ。全ては自分と父との対立で事を終わらせるつもりだった。


これには一定の効果があった。武田の家臣たちからは、次々と義信へ返書が届いたのだ。


「若君の苦悩は真にご尤もなれば、不肖それがしが御屋形様との仲立ちを致しとう存ずる。互いに言葉を交わし合えば、必ずや胸の内につかえている(しこ)りは取れ、親子の絆はより強きものとなられましょう」


これは義信の人徳といえた。皆、義信が野心から信玄を追い落とそうとしているのではないことを知っている。信玄と義信は復帰後に共に過ごす機会がなかったこともあり、家臣たちは一様に今回の謀叛を誤解から生まれたものだと考えていた。だからこそ親子の縁を修復さえすれば、元通りになると思っていた。


これが勝頼の戦略に大きな影響を及ぼした。


「馬場殿の部隊、依然として姿を見せませぬ」

「海津城の春日殿は、村上義清の軍勢に備えねばならず動けぬとのこと」


三方から義信を挟み討つという策が、早くも瓦解した。唯一味方になったのは藤沢城主で高遠城の留守居を任されていた保科弾正忠正俊ほしなだんじょうのちゅうまさとしだけだった。これも勝頼が進軍する途上にいたからという消極的な理由によるものに過ぎない。


挿絵(By みてみん)


「四郎様、ここは一旦お退きあれ。今は戦機を見合わせるしかございませぬ」


その上、麾下の山県勢の戦意も低かった。昌景は撤退を進言し、その間に信玄の下知を仰ぐべきだと主張した。


「阿呆!兵の数では我が方が上なのだぞ!ここで退けるものか!」


勝頼は高遠城で正俊の部隊と合流すると、上原城を目指して杖突街道を北上していたのだが、義信は街道の出口を封鎖してこちらを待ち受けていた。諸城の制圧に兵を割いていたため、義信勢は四〇〇〇ほどに減じていたものの、街道に蓋をするようにして部隊を展開させており、こちらを各個撃破できるようになっている。一方でこちらは保科勢を加えて五六〇〇まで数を増やしていた。よって勝頼の鼻息は荒い。


「あのようなもの、一当てすれば簡単に突き破れるわ!」


義信は最前面に木柵をずらりと並べて築いていた。その後ろには敵方の先鋒・穴山信君が控えている。これを勝頼は“たかが木柵”として侮り、突破力に秀でる己の部隊ならば必ずや攻略できるものと考えていた。しかもこちらは坂上にあり、兵法からしても有利な状況にある。


「危険にございます。穴山殿は当家の鉄砲奉行、保有している鉄砲の数は五〇〇を下りませぬ」

「ふん。鉄砲など一度、放ってしまえば終わりではないか」

「左様でございますが、木柵を突き破ったところで袋叩きに遭うのが関の山にござる」

「今さら尻込みなど、赤備えの名が泣くぞ」

「名などいくら泣いても構いませぬ。どうか兵をお退き下さいませ」


互いに一歩も退かない。そんな不毛なやりとりの最中に、一発の銃声が鳴り響いた。


「何事じゃ!?」

「穴山勢よりの攻撃にございます。既に敵は柵の外に出てきております」


これを聞いて、勝頼はニンマリと笑った。双眸には闘志の炎が燃え上がっている。


「兄はやる気のようだぞ、三郎兵衛」

「挑発に乗ってはなりませぬ」

「黙れ、異見は許さぬ。すぐに出陣する故、支度を調えておけ」


一方的に昌景へ命じた勝頼は、すぐさま陣立てを整えた。先手が跡部勝資、二番備えを勝頼が務め、兵数の少ない正俊は遊軍とした。本来であれば先手を務めるだろう昌景は、尻込みしたとして後ろ備えに回された。


