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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第四章 ~忘恩の守護大名~
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第十九幕 虎 対 猿 -戦国最強へ挑む戦国一の出世頭-

一月二十日。

近江国・永原城


愛知川での浅井久政の敗北は、武田信玄にとって大きな誤算となった。


そもそも久政が謀叛方に与することは、当初から予定されていたことだ。それを敢えて遅らせたのは、伊丹・大物合戦後の織田領侵攻を目論んでこと。浅井家の当主である長政が義輝と行動を共にしていることから、必ず織田の将は浅井が味方であることを疑わない。そこに生じる隙を巧みに利用し、一気に近江を制圧する。それが信玄の策であった。実際に信玄の策は上手く作用し、織田の援軍を壊滅させるという成果を上げた。


それが久政が織田に敗れたことで、全て無に帰してしまった。


「おのれ竹中…。今孔明との異名は飾りではないということか」


これが当事者でなければ、半兵衛の策を褒め称えたであろう信玄であるが、敵対者である以上はそうはいかない。眉間に皺を寄せ、策を練り直す。


(このまま永原城に腰を据え、調略に力を入れるか…)


近江侵攻には、元近江守護の六角承偵が同行している。これは元国主である承偵の実力を買ったわけではなく、旧臣への調略を期待してのことだ。わざわざ京極高吉に旧領の一部を返還させる約束をさせてまでさせている。これも織田領を短期間で制圧するために必要な手段と考えたからだ。


だが半兵衛は、その時間すら信玄には与えなかった。この日の夜になって、石部城に蒲生勢が現れたという報せが届いたのだ。放置すれば京との連絡を断たれることになり、一転して信玄は窮地に陥ることになる。


(ちっ。竹中め、こちらの思う通りにさせてはくれぬわ!)


手放した主導権をなかなか返してくれない半兵衛に、信玄は思わず舌を打った。


報告によれば、蒲生勢は二〇〇〇。伊賀一国を預かる立場を思えば少なく思う。これは息子の賦秀が兵を率いて出陣している事や伊勢の北畠具教を警戒しなければならない事が主な理由と推察できる。


「数からして京極勢を戻せば充分にございます。ここは京極様に戻って頂きましょう」


側近の曽根昌世がそのように進言するのも当然と言えた。しかし、それを信玄は首を左右に振って退けた。


「蒲生の相手ならば、旧主の承偵を戻すべきじゃ。承偵ならば、蒲生の軍容を知り尽くしておる」

「されど六角勢では数に不安が残りますし、観音寺城攻めにも支障が出ましょう」

「故に京極勢も戻す」

「京極勢もですか?」


充分な処置に昌世が難色を示す。蒲生勢に対して備えが充分すぎたからだ。蒲生勢は二〇〇〇、それに対して信玄が戻すとした人数は倍の四〇〇〇だった。


「六角勢には承偵の他に義治がおろう。義治を道案内のためにこちらへ残せば、観音寺城攻めに懸念はなくなる」


信玄は京極と六角勢を戻すことにより、背後を確実に固めることにした。これは信玄にとってはやむを得ない決断であった。


(いや、やはり余人は頼りにならぬ。儂が動かねばなるまい)


僅かな間だが、共に行軍したことで斎藤龍興や六角承偵の将としての器量を信玄は掴んでいた。信玄の目から見た彼らは将としての器量に欠け、国主など到底、務まらないと思われた。はっきり言って武田の家中には、彼らよりも優秀な将が山ほどいる。織田信長に国を追われたのも無理もないというものだ。


それでも龍興に比べれば承偵はまだ使えたが、戦下手の高吉の不安もある。故に二〇〇〇に対して四〇〇〇もの兵を割いた。これは信玄の不安の表れとも言える。


(もっとも、これならば承偵が儂に不満を申すことも出来まいがな)


