第二十幕 動き出した東国 -雌伏の秋、過ぎ去る-
永禄十二年(1569)十一月十四日。
上野国・厩橋城
上杉謙信が居城とする厩橋では、秋の穫り入れも無事に終わって季節は冬へと変わり始めていた。かつての居城・春日山では既に雪がちらついている頃であるが、まだ上野では初雪は見られない。肌寒い風が吹きつけてくるだけだ。今年は関東へ居を移してより三度目の冬となる。もはや謙信も慣れてきた。
「今年は豊作のようじゃの。関東での戦がなくなり、田畑の手入れに専念すれば、かくも八木の収量が増えるものなのか」
八木とは米の異称である。
そもそも農閑期には出稼ぎをするのが東国の常識なのだが、今年は安心して年が越せそうなほどの収穫量だった。そこに驚きを感じつつも謙信は、確かに泰平の世の訪れを感じていた。
最近では三重の天守から領民たちの姿を眺めるのが、謙信の楽しみの一つとなっている。
「上様が西国を治められれば、この乱世も直に終わろう」
謙信は終わりの近づいてきた乱世を振り返り、感慨に耽った。ようやくといった心地だ。
戦に明け暮れていた過去を振り返れば、これ程までに穏やかな日々は謙信にとって初めてのことだった。幼少期の越後は動乱の真っ直中であり、元服後は兄・晴景の下で合戦に次ぐ合戦の日々を送る。皮肉にも“兄の支えになりたい”という想いに反して、合戦に勝つ度に病弱な兄に代わって謙信を推す声が日増しに高まっていった。結局、謙信は兄の隠居で越後の統治を担うことになる。しかし、越後を統一しても戦いの日々は終わらなかった。北条氏康、武田信玄といった外敵と戦い、その過程で謙信の精神は少しずつ蝕まれていく。高野山への出奔を企てたのは、そんな頃だ。その謙信を救ったのは、他でもない将軍・義輝であった。
義輝の境遇は謙信に近い。だが規模がまるで違う。
越後の主であった謙信に対して、義輝は日ノ本の主である。しかも味方は僅かな幕臣のみという酷さであり、上方では裏切りが裏切りを呼び、誰が味方で誰が敵なのかも分からず、都は欲望に渦巻く暴徒どもの巣窟と化していた。それでも義輝は天下の安寧を誰よりも願い、求めていた。京という小さな場所から、日ノ本全体を見渡していたのだ。
「幕府の弱体化が乱世を招いた。全ては将軍家が不甲斐ない所為よ。そなたにも要らぬ気苦労をかけたな」
遠国から訪れた謙信に義輝は、まず乱世を招いた不明を詫びた。そして自らの方が苦しい立場にありなあらも謙信を労ったのだ。
「余は将軍家の力を取り戻し、必ずや天下に泰平を実現させてみせる。越後一国を統べるそなたからすれば、軍勢を持たぬ余など心許なく思うだろうが、共に乱世を鎮める担い手になってはくれまいか」
と言い、謙信へ多くの権限を付与した。これは後に“上杉の七免許”と呼ばれている。その言葉に謙信は心が洗われる思いがした。義輝は主君であるが、謙信は生涯で初めて同士を得た気分だった。それからの謙信は、吹っ切れたように戦う意義を見出した。義輝の為に幕府の再興を誓い、関東管領の役目に勤しむようになった。
そして、ついに乱れきった東国に秩序が回復した。謙信が夢にまで見た光景が、いま現実となって目の前に存在する。あと一歩で泰平が実現すると、この時の謙信は信じて疑わなかった。
西からの報せが届くまでは…
「京にて変事あり!足利義秋様が謀叛に及んだとのことにございます」
肩で息をしながら天守へ駆け込んだ側近の本庄実乃が、信じられないといった表情で報告する。
「…は?」
それは謙信も同じだった。開いた口が塞がらずに聞き返したので、報告した実乃も戸惑ってしまう。信じられないのは謀叛という事柄だけではない。その首謀者が義秋ということが何よりも信じられないのだ。但し、報せは京に残してきている者からの報知であり、疑いようのない事実だ。
「何故に義秋様が謀叛など起こされる?」
尤もなる疑問をそのままぶつける。
謙信の知る義秋は、幕府の再興に強い意欲を持ち、常々に“兄の扶けとなりたい”と口にしていた使命感の強い青年だった。京に滞在している謙信へ助言を求めた事もあり、その義秋が義輝に背くなど俄には信じられない。
