第二十四幕 新たなる局面 -永禄から元亀へ-
永禄十二年(1569)九月。天下を揺るがした永禄の変から四年余りが過ぎた頃、征夷大将軍・足利義輝は天下一統を成し遂げるべく十二万もの大軍を動員して西征に及んだ。最も信頼する配下である上杉謙信が関東の雄・北条氏康を幕府へ恭順させた今、中国最大の大名・毛利元就を屈服させ、九州で覇を唱える大友宗麟を膝下に置けば、天下一統は目前となる。
義輝は部隊を三つに分けた。越前の太守・朝倉義景を大将に任じて山陰を進ませ、腹心の細川藤孝には麾下の水軍を束ねさせて瀬戸内を進ませた。そして自らは七万余を率いて山陽道を進んだ。
幕府方と最初にぶつかったのは、備中を支配する三村元親だった。元親は本拠地・松山城に拠って毛利の援軍を待ち、幕府方を挟撃する腹づもりだったが、元就の動きは鈍く、元親は松山城と運命を共にした。その頃、朝倉義景も但馬へ入って山名祐豊と合流し、因幡守護家を傀儡とする武田高信の鳥取城を攻め落とした。
応仁の乱より長きに亘って続いた戦国乱世は、終息へと向かっていたかに見えた。
「朝倉義景が謀叛!京極、一色、山名らも朝倉と通じ、兵を挙げてございます!」
そこに突如として告げられる謀叛の報せ。義輝は驚き、衆議は一気に騒然となった。
鳥取城落城後に義景は波多野秀治と赤井直正を謀殺し、明智光秀へ奇襲を仕掛けた。軍勢の大半を失って窮地に陥る光秀を救ったのは、朝倉景恒だった。景恒は主家の謀叛に抵抗して光秀を逃すことに成功するが、戦場で命を散らした。最後の願いは“朝倉の家を残して貰いたい”だった。
さらに謀叛の炎は広がりを見せる。京で畠山高政が挙兵し、武田信景らを巻き込んで足利義秋を奉戴して義輝に対抗する大義名分とした。
一方で謀叛方に予想外の事態も起こった。味方にするべく事前に謀叛を起こす事を伝えていた毛利元就が裏切ったのだ。元就は謀叛を御家存続に利用し、進退が窮まった義輝へ対して八ヵ国の安堵を条件に味方につくことを明言した。元就は義輝こそが天下を治める器量を持ち、将軍の座に就くことで西国に於ける毛利の安寧はあると考えていた。
その義輝は元就の期待を大きく越えた行動をとった。天下の主たるべく元就の要求に屈せず、毛利へ挑んできたのである。高梁川で行われた合戦は兵力差と村上武吉の離脱もあり、幕府方の勝利に終わる。敗れた元就は、三ヵ国のみ毛利の所領として認めるという過酷な沙汰を受け容れるものの両川の守護化を実現し、事実上で五ヵ国を治めることを条件に義輝への忠誠を誓うことになった。
そして義輝は上方へ返した。
ひたすら山陽道を突っ走って上方へ帰還した義輝は、伊丹・大物の地で義秋奉じる謀叛方と決戦に及んだ。幕府方七万五〇〇〇に対して謀叛方の軍兵は凡そ五万と少なく、それを補うべく伊丹、大物、富松、七松と広く展開し、城郭に拠って戦った。当初から幕府方は攻勢に出て謀叛方を徐々に押していったが、武田信玄の参戦により流れは一変することになる。
天下人の座を目指す信玄は密かに摂津・野田へ上陸し、石山本願寺の助力を得て一向門徒一万五〇〇〇を借り受けて参戦した。これにより両者の兵力はほぼ互角となったが、最初から寄せてくるのと波状攻撃を仕掛けてくるのでは訳が違った。そもそも義輝は一向門徒の参戦は考慮しておらず、備えすら築いていない。相対した蜷川親長率いる播磨勢は、瞬く間に苦戦を強いられる。
「諸将に伝えい!ここが耐え時じゃ。各々持ち場を離れず踏み止まり、目の前の敵を撃破せよ!さすれば我らの勝利は確実ぞ!!」
表情を曇らせながらも義輝が総力戦を決意するが、この命令は全軍へ伝わらなかった。
「引き揚げる」
