第六幕 将星二つ -軍神と大うつけ-
六月二日。
尾張国・小牧山城
尾張の国府である清洲より東北にある小牧山に築かれた城はその山全体を城郭と化しており、多数の曲輪が点在、配下の将の屋敷が建ち並び、南西一帯には城下町も形成されている。主力の兵も置いており、凡そ二年前に築かれたとは思えないほどの賑わいがあった。信長の美濃経略における最前線基地とした意気込みが感じられる。実際、美濃斎藤家の本拠たる稲葉山城とは僅か四里(16km)ほどしか離れておらず、敵対勢力同士の本拠地がこれほど近いのは異例だった。
その地に、大うつけと呼ばれた織田上総介信長はいる。
「御屋形様。明智十兵衛と名乗る者が目通りを求めております」
「明智…とな?」
「はっ。何でも帰蝶様に縁がある者とか。追い返しましょうか?」
「いや、よい。すぐにこちらへ通せ。それと於濃(帰蝶)も呼べ。身内とならば、会いたかろう」
信長は簡単に目通りを許した。自身の室のことを思ってではない。帰蝶の縁者となれば美濃の出身、美濃攻略に有益な情報が得られるかもしれないと考えたからだ。
小姓は信長の前から下がると、先に入ってきたのは帰蝶だった。
「殿。十兵衛殿が参られたとか?」
「うむ。間もなく参るであろう。そちの縁者と聞いた」
「はい。我が母の甥に当たる方です。私が殿の許へ嫁ぐ前までは稲葉山のお城で何度か会ったことがございます」
「で、あるか」
帰蝶の母、つまりは斎藤道三の正室は小見の方と言い、光秀の父である明智光綱は兄に当たる。ちなみに両者とも死没している。
「御屋形様。明智殿を御連れしました」
「入れ」
襖がサッと開けられる。その先に平伏する一人の男へ信長の視線は送られる。
「明智十兵衛光秀にございます」
「で、あるか」
たったそれだけで両者の挨拶は終わる。信長は何も話さない。それだけだったにも関わらず、光秀の額には冷や汗が滲み出ていた。鋭い眼光を叩きつけられている。部屋中の空気が張り付き、凝縮するような感覚だけがヒシヒシと伝わってくる。
(な…なんだ、この威圧感は……)
それが、光秀の抱く信長の第一印象だった。言葉が詰まっている光秀を案じ、帰蝶が助け船を出した。
「十兵衛殿。長良川の合戦の折、一家が離散したと聞き案じておりました。こうして再びお会いできたこと、嬉しゅうございますよ」
「は…はっ。帰蝶様も御健勝のようで何よりにございます」
その時、光秀は初めて帰蝶がいることを知った。正直、声をかけてくれたことを感謝した。見知った人間の声を聞いたことで少し緊張が解れた光秀はようやく話に入ることが出来た。
「此度は将軍家の使者としてまかり越した次第にございます」
「将軍家とな?……義輝公は御健在ということか」
信長がこう思うのも、巷では義輝は三好・松永に暗殺されたという噂が蔓延していたからだった。光秀も道中でそれを聞き、知っている。ただ余りにも噂の広がり方が異常なので信長自身は真偽を掴みかねていた。
「義輝公は兵を求めておられるのか」
「はっ」
いきなり本題を突かれた光秀は驚いたが、話が早くて助かるとも思った。信長としては義輝が生きていて自分に使者を送ったという事実から導き出した発言に過ぎず、無駄な問答を省いただけだった。
「公方様は越前におられます。近く上洛し、逆賊を討ち平らげる所存なれば、織田様にも逆賊征討の軍へ加わわらることを望んでおられます」
「当家は今、美濃攻めの真っ最中である」
信長は兵を出せる出せないとは言わず、織田家の現状を語った。これが断り文句であることくらい光秀も分かる。しかし使者を務めると己で言い出した以上は、簡単に引き下がる訳にはいかない。
「斎藤家との和睦、公方様が取りなしても構わないと申しております」
和睦のことは義輝と話してはいない光秀だったが、一切を任せると言われている以上は許容の範囲と捉えている。しかし、信長は和睦の提案を即座に拒否した。
「何故にございますか?」
「そなたも蝮殿(斎藤道三)に仕えていたのなら知っておろう。美濃は蝮殿より儂に譲られておる。龍興は不当にも美濃を占拠した義龍が子、また仇だ」