「理由は定かではございませぬが、謀叛には畠山高政ら留守居の者どもが加担しておるようにございます」
「…尾張守がか」
途端に謙信の目が鋭くなった。
高政とは面識があるが、それほど親しく話したことはない。京で謙信が懇意にしていたのは、織田信長や明智光秀など積極的に義輝の復権へ協力した者たちで、高政のような勝ち馬に便乗したような者とは顔合わせをした程度しかない。また高政は義輝から重要な役割は与えられておらず、東国から京を訪れている謙信にとって、限りある時間を割いてまで会っておかなくてはならない人物ではなかった。
故に謙信は高政が如何なる人物か、よくは知らない。但し、畠山は三管領の一つだ。かつての細川京兆家が行ったように、管領として義秋を傀儡とし、幕政を牛耳るつもりだと考えれば得心が行く。
謙信が謀叛という事実を信じるには、この構図しか考えられなかった。だからといって、それを断固として許すわけにはいかない。
謙信の思考が、乱世へと戻って行く。
「上様は確か、備中におられるのであったな」
「はっ。続報は得ておりませんが、先月の中頃に備中へ入ったと報知がございました。幸いにも毛利とは未だ対峙しておられぬようにございます」
「ふむ。ならば取って返し、謀叛を鎮めるくらい上様にとって造作もなきことであるな」
義輝の軍勢は七万を越えている。山陰には別働隊がおり、合わせれば十二万もの大軍となる。謀叛を鎮圧するには充分過ぎる規模だ。仮に毛利が総出で出張って来たとしても、山陰の部隊を戻すだけで乱の平定は事足りる。留守居の兵では、一万や二万を集めるのが精一杯だろう。
謙信が知り得ている情報から推理すれば、そのようになる。
「実乃、兵を集めよ」
「兵?…何故にでございますか」
「決まっておろう、上洛する」
しかし、どうも嫌な予感がした。まだ何か起こるような、そんな気配だ。昔から自分はこういう時の勘が鋭い。その勘は有事の時こそ研ぎ澄まされ、外れたことはなかった。その為、謙信は勘に従って行動することに戸惑いはない。
「御待ち下さい。上洛しようにも、間もなく北陸道は雪に閉ざされます。今からでは間に合いませぬ」
当然の指摘を実乃がする。
今でこそ上野では雪が降っていないが、既に越後では雪が降り始めている。上洛するとなれば相当な準備が必要となり、それが調う頃には街道は完全に雪に埋もれているだろう。如何に謙信が上洛しようにも、無理なものは無理なのだ。
それに謙信は怪訝な顔つきで返した。
「何を申しておる。東海道があるではないか」
この答えに、実乃は渋面になる。
北条が義輝に恭順したことで、上杉との争いもなくなった。今川も義輝に恭順したことにより、東海道は完全に幕府へ属したことになっている。それでも長年の敵であった北条への疑念が尽きないのが人というものだ。実乃を始めとする上杉の家臣たちは、今も北条を敵と捉えている。これは謙信も承知済みのことだ。故に昨年の暮れ、謙信は敢えて東海道を通って上洛した。北条領を通ることで家中に蔓延る疑念を晴らそうとしたのだ。
謙信の目論見は半ば成功するが、完全に払拭するには至っていなかった。人のよい主に代わって、まだ実乃は北条を疑っていた。
(一度、恭順を示した者まで疑ったのではきりがない)
それでも、それが謙信の信条である。
これまでも裏切った者を悉く許してきた。そして北条氏康は、実子・氏規を幕府へ差し出してまで恭順を誓っている。それを疑うことは、武士としてあるまじき行為。そう考えているのだ。それは上杉謙信という人間の大きな魅力であったが、同時に弱点でもあった。
「危険にございます。いま北条領を通るなど、何があるか判りませぬ!」
主の身を案じる実乃が、強硬に反対する。
京で謀叛という大事件が起こった以上、慎重に行動すべきだった。特に謙信の不在は、関東で何を引き起こすか判らない。道中に襲われることも考えられるし、上方へ向かった直後に東海道が北条によって塞がれてしまえば、領国との連絡は完全に断たれてしまう。そうなってからでは遅いのだ。