その前に幕府勢の中核を成す織田信長の軍勢が撤退を開始したからである。これを引き金として幕府方の敗走が始まり、やむを得ず義輝は戦線を離脱した。敗戦で摂津の失陥は確実と思われたが、先に撤退した信長が源平合戦で名高い一ノ谷の地に堅固な防衛陣を築き、追撃する謀叛方を食い止める。これにより義輝は上方への足がかりを残すことになったが、幕府方の損実は余りにも大きかった。
先陣となっていた摂津衆、播磨衆の中では討ち死にが相次ぎ、備前守護の浦上宗景も敗走中に命を落とした。特に宗景の死には不審な点があり、それは配下の宇喜多直家が義輝に無断で帰国したことではっきりする。祖父の復讐を誓う直家が宗景を暗殺したのだ。
「上方の合戦で御屋形様が亡くなられた。上様よりいち早く浦上家の家督相続を済ませよとの御命令を受けておる故、急ぎ与次郎様には登城して頂きたい」
備前へ帰国した直家は、天神山城に入ると宗景の嫡子・宗辰を呼び出して謀殺した。天神山城は宇喜多の兵によって制圧され、直家は宗景の兄・政宗の孫である浦上久松丸を正統なる備前の当主として擁立することを宣言した。
争乱の絶えない西であったが、東方でも看過できない事態が起こっていた。
義輝との決戦に勝利した謀叛方が空き家となっている幕府方の版図を浸食し始めたのだ。一色義道が丹波を攻め、松永久通が泉州・岸和田城を落として一国支配を推し進めていた。また副将軍の内示を受けた武田信玄は木下秀吉を破って近江を平定、織田の本拠地たる美濃へ侵攻する一方で信濃から秋山信友に岩村城を攻めさせて陥落させた。
信玄は自らを主とする甲信の兵との合流を目指していた。そのための策は既に打ってある。
「氏康を御するのは難しいが、息子の氏政なら容易い。その氏政とて今が関東平定の好機とくらいは捉えておるはず。誘いには乗ってこよう」
甲信を脅かす最大の脅威は、紛れもなく上州の上杉謙信だ。謙信を放置すれば甲信の兵は動かせず、甲信の兵を上洛させねば幕府方へ勝利するどころか軍事力を背景に信玄が天下人の立場を築くことも不可能となる。そのために信玄は北条家の野心を巧みに利用した。北条家に関東管領の職をちらつかせ、謙信の相手を任せようとしたのだ。
「小賢しい信玄の策になど乗れぬが、関八州を掌中に収める好機ではある。したが上杉の相手はしたくない。邪魔な謙信には上方にでも行って貰おう」
その氏政も信玄の野心を利用する形で謙信を関東から追い出し、関八州の制覇に動き出す決断した。信頼できる武田義信、今川氏真と駿河・善徳寺で会談して三国同盟を締結すると、氏政は松田憲秀を千葉胤富の許へと送った。
「失地回復の好機が到来した。千葉と里見の間で諍いが起きたならば、それを儂が調停しよう。無論、千葉殿に有利な形でな」
前回の上杉謙信による小田原征伐で大きく所領を失った胤富は、氏政の言葉に満面の笑みを浮かべて応じた。里見側も北条が出て来れば佐竹や結城などに支援を要請するだろうが、氏政からすればそれらは烏合の衆に過ぎず、謙信さえいなければ怖くもない。両者は利害が一致し、関東の平穏は破られることになった。
この北条の動きは信玄の予測の範疇内であった。よって謙信の上洛を阻むべく第二の策として北陸へも手を伸ばしていた。信玄は家中の対立を利用して能登守護・畠山義綱と先代の義続を追放し、越中一国を餌に椎名康胤を離反させ、北陸の一向一揆にこれらを支援させた。
これらの動きにより僅か半年余りで全国の勢力図が大きく塗り変わることになった。
一ノ谷で反撃を窺う幕府方は、播磨、美作、備中、伯耆、淡路に四国と九ヵ国を保っているものの義輝復権の要となった京畿七ヵ国を失ったことは深刻な問題だった。ただ東国には織田信長の美濃、尾張、北伊勢や徳川家の三河と西遠江、上杉謙信の上野と長尾家の越後が概ね版図となり、謀叛方に分断されるようにして存在しているが、見方を変えれば謀叛方を東西から挟んでいるとも言える。
