第十七幕 四国平定 -将軍と関白の蜜月-
永禄十一年(1568)三月十六日。
京・二条城
この日、伊予平定を終えた幕府軍が京に凱旋した。将軍の親征こそなかったが、弟の足利義秋が初陣を飾り幕府の威光を見事に示してきた。幕府の隆々発展は都の安寧に繋がるために町衆は義秋の功績を称え、多くの者が街道に姿を現せて出迎えた。
「これほどの歓迎を受けるとは驚いた。斯くなるは足利たる儂が応えてやらねばなるまいて」
気をよくした義秋は、輿から馬に乗り換える。専ら馬術が苦手な義秋であるが、それでもしっかりと手綱を握り、表情を崩さずに大路を行進した。
その義秋が二条城の大手門へ辿り着くと、そこには実弟の晴藤が出迎えに来ていた。
「兄上!此度の戦勝、まことにおめでとうございまする」
「うむ。そなたも息災のようじゃな」
「はい。私も早く兄上のように初陣を果たしとうございます。次は私も連れて行って下され」
晴藤は兄の活躍を素直に喜んでいる。また長兄である義輝の手伝いをしていることを羨ましく思っていた。
「なに、晴藤も間もなくよ。出征前、兄上は儂の次は晴藤だと仰っておったぞ」
「まことでございますか!?」
「偽りを申すものか。されど、それまでは将軍家一門に恥じぬよう精進に努めねばなるまいぞ」
「はい。その御言葉、肝に銘じまする」
何事もなく終わった伊予の平定、町衆の歓迎、待望の京への帰還と高揚感を募らせていた義秋が揚々と兄・義輝の前に姿を現したのは、それからすぐの事だった。
しかし、久しぶりに会った兄の表情は不機嫌そうだった。何か問題でも起こったかと思った義秋であったが、特に問題は起きていない。不機嫌なのは、義秋が伊予で自分へ指示を仰ごうともせず、勝手に河野へ守護職を留任させるような言動をとったからである。伊予でのことは、全て細川藤孝を通して義輝へ伝えられていた。
故に義輝が声をかけたのは、義秋ではなく蒲生忠三郎賦秀だった。
「忠三郎。そなたの活躍を細川宰相(藤孝)より聞いたぞ。初陣で首級を十二も挙げるとは、天晴れである」
「勿体のう存じます。されど活躍という程のものではございませぬ。私は初陣でしたので、後方にいても役に立ちませぬ故に兵卒たちと共に戦ったまでにございます」
「ふっ…、若者が謙遜することはない。そういうことは、相応に年を食ってからにせい」
そう言って義輝は賦秀に微笑みかけた。この時、義秋の胸中には言葉に言い表せない感情が込み上げてたが、義秋の誇りがそれを即座に否定した。
さらに義輝は、義秋に労いの言葉をかけることなくその場で論功行賞を始めた。
「左兵衛大夫(蒲生賢秀)。蒲生家には伊賀の代官職を任せる。六角の被官であった其の方ならば、適任であろう」
義輝は賢秀を伊賀の代官に任じた。幕府御料地内での代官職は、謂わば大名の守護職に匹敵する役柄である。これにより蒲生家は大名家と同等の地位に出世したことになるが、これは賦秀の将来を見据えてのことであった。このまま賦秀が成長するのであれば、何れは伊賀の国主か、はたまた何処かの国でも任せてもいいと義輝は思っている。もし期待が外れるようなことになれば、代官のまま働かせればいい。
「人手が足りなければ、六角の旧臣を召し抱えてもよい。余への遠慮は、無用じゃ」
「有り難き仰せにございます。さっそくにも召し出したく存じます」
「そう致すがよい」
かつて義輝へ刃向かった六角家臣の赦免を言い渡す。これにより三雲成持や山中長俊らが蒲生家臣となり、後藤高治や山崎片家など既に幕府に臣従している者たちも正式に蒲生の組下となった。
その後、義輝の口より御牧景重の守護就任が伝えられ、伊予国内での知行割りも行われた。無論、これに義秋が唖然としたのは言うまでもない。
堪らず義秋が上申する。
「畏れながら兄上に申し上げます。伊予の守護は河野ではないのですか」
「何故に河野に守護を任せねばならぬ。此度の乱は河野が招いたも同じ。守護の統治が安定しておれば、他国に衝け入られることもなかったであろう」
「それは認めまする。されど一度の失敗で守護職を召し上げるなど、河野のこれまでの将軍家への忠功を無視した沙汰にしか思えませぬ」
「これまでの忠功を重んじればこそ、河野には減地のみで許そうというのだ。本来であれば改易に処し、当主には切腹を申し付けるところだ」
