第二十一幕 善徳寺の会盟 -新三国同盟成立-
十二月十九日。
駿河国・善徳寺
霊峰・富士の麓にある善徳寺は、駿河では一、二を争う大寺である。若き日の今川義元が修行し、その住持を務めていたのが軍師・太原雪斎だった。その善徳寺には、鎧武者の姿が幾人か確認できる。今川と北条の兵である。しかし、数は数人といったところだ。両軍の本隊は西方の富士川で睨み合っており、いまにも合戦が始まるかのような様相を呈している。
その戦地から僅かに離れたところで、ある会談が行われようとしていた。
「久しいのう、刑部殿、義信殿。いや、いまは甲州殿か」
先に席に着いていた北条氏政が、会談場に入ってきた武田義信と今川氏真に挨拶した。
彼らが揃って会ったことは一度もない。何度か個別に対面したことがあるくらいで、こうやって政治の場で会談すること初めてのことだった。
「先日の書状は拝見した。正直に申すが、驚いた」
切り出しは氏真からだった。その表情には、二日前まであった暗さは微塵も感じられなかった。
「ふふっ。関八州の制覇は我が北条の悲願、その機会が訪れたということよ」
氏政は自信たっぷりに言った。
北条の家督として、父祖が果たせなかった悲願を自分が達成する。この会談も、そのための憂いを取り除くのが目的である。
その氏政を見る義信の態度は、何処か冷ややかであった。
「左様か。して、会談を望んだということは、我らに対して望むことがあるのではないか?」
「いきなり本題か。儂としては、いま少し富士の眺めを楽しみたいところであったが…」
開け放たれた襖の奥には、雪を冠した富士の姿を一望することが出来る。天下一の威容を誇る富士の山は、いくら眺めていても飽きないものだ。大望を抱く氏政の心には、富士の大きさが己と重なって見えていた。
「富士の観賞は、暫しお預けと致すかのう」
氏政の態度は何処か悠長だった。
それは時間に余裕があるからだ。関東平定という大望が有りながらも、いま関東には上杉謙信という邪魔者がいる。氏政は謙信が関東にいる間は動かないと決めており、少なくとも雪解けの季節までは、この地で今川と対峙しておく必要があった。
「まぁ、こちらとしても話が早いのは助かる。端的に申せば、御二人と盟約を結びたい」
「盟約?我らと左京大夫殿がか。しかも善徳寺でとは、本気で申しておるのか」
天文二十三年(1554)に善徳寺で甲相駿三国同盟が結ばれたのは余りにも有名だ。三人の父、武田信玄と北条氏康、今川義元が一堂に会して盟約が実現した。三者とも戦国を代表する大名であったが、武田は信濃の地で上杉謙信(当時は長尾景虎)と争っており、北条は関東で古河公方との戦いに勝利していたものの情勢は不安定、今川義元は三河進出で尾張の織田家と合戦の連続と問題が山積している。それでいて互いでも争っていた。
故に互いの目的を果たすため、後顧の憂いを断つべく同盟を結んだ。これは三者に共通した利益があったからこその結果である。その結果には、いま向かい合っている三人が深く関わっている。
氏政の正室は義信の妹であり、義信の正室は氏真の妹だ。そして氏真の正室が氏政の姉だった。三角関係で婚姻が結ばれることにより、三国同盟は確たるものになった。そして同盟は信玄が駿河へ侵攻するまで十二年間も続く。戦国の世では、長く続いた方である。
「甲州殿は父の真似事と笑うやもしれぬが、互いに充分な利があると思うぞ。まさか判断を誤り、国を失いたくはなかろうからな」
落ち着いた口調だが、明らかな脅しだった。
氏政は武田・今川の陣営が信玄の命に従って西を目指すものと考えている。つまり、その留守を衝くことは容易であると氏政は言っているのだ。確実に北条は甲信だけではなく、駿河をも併呑するだろう。それだけの力を北条家は持っている。
(関東が欲しければ、勝手に獲るがいい)
脅しを受けても義信は淡泊だった。本気で氏政が甲信へ兵を入れる気はないと判っていたからだ。最初に氏政が言ったように、氏政の関心が関東にしかないことを義信は見抜いている。
「儂は構わぬ。そもそも関東に干渉するつもりはない故な。左京大夫殿の好きになされるが宜しかろう」
氏政も北条を担う者である。その者が関東を獲ると決断したのなら、どのような結果に至ろうとも自己の責任である。それを義兄弟とはいえ、義信は止めるつもりはない。
