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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第三章 ~新たなる乱世~
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第十八幕 源氏の長 -幕府再興-


七月二十二日。

京・二条城


京の夏は暑い。洛中全体が広大な盆地であり風が通りにくい地勢だからだ。その上で人口は日ノ本一であり、彼らの営みで発せられる熱気がさらに京を暑くさせる。


そのような暑さの中で、将軍・足利義輝は日々の政務に勤しんでいる。


将軍家である足利氏の版図は、京畿を中心に淡路や四国にまで広がっており、これに加えて義秋が後見役を務める武田家の若狭や朝倉景恒が世継ぎとなった越前を含めると広大である。大きくなった将軍家には各地からも度々使者が送られてきており、義輝はかつて時間を持て余していた日々を懐かしく思うようになっていた。


だが、室内に籠もってばかりいるのは義輝としても性に合わない。時折は鷹狩りと称し、近江や丹波まで足を伸ばして気分をほぐしているのだが、その間も京での政務が途絶えるわけではない。その代わりを務めているのが側近の三淵藤英である。


「やれやれ、また上様は鷹狩りか。もう今月で何度目だ」

「三度目になります」


三度目という言葉を聞き、藤英は溜息を漏らす。如何に暑さが鬱屈を募らせているとはいえ、藤英も京だけではなく山城国の代官としての仕事もある。さらに言うなら検地奉行である北条氏規の補佐もあり、それに加えて義輝の代わりまでさせられては流石に愚痴の一つも漏らしたくなるというものだ。


(今は何よりも上様の側室探しを優先させねばならぬというのに…)


先日、御台所が姫を産んでからというもの藤英は側室の必要性を再認識し、義輝へ上申したのだが、義輝は“晴藤の縁組がまだ決まってない”として拒んでいた。


(もしや上様は、意図的に晴藤様の縁組を先延ばしにしているのではあるまいか)


普段の義輝の御台所と藤姫へ対する溺愛ぶりを見ている藤英としては、そう疑ってしまうのも無理はなかった。だが将軍家の継承問題は棚上げに出来るものではない。一刻も早く側室を迎えて世継ぎを産んで貰わなければならない。


「三淵様。日野侍従様が見えられておりますが」


藤英の思考を遮るように、蒲生賦秀が来客を告げる。


何とも生真面目な男だと藤英は思う。義輝の小姓なのだから鷹狩りについていけばいいものの、賦秀は残って公務を手伝っている。もっともその御陰で藤英は助かっているのだから、賦秀には感謝をしていた。


「日野殿とは珍しい。されど上様を訪ねて来られたのであろう?」

「その様にございます」


日野侍従とは、日野輝資のことである。御年十四の若者であるが、義輝とは関わり合いの深い公家だ。


そもそも日野家は、足利幕府三代将軍・義満公以降、早世した五代・義量(よしかず)と七代・義勝以外に九代・義尚まで立て続けに将軍正室を輩出した由緒ある家柄、他に十一代・義澄の正室も日野家から迎えていることからも関係の深さが判る。しかし近年では御家断絶の危機に直面し、誰が継ぐかで義輝と三好長慶の間に一悶着があったのだが、正親町天皇の仲裁によって義輝の支持する輝資が日野家一門である広橋家より養子として入り、家督を継いで収まった過去がある。


「上様は不在である故に、日を改めて頂くよう伝えて参れ」

「それが既に上様の不在は御伝えしたのですが、火急の用件であるから三淵様でも構わないと仰せで」

「ふむ。ならば儂が上様の代わりに引見しよう」


そう言って藤英は、輝資を待たせている広間へと移る。


「御待たせ致した。して、本日はどの様な御用向きでございましょうや」

「はい。此度は関白殿下の遣いとしてまかり越した次第にございます」


前久の遣いと聞いて、藤英は先の一条家の件だと思った。その事を問い合わせると、やはりそうだったようで、一条内基が幕府の条件を承諾したのだという。これで後は土佐の一条兼定から幡多荘を没収するだけであるのだが、藤英にはそれが早急に伝えなくてはならない案件には思えなかった。義輝は数日後には帰京するのだから、それを待ってから伝えても遅くはないはずである。