承偵には旧領の一部を返すという約束をしているが、実のところ観音寺城一つに留まるというのが高吉との密約だ。高吉からすれば、北近江の所領安堵を約束に味方となっている浅井に加え、南近江まで承偵に返すことになってしまえば己の取り分がなくなってしまう。故に信玄は高吉へ観音寺城しか要求することが不可能だった。それを旧領の一部と言い換えて、承偵へ伝えている。


嘘は言っていないが、事実を知った承偵から不満が出るのは明らかである。しかし、承偵自身が功を立てていなければ不満の言いようもなくなる。


それにいま信玄が考えなくてはならないことは、恩賞云々のことではない。


「明朝すぐに兵を動かすぞ。まずは長光寺城じゃ」

「はっ」


信玄は昌世へ出陣を下知した。浅井にも頼らず、調略にも期待せずに自らの手で織田領を切り取る。


一度決断を下した信玄の動きは早い。京極勢と六角勢を浮気まで戻らせると、織田方の将・柴田勝家の属城である長光寺城へ一気に攻め寄せた。城を悠長に囲まず、到着した者から攻めかかるという大胆さであり、浅井の追撃に織田勢の大半が留守にしていることを確信してのことだった。


「こりゃ拙いッ!半兵衛には悪いが、ここは退くぞ」


城に籠もっていた木下秀吉は、信玄の猛攻の前に一刻(二時間)とて耐えきれず、城に火を放って落ち延びていった。


「次は観音寺城を攻める」

「ウオオオ---!!」


信玄の下知に、麾下の門徒兵たちは鯨波の声で応える。味方の敗北によって低下していた士気も、速攻で長光寺城を落としたことで不安がないほどまでに回復していった。


長光寺城から観音寺城までは凡そ一里(4㎞)。いま発てば明日の早朝から城攻めを開始できる。城兵の少ない城を落とすのは難儀なことではなく、それは長光寺城攻めが証明していた。


(観音寺を攻め取れば、少なからず寝返ってくる者も出てくるはずじゃ)


江南に於ける織田方の拠点は中川重政の安土城であるが、観音寺城は長らく近江の守護所であった場所だ。これを手に入れる政治的意味合いが大きく、観音寺城の制圧と同時に旧六角家臣の寝返りが始まると信玄は予測していた。


それでも主導権は未だ織田方にあった。長光寺城の北西部に位置する八幡山に築かれた岩崎山城から一隊が進出し、信玄の行軍を阻んだのだ。


「よいか!我らの目的は敵の足止めじゃ!無理に戦う必要はない。指示通りに篝火を焚き、大兵がおるように見せかけよ。相手とて兵に余裕があるわけではない。一〇〇〇程度に見えれば行軍も鈍ろうぞ」


信玄を攪乱する役目を任されたのは神子田正治(みこだまさはる)という非常に軍学に優れた若武者で、半兵衛ほどではないが一隊を率いて相手を翻弄するのは得意とするところだった。


正治は神出鬼没に武田勢の近くに現れると、一撃を加えて即座に逃げ散っていく。それを何度も繰り返した。


「武田殿に通じるのは一昼夜が限界でしょう。夜が明ければ兵を退きなされ」


それでも相手が相手である。半兵衛は正治に無理をしないように言い聞かせていた。


実際に半兵衛の言う通りとなる。


信玄は山県昌貞に一隊を預け、岩崎山城へ向かわせて織田方の出方を探る一方で長光寺城へ戻り、夜が明けるのを待った。


翌朝。信玄は織田方の兵が僅か一〇〇ばかりであったことを確認すると、神子田勢を無視して行軍を再開させた。


挿絵(By みてみん)


信玄は本陣を威徳院跡地に据えると、物見を走らせて敵の布陣を探らせた。


「この先の観音寺城を始め、安土、箕作山と織田勢が布陣しております」

「…やはり間に合わなかったか」


ある程度は信玄も予測していたようで、物見の報告に静かに頷いただけだった。恐らくはこちらの動きを知った織田勢が急いで戻って来たのであろう。そのための時間を稼いだのが、先に永原城で籠城していた者と昨日の部隊であるのは明白だった。