理解を得られたことで、氏政の表情に綻びが見え始める。
「有り難い。流石は甲州殿、話の判る。して、刑部殿は如何か」
「儂も、北条領に兵を入れる気はない」
次に返答を求められた氏真がキッパリと答える。この言葉に、氏政は満足そうに頷いた。
「うむ。儂は御二人と兄弟になれたことを、これほど嬉しく思った日はない」
と言って、氏政は大きな笑い声を上げた。同盟が成立したと思い、口元が緩む。ただ義信と氏真は表情を崩しておらず、氏政へ武田家と今川家より、一つずつ条件があることを伝えた。
「条件?何じゃ」
氏政が不満げに言った。
この同盟は明らかに北条家が優位に立ってのものであり、氏政からすれば“領地を攻められないだけ有り難いと思え”という感情がなくもない。故に条件を突き付けられること自体に不満を思った。しかし、本来ならば盟約に条件は付きものなのである。それが一つで済むならば、これ以上に楽なことはなかった。
「援兵を頼みたい」
先に口を開いたのは氏真の方だった。その緊迫した表情からは、ある種の決意が読み取れる。
「今川は、徳川と戦うことにした」
「徳川と?それが信玄殿の策か」
氏政は信玄が北条に上杉を抑えさせようとしたように、今川へ対しては徳川を抑えるように命じたのだと考えた。それ自体に間違いないが、氏政の問いに氏真は首を左右に振って否定した。
「徳川と戦うのは、今川の意思である」
氏真は力強く言った。
「信玄殿の策ではないと申すか」
「左様。家康は長らく当家の庇護を受けながらも、桶狭間で父・義元が死んだ混乱に乗じて三河を奪った卑怯者にござる。そして儂が信玄殿に攻められた隙を衝いて西遠江までも奪った。これを許すことは、断じて出来ぬ」
「なるほど…、尤もな話じゃ」
氏政は何度も頷きながら氏真の言葉に同意を示した。同じ大名である故に、氏真の感情を理解できなくもない。自分も同じ立場であれば、きっと氏真と同じ事を決断したであろう。
だがそれは、幕府陣営に属する徳川との戦いとなる。仮に上方で義輝が勝利した場合、遠江を取り返したところで今川家の取り潰しは免れない。
そうならないようにするには、義信の行動が鍵を握っている。
(三河は元々今川の領地というわけではない。父が手練手管を駆使して版図に加えた地じゃ。その地まで手に入れることは、父の器量に遠く及ばぬ儂では不可能であろう。されど遠江は違う。彼の地は今川家の治める土地じゃ。父祖代々の地くらいは、守り通して見せる)
三河や尾張まで兵を進められたのは、それだけの器量を父が備えていたからである。父ほどの器量がないと断じている氏真は、三河を取り戻すことを最初から諦めていた。ただ今川家の当主として、先祖代々の土地である遠江は取り戻す決意をしていた。
(遠江を取り戻した時点で家康とは和睦する。家康は受け容れまいが、その時まで上方で戦が終わっていなければ上様へ仲介を願い出ることも可能なはずだ)
それが氏真の思惑だった。
氏真には信玄に味方して謀叛方として上方の戦に加わる気はない。それよりは信玄のいない幕府方へ味方したいという思いが強かった。しかし、今を逃しては西遠江を取り戻す機会は訪れないだろう。故に西遠江を取り戻した時点で和睦し、幕府方として上方の戦いに加わる。謂わば今川と徳川の戦はあくまで私戦であり、上方の争乱とは無関係だと位置づければ、味方を欲している義輝が今川の遠江守護復帰を認める可能性は残されている。
「今川と徳川の力は互角、いや衰退しておる今川と徳川の勢いを比べれば、徳川の方が上であろう。されど左京大夫殿の援助があれば、この差を覆せる」
氏真は言葉を選ばず正直に言った。自らが劣ると断ずるのは、武士には恥ずべきことだが、同時に氏真の覚悟を示すことにもなった。
「…仔細は承知したが、一つ解せぬ。確かに東海三国を東西で領する今川と徳川の力は互角であろう。ならば甲州殿が手助けすれば済むことではないか」
尤もな疑問を氏政が指摘する。
義信は復帰に伴い、収公されていた旧領を取り戻している。さらには武田の嫡流として、信玄不在の甲斐に於ける命令権も有している。精強なる甲州兵が支援すれば、家康など簡単に潰せると氏政は思う。氏真の覚悟がどうあれ、表向き信玄の策と違いがなければ義信が氏真を支援することは、差して難しくはないはずだ。氏政としては関東平定に全力を注ぎ込みたい以上、正直なところ今川へ兵を貸したくはないのだ。
