第九幕 開戦 -それぞれの思惑-
永禄十二年(1569)十一月二十日。
摂津・瓦林城
武庫川の西側に位置する瓦林城は建武三年(1336)に赤松則村が築城した城郭だ。しかし、越水城が築城されると城の重要性は薄れ、その支城の一つとなった。
現在の城主は瓦林三河守である。謀叛方は義輝の三木城帰還を知ると、摂津全域の制圧を諦めて伊丹、大物の二つの城に主力を置いて防戦の構えに徹した。三河守は義輝の大返しにより、辛うじて謀叛方の侵略から逃れることになった。
義輝は最前線に位置する瓦林城へ全軍を入れ、軍評定を開いた。
「瓦林殿、上様に謀叛方の動きを御報告申し上げよ」
三河守の上役である摂津守護・和田惟政が言う。
「はっ。謀叛方は朝倉勢が伊丹、畠山勢が大物城に兵を入れてございます」
「うむ。他には?」
「富松城は一色勢、七松には畠山の将・安見宗房がおりまする。また昨日、義秋様が伊丹へ移られた由にございます」
「義秋か…」
弟の名が出たことで義輝は俄に表情を曇らせたが“もはや戻れる道ではない”と雑念を振り払った。
「敵方の人数は判るか?」
「物見の報告に拠りますれば、伊丹城に三万、大物城に一万四千、富松城に三千、七松に二千という次第でございます」
三河守の報告に諸将からは安堵の溜息が漏れた。
「所詮は留守居役の者ども。大した兵を集められぬと見えますな」
幕臣の誰かが言った。
伊丹城には朝倉勢がいることから兵が多いにしても、大物城にいる畠山高政は、三管領の一つとはいえ今は河内半国に紀伊の一部を領するに過ぎない大名だ。如何に一色藤長の若江城を落とそうとも、肝心の兵は藤長が連れているため、簡単に兵力の増強を図れるものではない。それでも集めに集めた結果、五万に届こうかという数が揃えているが、義輝の軍勢は七万を越えている。
誰の目にも優劣は明らかであり、幕府方の諸将には船戦がないだけに毛利と戦うより楽に思えた。ただ義輝は違う意味で安堵していた。
(大膳大夫の姿が見えぬ。奴は京に来ておらぬようだな)
敵方の陣所には、謀叛の黒幕である武田信玄の兵は一切見当たらなかった。野戦に於いては戦国最強であろう上杉謙信と互角に渡り合った信玄が、謀叛方の采配を振るうとなれば兵の多寡くらいで安心は出来ないが、いないのであれば気にすることもない。
(陸奥守の予見が外れたか?…いや、まだ安堵するには早いな)
義輝は信玄がいないことで気が緩ませようとした自分へもう一度、渇を入れた。
しかし、これは当たり前だと言えば当たり前である。武田勢が上方までやって来るには、織田領を通過しなくてはならない。如何に信長が主力を率いて西国に赴いていようとも、織田領には一万や二万の兵は残っており、簡単には突破は不可能だ。岐阜城に籠城するだけで、一月や二月の時間を稼ぐことは出来る。
信玄が敵方にいないのも当然のように思えた。
「どうやら謀叛方は、人数の不足を城で補うようにございますな」
「で、あろうな。まともに戦ったのでは勝負になるまい」
義輝が断言する。その表情には一点の曇りもなかった。
こちらには義輝の本隊に加えて織田や浅井といった精鋭がおり、幕府麾下では摂津衆を率いる惟政の部隊もなかなか強い。毛利との戦では播州勢も晴藤の指揮の下で活躍を見せており、今では安心できるものとなっている。幕府方で不安要素と言えば浦上と宇喜多であるが、人数で上回っている以上は無視できる範囲だった。
一方で謀叛方は精兵と呼べる存在はいない。山陰勢に属していた軍勢はそれなりだろうが、特出して強いとは思えないし、畠山勢の弱さは吉野川合戦で露呈している。残りは留守居の兵であり、論外だ。
(されど、奴の動きにだけは注意せねばなるまい…)
義輝の脳裏に憎き謀将の姿が蘇る。
松永久秀は稀代の謀略家である。三年間も行方を暗ましていた久秀が義輝の前に出てきたのだから、無策というのはあり得ない。絶対に何か仕掛けてくると義輝は考えていた。
(だが、此度の戦で奴に構っている暇はない)