「まとめて叩き潰すだけよ」


どちらにしろ織田勢と戦わなければならないと考えている信玄は、すぐに軍評定を開いた。既に麾下の将に遠慮しなくてはならない者はいない。時間の惜しい信玄は、自ら主導して陣立てを決めていく。


「観音寺、安土の両城は儂が攻める。道案内は義治殿に頼もう」

「任された。観音寺城まで皆を導き致す」


六角義治は、力強く胸に拳を打ちつけて応じた。


手勢を父・承偵が連れて行ったために、やれることといったら道案内だけである。それでも勝利した暁にはかつての居城に戻れるとあって、その鼻息は荒い。


「では龍興殿には、箕作山城を御願いしたい」

「それは構いませぬが、街道沿いに布陣している竹中は如何します」


龍興が言及されなかった竹中隊の事を訊ねる。


織田方は安土城に中川勢、観音寺城に佐久間勢、箕作山城に柴田勢が布陣しており、どれも城内には籠もらずに麓まで出て来ていた。恐らくは山の傾斜を利用し、有利に防衛戦を進めた上で籠城戦へ移る腹づもりなのだろう。実に理に適った策戦である。


しかし、嫌な場所に布陣している者が二人いる。


一人は(きぬがさ)山の麓・南腰越峠に五〇〇ほどの手勢で布陣している。瓢箪の馬印こそ確認できないが、旗印からして間違いなくこれまで信玄の足止めをしていた武将だ。戦端が開かれるとすればここだろうが、御陰で観音寺城を攻められる方角が限定されてしまっている。


もう一人は言わずと知れた竹中半兵衛、織田方の要となっている部隊だ。その半兵衛が東山道を塞ぐ形で布陣しているが、満足な備えも築かずに手勢は僅かに二〇〇余り、明らかにこちらを誘っている様子が窺えた。


「間違いなく伏兵がおる。寄せてくれば相手をせねばなるまいが、こちらから仕掛けるべきではない」

「では放置して構わないと」

「竹中もそうであるが、箕作山城も無理に攻める必要はない。儂が観音寺城さえ落とせば、合戦は終わる」


そのように信玄は断じた。


安土城は観音寺城を奪われれば孤立し、籠城は不可能となる。そうなれば箕作山城とて保てず、兵力の乏しい織田は愛知川で防戦することも叶わずに佐和山もしくは美濃までの撤退を余儀なくされる。つまり観音寺城を落とせば、南近江が謀叛方のものとなるということだ。


それに七〇〇〇の兵では三城をまとめて落とすことは不可能だ。対象を一つに絞り、残りは自落させるしかなかった。


「では、早速に城攻めを…」

「いや、城攻めは明日だ。各々支度もあろうし、やっておきたいこともある」

「やっておきたいこと?」


信玄の意味深な発言の意味を龍興が問うが、信玄が説明することはなかった。勝つための方策であるが、それを知った龍興が気を大きくして心に油断を生み、失敗を仕出かすことを恐れたのだ。


「此方の話だ。龍興殿は箕作山城攻めに専念されるとよい」

「は…はぁ…」


適当に(あしら)われた龍興が首を傾げながら立ち去ると、信玄は右筆を呼んで何から書状を書き始めた。


書状を書き終えた信玄は、一人の坊官を東へと走らせたのであった。


=======================================


一月二十三日。

近江国・五個荘(ごかしょう)


闇夜に光が差し、ほんのりと太陽の暖かさを感じ始めた頃のこと。鯨波の声や軍馬の嘶き、甲冑の擦れる音が聞こえてきた。遠くでは時折、銃声も聞こえている。ついに武田勢の攻撃が始まったのだ。


ただ未だ戦場から最も遠い竹中半兵衛の陣では、戦いの気配はまったくなかった。半兵衛の表情は穏やかそのものであり、悠長に床几に坐って朝餉を口にしていた。半兵衛の周りだけゆったりとして空気が流れているようだった。