道三が長良川合戦で実子・義龍に敗れて自害する寸前、女婿の信長へ“美濃を譲る”という遺言を書き残した。それが信長の美濃攻略の大義名分でもあるし、そのために信長は広くそれを流布させた。そのために光秀もこのことは知っている。
「そこを曲げては頂けませぬでしょうか。公方様のことは、天下の大事にございます」
信長が美濃攻めに拘る気持ちは光秀にも分かる。光秀としても道三を慕っていたのだから、龍興は美濃国主に相応しくないと思っている。ただ、だからと言って光秀も引き下がるわけにはいかない。信長に何とか考え直して貰おうと必死に説得を続けるが。
「明智とやら。貴様は岳父の仇討ちを小事と申すか」
「い、いえ…そのようなつもりは……!?」
即座に平伏し、謝罪する。だが怒ったかに見えた信長の傍らで帰蝶が二人のやり取りを見て『くすくす』と楽しそうに笑って見ていた。
「殿。十兵衛殿をからかうのはその辺にしたら如何です?」
信長に嫁いで十六年。織田三郎信長の人となりを帰蝶は承知している。世間で言われている以上に気むずかしい人物であるが、岳父・道三を尊敬している。ただけして仇討ちなどに囚われる人物ではない。何事も合理的に動く人物だ。美濃を獲るために信長が道三の仇討ちを利用していることを帰蝶は知っているし、美濃を獲るのは上洛をするためとも知っている。
「わかった、わかった。明智とやら、儂は三好・松永なぞに与する気はない。義輝公に御味方仕ると伝えてくれ」
「有り難き御言葉、しかと公方様へ御伝え致します」
初めは難航すると思われた交渉が、帰蝶の御陰で意外にも簡単に進んだ。もはや頼れるものはないと考えていた自身の縁にこれほど感謝したことはない。しかし、光秀は戦国武将のしたたかなる一面を承知している。未だ信長から“兵を出す”との言葉が告げられていないことを忘れてはいない。
「つまり兵を出して頂けると考えて宜しゅうございますか」
「構わぬ」
だがこれも簡単に目的の言葉を引き出せた。どうやら織田信長という男、根は単純なようだ。しかし、まだ引き下がるわけにはいかない。ただ兵を出すだけでは、数百でも一千でも兵を出したことになるからだ。実際にそうやって約束を守ったことにする大名もいた。それでは何の意味も無い。
「されば兵一万を御願い申し上げます」
兵数を指定するということは臣下の者へ対する扱い方であるが、あくまで自身は将軍の使者であるので失礼には当たらないと光秀は考えている。それに織田家なら一万ほどは軽く出せる力を有しているし、一万は出して貰わなければ三好の兵力を上回ることは出来ない。
しかし、これに信長は難色を示した。
「当家の事情は知っておろう。兵数の約束まで出来ると思うてか」
「承知しております。されど御約束を頂ければ、公方様も御安心召されるかと」
「義輝公へ嘘は申せぬ」
「ならば御家の御事情が変われば、如何でしょうや」
「なに?」
信長が意味深な光秀の発言に身を僅かに前のめりにさせている。それを光秀は見逃さなかった。興味を持っている証拠だ。
「美濃守護職。公方様は織田様に任せてもよい、と申しております」
「それはまことか」
「越前を発つ前、しかと承っております」
「書付はあるか?」
「今はございませぬ。されど織田様が御望みであれば、すぐにでも公方様より頂いて参りましょう」
光秀は完全に信長が餌に食らいついたと思った。書付とは、いわゆる証文である。それを要求するということは、完全にこちらの掌に乗ったと考えていい。だが……
「よい。義輝公の御心は伝わった。それに儂は美濃守護になぞなるつもりはない」
「……は?」
光秀は理解できなかった。守護職は美濃攻めにおいて道三の遺言状以上に確実な大義名分になるはずだった。何せ道三がいくら信長に『美濃を譲る』と言い残したとはいえ、道三自身は美濃守護ではない。守護職は子の義龍が本来の守護・土岐氏を称することで継承している。つまり表向き正当な美濃国主は義龍の子である龍興の方なのだ。
それを覆すのが、今回の裁定であった。元々守護職を交渉の材料にする気だった光秀だが、こうも拒否されるとは思っていなかった。
「いま義輝公より守護職を賜ったとしても、名のみであり実が伴わぬ。それでは当家の力を義輝公に認めては貰えまい。美濃平定は当家の力のみで行う。義輝公の力は借りぬ」