義秋の主張を義輝は退けた。義秋の言うことも判らなくはないが、力を失った守護大名に統治を任せ続けることは、乱の再発に繋がりかねない。さらにこれからの先、泰平の世を築こうと考えれば大きな変革が必要となってくる。それには己の意の届く者を守護に据えて統治を代行させるしかない。幕臣を守護に抜擢しているのは、そういう理由からだ。
だが義輝も足利氏である以上は、これまでの幕政を否定できない。凋落著しい守護大名であっても家を残してやるだけの情けはかけるべきだと思っている。故に減地なのだ。
それを義秋も理解したのか、それ以上に義輝へものを言うことはなかった。
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五月二十日。
京・近衛前久邸
伊予平定軍が凱旋してより二ヶ月余りが経ち、四国の状勢は落ち着き始めた。今月の初めには蜷川親長が安芸国虎の嫡子を伴って上洛し、土佐での一件を報告した。これを受けた義輝は、四国平定へ向けた最後の一手を行うべく関白・近衛前久を訪ねた。
義輝の申し入れには、前久も驚いた。
「一条家にのう。権大納言(一条内基)は喜ぶやもしれぬが、土佐がそれで治まるか」
「内基殿とて、兼定の勝手な振る舞いには腹を据えかねていると聞き及びます。一条本家が余の条件を受け入れるならば、兼定の身柄は速やかに引き渡します」
現在の一条家は土佐一条家と疎遠になっている。それも分家に過ぎない土佐一条氏の当主・兼定が本家の意向を無視して土佐や伊予で兵乱を起こしていることが原因だった。兼定は各地で敗退を繰り返し、一条の権威を失墜させていた。
土佐の一件は長宗我部元親に任せた義輝であったが、本山攻め、安芸攻めと続ける中で元親が一条攻めを拒み続けていることを親長よりの報告で知った。かつての恩義を必死で守ろうとする姿は義輝の心を打ち、名実共に元親へ土佐を任せる決意をしたのである。そのためには一条兼定が障害となるが、元親は一条を攻めようとしないだろう。ならば、義輝がやるしかない。その策として、本家の一条内基へ畿内で所領を与える代わりに土佐幡多荘を没収しようと考えた。名目上、兼定が支配している幡多荘は今でも一条本家の荘園であり、本家の命には従わねばならないはずだ。その本家を動かすため、義輝は五摂家の筆頭で藤氏長者たる前久に仲介を依頼したのである。
これを内基が受け入れれば、幕府による四国平定は完遂する。それは義輝の天下統一が一歩近づいたことを意味した。
「委細、承知した。内府殿がその様な心づもりであるならば、麿に異存はない」
「では、御願い致します」
恭しく礼をした義輝の傍らで、前久は怪しく頬を緩ませた。実のところ一条家へ所領が与えられるが、仲介の返礼として近衛家にも相応の所領が寄進されることになっていたからだ。
「して内府殿。本日も御台所には会われていかれるのか」
「先ほど殿下をお待ちしている間に様子を窺って参りました」
義輝の正室・御台所は臨月を迎えていた。義輝は御台所の実家である近衛邸を産所とし、このところ出産が近いこともあって二日に一度は顔を出していた。
「左様か。生まれてくる子が若君であれば、幕府も安泰じゃのう」
「御台には苦労をかけました故、是が非でも男ノ子を産めとは申せませぬ。この際は姫であっても構いませぬ」
「気持ちはわからぬでもないが、それでは世継ぎに困ろう」
「我ら兄弟はまだ若こうございます。何れかに男児は生まれましょう」
前久は少し楽観的過ぎはしないかと思ったが、足利氏の当主たる義輝がそう考えているのだから、それ以上は何も言わなかった。
その時、屋敷の中が俄に騒がしくなり始めた。前久が“何事か”と問い質すと、侍女の一人が顔を出した。その侍女は義輝も知っている御台所付きの者だった。
「陣痛でございます。御台様が間もなく御出産あそばされます」
「なにッ!?」
義輝は思わず立ち上がった。普段は何が起ころうとも泰然自若の構えを崩さない義輝も、この時ばかりはその表情に変化が見られた。
「内府殿、落ち着きなされ。出産の支度は万端調えてあるのだ。安産であろうよ」
「はっ、わかってはおるのですが…」
と言って義輝は部屋の中をうろうろと歩き回る。義輝の珍しい姿を滑稽に感じたのか、前久はカラカラ笑っていた。
数刻後、既に陽が落ちた頃に再び侍女が顔を出した。
「御生まれになりました」
「おおっ!してどちらじゃ」
