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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第一章 ~上洛~
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第二幕 若狭出兵 -義輝、猛る-

六月九日。


義輝は若狭の争乱を鎮めるべく、一乗谷を出陣した。


若狭は守護の武田義統が前守護の信豊と対立しており、守護方に朝倉、信豊方に三好・松永が介入し、度々戦闘が行われていた。現在は若狭の中央部を守護方、東部と西部を信豊方が抑えている状況となっている。特に東部を信豊方に抑えられているため、朝倉勢は上洛中に背後を脅かされるという恐れがあった。今回はその憂いを断つための出兵である。故に完全に若狭を抑える必要はなく、最悪でも東部一帯を平定してしまえば良かったのだが、可能なら若狭の兵を上洛軍へ加えたいと考えている義輝は、あくまでも若狭一国の平定を目指すつもりでいる。


「これが国吉城か」

「はっ。城主は栗屋越中にございます」

「栗屋越中か…」


栗屋越中守勝久。若狭西部を支配する逸見昌経と双璧を成す若狭武田氏の重臣である。この国吉城に拠って朝倉勢を何度も撃退した猛者であり、信豊方随一の戦巧者と言っても過言ではないだろう。小国若狭の地侍如きと侮っていた朝倉方も勝久に敗れて方針の転換を余儀なくされている。昨年、芳春寺に付城を築いて攻城の拠点とし、時間をかけて弱らせていく戦法を採っている。義輝たちはこの地に本陣を敷いた。


「国吉城は堅城。ここはじっくりと構え、まずは青田刈りを行うが宜しいかと」


以前より何度も国吉城を攻めている朝倉軍の総帥・義景が義輝へ進言する。


(何がじっくりじゃ。いち早く上洛せねばらなんというのに)


義景の鈍重さに義輝は呆れかえっていた。


そもそも義景は一度も国吉城を攻めたことはない。若狭攻めは前敦賀郡司である景恒の兄・景垙(かげみつ)が行ってきたことだ。故に景恒配下の者は国吉城に詳しいが、義景は国吉城を見ることすら初めてなのである。その義景の意見などまったく当てにはならない、と義輝は思っている。


しかし、一方で義景がいる利点もあった。


今回、義景が出陣したのは将軍である義輝が出陣するからであるが、当主自らの出陣ともあって本腰を入れたものとなっている。軍勢の数も一万五千を数えた。


(攻めても落ちぬ城など、攻めぬ方がよい)


上洛を前に中核となる朝倉勢に大きな損害を出すべきではない、と義輝は考えている。しかし、義景の出陣により軍勢の数が増えたことを活かせるのは何も城攻めにだけに限ったものではなく、特に将軍・義輝がいるという最大の利点もある。よって以前と同じ方法で攻めるのが愚策でしかない。


「畏れながら…」


ここで明智光秀が発言の許可を求めてくる。もちろん義輝はこれを許す。


「国吉城を攻める必要はないかと存じます」


光秀の進言は義輝の意に沿ったものであり、大いに関心を寄せるものだった。


「何故じゃ?」

「栗屋越中が信豊様方に付いたのは、守護の治部少輔(武田義統)様が当家を頼ったからだと聞いております」

「つまりは他家に頼る主に反発したと?」

「御意」

「さりとて前守護の信豊も三好・松永を頼っておろう」

「信豊様の方は逸見昌経の入れ知恵によるものにございます」


義輝の隣で聞いてる義景は光秀の言いたいことが掴みかねていた様だったが、義輝には何となく理解できた。光秀が言いたいのは、同じように見えて両者の立ち位置が異なる、ということだ。逸見昌経の場合は野心があってのことだろうから攻める必要があるが、栗屋勝久の場合は条件次第で降伏開城も有り得る。故に勝久を攻める必要はないと光秀は言っている。


「ではどうすれば良い」


義輝が訊ねる。そこまで言う以上、光秀には国吉城を開城させるだけの策がなければ意味はない。


「まずは後瀬山にて治部少輔様と合流し、先に逸見を攻めるべきかと存じます。また丹波衆へ決起を促す御内書を発して頂ければと存じます」

「丹波衆へ決起?」

「信豊様方を支援しているのは丹波の内藤宗勝(松永久秀の実弟)にございますれば、介入を許せば若狭平定は長引くかと」


光秀の考えはこうだ。まずは若狭争乱の根源である逸見氏を討伐、それに際して三好方より援兵を送らせないために丹波衆を決起させて足止めさせる。逸見を討ち、義輝の命にて守護の義統の正当性を認めた上で朝倉勢が若狭から完全に撤退することを条件とすれば、勝久は城を開けるはずと読んでいる。しかし、この策の欠点は長年に亘って守護方を支援してきた朝倉家にまったく旨味がないことだ。現時点で義景が光秀の策を理解していれば、激怒しただろう。それが分かっているから、光秀は遠回しな言い方で義輝に進言しているのだ。聡明な義輝なら、理解するだろうと。


(されど、そなたはそれで良いのか?)