「さ…されど、それでは美濃平定に時間がかかりましょう。公方様の上洛に間に合いませぬ」
「兵は出すと申した。それでよかろう。下がって義輝公へ伝えるがよい」
それを最後に光秀は有無を言わさずに閉め出された。あっという間の出来事だった。
渋々光秀は越前へ戻るしかなかった。幸い、信長との面談は四半時(30分)もかかっていないため、その日の内に小牧山を発つことが出来た。
だが一方の信長はこれを機に忙しく動き始める。先ほどまで光秀が座っていた場所に、柴田権六勝家、林佐渡守秀貞、丹羽五郎左衛門尉長秀、木下藤吉郎秀吉が座っていた。
「先ほど将軍家より使者が参り、儂に上洛を求めてきた」
四人から『おぉ」と感嘆の声が漏れる。それほどまで彼らにとって上洛は特別なことを意味していた。
「さらには儂を美濃守護に、と申してきたが、それは断った」
ここで信長の家臣たちは『何故か』と訊ねるような真似はしない。ただ黙って信長の意を受ける。それが織田家の常識だった。
「が、その話は使える。…五郎左」
「はっ」
「この話を聞けば、加治田衆は落ちるか?」
「確実に落ちまする」
中濃一帯に勢力を有する加治田衆は佐藤忠能を盟主とする土豪たちである。信長の命を受けて長秀が調略を仕掛けていた。
「権六、兵を整えよ」
「美濃攻めですな。腕がなるわい!」
勝家が握り拳を左掌に叩きつけ、闘志を湧き上がらせる。
「猿(秀吉)。その話を美濃中にばらまけ」
「はっ。同時に西美濃衆を斎藤家より切り離しまする」
「ふっ…ようわかっておる」
信長は顎髭を擦りながら、満足そうに頷いた。秀吉のこういう切れるところを信長は買っているのだ。
「中濃が落ち、西美濃衆が儂に従えば、東濃は自ずと靡く」
「美濃平定は成ったも同然ですな。わっはっはっは!」
秀吉が馬鹿笑いを始める。他の三人は苦々しくそれを見ているが、この話自体は織田家にとって悪い話ではないのでそれを咎めるような真似はしない。
「佐渡。熱田、津島の商人共に命じ、上洛の仕度に取りかかれ」
「い…今すぐにでございますか!?」
秀貞が驚くのも無理はない。あくまで上洛は美濃攻めが終わった後のことだと考えていたからだ。それは間違っていない。
「当たり前であろうが。でなければこの場にそちを呼んだりはせぬ!」
そう言い放つと、信長は部屋から出て行ってしまった。残された四人は、後は信長からの命令を従順に実行するしかない。
そして十日後。加治田衆が織田家へ通じた。これに怒った斎藤方が兵を出してきたが、織田軍の前に敗走し、中濃一帯は織田方となった。
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六月七日。
越後国・春日山城
日本海に面するこの山城は関東管領の御城である。主たる上杉弾正少弼輝虎は去る三月に北条相模守氏康に攻められて窮地に陥っている関宿城主・梁田晴助を救援するために関東入りしていたが、輝虎が下総国へ入ると東関東の諸侯がこれに合流、梁田勢の士気も上がり奇襲を仕掛けてきた。流石の氏康も果敢徹せず、上杉本隊とは戦わずに兵を引いた。
救援に成功した輝虎は今月の初めに春日山に戻ってきた。そして、将軍・義輝の死を報されたのである。それから義輝の御霊を弔うため、毘沙門堂へ籠もっていた。とは言っても義輝は死んではいない。京での変事が関東へ届く頃には尾ひれが付いて死んだことになっていたのだ。
(逆賊共に上様が……やはりあの時、奴らを成敗しておくべきだった)
輝虎は振り返る。永禄二年(1559)に上洛した時のことを。
あの上洛の目的は、表向き上杉の家督相続と関東管領就任の認可を得ることだったが、実際は三好長慶を討って義輝を扶(たす)けることにあった。その為の、兵五千だったのだ。
義輝の周辺を取り巻く情勢は厳しいものだったが、六角や畠山など反三好勢力の力も衰えておらず、輝虎は勝機を感じていた。しかし、義輝からすれば上杉勢五千が加わったところで勝ちを得るのは難しいと判断しており、三好討伐の許可を与えなかった。
(上様の命令を無視してでも実力行使に及ぶべきだった……)
と、義輝の死を報された輝虎は悔やむしかなかった。そこへ小姓から来客の報せが入る。