今回の同盟も氏政は不戦協定のつもりであり、軍事同盟までは求めていなかった。義信のところへ話を持っていったのも信玄への不信からであり、義信から“関東へ干渉しない”という言質を取った以上、氏政の目的は概ね達成されている。
「儂とて刑部殿を支援するつもりだ。されど甲斐の兵は動かせぬ」
氏真と同じようにして、断固たる決意がそこにはあった。
「何故か」
「甲斐の兵は全軍を西へ向けねばならぬ故、駿河へ兵を送る余裕はない」
「さりとて、たったいま甲州殿は刑部殿を支援すると申したではないか」
「言葉に偽りはない。故に左京大夫殿が援兵を遣わしてくれるのであれば、武田が治める上州の地は全て譲っても構わぬと思うておる」
「なんと!?」
氏政の表情に驚きの色が浮かび上がる。
関八州の制覇を目論む氏政にとって、西上野の武田領とて例外ではない。しかし、同盟を締結すれば手を付けるわけにはいかなくなる。それでいても関東を北条の下で統一するには、何としても欲しい土地だった。それを義信は、援兵を出すだけでくれるという。
「元々儂は、先にも申した通り関東に干渉するつもりはない。武田の治める地は、甲信であって関東ではない」
「一つ問いたい。それは信玄殿も承知のことか」
「知らぬ。儂の独断だ」
さらりと言って退けた義信に対し、氏政は呆れ顔で返した。
「それでは話にならぬ」
当然と言えば当然だ。西上野を譲ると言われても武田の総帥である信玄の関知しないことであれば、約束を反故にされるも同然である。その上で援兵を求められても割に合わない。
「左様か。今ならば、謙信の信頼を得るには絶好の機会だと思ったのだがな」
突然の義信の言葉に、氏政の双眸が怪しく光った。その意味するところを瞬時に悟ったからだ。だがその前に確かめることが一つある。
「もしや甲州殿は信玄殿と…」
「左京大夫殿。これは武田家中の問題でござる」
氏政が言わんとするところを、義信が口を挟んで遮った。それが答えだった。
「…承知した。甲州殿の申し出を呑もう。駿河へも我が手勢から援兵を遣わす。されど五千が限度ぞ。それ以上は割けぬ」
氏政としては、西上野の割譲には一万ほどの価値があると思っている。氏真が家康と戦い、勝つには必要な数だろう。しかし、関東平定の大仕事が控えている以上はとても割けない人数だった。
「感謝いたす。それだけあれば、家康を上回れる」
それでも氏真は満足そうに頭を垂れた。これで勝負に出られると思ったし、自分は援助を受ける側だったからだ。
「して、甲州殿からの条件とは何か」
ここで話題は義信へと移る。同盟の条件には、今川と武田から一つずつあるということなので、武田側からの条件を氏政が受け容れられなければ、今川への援軍もご破算となる。
「我が妹のことだ。知っての通り父たちが結んだ同盟は一度、壊れておる。我が父の所為でな」
義信は皮肉を込めて言った。
「とはいえ、蒸し返したところで詮なきこと。世は乱世、何が起こるか誰にも判らぬ。堅く盟約を結んだところで、将来に武田と北条が敵対することが絶対にないとは言い切れぬ。その時、我が妹を送り返さず、正室のまま左京大夫殿の側近くに留め置いて貰いたい」
これは武田というより義信個人としての願いだった。
義信は永禄八年(1565)十月に駿河侵攻を巡って父と対立、謀叛を画策したが発覚し、東光寺へ蟄居処分となった。この処分が二年後の永禄十年五月に解かれるわけだが、躑躅ヶ崎館に戻った義信は北条から送り返されていた妹の姿を見て愕然とした。
「何だ…これは……」
陽気ではつらつとしていたかつての面影は完全に消え失せ、骨と皮になるまで痩せ細った妹は、青白い表情で今にも死にそうだったのである。投げかけた言葉にも、禄に反応しようとしなかった。
「何故に斯様なことになった」
と家中の者へ聞けば、妹は最愛の夫と離縁させられて甲斐へ送り返され、出家して黄梅院と名乗ったが、それから暫くして実家と嫁ぎ先が合戦に及び始めると少しずつ食事を取らなくなっていったという。
経緯はどうあれ、まだ自分は明らかに父へ対して謀叛を起こしたから蟄居されたのは判る。しかし、妹に何の罪があるというのだろうか。結局は己の欲から出たことではないか。この仕打ちに、義信の感情は爆発した。
(そこまでして…、そこまでして駿河が欲しいか!天下が欲しいかッ!!)