義輝は義秋の相手をしなくてはならず、どうしても部隊を進ませるのは伊丹城へとなる。また久秀に拘りすぎるのは、奴の掌に乗せられている気がしてならなかった。
ただ義輝は久秀への対策を考えていないわけではない。
(奴の相手は宇喜多にさせる。宇喜多ならば、久秀の企みを見抜けるやもしれぬ。よしんば罠にかかったとしても余が義秋の部隊を敗走させれば勝ちだ)
義輝は毒を以て毒を制すつもりだった。
無論、危険はある。宇喜多が寝返る可能性だ。直家とその主君である浦上宗景との関係は既に破綻しており、一度は謀叛を起こした直家は、再び叛旗を翻すのを躊躇したりはしないだろう。だが、ここは摂津だ。宇喜多の本貫である備前から遠く、三村との戦いで兵を損失している直家が博打を打つとは思えなかった。
義輝は立ち上がり、宣言する。
「城に籠もろうが野に打って出ようが、余の前に立ち塞がるなら蹴散らすのみ。この程度では余の天下が揺らがぬ事を知らしめるのだ!」
「おおう!」
号令に、武将たちの喚声が城中に鳴り響いた。
その後、万余の軍勢が続々と瓦林城を出陣し、武庫川を越えていくのだった。
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摂津国・千僧(和田惟政ノ陣)
摂津守護である和田惟政は伊丹城攻めを命じられた。惟政の麾下には伊丹城主・伊丹親興がおり、城の縄張りに精通している。惟政はさっそく親興へ先手を命じ、伊丹城を攻める支度を始めた。
そこへ池田勝正がやって来る。表情には険しさが漂っていた。
「侍従様。是非とも儂を池田城の奪還に向かわせて下され」
勝正の申し出に惟政は難色を示した。
「気持ちは判らぬでもないが、まずは伊丹城を落とせというのが上様の御命令じゃ。なに、ここで謀叛方を討ち破れば池田の城は労せずして取り戻せよう」
惟政が宥めるように言ったが、勝正はすぐに反論した。
「侍従様とて居城を敵に奪われておられましょう。武士としての面目はございませぬのか」
これに対し、惟政は語気を強めて言い返した。
「あるに決まっておろう」
「ならば、これを御覧くださりませ」
勝正がくしゃくしゃになった書状を広げて見せた。恐らくは受け取った勝正が握りつぶしたのであろうと思われる。
「奴らは卑劣にも妻子を人質に儂へ上様を裏切れと脅迫して参りました。一門の命も懸かっておりまする。是非にも我が願いをお聞き届け下され」
池田城を奪った池田知正は、留守居役だった池田豊後守と池田周防守をも虜にしていた。彼らは勝正の信頼する一門であり、池田家には欠かせぬ人物だった。ただ既に二人がこの世の人でないことを、この時の勝正は知らなかった。
「それで、民部は如何いたすつもりか」
惟政が疑いの目を光らせる。勝正は元は三好方であったために、誘いの手が伸びていてもおかしくはない。
これに勝正は不快感を募らせた。
「これは余りの仰せ。儂は妻子を人質に獲られたくらいで寝返るような軟弱者ではござらぬ。されど、ここまで虚仮にされては黙っておられませぬ」
「上様とて御台様や藤姫様を人質に獲られておる。貴殿に限ったことではない」
幕府方が畿内の戻ってより今日まで、情報の収集に力を注いでいた。その中には、義輝を含め居城を奪われた殆どの者が妻子を人質に獲られていることが判った。この事が簡単に判明したのは、謀叛方が敢えて情報を漏らすことにより幕府方の戦意を削ぐ意図があったからだ。
受け止め方は人それぞれだ。義輝は総大将であるために表情に出さずにおり、惟政は義輝の信条を汲んで話題にすることを避けた。一色藤長は悲観に暮れており、勝正は憤怒の念に駆られていた。
「だからこそ池田城を奪還する許しを頂きたいのです。池田城を取り戻せば、西国街道を押さえることも容易となりましょう。さすれば敵方が浮き足立つのは必定、上様の勝利は疑いござるまい」
池田城は伊丹城の背後に位置する。勝正の言う通り、池田城の奪還は敵の兵站を脅かすこととなるので、敵も気が気でないだろう。勝正は妻子を人質にされたことで冷静さを失ったように見えるが、歴戦の将であり、緻密に戦略を組み立てた上で惟政の許を訪れていたのだ。