また謀叛方は京畿七ヵ国を義輝から奪い、これに越前、丹後、但馬、因幡、紀伊、加賀、能登、南伊勢が版図となり、これに加えて武田信玄の治める信濃が加わることになる。
さらに両陣営に属さない独自の立場となったのが北条家を始めとする三国同盟陣営だ。相模、伊豆、武蔵に所領を持つ北条家を筆頭に駿河と東遠江の今川、父・信玄から甲斐を奪った武田義信がいる。国力こそ二つの陣営に及ばないものの充分に戦局を左右する力を有していた。
その中で義輝が勝利するには、どうしても解決しなければならない問題が浮上していた。兵糧、武具弾薬の不足である。幕府方は兵站を京や堺に頼っていたため、それを失ったいま軍勢の維持が難しくなってきている。
「…友閑を呼べ」
義輝は泉州から落ち延びてきていた松井友閑を呼び寄せ、博多へ赴くように命じた。戦火に見舞われたとはいえ博多は西国一の商業都市であり、未だ毛利の手によって確保されている。これを利用しない手はなかった。
「博多を幕府の直轄地とする」
博多からならば水軍を用いることで一ノ谷まで短期間に兵糧を運べるし、後々のことを考えても博多は幕府の治める土地にするべきであった。ただ博多の奪還を狙う宗麟がどう動くかという問題はある。
毛利の九州撤退後、肥前の国侍を動かして龍造寺隆信を撤退に追い込んだ宗麟は、筑後川での合戦に勝利して北上を開始するが、岩屋城を攻囲していたところに毛利輝元が支援に現れ、戦線は再び膠着状態に戻っていた。
博多を幕府が預かれば、宗麟が退く可能性がないわけではない。宗麟も義輝を頼って援兵を依頼した以上は表向き幕府方だ。しかし、当然なように謀叛方の手が及んでいることは考慮しており、現に信玄の調略は行われていた。仮に宗麟が公然と叛旗を翻せば、義輝には毛利に頼るしか打つ手はない。そのような綱渡りをしてでも博多を頼るしか方法はない。新たな領地から無理矢理に兵糧を徴発することは是が非でも避けたかった。
「この者たちを連れて行くがよい」
義輝が友閑に預けたのは堺の商人たちだった。彼らは武家の対立には中立の立場であるが、内心では謀叛方の政策に反対していた。謀叛方は寺社や公家に関銭を課すことを認めており、これが障害となって商人たちの利益を阻害していた。そこで義輝を支援し、元の関所のない状態へ戻そうと考えるに至る。そして会合衆が奉公人を選抜し、義輝の許へ送ってきたのだ。
その中で義輝の目を引く者が一人いた。小西屋の次男坊である。
「弥九郎と申したか。友閑に同行し、存分に働くがよい。功あれば、士分に取り立てようぞ」
「有り難う存じます。若輩の身ですが、精一杯働かせて頂きます」
人質として送られてきた弥九郎だったが、細やかな気配りの出来る弥九郎を義輝は商人にしておくのは勿体なく感じた。後に弥九郎は博多での功を認められて元服、行長の名を与えられることになる。
「後は陸奥守が余の申し出を受けるかどうかだな」
義輝は友閑に一通の書状を託した。友閑は博多へ赴く前に安芸・吉田に立ち寄り、元就への面会を申し出た。
「うわっはっはっは!上様は武人かと思っておったが、策士でもあられるらしい。松井殿、上様には承知したと御伝えあれ。追って隆景を遣わすとな」
書状の中身に目を通した元就は、からからと笑って承諾の意を表した。
元就からの返答を受け取った義輝は、これを機に反撃に動いた。まずは晴藤を呼び出して祝言を挙げるように命じる。相手は赤松政秀の娘であり、播磨の統治者となる晴藤の正室に迎えることにより、赤松の者どもを完全に取り込んで播磨経略を盤石にする。そのための沙汰だった。
そして祝言を終えたなら、やるべき事は一つである。
「晴藤!播磨勢を纏めて義祐を討つのだ」
「はっ。畏まりました」