(大事は公方様の上洛にございます。今さら若狭などに構ってはおられませぬ)


目で会話する二人。物事の本質を見失なわず、将軍家第一に動く光秀に義輝は大いに満足した。


「治部少輔と会うならば余が出向かねばなるまい。左衛門督、余の供をせい」

「は…ははっ」


未だよく状況を掴めていない義景が反射的に返事をする。


「景恒。ここはそちに任せる」

「はっ」

「されど田畑を刈り、城方を刺激するような真似は致すな。城を囲み、動きを封じるだけでよい」


いずれ開城させる城、青田刈りなどを行って刺激すれば勝久は武辺の者だけに意地になって降伏を拒否する可能性があった。故にここは軽率そうな義景でなく、景恒に任せることにした。景恒であれば、家中を見返すために義輝に信頼を得たいと考えているため、命令に背くような真似はしないだろう。


「しかと承りました」


思った通り景恒は特に異を唱えることなく、命令を受けた。また義輝は光秀を残していくことにした。万が一にでも景恒が城方を刺激しそうなことをやろうとした場合、身体を張って止めるだろう。


「明智、そちも残り景恒を扶けよ」

「承知仕りました」


光秀も義輝の意を汲み取り、命令に従う。


さっそく義輝は義景と共に丹後街道を東へ進んだ。途中、信豊方の城がいくつかあったがの一万を越える朝倉勢を阻めるような軍勢はなく、義輝は難なく後瀬山城に入ることが出来た。そこで守護・武田義統の出迎えを受ける。


「上様、よく来てくれました」


この小国の守護は今年で初老(四十才)を迎えるが、立て続けの謀叛からの心労か、顔はやつれて頬は痩けており一回りは老けて見えた。自分と似た境遇に同情を禁じ得ないのは相手も同じようで、己の苦境に駆けつけてくれた見知らぬ義兄に義統はただただ感謝し、涙した。


「朝倉殿もわざわざの御出馬、感謝致す」

「治部殿も儂が来たからにはもう安心じゃ。大船に乗った気でいるがよい」


この後、若狭から朝倉の影響が完全に取り払われるとは露とも知らない義景は、目の前で這いつくばる義統の態度に己の自尊心を刺激され、尊大に振る舞った。


「治部、さっそくだが逸見昌経は何処におる?」

「ここより東、二里半(約10㎞)ほど行った高浜という地におります。新たに水軍を組織し、今年になって新城を築いております」


逸見昌経は四年前の戦いで守護の居館・後瀬山城を凌ぐとも言われた砕導山(さいちやま)城を朝倉軍に落とされており、新たな本拠とするべく高浜に築城を開始した。


ここで義輝は義統の“今年になって”という言葉が引っかかった。


「治部。今年になって城を築き始めたのならば、まだ完成しておらぬのではないか?」


今年はまだ六月に入ったばかりである。半年も過ぎていない。


「はっ。未だ普請中かと」

「ならば一気呵成に攻める!」


義輝は即断し、武田軍を加えた全軍に出陣を命じた。すぐさま軍令は全軍へ届けられ、若狭では類を見ないほどの大軍が西へ進む。


しかし、ここで大事件が起こった。


「義統殿は若狭守護にあらず!若狭守護はこの信方ぞ!」


突如、義統の弟である彦五郎信方が新保山城で挙兵、街道を封鎖して国吉城の景恒との連絡を断ったのである。しかも信方は己が若狭守護であると主張した。


「莫迦なことを……余が守護と認めたは治部少輔ぞ」


信方の抱える兵は少ないので一手を差し向ければ済む話として初めは軽く考えていた義輝だったが、続報が入ると軽視できない事態へと発展した。


なんと京にて足利義栄が征夷大将軍に就任、武田信方を若狭守護に任じたというのである。しかもそれを義統の父・信豊も認め、後見として新保山城へ入ったという。


「このッ!痴れ者共がぁぁぁ!!!!」


いきなり前将軍(さきのしょうぐん)にさせられた義輝の怒りは凄まじかった。愛刀・鬼丸国綱を引き抜くと手当たり次第に周りの物を斬りつけた。憤怒の表情で怒りを撒き散らす義輝の姿は阿修羅か仁王かと思われるほどの異形ぶりで、朝倉や武田の将たちは揃って義輝を畏怖した。


