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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第三章 ~新たなる乱世~
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第二十三幕 前哨戦 -備中侵攻-

九月十四日。

備前・沼城


将軍・足利義輝率いる幕府勢は山陽道を順調に行軍し、宇喜多直家の居城・沼城へと入った。沼城へは既に備前守護・浦上宗景、美作代官・石谷頼辰が到着しており、これで山陽道を進む幕府勢は全軍が揃ったことになる。


その沼城では、初体面となる浦上宗景が宇喜多直家を従え、義輝へ対して改めて忠誠を誓っていた。


「面を上げよ」


宗景が上体を起こす。


義輝は突き刺すような視線で宗景を見ている。全身から発せられる圧倒的な覇気に、宗景は身を縮こまらせた。初めて義輝に会った誰もが捉われる感覚だった。


「此度、余は其ノ方へ守護職を任せた。以後は他国の諍いに首を突っ込まず、備前の統治へ勤しむがよい。さすれば余は、末代に至るまで浦上家へ備前国を任せるであろう」

「はっ!しかと心得まする」


サッと宗景が平伏する。それを見て、義輝は満足げ頷いた。


「ときに宇喜多と申すのは、そなたであるか?」

「はっ、左様にございます」


突然に義輝が、宗景の後ろに控える直家へ話しかけた。直家はゆっくりと頭を上げる。


(こ奴が宇喜多直家か。長慶とは似ても似つかぬのう…)


直家に興味を持っていたからこその行為だったが、改めて義輝は三好長慶との違いを感じた。如何に経歴が似ていようとも別人なのだから当たり前だ。


(どちらかといえば久秀に似ておる。特に目がそっくりじゃ。あの人を信じようともせず、道具のように見る久秀にな)


義輝は、感覚的に直家とは相容れないだろうと悟った。直臣にすることなど以ての外であり、このような危険な男はこのまま宗景の下で使う方がいい。


「そなたの主君を守護としたからには、一段と重き責を負うことになる。そなたの才を以て主を扶け、忠勤に励むがよい」

「ははっ。公方様直々の言葉を賜り、恐悦至極に存じ奉ります」


直家は頭を垂れ、形式的な言葉で返答した。


その後、軍評定が始まる。


沼城は備中との国境に近い位置にあり、出陣すればすぐに戦になる。まずは宗景の家臣・大田原長時より毛利の動きが報告される。


「物見の報告によりますれば、毛利勢は九州から撤退して備後三原に集結中とのこと。今のところ備中へ毛利の兵は入っておりません」

「ならば陸奥守(元就)は三原か」

「左様にございます。他に少輔太郎(輝元)殿、両川の姿も確認されております」


毛利領は広大であるため、毛利の重鎮である彼らが一堂に会するのは稀である。この一戦に敗れれば、御家滅亡は避けられない。故の総出であると思われた。


「数は判るか?」

「三万ほどかと存じます。されど今を以て各地より兵が集まっている様子にて、まだまだ増えると思われます」

「だろうな。三万は少なすぎる」


毛利の最大動員数は判らないが、九州に四万を派遣できる程だ。中国では、それを上回る規模の数を動員するのは間違いない。


義輝は山陰にも兵を割かなくてはならない事情を踏まえ、山陽には四万から五万ほどと考えている。これに備中の三村が加わるのだから、幕府勢の規模は越えないまでもかなり近づいた数を揃えてくると予測していた。


「三原城には水軍もおるのだろう」

「はっ。毛利警固衆に小早川、村上の水軍凡そ二百艘余りがおります。されど大半は九州より帰還する兵の輸送に出払っており、何れ倍以上の船団が三原に姿を現すものと思われます」


毛利水軍の名は天下に轟いている。厳島合戦での活躍はもはや語り草であり、年々と毛利の版図が広がるに連れて規模も拡大していた。唯一例外があるとすれば、伊予出兵で来島村上家が幕府へ臣従したことだ。これにより結束を保っていた村上水軍に亀裂が入った。