耳を澄ませれば赤子の泣き声が聞こえた。この部屋まで届くほどの産声を上げる子ならば、男ノ子ではないか、という期待が膨らむ。先ほどは姫でもいいと言った義輝であったが、本音ではやはり男児を欲していたのだ。
だが義輝の視線から侍女は僅かに目を逸らした。それが答えだった。
「姫…か」
「は…、はい。姫君にございます」
侍女は申し訳なさそうに呟いた。途端、義輝は思わず腰を落としたが、すぐに冷静になる。
(余は…、気落ちしているのであろうな)
ほんの僅かな間、義輝は深く目を閉じて心の整理をした。そして侍女へ問う。
「御台のところへ参るが、よいか」
「はい。御案内いたします」
侍女の先導で義輝が御台所の部屋を訪れると、少しやつれた表情の御台所の横に真っ新な産着に包まれた赤子の姿があった。
「でかしたぞ、御台。よう産んだ」
義輝は御台所を褒めそやすと、大きな手でそっと赤子を抱き上げた。僅かな重み、柔らかな感触、赤子を抱くのは数年ぶりのことであった。
義輝の瞳から涙が零れ落ちる。赤子を抱いた拍子に、輝若丸ら亡くなった子らの事を思い出したのだ。先ほど男児を期待した事など、もはやどうでもよくなっていた。
(この子は、決して失うまいぞ。もう子を失うのはたくさんじゃ)
以前とは違い、今の義輝には力がある。目の前の子が大きくなるまでには“泰平の世を築かなくては”という想いが一層と強くなる。
その姿を眺めていた御台所が涙を滲ませながら言う。
「上様…、どうか立派な名を付けて下さいまし」
御台所も世継ぎを産めなかった事への責任を感じていた。しかし、義輝の喜びようがその想いを払拭した。
「…名か、そうよな」
義輝は潤んだ瞳を閉じて思いを巡らす。男児であれば別の名前を付けたであろうが、女児の名は考えていなかった。それでも、付ける名はすぐに浮かんだ。
「藤じゃ。余のかつての名から“藤”と名付ける」
「藤…でございますか?」
「うむ。この子は我が身も同然、謂わば分身だ。故に我が名を与えたい」
「よき名かと存じます。この子も喜びましょう」
この後、藤と名付けられた娘は知らず内に戦国の世の動乱に巻き込まれることになるのだが、ゆくゆくは天下の大大名の許へ嫁ぐことになる。
待望の我が子の誕生に、義輝は絶えず笑顔を崩さなかった。こんなにも心の底から笑ったのは、いつぶりなのか。恐らくは、記憶にないほど遠い昔のことだろう。
この日、義輝は夜が更けるまで親子で過ごしたのだった。
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五月二十四日。
京・二条城
義輝に娘が誕生してより数日、在京中の諸大名や幕臣、公家衆や町衆などがしきりに祝いに押し寄せていた。その中でも珍客であったのがガスパル・ヴィレラである。
ガスパル・ヴィレラはイエスズ会の宣教師で、日本に於けるキリスト教の布教を行っている。義輝と会うのは三度目であり、最初は永禄三年(1560)のことであり、二度目は永禄八年にルイス・フロイスを伴って謁見している。
その後は永禄の変が起きて京を離れ、堺で布教活動を続けていた。そのヴィレラは今回、フロイスの他にロレンソ了斎も伴っている。ちなみに義輝はヴィレラが最初にやって来たときに了斎が同行していたこともあり、面識がある。ただ了斎はその名の通り歴とした日本人である。
「久しいのう、ガスパル」
「公方サマモ、オ元気ソウデナニヨリデス」
義輝の挨拶に、片言の日本語で答えるヴィレラ。以前に比べて格段に上手くなっており、義輝は異人が流暢に話す日本語を面白く聞いていた。
ヴィレラは子女誕生の祝辞を述べると、いくつかの賜物を差し出した。砂時計や水晶鏡、籐杖(ステッキ)に麝香、黒帽と金箔の扇であった。これらを義輝は見知っていた。
「これは以前に余が貰った物ではないか」
賜物は二度の謁見で義輝に献上されたものばかりであった。
「ハイ。サレド、以前ニ差シ上ゲタ物ハ、焼ケテナクナッテシマッタト聞キマシタ」
「こやつ、気が利くではないか」
同じ日本人同士でも、ここまで気の回る者などそうはいない。恐らくは誰かの入れ智恵であろうが、その心配りは素直に嬉しく思った。
「コチラハ、此度ノ贈物ニゴザイマス」
ヴィレラの合図で、後ろに控えていたロレンソが球体のようなものを抱えて前に出る。それを小姓に渡し、小姓が義輝の前に置く。
「これは?」
「宇内(世界のこと)球にございます」
ヴィレラに代わってロレンソが答える。
