第五幕 希望 -上洛への道-
越前一乗谷。
評定は未だ続いていた。
「上洛するとなれば、やはり六角殿へ支援を頼むべきであろう」
「されど六角と浅井は敵対しておるぞ」
「そこは公方様に取りなして頂くしかあるまい」
話題は六角家についてだった。
湖西を通るにしろ、湖東を通るにしろ上洛を目指すならば必ず六角領を通ることになる。そのためには江南に勢力をもつ六角家の支援は不可欠である。しかし、朝倉の家臣たちが考えるほど義輝は六角承偵を頼りとはしていなかった。
六角家はそもそもずっと義輝方として三好家と戦い続けており、江南では今でも大きな勢力を誇っている。義輝方の最有力と言っても過言ではない。それは間違いない。それなのに、なぜ義輝は六角に期待していないのか。その原因はこれまでの経緯にあった。
六角承偵は何度か三好家に勝っている。永禄元年(1558)に義輝が帰洛を果たしたのは承偵の御陰であると言えるし、教興寺合戦の前哨戦である将軍地蔵山の合戦では三好方に勝利し、久米田合戦では長慶がもっとも信頼する実弟・三好義賢を討ち取っている。しかし、何故か承偵はその後に軍勢の動きを鈍らせ、最終的に教興寺合戦で義輝方(六角・畠山連合軍)は敗北し、三好の天下を決定づけた。
(ここ一番であやつは頼りにならぬ)
もし教興寺合戦で承偵が畠山軍支援に動いていたら、そう思わなかったことはなかった。
「その話はもうよい。承偵には遣いを出す。兵を出すとなれば申し分ないが、領地の通行を認めるだけでも構わぬ」
堂々巡りの議論をここで続けていても埒はないと思った義輝は、決定を下した。
「されど上様。六角殿の支援なくば三好の兵を上回ること叶いませぬ」
藤孝の指摘通りだった。
皆の脳裏には、朝倉・浅井で二万。若狭勢が三千。これに六角勢を加えることによって三好に対抗できると考えている。
「分かっておる。されど、当てがないわけではあるまい」
「と、仰いますと?」
「ほれ。朽木谷で明智が申しておっただろうが」
「まさか……上杉!?」
上杉の名が出ると、場がどよめいた。上杉の名は、朝倉家中でもよく知られている。朝倉にとって正式な同盟国は浅井家だけだが、上杉家とは加賀を中心に勢力を有する一向一揆との戦で何度も連携している。また永禄二年(1559)に上杉輝虎が上洛した際には北陸道を通っており、領地の通行許可を与えた朝倉家へ礼を言うため一乗谷も訪れていた。
「されど上杉様は越後。上方まで来られるかどうか……」
「無理は承知じゃ。輝虎も余が任じた関東管領職を全うするため、信濃や関東へと忙しく働いておろう。そんな輝虎に頼むが心苦しくはあるが、余の苦境を訴えるしかあるまい。あの折と同じく、五千でも構わぬ。強兵たる越後兵ならば、万騎に値しよう」
この発言には義景を含め、朝倉家臣は驚いた。義輝は輝虎へ対し『上洛して来い』と命じるのではなく、『来て欲しい』と頼むのだという。これほどまでに将軍が臣下の者に謙ることは珍しい。正直、義景としてもこの自家との扱いの差はいい気はしなかった。
本来ならば義輝にとってここで義景の機嫌を損ねることは良いことではないのだが、無視した。どうせ今のままでは上洛は叶わない。それよりは他を特別扱いしているところを見せ、奮起してくれた方がいい、と。
だが問題は誰を遣わすかだった。上杉家との連絡役は大館晴光が務めていたが、先月に亡くなっていた。また他の幕臣たちは多くが二条御所で討ち死にしたか、離散しているために今は藤孝しかいない。この地で待っていれば誰かしら帰参してくるだろうが、誰がいつ来るか分からないのを待っていても仕方がない。