「他に何かございますのか」

「はい。実は近いうちに久我通堅(こがみちかた)殿が解官されることと相成りました」

「何ッ!?」


予想外の報せに藤英は驚きの声を上げた。通堅を知らない賦秀にとっては、これがどれほどの大事か判らないようで、首を傾げている。


久我通堅は輝資と同じく公家である。言うなれば、義輝が武家源氏の棟梁で、通堅は公家源氏の長であった。藤英も三年前の永禄八年(1565)に通堅が勅勘を被って従二位に落とされたことは承知していたが、さらに解官となると大事である。


直感的に藤英は、この事に深く関わるべきではないと悟った。朝廷内での諍いに巻き込まれても良いことはない。前久へ任せるのが一番なのだ。


藤英は用件だけを承ることにした。


「それで、関白様は何と申されておるですか」

「久我殿の解官で従二位の源氏は内府様のみとなられました。故に内府様には源氏長者に就任されたし、と関白殿下は仰せにござます」

「源氏長者……」


思わぬ出来事に藤英は息を呑んだ。


氏の中で最も地位の高い人物を長者と呼ぶのだが、一族に対する様々な権利を持つ故に格式の高い氏の長者は国を動かす程の力を得ることになる。かつての藤原摂関家がそうであったように、公家の世界で力を得るには氏長者への就任が有効である。征夷大将軍では、武家を支配できても公家は支配できない。それを初めて見出したのが、足利義満であった。


その後、義持・義教・義政・義稙の四人が源氏長者となっているが、以後は久我家が独占していた。それは将軍家の弱体化が主な要因であるが、それ故に源氏長者への就任は義輝の政権が安定期へ入ったことを示すことになる。


また前久の意図も簡単に読めた。藤氏長者と源氏長者で朝廷内を意のままに牛耳ろうという魂胆なのだろう。


「忠三郎(賦秀)、一大事じゃ。これより上様の許へ参り、急ぎ御戻り頂くよう伝えて参れ」

「は…はい!」


いまいち状況を飲み込めていない賦秀が足早に去る。残った藤英は義輝の源氏長者就任へ向けて輝資と打ち合わせるのだった。


凡そ二ヶ月後、義輝が源氏長者となり淳和院(じゅんないん)奨学院(しょうがくいん)別当職に任じられた。淳和院は淳和天皇の離宮を指し、奨学院は公家の教育機関であるのだが、既に衰退していて別当といえども名誉職でしかない。しかし、両別当職は源氏長者が兼務するのが慣例となっていたことから、合わせて義輝が就任する事となった。


義輝の源氏長者就任は、足利幕府の権威が完全に復活したことを世に示すことになった。


=======================================


十月四日。

京・尼子勝久邸


幕府奉公衆に組み込まれている尼子勝久は、洛中の一角に屋敷を与えられて住処としている。知行高は僅かに一千五百石余りに過ぎないが、その所帯は大名に匹敵するほど大きい。尼子が毛利に滅ぼされてより三年弱と経過し、旧領より多くの遺臣が身を寄せて来ているからである。


そして、このところ特に出雲からやって来る遺臣たちの数が多くなっていた。


「勝久様。やはり兵を挙げるならば今しかございませぬぞ」


今や尼子の筆頭家老となっている立原久綱が進言する。


久綱は昨年の暮れに勝久の許へ馳せ参じたのだが、それまで何もしていなかった訳ではない。出雲を去る前に決起に備えて旧臣たちと繋ぎを取っていたのだ。それが機能し、伯耆国・末石城主の神西元通(じんざいもとみち)を始め旧臣より直近の状勢が京にまで伝えられている。


「毛利は兵の大半を九州へ送り込んでいながらも、大友勢を討ち破れずに戦況は膠着しているとのこと。睨み合いは暫く続きましょう。これは好機にございます」

「拙者も叔父上の考えに賛同いたす。尼子再興の機は今を以て他にないと存ずる」


久綱の意見に尼子家再興へ執念を燃やす山中鹿之助が同意を示す。この二人が同じ意見であるのならば、御輿に過ぎない勝久が反対することはない。しかし、今回に限って勝久は即答を控えていた。