だが、惟政の中では義輝の言葉が優先した。
「…ならぬ。上様の命に従うのじゃ」
「何故にござる。人数では圧倒的に味方が勝っており、我らが動いたところで問題はありますまい。上様も高梁川の合戦では兵の多寡を生かし、敵の背後を衝くことを重要視されたではありませぬか」
「それは上様が判断されること。此度は池田城攻めの下知を受けておらぬ」
「ならば上様へ御伺いを立てて下され。きっと御許し下さるはず」
「その必要はあるまい。池田城の奪還を上様が御考えであるならば、最初からその下知があったはずじゃ。さ、早よう陣へ戻って城攻めの支度をなされよ。間もなく上様より開戦の合図があろう」
惟政は勝正の申し出を突っぱねた。これには惟政なりの理由がある。
惟政が攻める伊丹城には、敵主力の朝倉勢が城を背後に布陣していた。城の南方より浅井勢が同時に攻撃を仕掛けることになってはいるが、それでも朝倉勢の方が多い。惟政としては兵力を少しでも手元に残して置きたいと思っていたのだ。
渋々勝正は引き下がったが、惟政の言に承服したわけではなかった。その証拠に勝正は、合戦の開始と共に進路を北へ転じたのだった。
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摂津国・琴浦(足利義助ノ陣)
義輝が大物城攻めの大将に選んだのは、足利義助であった。これに播磨衆と三好、浦上勢が担当する。
「…………」
いきなり大将へ選ばれた義助は、居並ぶ諸将の前に言葉を失ってしまっていた。
そもそも義助の役割は先の合戦では晴藤が担っていた。晴藤は播磨平定の大将であり、そこで赤松や浦上勢を従えて以来、高梁川の合戦でも彼らを纏めていた。しかし、晴藤は兄との合戦を前に気持ちが揺らいでおり、今は義輝によって本陣に留め置かれている。
「義秋の兄上は何故に謀叛など…」
本陣で鬱ぎ込んでいる晴藤へ対し、義輝が真実を告げる。
「大方、諸大名の思惑に義秋が上手く利用されたのだろう」
「そんな!どうにかして助ける術はないのですか?」
縋るような目で見つめる晴藤を義輝の容赦ない一言が襲う。
「…諦めよ。こうなった以上、余は弟とはいえ義秋の罪を問わねばならぬ。謀叛を鎮めたところで、今までのようには戻らぬ」
「それは余りにも理不尽ではありませぬか…」
武家の棟梁として割り切れる義輝と違い、長いこと僧籍にあり、三好の人質となっていた晴藤は身内の情愛に弱いところがあった。
晴藤は悔しさに表情を歪ませていた。それも晴藤にとっては、義秋は善き兄であったからだ。
義秋は晴藤よりも政治に関心が強かったこともあり、幕府の成り立ちから歴代将軍の政など晴藤へ様々なことについて教えてくれていた。その都度に“共に兄上を支えて幕府を再興させよう”と語っており、その想いに晴藤は強い影響を受け、共感を抱いた。また義秋は義輝により若狭守護の後見を任され、いち早く義輝の力となっていたことから、晴藤にとっては羨望の対象だった。
二人の兄たちに早く追い着きたい。それが晴藤の原動力となっていたのだが、義秋が謀叛を起こしたことで頭の中が真っ白になってしまった。
「此度の戦、義秋の相手は余がする。そなたは、ここで見ているがよい」
「されど!私も…戦わないわけには……」
「気にするな。それに、此度は義助に任せてやれ。あれも因縁がある故な」
そう言って義輝は視線を大物城の方角へと向けた。
義輝が晴藤の代わりに選んだのが義助だ。その理由は、父と兄の仇を討たせるためである。
義助の眼前には憎き松永久秀がいる。久秀は義輝の宿敵であるが、義助のように身内を殺されたわけではない。政敵であるという間柄だ。義助が久秀に勝てるとは思わないが“せめて最後の一太刀は義助に”という想いが義輝にはあり、それが亡き義冬へ対する何よりの供養となると思っている。
ただその義助は先の高梁川合戦で追撃戦に参加した程度で、大軍を指揮した経験がない。武家の棟梁として育てられたのも兄・義栄であり、義助自身は僧でこそなかったが武家としての養育を大して受けたわけではない。不安は尽きない。
