第一幕 傀儡将軍誕生 -梟雄・松永久秀-
六月五日。
越前国・一乗谷
義輝が京を追われて半月ばかりが過ぎ、初めて喜びを感じていた。尾張へ行っていた明智光秀が“織田信長参陣”の吉報と共に戻ってきたからだ。
「そうか、上総介(信長)が来てくれるか」
と喜色を浮かべる。光秀からの報告では信長は即座に自分の味方をすると表明したという。信長の勇気ある決断と忠節に感謝したいところだったが、何よりも信長が己の期待通りの人物であったことが嬉しかった。
「流石は上様にござる。後は上杉殿にございますな」
義輝と同じように喜びの表情を浮かべているのは、一色式部少輔藤長である。
義輝が越前へ移ってよりこれまで、僅かながら幕臣たちが駆けつけてきた。細川輝経、柳沢元政、上野清信、石谷頼辰、大館藤安、御牧景重らである。また覚慶のいる和田惟政の許にも何名か駆けつけているという報せが入っていた。
かといって彼らが今もここにいるわけではない。藤長以外は義輝の命を受けて各地へ飛んでいた。ただでさえ人材が枯渇している以上、彼らを遊ばせておく余裕はないのだ。
「しかし、左衛門督(朝倉義景)は悠長なものよの」
義輝が愚痴をこぼすのは隣から聞こえてくる慌ただしい音が原因だった。
「すぐに上洛する故に御所は無用と申したものを……」
安養寺の隣では義輝の新御所の建築が行われていた。しかし、義輝は事前にこれを断っている。だが義輝を保護する義景としては、立派な御所を建てなければ己の威信を世に示すことが出来きないので、どうしても御所は必要だった。故に理由を付けて建築を始めている。
「式部、若狭出兵の仕度は何処まで進んでおる?」
「はっ。今朝方に敦賀の景恒殿より報せが参り、まもなく仕度が整うので出迎えに参ります、とのことにございます」
「おう、まもなくか」
言葉に思わず力が入る。鬱憤が溜まっている義輝としては、暴れたくて仕方がないのだ。幸いにも朝倉家臣の中に中条流の富田勢源なる者がおり、新当流である義輝の評判を聞きつけて訪ねてきた。これがまた盲目の剣客ということもあって大いに義輝の興味を湧かせた。今では毎日のように打ち合い、精気を養っている。
(若狭などあっという間に平らげてくれる。そしてその後は……京よ!)
若狭出兵に熱い闘志を燃えたぎらせる義輝であったが、一方で全く気が付いていなかった。油断と言っていいだろう。どうやって三好・松永を討ち滅ぼすかに思慮が集中しており、自分を逃がした奴らがどのように動いてくるかをまったく予想していなかったのだ。
義輝の去った京の都では、驚くべき策謀が既に動いていた。
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遡ること五月二十日。
上京・関白近衛前久邸
(何故この男がここにおる!)
