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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第三章 ~新たなる乱世~
51/201

第二十幕 義輝の大義 -直家誤算-

三月六日。

播磨国・龍野城下


西播磨の守護代・赤松政秀の城を攻めている浦上宗景の許へ急使が駆け込んできた。


「宇喜多和泉守が挙兵!吉井川を北上し、天神山へ迫っております!」

「信じられぬッ!あの泉州(直家)が謀叛などと…」


思わぬ凶報に、宗景は唖然とした。


当初、宗景は“直家挙兵”という報せを龍野方の虚報だと疑った。それというのも宗景自身、直家には特に目を掛けてやっていたからだ。直家は国内の反対勢力駆逐に一役を買い、先年の明善寺合戦では見事な采配を振るって三村を撃退した。これらに対し、宗景は直家に充分な恩賞を授けている。宗景には直家に裏切られる理由が見当も付かなかった。


「何故に泉州が儂を裏切るのだ。今が如何なる時か、判っていように…」

「…一つだけ考えられます」

「与三左衛門、思い当たる節があると申すか」


宗景の疑問に宿老の大田原与三左衛門尉長時が答える。


「はっ。恐らくは能家の一件かと存じます」

「よ…能家じゃと!?あれに儂は関与しておらぬし、貫阿弥(島村盛実)の所領を泉州へ預けることで誠意を示したはずじゃ。そもそも何十年も前の話であろうに」

「殿の誠意が伝わらなかったのでありましょう。あの男、人の心へ漬け込むことを得手としておりますが、それを己が肌身で感じることは不得手のようにございます」

「くそッ!」


宗景が吐き捨てるように言った。


直家は祖父・能家の復讐を考えている。それが本音なのか、単に己の野心を果たすための大義として利用しているのかは判らない。ただ宗景にとっては、直家の行動は言いがかりも同然だった。邪魔さえ入らなければ、浦上の版図は播磨にまで拡大したというのに。


能家が島村盛実によって謀殺されたとき、宗景は幼く家督すら継いでいない。浦上の実権を握っていたのは幼君・政宗を後見する一族の浦上国秀と盛実。それ故、確かに能家謀殺には浦上の家が関わっているのだろうが、それを宗景の所為にされるのは御門違いもいいところだ。何せ宗景が実権を持つのは、兄と袂を分かって挙兵した天文二十三年(1554)以降のことだからだ。


(泉州にとって、復讐の相手は浦上の家そのものということか)


直家が浦上家を敵として見るならば、もはや元の鞘へ納まることはない。ならば決断あるのみ。


「守護様には申し訳ないが、政秀の首は諦めて貰おう」

「やはり兵を退かれますか」

「致し方あるまい。今は泉州を討つことを優先する」

「我らにとっては当然ですが、守護様が納得されましょうか」

「するまいな。なに、策はある」

「と、申されますと?」

「与三左衛門。幕府勢の動きは聞き及んでおろう」

「はい。三日前に御着城へ入った後、坂本へ移ったとか」


直家が挙兵したという報せは浦上勢を驚かせたが、幕府勢の動きも不可思議だった。宗景は幕府を龍野方と考えていたのだが、その幕府勢が味方陣営であるはずの御着城へ入城した。しかし、合戦があったという報知は届いていない。


(我らへ味方した訳ではあるまい。よしんば、そうであったなら使者の一人くらい寄越すはずじゃ)


幕府からは使者の一人すら訪れない。その相手が味方のはずがないのだ。だが明確に龍野方ということでもないようだ。相手は幕府である。敵対しているのであれば“播磨から退け”くらい言ってきてもいいが、それもないのだ。


その幕府勢は、いま置塩城の南方・坂本に位置している。坂本は以前に播磨の守護所があった場所だ。


「幕府を味方に付ける。我らに幕府へ逆らう気は毛頭なく、それには守護様も異論はあるまい」

「左様かと」

「我らが無事に退くには、幕府と敵対するわけにはいかぬ」


宗景は備前守護代であり、赤松義祐は播磨守護である。幕府と敵対したことはなく、平身低頭して恭順を誓えば、武力衝突に至ることはないと考えている。幕府としても播磨へ兵を入れている以上、浦上が退くことは兵乱の鎮静化に繋がる。否とは申すまい。