そんな義輝の心中を察したのか、今まで沈黙を守っていた信綱が志願を申し出た。
「儂が越後へ参りましょう」
「勢州殿が?」
信綱は本来、最後まで何も発言しないつもりだった。そもそも幕臣でもない自分がこの場にいることが相応しいとは思っていないのだ。しかし、あまりにも義輝側の人間が少ないので藤孝から評定への参加を要請され、末席から評定の行方を見守っていた。
「管領様とは関東出陣の折、面識がございます。それに関東へ出馬されているやもしれませぬからな。関東であれば、儂は地理にも明るうござる」
信綱は元々関東管領・山内上杉家の重臣長野家に仕えていた。長野家は上杉家を継いだ輝虎にも従っており、永禄三年(1560)の関東出陣では長野家も輝虎に従っており、剣豪としても長野十六槍としても武名を轟かせていた信綱は輝虎の目に止まっていた。翌年に小田原城を攻めて鶴岡八幡宮で関東管領に就任し、越後へ戻るまで何度か信綱は輝虎と酒を酌み交わし、太刀合いも行った。
「勢州殿であれば申し分ない。是非にも」
「合い分かった。されど儂も何度も越後との間を往来するわけには参りませぬぞ。後任は、定めておいて頂きたい」
「承知した」
こうして上杉輝虎の許へは信綱が派遣されることになった。後は輝虎の動向次第で上洛時期を定め、上方にいる反三好の勢力に声をかけるだけ。そう誰もが思った。義輝以外は……
「もう一人、声をかけておきたい者がおる。輝虎が上洛できぬとも、こやつが味方となれば三好を討ち破れるやも知れぬ」
「はて?何処の大名ですかな」
「誰もわからぬか?」
皆が考え込む。関東管領たる上杉の代わりになるような大名。義輝の口振りからすると、こちらと軍勢を合流できる大名に思えるが、甲斐の武田に駿河の今川、西国の毛利と名が上がるがいずれも上洛軍を起こせるような者たちではない。結局、誰も答えを見つける事が出来ず、義輝が口を開いた。
「織田、信長よ」
「の…信長!?」
意外な名前に皆が驚き、様々な反応を見せるが、中でも義景が一瞬だけ露骨に嫌そうな顔をしたのを義輝は見逃さなかった。
「左衛門督。何ぞあるか?」
「いえ、織田など頼りにならぬかと思いまして…」
「余は一度、上総介(信長)に会ったが、なかなかの大将であったぞ」
永禄二年(1559)。この年の初めに義輝は全国の諸大名に上洛を命じた。表向きは義輝の帰洛を祝うものであったが、その実が打倒三好であったことは改めて言うまでもない。そして真っ先に上洛してきたのが尾張の織田信長だった。この事を義輝は評価しているのだ。ちなみにその次に上洛してきたのが当時長尾景虎と称していた上杉輝虎である。
一方で義景は信長が嫌いだった。かといって、二人は会ったことがあるわけではない。不満の原因は、朝倉家と織田家の出自にあった。
両家の共通点は共に斯波家の家臣だったこと。朝倉家は斯波家が守護を務める越前の守護代であり、織田家は尾張の守護代である。しかし、義景は守護代の家系だが信長は守護代家老の家系だった。よって信長の方が一段格下となる。ただ信長側にも言い分はある。朝倉家は応仁の乱の時、主家である斯波家を裏切って越前守護へ昇格したが、織田家は尾張で斯波家を支え続けた。なので勝手に格下にされる云われはないが、自分が上と思っている義景にはその理屈は通じない。
だが義景が信長をどう思おうが、今の信長は尾張一国に伊勢と美濃の一部を領している。上洛してきたときは未知の武将だったが、翌年に桶狭間で東海三カ国を治める今川治部大輔義元率いる軍勢を寡兵にて討ち破ったことによりその将器が本物であることが証明されている。無視できない勢力だ。