「拙者が後備えとは何事ですか。陣替えを御願い申す」


当然なように昌景は陣替えを主張する。自らが先手となれば、動かない限り合戦を止められると思っていた。


「煩い!弱腰の者に我が前衛は任されぬ。黙って儂の指示に従え」


勝頼は尚も制止する昌景を振り切り、飛び出していった。それに合わせ、兵たちは喚声を上げて突撃を開始する。


「懸かれー!!」


ここが忠義の示しどころとして、先頭を切る跡部勝資は強大な雄叫びを上げて坂道を下っていく。自身も愛馬に跨がって馬腹を蹴り、集団に交じって駆けた。


「さっそく動いたか。すぐに気を逸らせるのは四郎殿の悪い癖よ。匹夫の勇では武田は継げぬわ」


信君はサッと軍配を振って部隊を木柵の中へ籠もらせると、充分に敵を引き付けた後に鉄砲による一斉射撃を御見舞いした。


「ぐわっ!!」


銃弾の雨に襲われた兵たちが血飛沫を上げて地面を転がった。五〇〇挺もの鉄砲による射撃を受けたのだ。如何に予測していた事態とはいえ、被害は少なくはない。


「怯むなッ!この隙に柵に取り付くのじゃ」


勝資は大声を轟かせ、兵を叱咤していく。鉄砲には次弾までの発射間隔があるが、柵までの距離は約一町(約110メートル)ほどなので、ここで歩みを止めれば第二射目を被ることになる。それは避けなくてはならない。


「行け!行けッー!!」


兵たちが屍を乗り越えて木柵まで近づいていく。信君は鉄砲隊を下がらせ、長柄隊を繰り出して木柵へ取り付いた跡部隊へ向かって猛烈に槍を突いた。兵卒の断末魔が上がる度に、柵は血で赤く染められていく。それでも跡部隊は執拗に柵へと群がっていくが、抵抗も激しくなかなか突破することが出来なかった。


「大炊介め、武田の宿老たる者が何たる様よ」


その様子を勝頼は不甲斐なく思った。


勝頼の中では、穴山信君の評価はさして高くない。基本的に信君は本営の守備を担当しており、合戦で華々しい戦果を上げたことがなかったからだ。その上で評定では自分の意見に否を唱えてくるから感に障る。正直いって、勝頼は信君が嫌いだった。


その信君に勝資が苦戦しているとなっては、よい気がするわけがない。


「儂が手本を見せてくれる」


として自隊を前へと進ませる。勝頼は突破する地点を一ヵ所に絞ると、そこへ兵力を集中させた。足軽部隊の影に隠れて工作隊を進出させ、見事に木柵の撤去に成功した。こうなると後は堰を切ったように木柵は崩れ去るのみだ。


「よし、退くぞ」


木柵の崩壊と共に信君が後方へ撤退していく。それを勝頼が駆けに駆けて追う。そしてあと一歩で追いつけるという時に、両翼から小山田信茂と長坂昌国が襲いかかった。昌景が予測した通りの展開だった。だが勝頼は動じない。


「弾正を左翼に進ませよ。三郎兵衛は右翼じゃ」


中央突破した勝頼は、挟撃してくるだろう両翼に保科と山県を当てることにより穴山隊を追撃、自隊の勢いを保ったまま上川を背後に布陣する義信を討つつもりだった。しかし、その目算は早くも狂いを見せ始める。


「山県隊に動きなし。依然として撤退するように求めております」

「莫迦な!三郎兵衛ほどの者が戦況を読み違えるとは思えぬ。もう一度、催促いたせッ!」


昌景が後方に止まったまま動こうとしなかったのだ。


勝頼の語気が荒い。合戦中ということもあるが、山県隊の参戦なくして勝利はあり得ないことを悟っているからである。


穴山や長坂隊と違い、小山田隊は家中でも指折りの精鋭部隊だ。これに対抗できるのは勝頼もしくは昌景の赤備えしかいない。保科隊を左翼へ向けたのは、正俊では小山田隊を防ぐことが出来ないと判断したからだった。