また幕府水軍も瀬戸内を庭のように知り尽くしている来島村上と宇喜多の水軍を全面に出し、対決姿勢を露わにしている。


その後も長時の報告は続いた。


備中の三村は松山城を動いておらず、毛利の援軍を待っているということ。山陰へは伯耆の南条元清が遣わされたことなどが報された。


「すると我らが取る道は三つとなりますな。このまま備後へ攻め入って毛利と決戦いたすか、先に三村を攻めるか、もしくは山陰を進む左衛門督殿が毛利の背後を衝くのを待つか、でござる」


これまでの話を一色藤長が纏め、考えられる方策を示す。


「されど、このまま備後へ攻め入るのは危険でござらぬか。我らは数でこそ勝りますが、船戦では毛利に分があり申す。ここはまず、三村を攻めるのが上策かと存じます」


和田惟政の発言だ。これに宗景が同意を示す。


「和田殿に同意いたす。三村の兵は少なく、七万を以て攻めれば勝利は疑いござらぬ。幸いにも我が陣営へ、三村方の将の幾人かより幕府へ恭順したいという申し出がござる」


つまりは寝返りであった。彼らは幕府と直接繋がりがないために浦上を頼ったのだった。如何に長年の敵であれ、隣国の大名となれば家臣間の繋がりはそれなりにあった。


「手前の許へも一族の重鎮・三村紀伊守(親成)から幕府へ従う旨を書き留めた誓詞が届いてございます。いま三村を攻めれば、労せずして勝利を得られましょう」


水軍衆の代表として軍評定へ参加している細川藤孝も三村攻めを主張した。


他に三村攻めを主張するのは、蜷川親長、石谷頼辰など幕臣衆である。彼らは義輝の安全を第一に考えているので、一番確実な方法を選択してくる。また隣国・備前を治める浦上宗景の発言力は大きい。しかも三村方が二つに割れていることも三村攻めが大勢を占めている理由だった。


一方で決戦を主張する者たちがいた。


「兵法に則れば、毛利の兵が揃っていない今こそが好機にござる。毛利さえ潰せば、三村などどうにでもなりまする」


そう主張するのは池田勝正だ。これに若い浅井長政が同意する。


「左様。遅きに失しては勝機を失いましょう。神速の速さで三原に押し寄せ、一気に決戦を図ることこそ肝要かと」

「うむ。三村を攻めていては、毛利が全軍を揃えてしまうのは必定であるな」


蒲生賦秀、三好義継、別所安治らが決戦案へ同調する。


そして、この決戦案に拍車を掛けたのが尼子家臣・山中鹿之助の発言であった。


「我ら尼子が出雲へ赴けば、旧臣らを蜂起させることが叶いまする。さすれば毛利の動揺を誘うは確実であり、三原表での合戦も御味方有利となりましょう」

「それは妙案じゃ。出雲で尼子の旧臣が蜂起いたせば、山陰の朝倉殿への支援ともなろう。山中殿、旧臣らの蜂起は幾日あれば可能か?」

「既に繋ぎは入れてございます。御命令とあれば、すぐにでも」


その言葉の後、皆の耳目が義輝へ集中した。意見は出揃い、後は義輝が裁定を下すのみである。


「弾正、如何に思う」


義輝が、未だ何も発言していない信長へ話を振った。


「毛利の策は三村との挟撃でございましょう。我らを三原に誘き寄せ、背後を三村に衝かせる策かと存じます」

「余もそう思う。されど余が、のこのこと三原まで出てくると陸奥守が考えるか」

「毛利には是が非でも我らに勝たなければならないという理由はございませぬ。一方で我らは毛利を攻めねばなりません」


毛利の目的は領土の防衛であり、幕府への勝利ではない。毛利にすれば、幕府を追い返せば勝ちなのだ。こちらは連合軍であるから何年も遠征しているわけにはいかず、いつかは帰国する。仮に毛利が三原から動かなければ、こちらから出向いて行かねばならない。