「ならば手前が使者として赴き、その儀を果たして参ります」

「うむ。幕命となれば、守護様も納得する他はあるまい」


今は備前へ立ち帰って直家を討つ。政秀排除は、何れ果たせばいい。


そう考えた宗景であったが、直家からの使者も幕府へ遣わされている事など知る由もなかった。


=======================================


同日。

播磨国・坂本城趾


小寺政職の軍勢を加えた幕府勢は、龍野城へ向かう途上の坂本で動きを止めた。


「何故に行軍を止める。龍野へ向かわなくてよいのか?」

「備前の宇喜多が挙兵したという報せが届きました。これは面白いことになるかもしれません。今の内に公方様へ御伺いを立てておくべきかと存じます」


そう言って孝高はニヤリとした。


孝高は策戦の立案者であるために、晴藤の傍に置かれていた。無論、小寺の家老という立場にある孝高には人質という意味合いもあるが、垣間見せた才気に魅せられたというのが本音だ。


(何が起こるというのだ。兄上に何を訊けばいい…)


一言で“面白いことになる”と言われても晴藤には何のことかさっぱり理解できない。今の状況と備前の宇喜多が挙兵したことが、どう繋がるというのか。浦上の家臣である宇喜多が謀叛を起こしたのであれば、こちらが介入する前に浦上が兵を退き、晴藤は主命を達成できるだけではないのか。その上、兄へ意見を訊けとはどういうことなのか。


「面白いでは判らぬ。兄上に何を訊けばよいのか、申せ」


語気を強めた晴藤の問いに、孝高は暫し考えてから口を開いた。


「守護方…というより、浦上宗景より恭順を誓う使者が参るはずです。それと、宇喜多からも」

「浦上と宇喜多が幕府へ恭順を誓うと?」

「はい。上手くすれば備前や美作まで手に入るかもしれません。されど浦上は許されましょうが、公方様が宇喜多を認めることはないと思われます」

「何故に宇喜多を認めぬ。我らは表向き龍野方なれば、浦上は敵であろう。ならば宇喜多と手を携えるべきではないのか」

「それはなりません。何故ならば宇喜多の行為が謀叛だからです。謀叛を御認めになられれば、幕府として示しが付きませぬ」


孝高は晴藤の疑問に一つ一つ答えていった。その回答は実に明確であった故に納得のいくことばかりであったが、全ては浦上と宇喜多から幕府へ恭順を誓う使者が訪れるという前提があってこそだった。


この事を諸将へ諮った晴藤であったが、殆どの者が孝高の意見に疑問を呈した。結論は先延ばされ“使者が来るならばそれから”ということになった。


その翌日、さっそく事態は動いた。まず先に現れたのは宇喜多側の戸川秀安だった。


「我が主・和泉守は、幕府に御味方いたします。備前の浦上勢は我らが引き受けますので、幕府の方々は播磨の浦上本隊に専念されますよう」

「…………」


幕府が宗景を討つ気だと考えている秀安は、公然と寝返りを宣言する。それに対し、晴藤は押し黙ったまま眉間に皺を寄せ、何も語らない。そのように孝高より助言されていたからだ。


代わりに孝高が答える。


「小寺家・家老、小寺孝高でござる。戸川殿、少々宜しいでしょうか」

「…何か」

「宇喜多殿は、浦上様の御家来衆であったと存じますが」

「左様にございます。されど宗景様の行動は明らかに幕府へ対する叛逆。和泉守は、これに加担する気は毛頭ありませぬ」

「これは異な事を仰る。御家来であれば、言葉を尽くして諫言し、身体を張って主の乱行を止めるのが筋でございましょう」


これに秀安はムッとし、言い返す。


「そのようなこと言われずとも判っております。されど宗景様は聞く耳を持ちませぬ。誰が好きこのんで主へ矛を向けたり致しましょうか。和泉守とて、悩み抜いた末の苦渋の決断でござる」


あくまでも謀叛ではない、というのが宇喜多の主張だった。もっともそう言ってくるのは孝高にも判っていたから驚くことはない。判っていて訊いたのは、その言葉を敢えて言わせる必要があったからだ。


「それならば浦上様が兵を退いて己の不明を認めた場合、宇喜多殿は矛を収めるのでありましょう?」

「む、無論にござる。されど…」


そう言って秀安は視線を晴藤へ戻し、平伏する。


「いったん袂を分かったならば、宗景様は我が主を御許しになられますまい。仮に赦免されたとしても冷遇されるのは間違いなく、それでは宇喜多の郎党が路頭に迷うことになりかねませぬ。これを機に幕府へ御仕えすることを御許し願えればと存じます」