「…勝敗はついたな」


その隙を義信は見逃さなかった。


側面から迫る小山田隊の相手をしなくてはならなくなった勝頼が穴山隊の追撃を断念したところ、義信本隊が長坂隊の支援に動いた。これにより左翼での兵力差が圧倒的となり、保科隊が壊滅寸前に陥った。このままでは勝頼が敵中に孤立するのは時間の問題であり、そうなる前に撤退する必要がある。


「四郎様!このままでは総崩れにございます。先に退かれませ」

「莫迦を申すな!兄上に負けたまま、オメオメと引き下がれるかッ!」


勝頼は馬上から勝資を睨み付け、尚も抗戦を主張した。しかし、もはや勝敗は決している。兵力でも戦術でも負けている。これ以上の戦闘は偏に意地でしかなく、それは士卒を無駄に死なせることに繋がる。


そして遂に勝頼の面前にまで敵兵が姿を現した。勝頼は自ら長柄を振り回して立ち回り、数人の兵をあの世へと送って難を逃れたが、攻撃の波は幾重にもなって押し寄せてくる。急いで退かねば取り返しのつかないことなるのは明白だった。


「四郎様は御無事か!」


そこへ現れたのは赤備えの軍団、山県昌景であった。義信との戦いに消極的だった昌景も、流石に勝頼が窮地に陥ると動かざるを得なかった。


「三郎兵衛!今さら何しに参ったッ!!」

「お叱りは後ほど受け申す。今はお下がりあれ!」


怒り狂う勝頼を余所に、昌景は自らが盾となって殺到する敵兵との間に割って入る。その隙に勝資が勝頼を連れて戦線を脱した。一方で義信も昌景が相手では損害も計り知れないとして、深追いせずに兵を退いた。逃げ遅れた正俊は降伏を決断、これを義信は快く受け容れた。


その後、義信は一隊を藤沢城へ派遣して街道を固めると、高遠城まで逃げた勝頼が再び進出して来るのを防いだ。また自身は主力を率いて東山道を西へ進んで熊井城を占拠、深志の馬場勢と木曽福島の連絡を断った。これにより信濃の信玄方は、南北に二分されることになる。


そこで義信の動きは止まる。いや止めたという方が正しいだろう。戦火を広げることで武田の家臣たちと対立することを避けたのだ。一度、戦火を交えてしまえば討つしかなくなる。それは義信が武田を継いだ後に力を弱めることと同じだった。


対する信玄方も信玄の不在もあって、個々で動くことはなかった。


かくして信濃では暫く膠着状態が続くことになる。




【続く】

前回で元号が元亀となりましたが、今回は永禄時期の話となります。というのも各地での永禄末期の動きを暫くは描くつもりであり、その後に元亀時期を描くつもりでいるからです。


また今回の話で、前回の謀叛に於いての虎昌の死について義信と昌景で受け止め方が違うのは、虎昌の死の真相を義信が知らないためです。義信は虎昌が謀叛に賛同してくれたと今でも思っており、その虎昌が昌景に義信の謀叛を漏らしたことは知らないということになっています。


さらに合戦の推移ですが、武田の戦らしくなく鉄砲を出しています。ずっと前に書きましたが、信玄は鉄砲を軽視しておらず、織田家ほどではないにしろ相当数の鉄砲を保有しているからです。ただ大半を有していたのが信君であり、謀叛を契機に武田の鉄砲は大半が義信方に奪われたことになります。


また鉄砲と木柵で長篠の戦いを思い起こされる方もおられましょうが、木柵の後ろに鉄砲や弓を配置するのは当時では別に特別なことではないので、長篠を意識したわけではありません。隘路を利用して敵を討つには、自然とこういう戦術になるだろうと考えた末のことです。


尚、恐らく今回が年内で最後の投稿となると思います。この場にて皆さまには一年間お付き合い頂いたことに感謝を申し上げ、来年もまたご愛読頂ければ幸いに存じます。


それでは、よいお年を。

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