「ならば北条も上洛させればよい。儂から相模守殿へ書状を遣わそう」
その実乃の懸念を謙信は一蹴する。謙信にとって大事なのは己の身ではない。義輝の身であり、その天下なのだ。
「…なれば、異存はございませぬ」
実乃は視線を落とし、黙り込んだ。
こうなった主を諫めることが不可能であると、実乃は知っているのだ。それに主が言うとおりに北条が同陣するならば、確かに危険はないのだ。今はそうなるように祈るしかなかった。
「支度を急いだとしても半月は掛かります。その間、軒猿を京へ放つことを御許し下さい」
「…よかろう」
こうなったら少しでも危険を排除すべく、情報収集に努めるしかない。軒猿の足ならば、半月あればぎりぎり戻って来られるはずだ。北条のことも大事だが、肝心の京の状勢が判らなければ手の打ちようもない。
(それにしても初めから京へ軒猿を放っておれば、このような手間をかけずに済んだものを…)
実乃は心中で大きな溜息を吐いた。
京は義輝の御膝元であり、そこへ軒猿を放つことは味方を疑う行為となる。ましてや相手は主君なのである。よって謙信は、永禄九年(1566)の帰国と共に軒猿を全て引き上げさせていた。これが今回、裏目に出る結果となった。
その次の日のことである。小田原へ派遣した使者と入れ替わるようにして、北条安房守氏邦が訊ねてきた。
「これは如何なることでございましょうや!」
開口一番、氏邦は凄まじい剣幕で詰め寄ってきた。
「これは…とは」
反射的に謙信は、負けずと語気を強めて言い返す。
「戦支度のことです。もしや上杉様ともあろう御方が、上方の謀叛に与するつもりではありますまいな」
氏邦は床を平手打ちにし、ずいっと身を前に乗り出しながら言い放った。
いきなり来て何を言い出すかと思えば、氏邦は謙信を疑ってかかったのである。謙信の額にくっきりと青筋が浮かび、顔色が見る見る内に赤く染まっていく。
「たわけがッ!この儂が上様を裏切ることなど、あろうはずがなかろうッ!」
謙信の雷鳴にも似た大声が部屋中に響き渡る。一瞬、これに氏邦は身を震わせたが、すぐに表情をパッと綻ばせると、乱れない口調で語り始めた。
「それを聞き、安堵いたしました。実のところ当家としては、此度の謀叛はまさに青天の霹靂でございまして、どのように対応してよいか判断しかねております。手前が参上したのは、我が主より上杉様の御意向を伺って参るよう申し付けられたからにございます」
「そうであったか…、すまぬ。大きな声を出した」
「いえ、手前も言葉が過ぎました。御許し下さりませ」
そう言って氏邦が頭を垂れる。謙信も深く息を吐き、昂ぶった感情を鎮めた。
「儂は上洛しようと考えておる。それについては東海道を通るべく、昨日に小田原へ使者を遣わしたところだ」
「小田原へ?」
「うむ。その様子では、恐らくは入れ違いになったのであろうな」
「…左様でございましたか」
「よければ安房殿よりも口添えして頂けると有り難い。儂は一刻も早い上洛を望んでいる」
「畏まりました。では早速に小田原へ赴き、上杉様の御言葉を伝えましょう」
「頼み入る」
謙信が氏邦へ頭を下げる。これは国主である謙信の立場からすれば異例のことである。それだけに謙信の意思が本物であることの表れともなった。
これにて謙信と氏邦の会談は終わった。
上洛の支度が調うまでの間、謙信は厩橋城にも創建した毘沙門堂へ籠もることにした。
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十一月十九日。
相模国・小田原城
厩橋城を後にした氏邦は、その足で小田原まで赴いた。謙信との会談を兄・氏政へ報告するためである。いつもの大手門をくぐり、三ノ丸から二ノ丸を通って氏政のいる主殿へと入る。
主殿には氏政と松田憲秀が待っていた。三者しかいない密談だった。
「して、謙信の様子は如何であった」
上座に坐る氏政が弟へ訊いた。
「やはり上洛するようです。かなり上方のことが気になっている様子でした」
「だろうな。かの軍神も将軍のことになると単純なものだ」