それがこの邸宅の主・近衛前久が帰宅して最初の思ったことだった。
昨日、洛中では将軍・足利義輝が襲われるという事件が発生した。将軍の生死は不明、京の都は騒然としており、禁裏では緊急の朝議が招集された。前久もそれに参加して帰って来たばかりのところである。
「御待ち申しておりましたぞ、殿下」
居座る白髪の老体。まだ五十半ばらしいが、十は老けて見えるこの男を前久は知っていた。過去に義輝や三好長慶と会った際に何度か侍っていたのよく覚えている。それだけ印象深い男だった。しかし、実際にこうやって相対するのは初めてである。
「何故にこの者を通した!」
男を無視し、怒声を上げて家人を叱り上げる。家人は主の声の大きさに驚き、身を縮こまらせながら謝罪の言葉を口にするが、それでも前久の怒りは収まらない。今にも腰刀を抜かんとする勢いである。
この男、公家の頂点に立ちながらその振る舞いは武家そのものであり、言うなれば公家らしくないのだ。
「そう怒らぬで貰えませぬか。儂が勝手に上がり込んだだけのこと。その者は悪くありませぬ」
その勝手に上がり込んだ男は悪びれもなく家人を弁護するが、前久はそんな男をキッと睨み付けた。
「義輝殿を襲った者が、何用じゃ!」
「これは異な事を仰る。公方様を襲ったは手前ではござらぬぞ」
「しらばっくれるな!義輝殿を襲った軍勢は蔦紋を掲げておったらしいではないか」
「おおっ!流石は殿下、ようご存じで」
まるで他人事のように感心する男の態度に前久はさらに腹を立たせた。蔦紋は松永家の家紋であり、それを掲げる軍勢は松永家のものということになる。それが義輝の屋敷を襲ったのだから、犯人は目の前の男に他ならない。
「松永弾正!そちの仕業であろう!」
松永弾正少弼久秀。三好長慶の右筆から長慶の娘を娶って一門衆と同等の地位まで上り、今は若輩の主君を影で操る男の名である。その久秀が、変事の後に真っ先に訪ねたのが関白・近衛前久だった。
「これは大きな誤解があるようじゃ、殿下。公方様を襲ったのは手前ではございませぬぞ」
「偽りを申すな!」
「偽りではございませぬ。襲ったのは手前ではなく義久、我が子にございます」
「貴様の指図であろうがッ!」
人を小馬鹿にしたような態度で堂々と屁理屈をこねる久秀に前久は怒鳴り散らす。憤慨し、顔色を真っ赤に染め上げる。今にも頭の血管から血が吹き出そうなほどだ。
「公方様を殺めるなど、何と畏れ多い。天地神明に誓い、手前の指図ではございませぬぞ。その証に、我が手によって義久は捕縛いたしております」
「捕縛…じゃと!?」
「はい。今は三好下野守(政康)殿の屋敷にて蟄居させております」
この事自体は本当であった。主君の命(久秀の指示)により義久は蟄居処分を受けていた。しかし、理由が異なる。将軍弑逆を行った所為ではなく、実際はそれに失敗した為だ。だからといってそんな理屈が前久に通る訳もなく、前久は義久を打ち首にすべきと主張した。
「無論、そのつもりでおります」
飄々と久秀も前久の意見に同調する。これが前久の怒りに拍車をかける。久秀は先ほどからこの態度を崩ず、のらりくらりと前久の言をかわしている。
「ならば、帰って即刻打ち首にせい!」
「そうしたいのは山々なれど、それを決めるのは手前ではございませぬ」
「ならば、そちの主である左京大夫(三好義重)に打ち首にさせよ」
「公方様を殺めたのですぞ。我が主とて裁定を下すのは憚られましょう」
「では誰が処分を下すというのじゃ!」
「誰が…とは、殿下の御言葉とは思えませぬな。次の将軍に決まっておりましょう」
「つ…次の将軍……じゃと!?」
ここでようやく前久は久秀が自分を訪ねた理由を知ることになった。
(麿に新たな将軍を奏上せよというのか!?)