「何故に迷われます。尼子再興は我らの宿願ではございませぬか」

「それは私も同じだ。されど上様に諮りもせずに決められようか」


鹿之助に迫られた勝久が思わず心中を漏らした。勝久は義輝に対し、ある種の恐れを抱いていた。あの覇気の前では何も喋れなくなる。僧であった勝久には何の才もなく、義輝の様な強さや信念もないのだからそれも無理もなかった。


「ならば、公方様の御許しを得れば宜しいのですね」

「無論じゃ。私としても、生まれた家を没落させたままではいたくない」

「それを聞いて安心いたしました」


逸る鹿之助は主君に一礼すると、その足で二条城へ行き義輝への謁見を願い出た。常から多忙な義輝であったが、鹿之助が“火急な用件”と告げた為にすぐに会うことにした。


「火急の用件と聞いたが、如何した」

「実は勝久様共々、出雲へ参ろうかと存じます」


鹿之助は手に入れている情報を包み隠さずに話した。予てより尼子家の再興自体は認めて貰っていると解釈している鹿之助は、すぐに許しが出ることと思った。


「勝久ら郎党、誰であっても出雲へ赴くことは認められぬ」


だが思惑は裏目に出る。またもや鹿之助は義輝の心を読むことが出来なかった。


「以前にも申したが、そなたの忠節は立派である。まことそなたの様な家臣ばかりならば、世が乱れることもなかったであろう。されど、余はこうも申した。“余の命に服したは義久である”と。覚えておるか?」

「しかと覚えております」

「ならば、お主らが出雲で兵を挙げれば義久の身は如何なる。見せしめとして、殺されるやも知れぬ。余は確かに“出雲を取り戻してやってもよい”と申したが、それは義久の忠義に応えんが為ぞ。仮に勝久が出雲を征したところで、余が守護職を任せることはない」


武家の棟梁たる者は、家来の忠功には然るべき恩賞を以て応えなくてはならない。義久の力量は未知数であるが、山陰・山陽八カ国の守護であった尼子の主である。国を滅ぼしたとは言え、その一端の責任は“雲芸和議”を調停した自分にあると義輝は思っている。故に義久の将器が如何なるものであっても出雲一国だけは取り戻してやるつもりでいるが、あくまでも尼子の当主は義久であって勝久ではない。勝久の為に出雲を取り戻すことはあり得ない。


かといって義輝は勝久を冷遇しているわけではなく、勝久の働きには、いま与えている知行で充分に報いていると考えている。


「一旦は余を頼った身ならば、余の命に従って貰う。勝手に出雲へ戻ることは許さぬ、左様に心得よ」

「……承知、致しました」


それで鹿之助は渋々引き下がった。無論、義輝も鹿之助が本心では納得していないことなど見抜いている。しかし、鹿之助の思考は尼子再興という己の都合ばかりで大局が見えておらず、義輝の考えとは合わなかった。もっとも鹿之助は陪臣の身なのだから、それも仕方がないと義輝は割り切っているので、咎め立てすることはない。


「さて、そろそろ余も動くことを考えねばならぬか…」


実のところ西国の状勢は鹿之助に聞かずとも最初から知り得ていることばかりだった。それは義輝が早くから西征の決断を下し、情報を集めているからに他ならない。


「左馬助を呼べ」


義輝が北条氏規を召し出す。検地奉行である氏規がすぐに義輝の招集に応えられるのは、検地が一段落して洛中で野帳の整理を行っているからである。


半刻(一時間)ほどばかりして、氏規は目付である三淵藤英と共に現れた。


「検地の進捗について報告せよ」

「はっ。概ね京畿での検地は終わりつつございますが、伊賀のみ着手が遅れた為に年明けまでかかる見通しとなっております」


氏規は確実に成果を上げていた。


義輝の版図は十二カ国。その内で四国は検地が始まっていないが、京畿での国力は測れた。山城二十万石、近江二十六万石(幕府領のみ)、大和三十六万石、摂津二十九万石、河内十九万石、和泉十二万石、丹波二十万石である。指出検地であるために正確な実数ではないが、指針となるには充分なものである。