「織田家であれば、某を御遣わし下さい。必ずや御味方に引き入れて御覧に入れまする」
「明智か」
義輝との連絡役を務めていた光秀も、この場に参加している。しかし信綱とは違う理由、客分という身分の低さから今まで一切発言をしていなかった。義輝はその光秀が突然に織田家との使者へ志願してきた理由を掴みかねた。
「織田様の御正室・帰蝶様と某は従兄妹同士でありますれば…」
「なんと!?」
これには義輝はもちろんのこと、朝倉の者たちも驚いた。義景なぞは『そのようなこと聞いておらぬぞ』と心の中で叫んでいることだろう。
(こやつ……左様な奇縁を持っておったか)
光秀のことを義輝は元々それなりの武家の出だろうと思っていたが、大名の正室と血縁関係にあるほどだとは思わなかった。そもそもそんな者が、光秀ほどの才を持つ者が何故いつまでも客分のままなのか。
(余ならばすぐにでも直臣として召し抱えるが、左衛門督はとんだ阿呆じゃ)
この時、義輝は初めて光秀が欲しいと思った。
「ならば明智、許す。そちが使者を務めい」
「されば公方様に御許し頂きたいことがございます」
「なんじゃ」
「場合によっては美濃守護職、織田様に任せること御許し下さい」
「ふむ…」
悪い手ではない、と義輝は思った。既に尾張の支配権は信長に認めており、織田家は将軍公認の守護大名である。一方で美濃を領す斎藤龍興も父・義龍の頃に認められて相伴衆に列している。
(最良なのは余の調停の許で両者が和解し、共に上洛軍を発してくれることだが…)
そう都合良くいくことなど考えない方がいいと義輝は思った。あまりにも虫が良すぎる。ならば一方に濃尾を任せるしかない。上洛後、濃尾にまとまった義輝方の勢力があれば強力な後ろ盾になることも考えられた。
(斎藤龍興は酒色に耽り、家臣の竹中某に居城を追われたと聞く。そんな男に美濃を任せるよりは……)
義輝も認めた先代の義龍が生きていれば違ったかも知れないが、信長と龍興では圧倒的に器が違いすぎた。
「よい、許す。一切を明智に任せる故、必ずや織田を余の味方に引き込めい」
「ははっ!」
平伏する光秀。そこに反応したように義景が飛び出てくる。
「お…お待ち下され!」
「なんじゃ、左衛門督」
「軽々しく守護職を任せるものではありませぬ。織田風情に守護は荷が重うございます」
嫉妬、妬み、そういったものが義景の中を支配していた。が、義輝はそんなものに目もくれず…
「不服か。そなた家臣とて、先ほど軽々しく加賀守護に任じて欲しいと願い出て参ったではないか」
「そ…それは……」
義景がキッと景鏡を睨み付ける。一方で景鏡もばつを悪そうに目を逸らしている。
「それに必ずしも上総介に美濃守護を任せるという話ではない。明智も場合によっては、と申しておろう。そうであるな、明智よ」
「はっ。美濃守護職はあくまで織田様を御味方に取り込むため、交渉の材料にしたく申したまでにございます」
「だ、そうだ」
「そ…それならば構いませぬが……」
納得したようでしていない義景が渋々引き下がる。その姿を見て、義輝は改めて義景を頼りなく思った。
(もっともそんな手に乗ってくるほど上総介は阿呆ではあるまい)
そんな浅はかな男ならば、初めから頼りになるわけがない。恐らく織田上総介という男は、そんなに甘くはないはずだ。それに頼りになる男なら、方便でなく本当に美濃守護を任せてもいいと義輝は思っていた。
(輝虎と信長……余の命運はあやつらに懸かっておるのやもしれぬな)
義輝はかつて一度だけ会った男たちの顔を思い出していた。
そして評定が終わった。
【続く】
少し間が空きました第五幕です。
次回は序章最終幕。今回の話にあった信長と謙信が登場します。