前久とて阿呆ではない。ここまで聞けば、久秀が何を考えているか分かる。久秀の許、つまりは三好方に十代将軍・義稙の子孫がいることは百も承知だ。関白……人民の最高位に座し、帝に奏上できる唯一の人間を久秀が訪ねた理由は明々白々。
そんな前久を無視するかの如く、久秀は一方的に話しを続ける。
「手前も義親公の命で公方様を御助けせんとしたのですが、不覚にも間に合わず。しかも公方様を襲ったのが我が子と聞き、胸が張り裂ける想いにございました。なれど御台様だけは何とか救出する事が叶い、これで何とか泉下の公方様へ顔向けが出来るというものにございます」
義輝の御台所。それは近衛植家の娘であり、前久の妹である。久秀がこのようなことを口にする意味はもはや語るまでもない。
(こやつ……麿を脅すつもりか)
前久の表情がみるみる変わっていく。怒りで赤かった顔が急に青醒める。
「いや、それにしても義親公。長年恨み積もった相手なれど、天下の秩序を保たんと将軍様を御守りせよとは、何と御心の深い御方か。この乱世、ああいう御方であればこそ鎮まろうというもの」
「義親を次の将軍とせよ、ということか」
「今日の殿下は勘違いが多いようじゃ。手前が次の将軍を定めるなど御門違いと申すもの。単に手前の印象を語っているだけございますぞ」
と言って久秀は笑い飛ばすが、これが恫喝であることは分かりきっている。
「義親公が次の将軍となれば、洛中の治安も即座に回復いたしましょう。それでこそ御台様も安心して実家へ御戻り頂けるというもの」
義親を次の将軍に据えろ、でなければ妹は返せない。それが久秀の要求だった。だが前久としても簡単に呑む訳にはいかない。目の前の男が将軍暗殺を指揮したことは明らか、そんな男の好き放題にやらせては今後、天下はどうなるか分かったものではない。
「殿下、天下の為にまずは次の将軍を定めることが大事でございますぞ」
と言い残し、久秀は去って行った。
久秀の姿が見えなくなると、前久は情けなくもガクッと肩を落とし、膝から崩れ落ちた。いくら抵抗しようとも、自らが取れる道が一つしかないことを理解しているからだ。しかも久秀は他の公家衆へも近づいており、翌日になって宮中に戻った前久を待っていたのは『次の将軍は義親公しかおるまい』と何食わぬ顔で物言う同僚たちの姿だった。
(どいつもこいつも松永の走狗に成り果てよって!!)
しかし、その数日後に光明を差す報せが前久の許へ飛び込んできた。何と死んだと思われた義輝が越前へ逃れたというものだ。現将軍が健在なら後任を定める必要はなくなる。これを理由に前久は義親の征夷大将軍就任を断った。
「関白殿下とあろうものが取るに足らぬ噂を真に受けるものではございませぬぞ。それに噂が真であっても将軍職は京にあってこその将軍職。義輝公が戻られぬのなら次の将軍を定めるのみ。先例もございますぞ」
しかし、久秀は返答がすぐに届いた。しかも“明応の政変”を持ち出してだ。
明応二年(1493)、畠山基家討伐の為に河内へ出陣した時の将軍・足利義材(義稙)の留守を狙い、管領・細川政元が足利義澄を次代将軍に擁立して挙兵したことがあった。結果、義澄方が義材を追放して将軍職に就任した。
つまり、現在において洛中を支配している三好・松永は如何様にも将軍を擁立することが出来るという訳である。しかも困窮の極みにある公家どもを金品で籠絡することを容易いことだった。
前久は抵抗する術を失った。
そして六月九日のことである。三好・松永の軍勢に伴われて上洛してきた足利義親は従五位下に叙し、左馬頭に任官。名を義栄と改めた。翌十日に宿舎とした慈照寺にて勅使を受け、征夷大将軍職が宣下された。
足利幕府十四代将軍・足利義栄の誕生である。
栄えるとした自らの名が表しているのが松永久秀の栄華であろうことは、皮肉としか言いようがなかった。それを物語る出来事が、義栄が最初に出した命令であろう。将軍弑逆で蟄居している義久を赦免したのである。これに伴い、その主君であった三好義重は義継、義久は久通と改名し、これを義輝との離別の証とした。
一方で朝廷とて唯々諾々と従った訳ではなかった。義輝を討ち漏らしたことで三好・松永らが政治的に窮地に陥っていることを見抜いていた朝廷は、義栄に莫大な献金を要求したのだ。義栄側はこれを受け、五千貫を納めた。
この事を、義輝はまだ知らない。
【続く】
新章スタートです。
再び一幕となりますが、一応は十、二十となるよりは、章ごとに一から付けていきたいと思っています。