「三原に押しかけて行って、勝てるか」

「勝てません」


信長はきっぱりと言い切った。


最終的に三原へ集結する毛利勢の数は不明だが、三原で戦えば船戦を伴う。信長はこの船戦に不安を抱いていた。


そもそも織田家としては、この西征に水軍を一切だしていない。その水軍に信頼を寄せるほど信長は楽観者ではない。相手は天下に名を轟かせている毛利水軍なのだ。まず負けると思っていい。負ければ兵站を水軍に頼っている幕府勢が瓦解するには明白であり、やるならば陸地での合戦を挑むべきと考えていた。


そして義輝もまた信長と同意見だった。故に信長へ確認したのだ。


幕府の水軍は、数こそ多いが四国・淡路の水軍を中心とした寄せ集めである。武芸も合戦も日々の鍛錬、経験が勝利へと繋がる。昨日今日に合流したばかりの幕府水軍衆が、歴戦の毛利水軍に勝てると考えるのは自惚れというものだ。幕府水軍は、毛利水軍の動きを制限させるだけで充分だった。


それ故の陸地での決戦。これが義輝の出した答えであり、理由は違えど信長と同じ考えに至った。


「ならば陸奥守を釣り出さねばならぬ。やはり松山城か」

「三村は毛利に従っております。松山城を攻めれば後詰に出てくるやもしれませんが…」

「出て来ぬかもしれぬと?」

「はっ。聞くところによれば、松山城は高梁川の上流付近にあるとのこと。水軍を活用できぬ地へ出てくるとは思えませぬ」

「つまり陸奥守は、三村を見捨てるということか」


信長の言葉に、義輝は怪訝な顔付きとなった。


主ならば、それに従う家臣を助けるのが当たり前だ。その典型的な例が上杉謙信だろう。謙信は関東管領となり、上杉に従う諸将が北条に攻められると必ず援兵を遣わした。これを毛利に当てはめれば、三村の窮地に元就は救援を出さなくてはならないはずだ。仮に三村を見捨てれば、毛利に従っている国人衆の離反を招きかねない。


だが信長の考えは違った。如何に自分に従っていようと、足を引っ張るようなら切り捨てる。元就はそういう人種だと捉えている。


「ふむ」


義輝は顎髭を擦りながら思慮に耽った。


(毛利との決戦を急ぐ必要はない。どちらにしろ三村は潰さねばならぬ相手だ。三村を攻めて陸奥守が出てくればよし。出てこなければ左衛門督を雲州へ攻め入らせるだけだ)


考えは固まった。


毛利が三原から動かなければ、山陰からその版図を一つずつ切り取っていく。さすれば毛利は兵力に余裕がある内に動かざるを得なくなるし、動かなければ自壊するのみだ。どちらにしろ義輝に損はない。


「松山城を攻める。備前守、そなたが先手じゃ。但し、急いで落とす必要はない。ゆるゆると攻めよ」

「毛利が出てくるのを待つのですな」

「そうじゃ。城を囲み、脅しつけるだけでよいが、三村の切り崩しは進めよ。陸奥守が出てきたときに三村にまとまった兵があっては面倒じゃ」

「はっ。畏まりました」


結局、義輝は信長と二人で方針を決めてしまった。鹿之助の策である尼子の出雲入りも却下された。


かくして軍評定は終わり、翌日の出陣となった。


=======================================


九月十五日。


ついに幕府軍が毛利領へと侵攻した。最初に七万を越える幕府勢の攻撃に晒されたのが、加茂城だった。


加茂城は沼地に覆われた平城であったが、流石に多勢に無勢であり、一日と持たなかった。次に義輝は高松城を攻める。高松城は宇喜多の侵攻に備えて築かれた平城で、周囲を湿地帯が囲んでいる。謂わば加茂城を大きくしたような城だった。