しばらく暴れた後、息を切らせた義輝が命令を下す。


「即刻、逸見を討てぃ!返す刀で信方も討つ!」

「はっ!!」


恐怖心に駆られ、朝倉・武田軍は一直線になって逸見昌経の高浜城を目指した。その行軍速度は速く、僅か一刻(2時間)で後瀬山から高浜までの距離を走破した。


「将軍が来た!?先に攻めるのは信方ではないのか!」


これに慌てたのが昌経である。


昌経は義輝を擁す朝倉勢を追い払うには三好・松永の援軍が必要と考えていた。これに自身の水軍と連携し、陸と海の二方面から反撃する。守護に仕立て上げた信方は謂わば援軍が到着するまでの時間稼ぎにするつもりだった。朝倉勢が若狭へ介入する大義名分は将軍・義輝と守護の義統がいればこそである。義栄が新たな将軍に就任し、信方を若狭守護としたならば大義名分は失われる。逆に守護職を得た信豊方に大義が生まれる。故に義輝が攻めるなら、その名分である信方をまず攻めると思っていた。


常の場合ならそうである。しかし、怒り猛った義輝は常ではない。いつでも始末できる信方は捨て置き、三好・松永と通じる昌経を攻めた。


先ほどまではどうやって朝倉勢を攻めようか考えていた昌経は高浜城を焼いて遁走した。未完成の城では防ぎきれないと考えたのだ。


しかし、怒る義輝は逸見勢の逃走を許さなかった。追撃に追撃を重ね、逃げる兵を追うに追った。奴らが逃げ込む先は分かっている。丹波の内藤宗勝のところだ。逃げる先が分かれば、追いかける方も楽である。


結局、昌経だけは何とか丹波へ逃れることに成功したが、その手勢は壊滅した。残った諸城も開城し、西若狭が完全に義統に降った。


昌経がたった一日で敗北したことは信方の新保山城へも波及した。これに信方の家臣たちが三好方へ肩入れしたことを後悔し始めたのだ。


「今からでも遅くはありませぬ。兄君に降られませ」


と諫言する家臣たちだったが、今さら引けない信方はあくまでも抵抗の意思を示した。それは朝倉・武田の大軍が眼前に迫っても変わらなかった。それはそれで戦国の武将として信方の勇気を評せるところだが、家臣団は違った。


主を追ってでも、降伏するべきと考えたのだ。


翌日、信方と信豊の若狭追放を条件に新保山城は降伏。残るは栗屋勝久の国吉城だけとなった。


義輝が国吉城へ戻った頃には怒りも収まり、冷静に状況を把握できるまでになっていた。


(余が将軍でなくなった今、治部の正当性が失われた。栗屋越中が城を開くことは難しかろう)


と考えていたが、芳春寺に戻った義輝を待っていたのは予想もしない人物だった。なんと景恒の手引きで栗屋勝久本人が現れたのだ。


「御恥ずかしながら公方様へ弓を引いてしまいました。どうか御許し下さいませ」


目を丸くして驚く義輝。隣の義景も何が起こったのか分からないでいる。しかし、目の前にいるのは紛れもなく栗屋勝久である。


「実は……」


景恒が語る。


これより三日前。義輝が新久保城を囲んだという報せが景恒の許へ届けられた。これを聞いた光秀が単身国吉城へ入り、勝久を説得したのだという。勝久の挙兵はあくまでも若狭を想ってのことであり、昌経と違って野心から端を発したものではない。義輝が若狭は武田氏のまま統治を任せるつもりであること、逆賊三好・松永らに擁立された義栄に何ら正当性のないことを光秀は諄々と説いた。これに武辺者である勝久は大いに納得し、義輝が戻ってくる前に開城したした方がよいという光秀の勧めに応じて城を開けたのである。


(こやつは……、余の期待以上の働きをしてくれるわ)


改めて光秀の才能に惚れ込んだ義輝は、上洛の暁には光秀を直臣にすることを決断した。


こうして若狭は武田義統の下で纏まることとなり、栗屋勝久も今の地位のまま留め置かれることになった。義統は義輝の支援に感謝を述べ、上洛の時には手勢を率いて参陣することを誓った。


義輝は一乗谷へ戻ることになった。六月二十二日のことである。


また今回の若狭出兵は思わぬ戦果を上げることになった。義輝の呼びかけで決起した丹波衆が内藤宗勝と激しく交戦し、若狭の争乱が鎮まった後も互いに退かぬ状況が続いた。


そして八月二日。


丹波・黒井城を攻撃していた内藤宗勝が城方の反撃を受けて討ち死(宗勝と共にあった逸見昌経も討ち死)にしたのである。宗勝は丹波一国を任されていた程の人物であっただけに、三好方の損害は計り知れないものとなった。


これを機に丹波での攻防が逆転することになる。




【続く】

上洛編第二幕です。


正直、栗屋勝久の立ち位置には悩みました。野心で謀叛に奔った一面もあるので。しかし、後の義統の子・元明も救出していますし…、若狭武田家への忠節があり、ただ取り巻く状況が彼を謀叛へ奔らせた、としました。


逸見昌経は問答無用です。

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