祝言を終えた晴藤へ義輝は赤松討伐を下知した。義祐の裏切りは直家が久松丸を擁立していることから明らかだ。何せ久松丸は置塩城で養育されており、義祐が手渡さなければ直家が手に入れられるはずもない。
晴藤は明智光秀とその家臣・黒田孝高(小寺から改姓)の補佐を受けて赤松討伐に向かった。播磨衆の面々は大半が幕府方につき、義祐は早々と孤立する。
「真っ直ぐに置塩城へ寄せるか?」
「いえ、まず上月城へ押し寄せて攻め落とし、備前との連絡を断ちましょう」
光秀の献策は宇喜多との連携を断つことだった。義祐は京の義昭へ援軍を頼むであろうが、期待するのは必然的に近くにいる宇喜多となる。故に宇喜多との連絡を絶てれば、士気の低下は免れない。播磨の再平定も早まる。
「赤松政範ならば調略できまする」
孝高の言葉に晴藤の表情に驚きの色を浮かべる。政範といえば、赤松一族の重鎮だ。
「赤松宗家の家督を政範に認めるという条件ならば…、ですが…」
政範は思慮分別のある男で、主家の行く末を憂いている。余程のことがなければ判断を誤らないだろうというのが孝高の読みだ。
「赤松宗家の家督か。私は構わぬが、広貞が納得するまい」
赤松宗家の家督は義祐にあるが、これを狙っていたのが故・政秀である。その政秀の子である広貞が龍野家の家督を継いだが、父と同じように宗家の家督を狙っていないとも限らない。義祐が滅びれば当然なように宗家の家督も自分に回ってくるはずと思っている可能性はあった。
「左中将様。遠慮は無用にございます。龍野家は既に左中将様の外戚となられており、宗家の立場を与えようものならば、その力は守護代の別所をも凌ぎ、何れ争乱の元となりましょう。なればこそ、赤松は二つに割っておくべきなのです」
孝高は今度のことを見据えて進言していた。
もし政範に宗家を継がせれば、晴藤の外戚である龍野家とどちらが立場で上か揉めることになる。この問題を敢えて残すことで、赤松の矛先が晴藤へ向かないようにする。そうすれば主君たる晴藤の権限を侵すようなことはないだろう。
「判った。黒田の申す通りとしよう」
晴藤が許可を出し、孝高は上月城へ乗り込んだ。そして政範は降伏した。
これにより義祐は孤立無援となり、幕府方は一万余の兵力で置塩城を果敢に攻め立てた。義祐は僅かな抵抗を試みるが、城は僅か二日で落城。義祐は自害し、捕縛された妻子は全て政範へと預けられることになった。
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一月二十六日。
摂津国・鷹尾城
謀叛方の最前線で軍勢を預かる無人斎道有は、突然の幕府方の動きに戸惑いを禁じ得なかった。
「幕府方が船を集めているじゃと?」
「はい。数にして凡そ六百艘ほどですが、まだまだ増えているそうにござる」
報告をもたらした松永久秀が答える。
淡路・岩屋城に幕府水軍が集結しているという情報から考えられる事態は、幕府方の侵攻である。しかし、どうにも解せなかった。幕府方は赤松義祐を討伐したが、未だ宇喜多の叛乱を鎮められていない。四国でも河野通宣が大洲城で頑強に抵抗し、細川藤孝の攻撃に耐えている。仮に幕府方が攻めてくるとすれば、これらが解決してからだと久秀は考えていた。そのように信玄も考えられていたからこそ、織田領を攻めを優先させた。
「船戦となれば対抗しようがない。こちらも船を集めねば…」
陸戦には無類の自信を持つ道有であるが、海戦にはどちらかと言えば不得手だ。特に天下に名高い毛利の水軍に勝てるとは思っていない。毛利は離反した能島水軍を攻めて再び傘下に収めており、既に瀬戸内では幕府の侵攻を阻める勢力は存在しなかった。道有は急ぎ久秀へ指示して水軍を組織させた。
