第八幕 中国大返し -迫る兄弟対決-
十一月九日。
備中国・猿掛城
元就は帰陣すると幕府と和睦したことを諸将へ伝えた。その上で国替になったことを謝し、最大限に負担がないよう配慮することを約束した。
皆、沙汰止みとなっている九州はともかく出雲と伯耆を失ったことを悔しがったが、決定を下した元就へ不服を漏らす者は誰もいなかった。それだけ元就という存在は毛利家では大きかった。
一悶着あったのは、誰を幕府へ遣わすかを決めていたときだった。
毛利家からは、すんなりと四男の元清に決まった。才覚に溢れる元清を送るのには反対の意見も出ることは出たが、吉川や小早川のように何れ武功を立てて守護へ取り立てて貰う狙いを元就が説明すると、皆は納得して収まった。
これに桂広繁と所領を失った三村元祐(元祐は幕府勢に合流後、義輝の命で庄姓に服すことになる。三村の家督は親成が正式に継いだ)ら元三村家の者を与力として送る。
「上方ではしかと上様の下知に応え、役目に励むのだぞ」
「承知いたしました」
丁寧な口調で、元清は返事をする。
「うむ。身体には気をつけるのだぞ」
「ははは、父上。私はもはや子供ではございませぬぞ。大丈夫でございますよ」
元就の言葉に笑って返す元清を、元就は慈愛に満ちた表情で見つめていた。これが息子と最後の別れになる事を悟っているのだ。
「次は吉川家から誰を遣わすかだが…」
人選で揉めたのは、この吉川家の事でだった。
「元春。吉川家のことである故、そなたが決めよ」
「はっ」
そう元就が吉川家当主である元春へ促すと、元春は少し考えた末に名を口にした。
「当家からは才寿丸(後の吉川広家)を送ろうかと存じます。されど才寿丸は幼年ゆえ、小太郎(吉川経家)に補佐させまする」
元春が才寿丸を選んだのは、元資が嫡男であり、次男の元氏は既に他家の養子となっているからである。これに異を唱えたのが元資であった。
「父上。公方様の許へは私が参りとう存じます」
元資の突然の名乗りに、元春は怒気を含ませた声で応じた。
「元資。そちは吉川の嫡男ぞ」
これに元資は怯まずに返す。
「嫡男であればこそ、公方様の許で武士の何たるかを学んで参りたいと存じます」
「気持ちは判らんでもないが、此度は我慢いたせ」
元春が息子の申し出に一定の理解を示すも、これを却けた。しかし、元資は尚も食い下がった。
「このような機会はまたと有りませぬ。聞けば公方様は柳生兵庫助殿よりも遙かに強くあられるとのこと。そのような御方の傍近くに御仕え出来るとは、まさに武門の誉れ。必ずや吉川の名に恥じぬ武将となって戻って参ります故、どうか御許し下さいませ」
懇願をする息子を前に元春は言葉を窮した。柳生の強さは自分も身に染みて知っており、その義輝へ対しても元春は密かに好意を抱いていたからだ。
困っている元春を見て、元就が大声で笑った。
「許してやれ。上様は腕っ節だけではなく芯も強い御方じゃ。元資が学ぶことも多くあろうて。直に会って参った儂が申すのだから、間違いはない」
「父上…」
結局、元就の鶴の一声で元資が吉川家を代表して義輝の許へ送られることとなった。
「さて、和睦は成ったが戦は終わったわけではないぞ。隆景、まずは武吉めを懲らしめねばならぬ」
元就が今後の毛利の行動について口にする。これに対して小早川隆景が疑問を呈した。
「よいのですか?武吉を攻めれば公方様の勘気に触れるのではありませぬか」
「案ずるな。上様からは御許しが出ておる」
「左様でしたか。ならば異論はありませぬ。就方、支度をせよ」
「はっ。畏まりました」
隆景の命を受け、児玉就方が足早に去る。
「輝元。そなたは儂と共に長門へ向かう。九州で宗麟めが反撃に転じてくるであろうから、それを可能な限り押し止める」
「はい。されど大殿、少しは休まれた方がよいのではありませぬか。長門へは私だけで参ります故、大殿は吉田にお戻り下さりませ」