「半兵衛殿。半兵衛殿は以前、信玄と正面きっての戦は止めるべきだと申しされたが、これは如何なることにございましょうか」


誰もが感じていた疑問を口にしたのは、浅野長吉である。策を練る半兵衛に代わり、部隊をまとめている。


「ああ、あれですか」


途端に半兵衛が惚けた声を出した。まるで忘れていたかのようである。


「確かに武田殿を相手に寡兵で挑む愚は避けねばなりませぬ。確実に負けますので」

「されど我が方は四千。対する敵は七千と多い。いま信玄との決戦に及ぶのは、先の言葉と矛盾しておりませぬのか」

「実数では弥兵衛殿の仰る通りです。されど今に武田殿の兵は、我らより少なくなります」

「は?」


さらりと言い切る半兵衛の意図を長吉は理解しかねた。困っている様子の長吉を見かねて、半兵衛が話し始める。


「まずはこれを御覧下さい」


半兵衛は目の前に広げられた絵図を指し示し、涼しげな表情で淡々と説いていく。


織田勢は少ない兵を城郭と山の高低差を利用することにより、広く展開させることが可能とした。僅か四〇〇〇で七〇〇〇と互角に戦えるのは、この為である。


北から安土城に中川勢七〇〇、観音寺城に佐久間勢一〇〇〇、箕作山城に柴田勢の八〇〇がいる。他に南腰越峠に木下秀長の五〇〇、東山道を塞ぐ形で半兵衛が二〇〇を以て布陣している。但し、山岡景隆は浅井勢に備えて佐和山城に残してきており、不在であった。


これに対して信玄は側近衆三人に一〇〇〇ずつ与え、安土、観音寺、南腰越峠を攻めさせている。特に力を入れているのは南腰越峠だ。曽根昌世に攻めさせる一方で、自身も残る二〇〇〇を率いて支援している。兵力差からいって、破られるのは時間の問題だろう。


ただ半兵衛も易々と破られるつもりはない。各々の部隊を二段から三段へ分けて配置し、前衛と入れ替えながら防戦する。これで、こちらの備えを突破する頃には相手の疲労はかなり蓄積させるだろう。その上で半兵衛の秘策を用いることで、信玄を退けるどころか討ち取ってしまおうと考えている。


信玄さえ討ち取ってしまえば、早かれ遅かれ謀叛方の敗北は必至で、将軍・義輝が京へ復帰して信長が戻ってくるのも時間の問題となる。


「弥兵衛殿は吉野川の合戦で、かの松永弾正が公方様へ仕掛けた策をご存じですか」

「確か味方の敗退を利用し、公方様の本陣を手薄にさせたという…」

「左様でございます。しかも松永弾正は、勝つために味方の暗殺すらも行ったとか」

「まさか!?半兵衛殿もそれを行おうと申されるのか!」


余りの衝撃に長吉の額に嫌な汗が流れる。


今から三年前、義輝は三好残党を討ち平らげるために四国へ渡った。その際に松永久秀は少しずつ義輝の前から兵を引き離し、手薄となった本陣へ奇襲を仕掛けたことがある。しかし、その為に久秀は味方である岩成友通を暗殺し、自軍の兵すらも犠牲にした。


「御懸念は無用に願います。同じことをするにしても、あのように小細工を弄す必要はございませぬ」


長吉の心配を半兵衛は笑って否定した。


久秀のように味方へ犠牲を強いる愚劣な策は、半兵衛からすれば策とは呼ばない。しかも久秀は味方にそのことを告げておらず、敵も味方も騙した形になっている。実に嫌悪すべき事であり、これはもはや策ではなく謀の域だ。