己の予想が的中したことで、氏政は得意満面の笑みを浮かべた。氏政に限らずとも、上方の政変で謙信がどのように動くかなど判りきったことだった。
「謙信は小田原へ使者を遣わしていると言っておりましたが…」
「ああ…、あれか。返答を頂かずには帰れぬなどと抜かしおって、しつこかったわ。こちらから氏邦を遣わしておると伝えたら、ようやく引き下がりおった」
余程に手を焼いたのか、氏政の顔からは笑みが消え、うんざりとした表情になる。しかし、読み通りの展開に氏政の機嫌を取り戻し、本題へと入った。
「それよりもだ。あの上杉謙信を信じさせることが出来たのであろうな」
「こちらから疑ってかかりましたので、恐らくは大丈夫かと存じます。よもや我らが謀叛方に与するとは思ってはおりますまい」
「ま、本当に与するわけではないしな。上方の戦など、興味ないわ」
氏政は吐き捨てるように言った。本当に上方の事に興味がないようだった。事実、氏政の関心事は関東にしかなかった。
「ならば後は武田じゃな。それにしても信玄め、関八州の支配を我らに認めるとは思い切ったことを言ってくるものじゃ」
氏政が口元を怪しく緩ませた。
先日、武田方から密かに通知があり、氏政は一連の企みを知ることになった。信玄は北条を味方に付けるべく関八州の切り取り次第を認め、上方で事を成した暁には関東管領職を任せたいと言ってきた。これに氏政は乗り気になっている。
旭日昇天の勢いで幕府を再興させてきた将軍・義輝は、西征という大一番で躓いた。関東で戦がなくなって凡そ二年、守護職を得た相模・伊豆・武蔵の支配は完全となり、兵たちは充分に英気を養っている。広大な版図を持つ北条家の雌伏の秋は、もはや過ぎ去った。
今こそ動くときだと氏政は確信している。
「されど御屋形様。余り武田殿の言を信用なされない方が宜しいかと存じます」
苦言を呈したのは憲秀だ。確かに信玄からの申し出は魅力あるものだが。それを素直に受け容れるかどうかで重臣たちの意見が割れている。
「御本城様(氏康)は、信玄のいない甲信にこそ兵を入れるべきだと申されております」
「と、言われてものう…」
憲秀の言葉に氏政が表情を曇らせる。
ようやく父の指図がなくなってきたと思えば、これである。評議に顔を出さなくなっただけで、未だに重大事項には憲秀を通して口を出してくる。重臣たちの多くも父の顔色を窺うことを止めはしない。氏政としては面白いはずがなく、家督は自分だという自負が父の判断を受け容れ難くさせていた。
言葉から察するに、父・氏康は信玄を信用していないようだった。
とはいえ父の言う通りに信玄の留守中に甲信を攻め取ることが選択肢の一つとしてあるのは、氏政も理解するところだ。これを推しているのは、父以外では武田領に近い滝山城を預かっている実弟の氏照であり、兄の立場としても無視することは出来ない。
「左衛門佐(松田憲秀)。我ら北条の悲願が関八州の制覇であること、忘れたか」
氏政は語調を強めて言った。
あくまで氏政は関東に拘っていた。信玄の言葉を信用していたからではない。信用しない上で事を進める秘策を既に氏政は胸中に抱いている。最大の理由は、貧しい甲信を得るよりも肥沃な関東に魅力を感じていたからである。
「関東で一波乱あれば、我らは上杉と事を構えることになりましょう。さすれば将軍のことです。必ずや上杉の肩を持ち、我らが謀叛に与したと断じるに違いありませぬ。上方にいる左馬助様のこともございます。どうか短慮だけは慎まれますよう御願い申し上げます」
「そなたの懸念は判る。安心せい。上方で謀叛方が負けるようであれば、即座に甲信へ兵を入れるつもりだ」
氏政が如何に関八州の制覇を目指そうとも、上方で謀叛方が敗れてしまえばその時間もなくなる。そうなった時は甲信を攻め取る方が利口というものだ。
「では謀叛方が勝利した場合は、如何なさるおつもりですか」
「無論、関東平定に乗り出す。そのために上杉へ氏邦を遣いに出したのだ。これで我らが許可を出さぬ限り、謙信は関東から動けぬことになる。ま、春には出て行って貰うがな」