「これが宇内とな。だが、球とは如何なることじゃ?宇内がこのように球になっておるということか」
「左様にございます」
平然と答えるロレンソであるが、義輝が理解できるはずもない。自らにも経験があるのか、ロレンソは宇内が球体である理屈を話し始める。この辺りは難しい言葉も使うため、日本人であるロレンソでないと説明は無理であった。
「ふーむ。得心がいったような気がせぬでもないが…」
「すぐに御理解するのは無理にございます。私も最初はそうでございましたし、この話を聞いた者は皆が同じでございます」
そう言われても、やはり納得のいかない義輝である。しかし、何も無意味な時間ではなかった。宇内が球であることは理解しかねたが、日ノ本が意外にも小さいこと、明国や天竺が何所に位置し、どれほどの大きさであるのか、そしてヴィレラらの故国である南蛮が如何に遠いところにあるのかを知ることが出来た。
「公方サマニ御願イガゴザイマス。ドウカ東国デノ布教ヲオ許シ下サイマセ」
謁見の最後に、ヴィレラが義輝へ嘆願した。ヴィレラら宣教師はもっぱら西国が活動範囲であり、畿内でも戦乱が激しく布教は捗らなかった。それが近年になって幕府が安定化したことにより、畿内でも多くの信徒を得ていた。そこでヴィレラは畿内での活動に一定の目処を付け、フロイスを義輝が平定したという東国へ派遣しようと考えたのである。
「ふむ」
義輝は神妙な面持ちで考え込む。布教を許すこと自体に問題はないが、東国はヴィレラらが考えているよりも政情は安定していない。義輝の意が届く範囲は、せいぜい織田や徳川領までであろう。その先は、命令したところで従うかどうか怪しい連中ばかりだ。
だがこの機会は利用できた。
「今はまだ東国への布教を認めるわけにはいかぬ」
「何故ニゴザイマスカ?」
「特に理由はないのだが、畿内でも布教が進んでいるというわけではあるまい。暫くは畿内で布教に専念してはどうか」
「畏れながら公方様。畿内での布教は順調に進んでおります故に、東国へ参りたいとパードレ(神父)様は申しております」
理由がないとの返答に困惑しているヴィレラの代わりに了斎が答える。彼らにとって布教こそが全てであり、今回の賜物も単なる祝いではなく、例えるならば布教の許しを得るための賄賂に等しいものなのだ。
「勘違いするでない、了斎。まずは足固めが肝心であると申しておるのだ。故に東国は遠いが、美濃あたりまでならばよかろう。岐阜の織田弾正を訪ねるがよい。あの者ならば、そなたらの願いを聞き届けてくれるであろう。余からも話しておこう」
「まことでございますか」
「うむ。代わりと言っては何だが、其の方らに幕府と南蛮船との取引で便宜を図って貰いたい」
「ソノ程度ノ事デシタラ、スグニデモ」
「それは重畳」
義輝の狙いは、来るべき日に備えて鉄砲や硝石を大量に買い込むつもりだった。これは東海へ出陣した明智光秀の進言に起因する。光秀は少なくとも鉄砲を三千挺は揃えるべきだと上申してきたのである。
かくして謁見は終わったが、最後に義輝は思い出したようにヴィレラへ告げた。
「そうじゃ、弾正の許へも宇内球を持って行くがよい。宇内が球であることを知れば、弾正とて驚こう」
そう言って、あの仏頂面の信長が目を丸くして驚いている姿を想像して笑う義輝であった。
【続く】
次話更新です。
さて義輝の子が生まれましたが、男子ではありませんでした。本文中に書いてあるとおり、既に嫁ぎ先は決まっています。敢えて申すならば、同じ時期に生まれた義輝に近い者の子に嫁ぎます。義輝の周辺で大大名になりそうな者を当たっていけば、すぐに判ると思います。もっとも実際に嫁ぐのは数年以上も先ですが…
次に四国も平定です。実際は土佐一条氏がまだいるので完全平定に至ってはいませんが、元親は“弱った一条を攻めない”ことで義輝に器量を示しました。将軍の長たる義輝が重視するのは、任地を治めるだけの力量と幕府への忠義です。例えば義輝が敵視している毛利家などは、力はあっても忠義に欠けるというわけです。
また本作で初めてキリスト教を取り上げました。義輝が畿内での布教を認めたのは有名な話で、正親町天皇が沙汰止みを求めても強行したという史実があります。よって本作でも義輝はキリスト教に寛大です。ただ義輝に近いのは有名なルイス・フロイスではなくガスパル・ヴィレラですので、知らない方はググって下さいませ。今後ヴィレラが幕府との窓口になります。