一呼吸おき、半兵衛が言葉を継ぐ。


「弥兵衛殿は、釣り野伏せというものをご存じですか?」

「…いや、知らぬが、名前からして伏兵の類いでござるか」

「はい。撤退を偽装し、深追いしてきた敵を伏せていた味方が討つというものにございます」

「なるほど。されど相手は甲斐の虎、簡単に通じる相手とは思いませぬが…」

「ええ、通じぬでありましょうな」


きっぱりと断言してしまう半兵衛に、長吉は唖然とする。


釣り野伏せは、聞けばさして難しい策ではなく思う。特に半兵衛が言えば尚更そのように聞こえてしまうから不思議だ。しかし、撤退する味方を敵と共に狙った地点へ上手く誘導するのは、並大抵のことではない。手順を誤れば味方は偽りの敗走も本当の壊走に陥るし、敵を誘導できねば伏兵も意味をなさなくなる。それは長吉にも理解するところだ。故に信玄へ通用する策とは思えなかったし、半兵衛もそう断じている。


「故に武田殿には釣り野伏せは仕掛けません。仕掛ける相手は、龍興様です」


半兵衛の脳裏には、かつての旧主の姿が浮かんだ。決して相性のよい相手ではなく、人の上に立つ人物でもなかったが、それでも一度は主を仰いだ相手である。それを罠にかけることに、抵抗がないわけではない。


一つだけ、半兵衛は大きな溜息を吐いた。


そして、戦局は半兵衛の描く通りへと進んでいくことになる。


=======================================


合戦が始まって二刻後(四時間)、南腰越峠に門徒兵が殺到していた。


「進者往生極楽、退者無間地獄」


念仏と共に前進してくる門徒兵の姿は異常そのものであり、劣勢になれば態勢を立て直そうと退いていく武士同士の戦いとは違い、討たれても討たれても前進を止めようとしない。味方の屍を踏み越えてまで仏敵を倒そうとする。彼らにとって退くことは地獄へ逝くことであり、仏への重大な裏切りなのだ。


「くそッ!こいつら倒しても倒しても湧いて出て来る」


南腰越峠で防戦に努めていた木下秀長は、堪らず観音寺城への撤退を開始した。寡兵でありながら充分に時間を稼ぐことは出来た。これに合わせて佐久間勢も観音寺城へ撤退していく。また同様に安土城でも中川勢が城へ籠もり始めた。


門徒兵たちは勝利が近いとして、すかさず織田勢を追っていく。また信玄の側近衆も城へ籠もる敵兵を一人でも減らすべく、一緒になって追撃に参加する。


一連の織田勢の動きに、信玄は何かしらの意図を感じ取った。即座に物見を箕作山城へ向かわせ、状況を確認する。


「箕作山城では多少の小競り合いはあるようですが、特に動きはないようです」

「ふむ」


物見の報告に、信玄が顎に手を当てて戦況を考察した。


織田の策は、今のところ信玄の見立て通りだ。城外で抗戦し、機を見て城に籠もる。時を同じくして動いているのも予め計ってあったと思えば不思議はない。味方も六角義治の道案内で迷うことなく城攻めに移れている。唯一、箕作山城だけ籠城戦に移っていないことが信玄を迷わせた。


(どうする。このまま観音寺城を攻めるか、それとも……)


観音寺城の奪取が合戦に於ける最大の目的である。首尾よく進んでいることから考えれば、ここで予備兵を投入するべきだろう。そう素直に決断できないのは、竹中半兵衛の存在があるからである。


(奴ならば何かしら仕掛けてきても可笑しくはないというのに、何故に何もしてこぬ)


信玄には不気味に五個荘から動かない半兵衛のことが気になっていた。策はあるが、龍興が街道を塞いでいる所為で仕掛けられないのか、それとも別の理由があってのことなのか。