関東平定の最大の敵は上杉謙信である。勝てないという考えは氏政にはないが、勝つには相当な時間と労力を要するのは目に見えている。故に氏政は、謙信の留守を衝くつもりでいる。
それでいて全軍を関東へ向けるには武田も敵に回せないし、氏規のことがあるので公然と謀叛方へ与するわけにもいかない。表向き幕府方に属し続ける必要がある。
「我らが関東を得るには、左衛門佐。そなたにも大いに働いて貰わねばならぬぞ」
氏政の双眸に力強い光が灯る。
関東で最大規模を誇る北条家で、関八州の制覇という野望が確かに再燃していた。
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十二月二日。
武蔵国・鉢形城
北条氏邦の居城である鉢形城へ上杉からの使者が訪れた。用向きは東海道を通ることについてであり、その返答を早く貰えるよう催促を促すものであった。これに氏邦は、謙信が上方で義輝が負けたことを知ったのだ判断した。
「小田原と確認が取れ次第、儂自ら返答を携えて上杉様の許へ伺おう」
氏規は使者にそのように託した。それから十日ほど無為に時を過ごし、ようやく厩橋を訪れたのは十二日のことであった。
「先日、上杉様よりの申し出に対する返答をお持ち致しました」
「うむ。伺おう」
言葉こそ落ち着いてはいるが、僅かに謙信の口調が早いことに氏邦は気付いた。これに氏邦は謙信が焦っていることを確信した。どのような人物であれ、焦っているならば判断は鈍るのが常である。そこに衝け込む隙は必ず生じる。
「当家としては上杉様と共に行動することは吝かではごさいませぬ」
切り出しは、謙信の申し出を全面的に受け容れるものだった。ただ謙信としては、その言い回しが気になった。
「条件がある…と申されたいのか?」
「そうではございませぬ。先に確認するべきことがございます」
「何事か」
「謀叛方に武田殿が与しておられること、上杉様は御承知でございましょうか」
信玄の名が出た瞬間、謙信の表情が一瞬にして朱に染まった。そこには明らかな敵意が窺い知れる。
謙信は義輝の敗北と共に武田信玄が合戦へ介入したことを知った。これにより謙信は全て信玄が仕組んだことであると悟ったのである。
(この儂だけでは飽き足らず、上様を虚仮にするどころか義秋様まで誑かすとは言語道断。この儂が信玄を討ち、天下に秩序を回復してみせる)
謙信は憤怒の念に駆られていた。目前にまで迫った泰平の世を乱す悪の権化、それが謙信の見る武田信玄像であった。
信玄は純粋な義秋の想いを踏みにじり、傀儡として祭り上げた。でなければ、あれほど幕府の再興を願っていた義秋が兄へ謀叛を起こすことなど謙信には信じられない。故に自分が元凶たる信玄を排除し、引き裂かれてしまった二人の仲を取り持つ決意を固めたのである。
ただ謙信の焦りは信玄の存在だけではない。朝倉義景の加担や松永久秀の存在が謙信の心を焦らせていたのだ。謀叛の規模は、謙信が予想するよりも遙かに大きかった。
(あの折り、儂が久秀めを討ち漏らしさえしなければ…)
永禄八年(1565)の上洛時、久秀の信貴山城を攻めたのは謙信だ。故に責任の一端を感じていたのだった。
「知っておる」
僅かな沈黙の後、謙信は口を開いた。
「ならば、東海道を如何にして通られるおつもりでしょうか。今川には武田甲斐守殿が後見役としておられ、間違いなく謀叛方に与するものと存じます」
「知れたこと、叩き潰すまでよ」
威勢よく言い放った。謙信は天下の秩序を回復するために戦ってきた。その志はこれからも変わらず、秩序を乱す者を許すことは出来ない。正義の鉄槌を下すのみ。
それを聞き、氏邦は“やはりそうでありましたか”と言って語を継いだ。
「伏して御願い仕ります。我が兄・氏政は今川刑部殿、武田甲斐守殿と義兄弟の間柄にございます。御二人の説得を当家に任せては頂けないでしょうか」
「説得…?」
「今川殿は公方様に窮地を救われた恩がございます。また甲斐守殿は必ずしも父・信玄殿と仲がよいわけではなく、此度の謀叛に賛同されていないやもしれませぬ。我が兄が翻意を促せば、聞き入れる余地はあるかと存じます」