そお義輝の想いとは裏腹に、義助は固まっていた。
その義助に義継が声をかける。
「右兵衛督様。少し楽になされませ。まだ戦は始まっておりませぬぞ」
「…左京大夫」
「久秀めには、右兵衛督様も遺恨がございましょう。私とて同じにございます故、御気持ちはお察し致します」
義継の言葉に、義助は気を休めることができた。
義継も久秀によって傀儡とされた者だ。特に父・十河一存の死には久秀が大きく関係していると言われている。復讐したい気持ちは義助と同じくらいある。ただ戦場での経験が違う以上、義助より遙かに若い義継が比べものにならないくらい落ち着いている。
「御案じ召されますな。義助様の周りにはこれだけの味方がおりまする。きっと父君の仇も討てましょう」
義継の指し示す先には、万余の兵が来たるべく決戦へ向けて号令を待っている。並み居る諸将も義助からすれば皆が屈強な武士に見える。それに義助は不安は少しずつ和らいでいく。
「ああ。頼りにしておる」
「さあ、皆が右兵衛督様の言葉を待っております。出陣の下知を…」
「うむ。先駆けは別所勢じゃ。前進せよ」
義助が慣れない手つきで軍配を振るう。それを合図に別所安治が、京極勢へ向けて動き始めた。
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摂津国・瓦林城(幕府本陣)
諸将が出陣した後、義輝は四国から呼び出した北条氏規を召し出して謀叛の黒幕が武田信玄であることを明かした。
「武田殿が此度の謀叛を…」
氏規の表情には驚きの色が浮かび上がる。氏規も信玄を大それた事を考える人物であると思っているが、まさか京にまで影響を及ぼしているとは思っていなかった。
「左馬助に問う。此度の謀叛を信玄が主導したとして、相模守(北条氏康)は加担しておると思うか?」
義輝の問いに氏規は返答に窮した。
北条と武田は縁戚関係にある。信玄の娘が兄・氏政に嫁いでいるのだ。その縁組も信玄の駿河侵攻で一時破綻に向かったが、両家が和睦したことで元通りとなっているので、傍から見れば同調しそうなものだ。
ただ元通りと言っても信頼関係まで回復したわけではない。
(父は信玄をまったくと言っていいほど信用しておらぬ。謀叛を持ちかけられて応ずるとは思えぬ)
信玄が駿河へ侵攻した際、愛娘(今川氏真室)が徒歩で逃げねばならないほど惨め目に遭い、それを知った父が青筋を立てて顔を真っ赤にしていたのを氏規は鮮明に覚えている。
(信玄と手を組むことは、即上杉との敵対を意味する。よしんば父が謀叛を利用して版図の拡大を考えているとしても、私を幕府へ人質として送っている手前、表立って武田と行動を共にすることはあるまい)
氏規は自身の立場を正しく理解してた。その上で父の考えを推測する。
「父は信玄が駿河へ侵攻して以来、信用しておりませぬ。謀叛への加担など有り得ませぬ」
「ならば、相模守は余の命令に従うか」
氏規は謀叛への加担をきっぱりと否定したものの、更なる問いに言葉を詰まらせた。義輝は場合によって北条と上杉を武田領への侵攻させるのも一策かと考えていたが、義輝としても氏康が一筋縄ではいかない相手であることは身を以て知っている。
もっとも、それ以前に京を押さえられている今は東国へ命令を下せる状況にないのだが。
「正直な奴よ。まあ相模守の心底など見通しておる。そなたが気に病むことはない」
「申し訳ございませぬ」
氏規が頭を垂れて謝罪するのを義輝は笑って許した。
間を置いて義輝が氏規へ告げる。
「左馬助。余が京に戻った暁には河内半国を与え、そなたを大名に取り立てる」
「ま…まことでございますか!?」
余りのことに氏規は思わず顔を上げた。
河内半国とは考えるまでもなく畠山領のことだ。石高にして十万石は下らず、今の氏規からすれば十倍以上もの加増となる。自分を人質だとしか考えていない氏規にとって、義輝の言葉は意外なものだった。