「曽根殿より伝令です。観音寺城を完全に取り囲んだ由にございますが、城を攻めるに当たって援兵を請いたいとのこと」


前線からの続報に信玄は対応を迫られた。城を攻める味方は二〇〇〇ばかりであり、奪取するには昌世の言葉通りに信玄の手元にある兵を投入しなくてはならない。


熟慮した結果、信玄が判断を下す。


「…ここの半数ほどを向かわせる。予定通り観音寺城攻めは始めるが、安土城は城兵の突出に備えるだけでよい」


と言って、使者を走らせた。


そして決戦の時が訪れる。


=======================================


武田の本陣が動いたと聞いて、半兵衛の目が光った。後は手薄になった信玄の本陣を秀吉が攻めるだけである。


「ですが、割いた兵は半分ほど。未だ本陣は一〇〇〇ほどの兵で固められております」

「何ッ!?それはまことでございますか」


思わぬ報せに、半兵衛は俄に表情を曇らせた。報せを信じるならば、策の変更を強いられることになる。


長光寺城から撤退した秀吉は、そのまま一度、観音寺城へ入るとすぐに反対側から出撃し、箕作山を迂回して南側から信玄の本陣へ向かっている。信玄は半兵衛によって街道を塞がれている所為で、秀吉の動きを掴んではいないはずだ。となれば、まず間違いなく奇襲は成功するが、今のままでは信玄を討つことは叶わない。何せ秀吉が率いている兵は六〇〇ほどでしかないからだ。半兵衛の予定では、信玄の本陣は五〇〇ほどまで減っているはずだった。その上で奇襲という戦法を用いるからこそ、勝てると踏んだ。


それが半兵衛という存在を信玄が警戒したことにより、本陣の守りを充分に割くには至らなかった。


「ここからは時間が勝負です。皆、私の申す通りに動いて下され。さもないと秀吉殿の命が危うい」


この男にしては珍しく早口だ。それだけに半兵衛が焦っている証だった。


すぐに半兵衛は隊を前進させ、斎藤勢が視認できる位置まで動いた。当然なように斎藤勢は竹中隊を警戒すべく兵を向けており、到達と同時にこちらを発見した。


その報せはすぐに龍興の許へと伝わる。


「半兵衛めが動いたと?」

「はっ。されど、こちらを攻撃する気配がございませぬ」

「意味が判らぬ。よい、儂が確認する」


自らの目で確認しようと、龍興は前線へ赴いた。すると確かにそこには遠目ながらも半兵衛の姿があった。


「半兵衛ぇ……!!」


かつての旧臣の姿に、龍興の怒りが次第に込み上げてくる。


半兵衛の裏切りは、斎藤家落日の象徴であった。龍興は父・義龍の死後も織田信長に対して負けず、幾たびの合戦も勝利して美濃一国を保っていたのだが、半兵衛の裏切りを境に一時的に居城を追われることとなり、それを引き金に家臣団の離反を招き、最終的には国を追われてしまった。もし半兵衛さえ裏切らなければ、今も美濃の主でいられたのではないかという想いが龍興の中には強く存在していた。


だが信玄からは、半兵衛は放置しろと言われている。龍興はわなわなと振るえる拳を我慢して押さえた。


「ほれ、皆の者。龍興様が御見えじゃ。挨拶して差し上げろ」


その龍興の眼前で織田の兵が数人、下帯を外して小便を垂れ始めた。これはかつて、龍興が寵臣に命じて半兵衛を虐めた際の手法とまったく同じだった。


これをきっかけに、龍興の理性は弾け飛んだ。


「我慢ならぬ!一度は主君と仰いだ儂に向かっての無礼、許しがたしッ!」


龍興が部隊に突撃を命じる。麾下の兵たちは相手が小勢と判っているので、恩賞欲しさに我先にと竹中隊へ斬り込んで行った。龍興も自ら馬腹を蹴って、雑兵どもと共に雪崩れ込む。


竹中隊は抵抗するものの、早々に撤退を開始する。


「ふん!所詮はこの程度よ。半兵衛など策を弄さねば槍働きなど出来る器ではないわ!」


もし龍興が半兵衛の姿形を知っていなければ、この撤退が偽りのものであったと見抜けただろう。しかし、龍興は半兵衛が武将とはかけ離れた婦女子のような姿を知っている。半兵衛は策を弄するのみで、槍働きはからっきしだと思い込んでいた。