氏邦の熱弁に謙信は押し黙った。
妻子がいない謙信としては、兄弟という絆を何よりも強く感じている。自らも兄・晴景の為に戦い、家臣の謀叛で命を落とした二人の兄の名誉を回復させたこともあった。かつて謀叛を起こした長尾政景も、姉・仙洞院の助命嘆願があればこそ許した。
それでも今の謙信には優先させなければならないことがある。
「気持ちは察するが、上様は窮地に立たされておる。そのような時間は…」
「そこを曲げて!武田家が敵となれば、上杉様とて領内の手当なしに御上洛は無理にございましょう。その間に、必ずや二人を説得して見せまする」
途端に謙信の眉間に皺が寄る。
領内の手当とは、箕輪城の喜多條高広のことである。雪に閉ざされた甲信へは手出しできないが、箕輪城を攻めることは可能だった。謙信としても領地を留守にするわけであるから、敵である高広を無視することは出来ない。いま叩いておけば、全軍を京へ上らせられるという打算もある。義輝も合戦に敗れたとはいえ相当な軍勢を維持しており、今日明日の命ということはなく箕輪城を落とす時間はあった。
情に流された謙信が、承諾の意を口にする。
「相分かった。そこまで仰るならば、御任せ致そう。されど儂が箕輪城を落とした後も説得が叶わぬならば、討ち平らげて京へ向かうことと致す」
「御理解に感謝申し上げます」
氏邦は恭しく頭を垂れる。
それからの謙信の動きは素早かった。元々支度が調っていた事もあり、翌日には兵を動かした。
軍列を成して厩橋城を発するのは一万二〇〇〇の軍勢。利根川を越え、真っ直ぐと西へ進んでいく。箕輪城まではさして距離はない。朝一で進発した上杉勢は、昼過ぎに箕輪城へ到達した。
「即刻、城を落とせ!」
謙信の下知に、上杉の兵たちは箕輪城へ攻めかかった。
対する武田方も上杉の攻撃を予期していたのか、万全の態勢で迎え討つ。武田四天王の一人・内藤昌豊を送り込み、喜多條高広が三〇〇〇の兵と共に籠もっていた。これに小幡信貞を大将に安中景繁ら西上野衆二五〇〇を派遣し、後詰とする。
ただでさえ難攻不落の箕輪城を、謙信は攻め倦ねた。
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十二月十七日。
駿河国・駿府城
駿河守護・今川氏の居館である今川館は、永禄九年(1566)に突如として侵攻してきた武田信玄によって灰燼に帰した。その後、氏真が駿府へ復帰すると再建が始まるが、かつてのような豪奢なもの建設されず、飾りっ気のない質素な造りになっている。この辺りは氏真の後見役である義信の意思が反映されていると言っていい。但し、防衛能力は格段に向上していた。
館があった主郭部分を本丸とし、その外郭に二ノ丸を造営、水堀で周囲を囲い、典型的な輪郭式の城郭として生まれ変わった。もはや駿府城と呼ぶのが相応しいだろう。城は将軍家の親族衆に相応しく、二条城を模した造りになっており、これにより駿河に於ける今川の威勢は往時ほどではないにせよ、かなり回復することになった。
その駿府城へ急使が飛び込んで来る。
「興国寺城に北条勢が集結しております。その数、一万五千!」
「…来たか」
急報に義信が落ち着いて対応する。隣りに座す氏真にも驚いた様子はない。義信は使者の男を下がらせると、おもむろに口を開いた。
「どうやら左京大夫殿(氏政)は本気のようだな」
「…………」
淡々とした口調の義信に対し、氏真は何やら難しい顔をしている。煮え切らないといった、そんな表情だった。
「まだ決心がつかぬか?」
「儂は…、どうするべきなのであろうか」
義信の問いに、氏真は不安を口にする。その氏真を義信は優しげな眼差しで見つめている。
「それはご自身で決めるべきこと。儂が指図することではない」
「されど、甲州殿は儂の後見役でござろう」
「名ばかりのな。これまで通り、儂は刑部殿へとやかく言うつもりはない」