しかし、義輝は氏康がどうであれ氏規の働きを評価していた。検地は地味な役目だが、幕府への貢献は計り知れない。今回の西征についても、氏規の働きなしには実現しなかったことは明白である。その功績を義輝は忘れたりはしないし、これからも氏規の力は幕府に必要だった。いま氏規に十万石を与えたとしても、それはけして過分ではないのだ。
「余のところから兵二千を与える。義助を扶けてやってくれ」
「は…ははっ!」
歓喜に打ち震える氏規は、義輝から部隊の一部を預かると颯爽と出陣していった。
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摂津国・伊丹城(謀叛方本陣)
謀叛方の本陣が置かれている伊丹城では、池田城から移ってきた足利義秋が諸将に喚き散らしていた。
「どうなっておるのじゃ!あれほど戦はならぬと申したであろう!忘れたとは言わせぬぞ!!」
広間に義秋の怒鳴り声が響く。
義秋は焦っていた。未だ開戦には至っていないが、義輝側は既に瓦林城から出陣している。義秋はこのまま合戦が始まることを危惧していた。
「そうは申されましても、どうやら上様は我らの声に耳を傾けては頂けぬご様子にて」
答えたのは義景だ。高政が大物城へ赴いている間は、義景が義秋についていた。
「兄上からの返答はないのか?」
「…申し上げ難いことでございますが、送った使者は首と胴が離れて戻って参りました」
途端、兄を怒らせたと思い急に義秋の顔色が青くなる。しかし、義景の言葉は嘘だった。
前日に義景は義秋へ挙兵した者たちの意向を告げるため使者を送ったと伝えてあるが、実際は誰も送っていなかった。そもそも謀叛方の意思は初めから義輝とは戦うことに決している。それを知らないのは義秋だけであり、教える必要もないので嘘をついていた。
「ここは御覚悟を成されるべきかと存じますぞ、義秋殿」
「…道有」
義秋の傍らで老将が怪しい笑みを浮かべる。
この無人斎道有と名乗る人物が、義秋の本隊を動かすことになっている。
道有は齢七十半ばであるにも関わらず、その眼光は鋭く、物腰は穏やかながら何処か異様さを漂わせていた。粗暴な振る舞いが目立つ男だが、謀叛方に於いては間違いなく一、二を争う戦巧者であろう。そのことからもある程度の傲慢な物言いも許されていた。
「もはや戦は避けられますまい」
「さ…されど儂は…」
「見なされ、義秋殿。ここには義秋殿を信じ、または慕って参った者たちが五万とおる。義秋殿は彼らを見捨てられますか?」
「み…見捨てはせぬ…が、兄上との戦は……」
「我らが武門である以上、己の主張が通らぬ時は戦となることは宿命にござろう。されど誰も上様の命まで奪おうとは思っておりませぬ」
未だ武士の世界に慣れているとは言えない義秋は、道有の言葉に表情を曇らせた。
「判っている。それは…判っておるのじゃ」
義秋が未だ決心を固められずにいる時、義輝の陣営から開戦を告げる法螺の音が聞こえてきたのだった。
「おっ…おおっ!来おった!来おったか!!待っておったぞ…!!」
湧き上がる興奮を抑えられないのか、法螺の音に道有は童のようにはしゃいだ。
永禄十二年(1569)十一月二十日・巳の刻(午前十時)。ついに天下分け目の兄弟対決が始まったのだった。
【続く】
開戦という題でありますが、合戦が始まるのは次回からとなります。
いちおう時間軸としては最初の場面以外は全てほぼ同じ時間帯であると思って下さい。
また氏規の抜擢は義輝が基本的に北条本家より氏規に重きをおいていることの現れであります。(要は幕府にはどちらが有益かということ)
尚、無人齊道有が如何なる人物かご存じに人はググっていただければすぐに判ると思います。また彼が謀叛方に与していることに異を唱えられる方もおりますでしょうが、私なりの解釈として道有は既に家督復帰は諦めており、桶狭間合戦の後の今川家乗っ取りの話から想像して、信玄のいる謀叛方に与しても不思議ではないと考えています。
※瓦林城の成り立ちについてご指摘があったために修正いたしました。