「それ今よ!者ども懸かれー!」


そこを山中に隠れていた蜂須賀小六、前野長康ら川並衆が襲った。


見事に伸びきった隊列は一撃で破られ、龍興は敵中に孤立してしまう。これと同時に箕作山城より佐久間安政が出撃してきたために斎藤勢は追われるようにして逃げて散っていく。


しかし、龍興は敵に囲まれながらも生き延びることになる。それは半兵衛が追撃を行わなかったからだ。それには理由がある。


「ここからもう一度、武田殿に釣り野伏せを仕掛けます」

「待ってくれ。半兵衛殿は信玄には釣り野伏せは通じぬと申されたはず」


あっさりと前言を翻した半兵衛に長吉が疑問を呈する。


「如何にも。よって、これは賭けです」

「賭け?」

「このままであれば、秀吉殿が返り討ちに遭うのは必定にございます。故に何としても武田殿の本陣から兵を引き離す必要がございます」

「それが釣り野伏せだと?」

「はい」

「されど信玄には通じぬのであろう?」

「通じませぬが、それは常の場合です。武田殿が率いておられるのは一向門徒であって、武田殿の下知に忠実な甲州兵ではございませぬ。目の前で敵が後ろを見せれば、如何に武田殿が制止しようとも追って来る可能性がございます」

「それで、賭けか…」

「賭けが実らずとも、武田殿の注意をこちらに振り向かせれば秀吉殿の命を救うことにもなりましょう。やるだけの価値はございます」


半兵衛の言葉に長吉はこくりと頷いた。そして柴田勢にすぐに復活してくると思われる斎藤勢の抑えを依頼し、自らは川並衆と合流して東山道を西へと向かって走っていった。


=======================================


半兵衛の動きは速かった。まさに神速の如きであり、秀吉が現れるよりも前に信玄の本陣を襲うことになった。


「竹中が現れただと?龍興の阿呆は何をやっておるか」


半兵衛の登場は、斎藤勢の敗走を意味していた。不安が的中した形となり、注意を促した上で失敗をやらかした龍興を怒鳴ってやりたい気に駆られたが、まったく予想していていないことでもなかった。


「ここの半数を差し向けよ。本陣から遠ざけるのだ。それと内匠助に急いで戻るように伝えい」

「ははっ」


信玄の下知を受けて、伝令が走り去って行く。


武田勢が攻めている安土、観音寺の両城からは、こちらの様子がよく見える。そのような時に本陣が襲われているとあっては、味方の全滅を招きかねなかった。信玄としては本陣から離れたところで半兵衛と戦う必要があった。


だが、門徒兵が槍を衝けると半兵衛はすぐに後退していった。


「いかん!これは罠だ。追うでない!」


半兵衛の策であると看破した信玄であったが、運の悪いことに本陣より離れて戦わせていたことでその命令が届くまでに時間を要してしまった。


そこの間隙を衝くようにして、ある部隊が現れる。


挿絵(By みてみん)


「木下藤吉郎秀吉、推参!信長様に成り代わり、武田信玄の首を頂戴に参ったッ!!」


織田の猿こと木下秀吉の部隊六〇〇である。


槍働きを不得手とする秀吉にとっては珍しく名乗りを上げた。それだけに秀吉は逸っていたし、焦っていた。予定とは違う半兵衛の部隊がいることで、目算が狂ったことに気付いていたのだ。