城に籠もる兵は大した数ではなかったが、湿地帯の行軍には難儀しそうだった


「見るところ一筋縄ではいかぬようじゃ」

「では先に周辺の城を落としますか」

「うむ。毛利との決戦前に兵を損ないたくはない。孤立すれば、開城を受け入れるであろう」


義輝は無理に高松城を攻めることは避けた。高松城を二万の兵で包囲すると共に南方の日幡(ひばた)城、撫川(なつかわ)城、松島城へ浦上勢を向かわせ、自身は西へ、信長を北へ向かわせた。


「亀山城、長良山城は降伏。織田様が向かった冠山(かんむりやま)城は抵抗の意思を示しております」

「弾正に遣いを出せ。冠山城を攻め落とせと伝えるのじゃ。余は幸山城を落とす」


備中西部を流れる高梁川東岸には、三村一族・石川氏の居城・幸山(こうざん)城がある。城主であった石川久智は明善寺合戦で受けた傷が元で世を去っており、子の久式(ひさのり)が跡を継いでいた。その久式も手勢と共に九州へ遠征しており、不在だった。


一門の者が城主を務めているということは、それだけ幸山城が三村にとって重要であるということだ。この城を落とせば、三村の動揺は計り知れないだろう。しかも石川氏は高松城の城主も務めている。この城が落ちれば、高松城も落ちると思われた。


「気勢を上げよ。城方の戦意を落とすのだ」


幸山城は山陽道を見下ろす要衝の地を築かれている。これを落とすには少なからず犠牲を払うと予測され、義輝は威圧して開城させる策に出た。


幕府勢に包囲された幸山城は、城主の不在もあってか辺りを埋め尽くすほどに林立する幟に恐れを成し、義輝の要求に応じて開城した。


一方で冠山城へ押し寄せた織田勢は激しく攻め立てていた。


「応戦しろ!鉄砲で反撃するのじゃ。堪え凌げば必ずや殿が、毛利が援軍に駆け付けてくれる!」


城将・林重真(はやししげざね)は必至になって味方を鼓舞した。持ちうる限りの鉄砲で防戦するが、織田軍には二千挺を越える鉄砲があった。圧倒的な火線の前に重真は為す術がなく、兵力差もあって三ノ丸、二ノ丸と制圧されていく。冠山城は小高い山の上に築かれているに過ぎず、四方から敵が殺到するのを防ぐ手立てはなかった。


「滝川隊が本丸を抑えました」

「で、あるか。して敵将は如何した」

「逃げ場を失い、櫓の上で自刃したとのこと」

「ならば首を上様の許へ届けよ」

「畏まりました」


林重真は三村方の中ではよく戦った方だった。武運つたなく城は陥落したが、信長はその遺骸を丁重に弔った。


次いで織田勢は北上して宮地山城と鍛冶山城を開城させ、義輝の本隊と合流した。周囲の城を悉く落とされ、再び七万を越えた幕府勢に威圧された高松城は、戦意を喪失して開城に応じた。


その後、幕府勢は高梁川沿いに北上し、途上の諸城を開城または陥落させながら三村元親の松山城を目指した。


幕府勢が松山城へ到達したのは、九月二十七日のことであった。




【続く】

軍評定の場面が長引きましたが、ついに幕府と毛利の合戦が始まりました。まず白羽の矢が立てられたのは三村です。この辺りは備中兵乱が元となっています。史実では毛利方であった親成が幕府方、元親が毛利方です。もっとも立ち位置の違いは宇喜多直家の存在に起因しています。


高松城もあっさりと落ちましたが、清水宗治が城主でないので、このような展開とさせて頂きました。宗治が城主になるのは、備中兵乱の後ですからね。


それにしても自分で書いてて思うのですが、殊勝な信長はしっくりこない。もっとも信長に持たせているテーマに沿った形なので、これでよいのですが。義輝の前以外ではいつもの信長になりますし、次章ではその場面を書く機会も増える予定です。(織田陣営について)


さて次回は松山城攻めと山陰勢の動きを少し描く予定です。

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