「御実城様」
「何用か。ここへは入るなと申し付けておったはずだが」
怒気を滲ませ、小姓を咎める。輝虎にとって毘沙門堂での祈りは神聖なものであり、何人たりとも邪魔は赦さなかった。家臣たちにもそう言いつけてある。故に咎めている。
「そ…それは重々承知にございますが…、上泉伊勢守様が目通りを願っておりますれば……」
「勢州が…か?」
珍しい、と輝虎は思った。
信綱は先代の長野家当主・業正が死去して後、主家を致仕していた。“郎党のみを連れ、諸国放浪の旅に出る”と春日山に挨拶に来た信綱本人から聞いている。それ以来、輝虎は信綱と会っていない。
しかし、すぐに会うかどうか迷った。実際、今は義輝の御霊を弔う祈りを捧げているところである。何よりも神聖で、大事な儀式だ。
しかし小姓は主君の傍近くに寄り、耳打ちした。
「伊勢守様はどうやら、上方から参られたようにございます」
「なに!?」
思わず声を上げてしまった輝虎が、小姓は構わず続ける。
「公方様のことについて、急ぎ御実城様に御伝えしたいことがあるとのこと」
「…すぐに会う」
と言って毘沙門堂を出た。
半刻(1時間)後、四年振りの輝虎と信綱の対面となった。現れた信綱は以前と変わらぬ姿であった。
「久方振りじゃ。勢州よ」
「管領様も御健勝で何より……」
「上方より参ったと聞いたが?」
「はい。つい先日までおりました」
「上様が亡くなられたと聞いた。嘆かわしいことじゃ。何でも勢州は上様がことで儂に伝えたいことがあるとか」
「左様にございますが、その前に一つ訂正がございます」
「訂正?」
「公方様は御健在であらせられます」
「ま…まことか!?」
義輝の生存。それは衝撃だったが、まずは無事を喜んだ。何よりも輝虎にとって足利義輝という人物は、聡明かつ勇猛さを兼ね揃え、覇気に溢れた希有な存在。己の思い描く征夷大将軍そのものであり、乱れた秩序を取り戻す唯一の希望だったからだ。
「今は窮地を脱し、越前へ身を寄せられております」
「越前……左衛門督殿のところか。ならば安心じゃ」
越前朝倉は上杉家にとって好意的な相手であるため、輝虎は心から安堵した。
「此度、その公方様に頼まれて管領様の許へ参った次第」
「将軍家よりの使者……と申されるか」
「…そうなりますな」
ならば、として輝虎は立ち上がり、座を信綱に明け渡そうとする。信綱が将軍家の使者であるのなら立場上で上司ということになるため、上座を明け渡し、下座より上様の御言葉を賜らなければならない。
しかし、信綱は首を横に振ってそれを拒否した。
「此度は公方様より命令を受けて参ったのではございませぬ。あくまでも依頼で参ったのです」
「はて?」
輝虎は臣下なのだから、命令すればいいだけのことである。そこら辺が輝虎には理解できずにいた。しかし、信綱は構わず続けた。
「公方様は逆賊の討伐を御望みです」
「で、あろう。三好・松永らの所行、赦されるものではない」
「そのため、管領様に上洛を求めておられます」
「………」
輝虎は目を瞑った。
長慶を失ったとはいえど三好・松永らの力は侮れない。朝倉という新たな味方を手に入られたとはいえ、教興寺合戦の結果、上方に残る反三好勢力の力が弱まっており、義輝が自分の力を必要とするのは己でも理解できる。
「されど勢州よ。関東での争乱、日々激しくなっておる。先日も甲斐の武田信玄が西上野へ迫っておるとの報知を受けた。近々また関東へ出陣するつもりじゃ。とても儂が離れられる状況ではない」
現在の関東は予断を許さない状況が続いていた。
関東制覇を狙う北条氏康はもちろんのこと、その盟友・武田信玄も輝虎が越後へ帰る度に兵を入れている。そして輝虎が関東へ赴くと撤退し、また兵を出すというイタチごっこが続いていた。
「分かっております。故に公方様は、これは命令ではなく『頼み』だと仰いました」
「上様が儂に頼む…と?」
「はい」
痛かった。主君に“頼み”と言わせている自分の胸がただただ痛かった。そして主君の窮地に駆けつけることの出来ない己の不甲斐なさを罵った。
「管領様。公方様は以前と同じく五千の兵でも構わない、と仰せです。それであっても上洛することは叶いませぬのか?」