義信は言葉通り、氏真の後見役に就任後は基本的に政務へ口出しはしてこなかった。今川家の再建は主に寿桂尼が氏真を後見して進めており、義信が口を出したことと言えば、御家の危機に最後まで忠義を示した朝比奈泰朝へ軍事を任せること。一部の側近へ政務を任せるようなことはせずに自ら執ること。それについて助言が必要ならば、重臣たちの衆議で諮ることの三つのみだ。後は氏真に訊ねられれば答えるといった具合であり、それも指図ではなく助言の域を出ていない。
それ故に義信は寿桂尼からの覚えも目出度く、その態度は寿桂尼の死後も変わらなかったことで家中の評判も徐々に高まりつつあった。甲斐にいた信玄からすれば、義信が今川家中を掌握しつつあると見えたはずだ。
現に信玄は上洛する途上で駿府へ立ち寄った際、義信へ今川勢を徳川へぶつけるよう指示を出していた。
「甲州殿の腹は決まっておるのか」
「昔から変わらぬ。武田の嫡流として生を受けた儂の役目は、武田の家を次の世へ繋ぐこと。そして武田の信義、名誉を守ることだ」
義信がゆったりとした口調で話す。それは既に、何かを覚悟しているようだった。
「…甲州殿には悪いが、儂は信玄殿を信じられぬ」
「何を今さら。あのようなことがあって、信じられる方がどうかしておる。儂が言うのも何だが、父は何も変わっておらぬぞ」
「で、あろうな」
氏真が呟くように言った。
駿府が炎に包まれて三年の月日が流れている。ようやく城下の再建も終わり、その傷跡が消えてなくなりつつあった。それでも氏真の脳裏には、あの時の風景が強く焼き付いている。
「……儂は」
氏真が言い淀む。
いま氏真が決断しようとしていることは、不出来な自分を支えてくれた義信を巻き込むものだった。それでいて義信は指図をするようなことはせず、全てを自分に委ねてくれている。また氏真が如何なることを決断しようとも、可能な限り支援することを約束してくれていた。
「先ほどの報せからも判るとおり、左京大夫殿も己の往く道を決められたようだ。後は刑部殿の番にござる」
氏真が小さく頷く。
二人は氏政が兵を向けてきている理由を知っている。先日、その意図を記した書状を受け取っているからだ。故に一万五〇〇〇もの軍勢が国境に迫っていても動じていない。
「儂は父のように強くはない。されど父のように有りたいと思う」
今も氏真は、亡き父・治部大輔義元の背中を追っていた。
兄・氏輝の死で勃発した家督争いに勝利し、軍師・太原雪斎の補佐を受けて東海三国に覇を唱えた。“東海一の弓取り”との呼び声高く、一時は天下に最も近い大名となった。軍事にも政務にも長けた名将・名君であった父は、とてつもなく偉大で誇りだった。
「されど…、儂にはそれだけの器量がない」
その父との差を、誰よりも氏真は理解していた。父の抱いた夢、意志をとても引き継げそうにはない。それでも氏真には譲れない一線があった。
「然様なこと、自分で決めるものではない。大事なるは、己の意思だ。まず成すべき事を定め、後は貫くのみ。それは誰であっても変わらぬ」
そんな氏真の背中を義信が押す。
父・信玄は成すべき事を決めている。それを実現すべく最後の大勝負に出た。義兄弟である氏政も決めた。ならば、義信としても己の大義を貫くだけである。残りは氏真一人だ。
長い沈黙の後に、氏真が決断する。
「判った。……左京大夫殿と会おう」
明朝、一万の軍勢が東へ進んだ。
【続く】
今回は東国注目株の総登場です。概ね、これで東国面々の思惑が見えたのではないでしょうか。ただ恐らく謙信、氏政、義信の行動については歴史に詳しい皆さまは予測が立ったことだと思いますが、氏真についてはいまいち分かり難かったと思います。これが次回の話となります。
これらに周囲の佐竹や里見など主に関東諸侯が影響されることになります。
また今回の話の中で、義昭の名が義秋になっているのは改名前の話だからです。判りづらく申し訳ありません。尚、義秋の見方が義輝サイドと違って謙信サイドでは完全に被害者となっています。信玄に対して遺恨がある所為でもありますが、大きな要素は謙信の中で義輝が目指す世と義秋の目指す世が同じように思われているからです。