「急げッ!早う信玄の首を討たねば半兵衛が危うい!」


冷静沈着な半兵衛が無茶をしていることが、秀吉を焦らせていた。半兵衛が秀吉の命を気遣ったように、秀吉も半兵衛の命を気遣っていた。


「放てッ!」


秀吉の号令により、僅かばかりの鉄砲が放たれる。これで敵の備えを崩そうというのではない。あくまでも脅しであり、これにより戦意の低い兵を散らせようというのである。


銃撃により門徒兵が幾人か倒れた。しかし、逃げ散る兵は僅かしかいない。秀吉は眉を曇らせるが、選択肢は突撃しかない。


声を張り上げ、命令を下す。


「突っ込めー!!」


その声に押され、木下勢がドッと押し寄せていく。先頭を行く男は大柄であり、大きな十文字槍を振り回しながら敵兵を薙ぎ倒していった。


「信玄は何処だ!何処におる!!」


寄せてくる敵を討ち払いながら、男は部隊の中央へ向けて歩みを進めていく。そこへ秀吉が追い着いてくる。


「権兵衛!信玄は見つかったか?」

「いえ…、されどこの奥だと思われます」

「ならば儂と行くぞ。信玄を討つには、お主が頼りじゃ」

「はっ」


権兵衛こと仙石秀久は、秀吉を守るようにして突き進んだ。そしてついに赤法衣姿の武者を確認する。門徒兵の中で一人だけ見事な甲冑を着けているはずだから、間違いなく信玄だ。


信玄はジッと床几に座り、兵たちに指示を出している。


「見つけたぞ、しんげ……」


いざ乗り込まんとした時、こちらの存在に気づいた信玄から射抜かれるような鋭い視線が放たれた。これを秀吉は知っている。己の主・織田信長と同質のものだ。


秀吉は思わず声が出なくなった。


そこへ信玄がサッと軍配を振る。すると一斉に門徒兵が秀吉へ向けて襲いかかってきた。


「藤吉郎様ッ!!」


秀久が秀吉の前に立ち、防戦に徹する。たかが門徒兵と侮っていた秀久であったが、信玄の周りにいる者たちは違った。


彼らからすれば、微動だにしない信玄の姿は仏そのものであり、信玄に指一本でも触れさすまいと命を的に斬り込んできた。腕しか動かなくなった者でも足を掴んでこちらへ抵抗してくる。その間に他の門徒兵が斬りかかってくるのだ。これには流石に秀吉も焦る。秀吉とて命がけで戦っているが、奴らのように最初から命を捨てる気は毛頭ない。その差が、ここで歴然と現れた。


「押せ!押せッ!あと一歩で信玄を討ち取れるのだ!!」


信玄を目の前にしながらも、立ちはだかる最後の壁を越えられない。大きな山となって秀吉の歩みを止めてくる。


「何故に崩れぬ!何故に信玄は逃げようとせぬのだ!」


秀吉には信玄の行動がまったく理解できなかった。同じ状況に陥れば、己のよく知る主君は真っ先に逃げ出すはずだ。それなのに信玄は敵を眼前にし、討たれる寸前となってもその場から一歩たりとも動こうとしない。


「申し上げます。敵勢の一部が引き返して来ております」

「…くっ!時間切れか…」


悔しさの余り思わず唇を嚙む秀吉。


いま兵を退かなければ、取り残されてしまう。今ならば来た道を引き返すという選択肢が残っている。


「……退くぞ、権兵衛!」


秀吉は撤退を下知した。


両者の戦いは、信玄に軍配が上がることになった。


その後、秀吉は箕作山城へ入った。安土と観音寺の三つの城を拠点に籠城戦を続けることにしたのである。兵力が著しく減少した信玄は、援兵を依頼した百済寺の一向門徒と合流することで近江侵攻を再開させる。とはいえ、決定打を欠いた両軍は江南に於いて膠着状態に入った。


その膠着も一月ほどで終わりを告げることになる。美濃に進出していた武田勢によって、岩村城が落城したからである。




【続く】

遅ればせながら、次話投稿です。


仕事が忙しく、なかなか執筆できませんでした。申し訳ない。今回は初期の木下勢オールスターを出してみました。ま、ほぼ半兵衛が活躍する回となりましたが、直接対決は痛み分けとなりました。戦略上でいえば、岩村城の陥落により信玄の勝ちですかね。今の秀吉にはそれほど大軍を動かす権限がないので、それも仕方のないことだと思っています。


次回、お待ちかねといいますか、今回の謀叛において初めて上杉謙信が登場いたします。更新ペースを戻せるよう頑張ります。

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