信綱は率直な疑問をぶつけてみる。数年前までの関東の情勢は知っているが、ここ一、二年のことは諸国を放浪しており断片的にしか知らない。だが上杉家の最大動員数は二万を越えるはず。多くの守備兵を残していれば上洛は可能ではないかと考える。
「その程度であれば出来なくはないが……」
輝虎は迷っていた。
武蔵国の大半は北条家に奪われたままだが、上野、下野、下総、常陸、上総、安房と反北条の勢力が中心に活気づいている。急先鋒たる佐竹右京大夫義昭も常陸を統一する勢いだし、前年に国府台で北条に破れた里見刑部少輔義堯も未だ勢力を保っている。
自分が離れるという不安があるが、信綱の言うとおり五千程度なら上洛させる余裕がないわけではなかった。しかし、同時に五千を上洛させたところで、と思うところもある。充分に役に立つ自信はあるが、関東管領たるものとして、万余の兵を率いていきたい気持ちが強い。
「管領様。先の変事で生き長らえた後、公方様は死のうとなされたことがある」
「は?」
唐突に話を始める信綱に戸惑う輝虎。だが話の内容が内容だけに黙って聞く。
「妻子を、母御を殺されたのじゃ。無理もござらん」
「………」
「管領様には妻子はおらずとも、母御はおりましょう。その無念、如何ばかりのものか御分かりになりましょう」
「………」
「妻子とはあの世で会おうと約束までしたらしい。母御ともな。だが公方様は生きた。生きてしまった。儂らが御助けした所為だが、公方様はそれを恥じた」
「………」
「恥じたからこそ、朽木谷の城で三好の軍勢が迫って来たとき、逃げる術があったにも関わらずに公方様は城を枕に討ち死にする覚悟であった。されど、また生きた」
「それは何故?」
「側近の細川兵部が説得した、明智十兵衛なる者もな。されど本音の部分は知りませぬ。公方様に直に会い、聞かれたらよい」
悲しい話だった。もし自分が同じ立場だったらどうしただろう。妻子を失う気持ちは分からないが、もし母が自分の家臣の手に掛かって死んだとしたら…、恐らく自分は怒り狂い、何人の制止も振り切りその者を八つ裂きにするだろう。それが叶わぬなら、助けられなかった己を恥じて死を選ぶ。そうするかもしれない。
(上様はそのような苦悩を抱えておられるのか……)
輝虎は胸に熱いものが広がっていくのを感じた。そして己を恥た。関東管領として万余を率いて駆けつけたいと考えた己の見栄を。甘さを。
自分に言い聞かせる。『もう結論は出ているのではないか』と。
「上洛しよう」
輝虎の決心は固まった。
「まことで?」
「うむ。されど時期は当家の都合に合わせて貰いたい」
「それで、時節はいつ?」
「雪が降り始めれば、甲斐の武田も動けぬ。それまでに関東へ兵を送っておれば、北条輩も好き勝手は出来まい」
「となれば、十月の末辺りで?」
「一乗谷で御会い致しましょう、と上様に伝えてくれ」
「しかと、伝えましょう」
「…ああ、それと」
思い出したように輝虎が付け加える。
「一向一揆との和睦、上様に調停を依頼したい。どうやら裏から信玄めが手を引いているようなのだ。あれらに邪魔されたら堪らぬ」
「それならば、既に細川兵部が動いております。御安心を」
「それは重畳。もっとも、邪魔されたところで薙ぎ払うだけだがな」
「管領様なら造作もありますまい」
「当たり前じゃ」
二人が微笑み合わすことにより、この会見は終わった。
こうして上杉輝虎の上洛が決まった。
織田信長と上杉輝虎……戦国の世に生まれ出し二人の将星が、将軍・義輝の馬前で轡を並べる時が、刻一刻と近づいていた。
上洛の時は近い……
【続く】
序章最終幕です。のでいつもよりちょっと長くなりました。
序章を書き終えるまで、かなりかかったように思います。これではこのお話を書き終えるのがいつになるのやら……
とは言っても次章の上洛編やその次、最初の方に書いたと思いますが、シナリオはほぼ出来上がっており問題は私の根気のみ。有り難いことに購読者も増えておりますし、感謝の一言です。頑張るしかありませんね。頑張ります。
また本編ですが、この辺りから歴史の針が史実より早く進み始めます。そして変化し始めます。引き続き寛大な御心を持って見て頂けると幸いでございます。