秀安はもっともらしく建前を述べてるが、要は独立を認めて欲しいということだ。これを論破し、宇喜多の野心をこの場で明るみにすることは孝高にとって容易いが、そうなると宇喜多を成敗しなければならなくなる。敵は死に物狂いで抵抗し、こちらの相当の犠牲を覚悟をしなくてはならない。それを恐らく義輝公は望んではいない。


「左中将様、如何なされますか」


孝高が晴藤へ振る。


晴藤は回答に困った。宇喜多の言い分は判ったが、それを認める権限が晴藤へ付与されてはいない。晴藤及び親長に任されているのは播磨の仕置だけである。だからこそ義輝へ伺いを立てることが必要性が生まれる。


(小寺が申していた通りになったな)


改めて感慨深く孝高を見る晴藤だったが、そこへ武者が一人近づいて耳打ちをした。内容は浦上側から使者が来訪したということだった。


「ふむ。判った」


報せを受けた晴藤は、秀安には“追ってこちらから使者を遣わす”として下がらせることにした。つまりは保留としたのだ。


その後に現れた浦上方の使者は、大田原長時と名乗った。


やはり浦上側の言い分も孝高の言う通りで、幕府に恭順することを告げ、備前へ戻って宇喜多を討つから協力して欲しいと言ってきた。


浦上へ対しては、晴藤の権限で返答が可能だった。


「兵を退くとならば追撃はせぬ。宇喜多がことは追って幕府より正式に沙汰する」

「はっ。承りましてございます」


すんなりと認められたことにより長時は去って行った。


その後、諸将で軍議が行われた。孝高の言う通りの展開になったために議論はあまり行われず、石谷頼辰が帰京して報告し、義輝の沙汰を待つことになった。その間、幕府勢は龍野城へ赴いて争っている赤松義祐と政秀の両者を降すことにした。


完全に蚊帳の外に置かれた両赤松の二人が幕府の決定に茫然としたのは、改めて申すまでもないことだった。


=======================================


三月八日。

京・二条城


播磨の状況を帰京した頼辰より聞いた義輝は、晴藤らとは違う感想を持った。


(宇喜多直家…、やはり謀叛に及びおったか)


凡そ一年半ほど前に明善寺合戦で宇喜多の名を知った義輝は、直家のことを調べさせたことがあった。その経歴はまさに義輝の宿敵・三好長慶そのものであり、いつか主君へ対し謀叛を起こすだろうと直感した。


理由は経歴が長慶と同じだっただけではない。両者には明確な違いがあった。


長慶は父の仇を討つために、仇敵・三好政長の排除を主君・細川晴元へ訴えている。それが認められず強硬手段に及んだところで、晴元が政長へ味方したために主従が対立するに至った。晴元が政長に味方した理由は長慶の力を危険視したからだが、当初の長慶は晴元と敵対する気はさらさらなく、状況から止む得なく引き起こされた結果だと言えた。晴元にも長慶の父・元長を謀殺した責任の一端があり、長慶も含むところがなかった訳ではない。ただ晴元へ対する恨みは政長へ対するほど深くはなく、引き立てて貰った恩もあった。その事は人質とした晴元の子・信良の元服に際し、自ら加冠役を務めていることからも知ることが出来る。


そして最後まで、長慶は晴元の首を求めることはなかった。


これが直家の場合、祖父の仇である島村盛実を主・宗景へ讒言して謀殺した。このやり方が長慶との違いを明確に表している。盛実の死は直家の祖父・能家の死と酷似しており、他にも城乗っ取りや暗殺、謀殺の類いは毎度のことで、正室の父親すら手にかけている。これは直家の気質が盛実と同類であることを意味している。


反面、長慶は戦国武将らしく武略を用いて敵を騙すことはあったが、相手を謀殺するような真似はしなかった。つまり境遇が似ているとしても、それに対して用いる手段が違うのだ。これに義輝が気付けたのは、長慶の他に松永久秀を知っているからである。