義信の叫びは、どうあっても父に届く事はなかった。
それからの義信は、駿河へ赴くのを遅らせて妹の回復に全てを費やした。和睦が成ったので“北条家へ戻れる日は近い”と妹を励まし、“そんな姿で夫の許へ戻るのか。それでは氏政殿が心配するぞ”と言って食事を取らせた。その甲斐もあってか、半年後に妹は生気を取り戻して夫の許へと帰ることになった。
(あやつが生きられる場所は、左京大夫殿の許しか有り得ぬ)
それが義信の氏政へ求める唯一の条件だった。それと同時に、義信は決意を新たにすることになる。
(身内すら守れぬ男に、武田の家は任せられぬ)
父へ対する敵愾心は、父が駿河攻めを言い出した頃よりも大きくなっていた。義信は表向き信玄の命に従う素振りをして後見役を続けながら時を窺っていた。そんな時に父が上方へ大勝負に出た。そして氏政からの会談要請が舞い込んだことで、全ての支度は整った。
この同盟が締結されれば、既に味方に取り込んでいる穴山信君に加えて北条領に近い甲斐東部・郡内地方を領する小山田信茂の協力を取り付けることも可能だ。そうなれば武田の嫡流として甲斐の兵を動かすことも難しくはない。氏真の後見役である義信が幕府方として信濃へ攻め入れば、氏真の徳川攻めが私戦であることの証明ともなる。
「異存はない。儂としても室と再び離縁するつもりは毛頭ないからな」
義信の条件を氏政は快諾した。
そもそも氏政が黄梅院と離縁したのは父・氏康の命によるものだ。氏政としては武田と敵対しようが室を実家へ送り返す気はなかった。それでも父には逆らえず、離縁に至っている。
「これで同盟は成立じゃな」
氏政が二人へ確認を促す。氏真は力強く返答し、義信は静かに頷いた。
ここに新三国同盟が成立した。
【続く】
完全にタイトルでネタバレの回となりました。
今回の話は誰がどの陣営に立つかという話ではなく、同盟によって各々が目的を果たすという話になります。つまり…
氏真は失地回復を目指して家康との決戦に臨み、義信は武田の家を守るために父との離別を決断、氏政は関東制覇を目指して後顧の憂いを断った。
という訳です。これにより互いの家が一蓮托生になることは各々が望んでいません。故に目的を目指した結果、どうなろうともそれは各々の責任ということになります。彼らに幕府(義輝)への忠義はなく、あくまでも家を保つために利用するに過ぎません。(ただ義信と氏真の場合、信玄と敵対する道を選ぶことから自然と幕府方となるしかない)
まあ読者の方々は“氏真が家康に挑むなど無謀な…”とお思いでしょうが、氏真視点(義信から見てもですが)では家康は間隙を衝いて領土拡大をした武将にしか思われておらず、それなりの器量はあるだろうが父・義元には及ばないと見ています。故に氏真は義信らの助けがあれば勝機はあると考えたのです。
また穴山信君や小山田信茂が義信に従う理由は後々に記述する予定ですが、まあ言ってしまえば彼らも国人領主ということです。
尚、黄梅院の死因は不明ですが、時期からして心労の末に食事を断って(または病気になって)死去したと私は解釈しています。史実では永禄十一年(1568)の十二月に駿河侵攻が始まり、翌年の六月に黄梅院が亡くなっていることから、二年ほど駿河侵攻が早くなった拙作では義信復帰の時点で死にかけている状態だと仮定しました。心労の原因が氏政との離縁だとすれば、原因解消によって回復しても不思議ではないという判断です。これが義信の挙兵に大きな影響を与えました。
次回は謙信の視点に一度戻り、話を上方へ移す予定です。家康の登場は、もう少し先になりそうです。