元就の命令に輝元は承服を示しながらも、身内として気遣った言葉をかけた。ここ数年の元就の働きぶりは半端ではない。如何に病が快方に向かっていたとはいえ、尼子攻めでは長陣を強いられ、伊予攻め支度に九州攻めに奔走した。さらに大内輝弘の乱では陣頭で指揮を執り、今回の幕府との合戦に於いても全てを仕切っていたのは元就である。
年齢を考えれば、既に体力の限界は超えているだろう。いつ倒れてもおかしくない。毛利の者にとって、元就を失うことほど恐ろしいものはなかった。
輝元の言葉に全員が賛同を示し、元就もようやく肩の力を抜いた。
「…ふう、そうだな。確かに疲れた。少し休ませて貰うとしようか」
「是非、そうなされませ」
「すまぬな。貞俊、通良、元重、そなたらで輝元を扶けてやってくれ」
「はっ。畏まりました」
三人が頭を垂れて主命を受諾する。こうして長門には輝元だけで向かうことになった。
(これで、儂の役目は終わったな)
ようやく独り立ちの兆しを見せた若き当主の姿に、元就は表情に少し疲れを残しながらも満足した笑みを浮かべるのであった。
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同じ頃、幕府の諸将たちが集まる幸山城でも義輝が毛利と和睦が成ったことを伝えていた。
「これで安心して撤退できるというわけですな」
「されど、あの元就がよく五カ国で引き下がったものじゃ」
「いやいや四カ国であろう。藤政様を養子に出されるとは、上様でないと思いつかぬわ」
畿内へ戻れると聞いて、毛利と戦が続いている間に領地を奪われるのではないかという懸念を抱いていた諸将の表情は、概ね明るくなった。だが中には畠山高政の謀叛をこの時に知った者もおり、居城を奪われた一色藤長などは未だに立ち直れずにいる。そして兄が謀叛方に与していることを知らされた晴藤の表情からは、血の気が完全に失せていた。
ただ謀叛の黒幕が武田信玄であることは伝えなかった。確証があるわけではなかったこともあるが、信玄の名が出れば、その武名から士気が下がることが懸念されるからだ。大事な戦の前に、それは避けるべきだった。
故に義輝は、信長へ対してのみ信玄のことを打ち明けた。流石の信長もこの時ばかりは表情を曇らせ、舌を打った。
状況を報せた後の義輝の行動は素早かった。
「急ぐ故に長々と評議はしておられぬ。皆、余の指図通りに動け」
「はっ」
義輝の言葉に皆が一斉に頭を垂れて応じた。その後、義輝は一気に命令を下していく。
「まずは勝久。毛利との和睦で義久の出雲復帰が決まった」
「まことでございますか!?」
勝久を含め、尼子一党の者たちが歓喜の声を上げる。尼子再興に全身全霊を傾けていた山中鹿之助などは、喜びに身を震わせていた。
「すぐさま出雲へ赴き、兵馬を整えよ。伯耆の南条元清と共に可能な限り早く因幡へ攻め入るのだ」
「はっ。畏まって候!」
尼子一党は力強い喚声で応えた。次に義輝は石谷頼辰の方を向く。
「兵部少輔。そなたは帰国し、南方より山名領を脅かせ」
「承知いたしました」
「宰相(細川藤孝)は一時帰国して他に謀叛方へ通じる者がおらぬか警戒しつつ、兵糧などの輸送を申し付ける」
「はっ。特に阿波、讃岐では目を光らせまする。またいつでも上様の下知に従えるよう兵を揃えておきまする」
「うむ。それでよい」
評議の為に義輝と合流していた藤孝が、主の考えを見通した返答をする。これに義輝は満足して頷いた。
本当なら義輝は四国の兵を呼び寄せたかった。今回の西征に四国の兵は動員しておらず、謀叛の規模が大きくなった今はその人数を活用すべきだった。しかし、河野通宣が謀叛方に与するということが元就の口から判明している。
河野だけならまだいいが、謀叛方に松永久秀がいることが問題であった。