義輝は宇喜多直家を、三好長慶の経歴を持ちながら松永久秀の如き手段を用いる武将と見定めていた。


「兵部少輔(頼辰)であれば、如何にする。存念を述べてみよ」

「はっ。浦上は備前と美作に勢力を有しております。播磨の地は召し上げるとしても、浦上の力は秋に控える西征に大きく役立つかと。浦上を支援し、宇喜多を討たれるのが宜しいかと存じます」

「もっともじゃ。されど余の考えとは少し違うな」


頼辰の返答に義輝は“着眼点はよいが、考えが浅い”という印象を持った。その頼辰が義輝の反応を受けて言う。


「宇喜多を滅ぼせば、浦上の力が半減すると?」

「何じゃ、判っておるではないか」


直家の人間性はともかく、明善寺合戦で見せた采配は見事としか言いようがない。これを討つとなれば相当の犠牲が生じるであろうし、浦上にも犠牲が出る。さらに浦上自体が西征に参加できなくなる可能性がある。それよりは味方として力を振るわせた方がいい。


故に義輝は、宇喜多を今まで通り浦上の下に置くつもりでいた。そして浦上宗景へ備前守護職を与え、主従の序列を明確にさせる。両者に不満が出るだろうが、そこは“上意”を以て押し切ればいい。


「兵部少輔。先ほどのこと、判っておるならば何故に最初から申さぬ」


義輝は報告を受けた時点で自らの考えは固まっており、家臣の力を計るつもり頼辰へ問うたのだが、頼辰の答えは歯切れの悪く要領の得ないもので、疑問を持ったのだ。


「はい。実は…」


頼辰が話す。


実のところ最初に言ったことは正真正銘頼辰の考えであったのだが、宇喜多のことは小寺孝高が軍議の場で発言したことを受けてのことだった。頼辰にすれば、長年仕えている自分の方が義輝の考えを汲むことが出来ると自負している。だからこそ最初に己の考えを述べた。だが孝高は、義輝を幕府の体面だけを考える人ではなく“実”を取る人だと捉えていた。新興勢力である織田や上杉を重用していることから、そのように推察していたのだ。


「その者が申すには、美作をも上様は召し上げるおつもりであると」

「……相違ない」


義輝は驚いた。晴藤の帷幕(いばく)に自分の考えを明確に見抜く者がいることに。


争乱の地である播磨を召し上げるのは当然としても、それで終わりとはいかない。浦上を屈服させるために美作を差し出させる。浦上の本拠は備前であるから、備前さえ安定していれば浦上の力はさほど衰えない。それに美作は鎌倉将軍の時代より足利氏の所領があった土地であり、幕府御料地として回復させる必要があった。在地領主たちも旧主の足利氏ならば素直に従うと思われ、代官を派遣するだけ済む。


義輝の決定は、すぐさま晴藤へ伝えられた。


宇喜多直家の謀叛を鎮圧できていない浦上宗景は、幕府の命に逆らうことが出来ずに受諾、播磨と美作の地を割譲して備前守護となった。もちろん納得したわけではない。故に義輝は少しでも不満を和らげるために官位を奏請し、宗景は従五位下・備前守とした。浦上家代々の受領名である美作守を与えなかったのは、既に美作が浦上のものではないことを判らせる為である。(美作は頼辰が代官となった)また備前守を受領していた浅井長政は、忠勤を理由に昇進して従五位上・左衛門佐となった。


浦上が幕府へ恭順したことにより当てが外れた直家は、幕命に従って宗景へ降伏を余儀なくされたが、所領一切などは安堵された。


一方で厳しい沙汰があったのは播磨だ。


守護であった義祐は解任され、代わりに守護に任じられたのは蜷川親長(同時に奏請されて従五位上・播磨守となる)である。また政秀も守護代を解任、別所安治が播磨全域での守護代となった。


かくして播磨での争乱は、備前と美作をも義輝が版図へ加えたことで幕を下ろした。




【続く】

播磨編終了です。


さて合戦らしい合戦もなく終わった播磨編ですが、史実の織田と違って幕府なので、こういう展開となるかと思いました。官兵衛の一人舞台でしたが…


直家もいいところなしで出番もさほどなく終わりました。大した大義もなかったので義輝の眼鏡に適うこともありません。まだ備前の地を纏めている浦上宗景の方が義輝の評価は高い、ということです。


さて、次回よりいよいよ西征編。毛利征伐へ義輝が動き始めます。


※誤字・脱字を修正。一部加筆しました。7/8

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