総石高は百六十二万石。検地の終わっていない伊賀や淡路、四国などを含めれば二百万石を越えるのは間違いなかった。かつての幕府では考えられない規模であり、武家の棟梁らしく天下一の大大名となっていた。


「それだけあれば、如何ほどの軍勢を催せる」

「軍役にもよりまするが、凡そ六万ほどかと存じます」


氏規が即答する。関東での経験で、石高を軍兵の数に置き換えるのは造作もないことだった。


(六万か。余が諸大名に檄を発すれば、十万以上を西国へ向けることも不可能ではないか…)


現在、東国の状勢は落ち着いている。万一に備えて上杉と徳川を置いておけば、織田、浅井、朝倉などは西国への出兵が可能だった。


(手始めとしては、播磨か)


京の西、播磨では守護の赤松が内紛を起こしている。とは言っても赤松自身にかつての力はなく、国内の内紛に備前の浦上が介入するという伊予と似た状況となっている。ただ浦上は毛利ほど大きな大名ではないため、幕府の軍勢が播磨へ入れば即座に片が付くと思われた。


万全の状態で毛利と戦うには、事前に播磨を平らげておく必要がある。


「されど上様。此度の検地で寺社衆の反発が強うなっております」


藤英が氏規の検地による問題を指摘する。


氏規の検地は北条流そのものであり、税の二重化をなくすために中間層である公家や寺社の搾取を徹底して排除していた。公家の方は近衛前久が抑えているので表面化していないが、関所の廃止に続いて貴重な財源を失うことになった寺社よりの訴訟、嘆願は増える一方だった。


「奴らの隠田は多うございます。特に延暦寺や興福寺、京の五山は酷く、好き放題に田畑を隠し持っておりました。情けをかける必要はないかと存じます」


これに対し、氏規が持論を述べる。


京畿周辺は長きに亘って幕府の政治基盤が弱かった所為か、隠田が横行していた。関東に於いて随一の内政手腕を誇る北条氏康の子として、氏規は幕府の力を高める結果に繋がることであっても隠田の存在は許すことが出来なかった。寧ろ隠田の存在があったからこそ、氏規は役目に励むきっかけとなっていた。


「隠田を許しておっては天下に示しが付かぬ。全て召し上げろ」


義輝が果断な処置を下す。この沙汰が寺社衆へ幕府の権威を知らしめるよい機会となると判断した。これに民草は喝采を以て応えたのは言うまでもない。


「畏まりました。では引き続き検地を続行いたします」

「うむ。されば左馬助には四千石を加増いたす故、さらに忠勤に励むがよい」

「はっ。有り難く存じます」


氏規には加増と共に太刀一振りと砂金三袋が下賜された。これはそれだけ義輝が検地を重要視していることであって、忠節への確かなる見返りでもあった。


主従の関係を見直し、明確なる忠節の道を示すことこそ泰平の世の礎となる。その規範を将軍たる義輝が認め、定めてこそ秩序は保たれる。そう義輝は考えていた。


義輝の天下一統への道は進む。


永禄十一年(1568)は義秋の正室が懐妊したという吉事と共に終え、激動の十二年を迎えることとなる。その始まりを告げたのは、西からの使者だった。


九州探題・大友宗麟が幕府へ対し、毛利領への出兵を要請したのである。




【続く】

足利と言えば日野家、あの悪名高き日野富子の実家ですが、義輝の頃には何の力もなくなっています。年頃の娘もいないために将軍家と縁組を結ぶことも出来ない有様で、義輝もその気はありません。


また各国の石高ですが、主に太閤検地を参考にしており、私見で適当に割り引いています。尚、野帳というのは検地帳の前身のことで、野外(測定中)で記載したことから“野帳”と呼ばれました。これを清書してまとめたものが検地帳となります。


さて次回より、義輝が本格的に西征へ動き出します。

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