久秀は三好の家宰であった人物だ。三好家の領地であった阿波と讃岐には久秀と繋がりのある在地領主も多く、何かしら仕掛けていたとしても不思議ではない。杞憂であればよいが、万一のことがあれば幕府の四国経略は完全に崩壊する。そのためには藤孝を帰国させるしか術はなかった。
「それと宰相、四国には左馬助(北条氏規)がおろう。探し出して余の許へ送れ」
「左馬助殿を?はっ、畏まりました」
藤孝は主の命に疑問を持ったが、すぐにその意図に気付いた。
氏規は検地で四国に赴いている。しかし氏規は文官ではなく、関東では一軍を率いる立派な武将だ。合戦に於いては幕臣の誰よりも経験が豊富であり、呼び寄せて兵を与えれば部隊の強化に繋がる。また同時に北条家からの大事な人質である氏規は、今後のことを考えても手元に置いておきたかった。
全ての命令を出し終えた義輝は、全軍へ告げた。
「後の者は余と共に京へ向かう。まずは三木城を目指して突っ走れ!」
この義輝の怒号により、幕府の軍勢は昼夜を問わずに走り続けることになった。
幕府の船団は可能な限りの兵糧と武具弾薬を乗せ、兵も乗せた。義輝自身もそれに乗って東を目指す。船団は本来は危険である夜間の航行も行った。これは海域を熟知している瀬戸内の水軍衆らがいたからこそ可能なことだった。
その甲斐もあって義輝は僅か二日ほどで三木城へ到着することが出来た。ここで状勢を見極め、可能なら摂津へ進出するつもりだったのだが、義輝と共に到着した兵は僅かに二〇〇〇ほどでしかなく、いま暫く軍勢が終結するのを待たなくてはならなかった。
翌日、織田信長を乗せた船が到着するも全軍が揃うのには、さらに六日を要した。また到着したばかりの兵を休ませる必要もあり、全軍が動けたのは義輝が三木城へ辿り着いてから八日後のことであった。
その間に、謀叛方の動きが次々と義輝の許へ届いていた。
十一月四日、丹波・猪崎城が山陰勢によって陥落。
十一月六日、摂津・芥川山城が畠山家臣・遊佐信教によって攻め落とされる。
同日、大和・筒井城が松永勢に包囲される。
十一月七日、摂津・池田城で池田知正が蜂起、乗っ取られる。茨木城、原田城が畠山家臣・安見宗房によって制圧される。
十一月八日、丹波・鹿集城が落城、一色勢が黒井城を包囲。
同日、摂津・伊丹城が降伏、開城する。
同日、丹波・籾井城が京極勢によって陥落。
十一月九日、丹波・余部城が落城し、朝倉義景と京極高吉が入京する。
同日、畠山勢が大物城を接収、修復を始める。
十一月十日、近江・坂本城が朝倉勢に占拠される。
十一月十一日、丹波・黒井城が陥落。一色勢が八上城への抑えを残して京へ向かう。
十一月十二日、大和・筒井城が落城する。
同日、若州武田の兵が伊丹城へ入る。
同日、京極勢が大物城へ入る。
十一月十三日、伊丹城へ朝倉・一色勢が入る。
十一月十五日、松永勢が大物城へ入る。
同日、岸和田城が松永久通勢に包囲される。
十一月十六日、足利義秋が池田城へと移る。
これらの動きを、軍勢の揃わぬ義輝は指を咥えて見てるしかなかった。
そして十一月十九日。義輝は全軍を摂津へ入れることを宣言した。
【続く】
前回で分割した後半を投稿です。
如何にもという副題ですが、史実の秀吉と違って軍勢の数が多すぎて多少時間がかかっています。ただ謀叛方からすれば義輝と元就の和睦は寝耳に水の話であり、脅威のスピードで帰還したように映っています。
さて前回で指摘した忘れられている“であろう”人物とは北条氏規のことです。彼は明確な北条家の人質なので、信玄が敵となった以上は味方にしておきたい人物となります。終わっていない四国の検地に出向いており、謀叛には巻き込まれずにいました。次回、合流する予定です。
さて、その次回ですが、いよいよと合戦が始まります。義秋に実権はないので義景と高政が一応の指揮官となりますが、麾下には松永久秀と武藤喜兵衛など一癖ある連中がいるので、一筋縄ではいかないかもしれません。また次回は初登場となる人物もおり、義秋方へ加担することになります。