久秀は僅かな期間で卓越した手腕を発揮し、雑賀水軍や熊野水軍にも協力を要請して数の上では幕府方と互角の六〇〇艘を集めた。しかし、その頃には幕府方の船団は一〇〇〇艘を越える規模にまで膨れ上がっていた。伝え聞こえるところによれば、漁船すらも徴発して数を増やしているのだという。無駄に思える行為だが、道有はこちらも船を増やすようにと命令を下し、久秀は幕府方と同じく漁船の徴発を行った。
そして二月十七日のことだ。幕府方が一ノ谷を出陣して鷹尾城へ攻め寄せてきた。併せて水軍も動かし、再び一大決戦が行われるのではないかと思われた。
「義輝め…、何を考えておる」
幕府方の不可思議な行動に久秀は策謀の臭いを感じ取っていた。自らが謀略家であるが故に、異常なまでに優れた嗅覚を持っている。
三日後、義輝は城を攻めきれずに撤退する。謀叛方も有効な打撃を与えられなかったことで追撃は行わなかった。
義輝は鷹尾城攻略に失敗し、一ノ谷まで撤退させて水軍も大半を解散させた。勝利に沸く謀叛方だったが、久秀の予測では義輝は城を攻略するつもりなかったと思っている。しかし、その狙いを推測するには余りにも材料に欠けていた。
「まあよい。せいぜい利用させて貰うぞ」
久秀は義輝敗北を広く喧伝させた。特に京で流布には力を入れ、義景を通じて朝廷へ圧力をかけさせた。
直に合戦を見ていない公家衆は謀叛方の勝利に慌てた。今まで近衛前久の主導で謀叛方の要求を却け続けていたのだ。このまま謀叛方が勝つことになれば、確実の朝廷の立場は弱くなる。それを懸念した二条晴良が再び義昭の将軍宣下を提案した。
「将軍は内府殿である。それは主上も御認めになられておることじゃ」
これは近衛前久が最後まで反対した所為で実現しなかったが、実のところ晴良の読み通りだった。代わりに以前より奏請のあった謀叛方の諸将の官位昇進を認めること求め、前久も渋々受け容れることになった。
数日後に義昭は従三位・大納言となり、信玄と義景が正四位下・参議となった。他にも主だった諸将が叙任されたことで朝廷が謀叛方へ配慮を示したことになったが、これは事実上で義昭の謀叛を朝廷が認めることと同じ意味だった。報せを聞いた義輝が激怒したことは語るまでもない。
そして義昭が次なる一手を打つ。
「禁裏に改元を奏請する。元号を変えることは、世に変革を知らしめるよい象徴となろう」
関所の再設置や荘園の復活などで義昭は支持を集めており、二条城の金蔵から莫大な金銀を放出して公家たちを懐柔したことが決定打となって改元は認められた。
四月二十三日。元号は永禄から元亀へと改められた。
これで時勢は一気に謀叛方へ傾くものと思われたが、そうはならなかった。上洛を目指す上杉謙信が庄川で一向一揆勢を破り、加賀へ入ったとの報知が京に届けられたのである。
「上杉勢は破竹の勢いで進撃中、尾山御坊の陥落は時間の問題にございます!」
このまま上杉の進撃すれば、次は越前へ入る。その越前には、謙信の上洛を阻めるほどの兵は残っていない。
越前の守護である朝倉義景は、いま決断を迫られていた。
【続く】
投稿が遅れまして申し訳ありません。年末の忙しさと私自身の転職が重なり、どうしても執筆の時間が取れませんでした。ここ一ヶ月くらいは投稿が不定期になりそうですが、可能な限りペースを守りたいと思います。
さて今回は総括回となりました。各地の動きを少しずつ取り上げた形となりましたが、注目すべきは義輝の鷹尾攻めです。何のために攻めたのかは後々に語ることになります。
また次回からは再び個別に各地を取り上げることになりますので、義輝サイドの話は少なくなります。(場面によっては取り上げます)また今回で元号が元亀となりましたが、都合よく史実と同じとしました。決して本意ではありませんが、元号が変わる時期が違えば非常に分かりにくくなると言う判断からです。出来る限り自然な形で変更するようには心懸けたつもりなので、ご容赦を願います。