第十五幕 大内輝弘の乱 -震撼・高嶺城-
七月二日。
筑前国・博多
多々良川を挟んでの毛利と大友の一戦は、序盤は毛利が大友宗麟の虚を衝いて攻勢に出ていた。吉川元資の活躍もあって、宗麟は一時本隊から兵を割く事態にまで追い込まれるものの、吉弘鎮理が元資を退け、戦況を五分に戻した。後日、戸次道雪が小早川隆景の隙を衝いて長尾を占領、毛利方を立花山城へ追い込むことに成功した。但し、立花山城は堅城であり、簡単には落とせるものではなかった。故に大友方は必ずしも優位とは言えず、どちらかといえば城外で対峙していた頃の方がまだ勝機があったほどだ。
両軍は打つ手をなくし、睨み合いの膠着状態に陥っていた。
「ともかく一度、立花山を攻めてみるべきではござらぬか」
「無謀じゃ。毛利方は我らと同じ四万。いたずらに犠牲を出すだけじゃ」
「されど、このまま手を拱いていても埒があかんではないか」
「それは皆も承知しておる。故にこうやって軍議を重ねておるのだろうが」
大友の陣営では二日ごとに軍議を開いて方策を練っているが、今に至っても事態を打開する策が浮かんでこない。議論が煮詰まっては何度も城攻めが提案され、それが却下されることの繰り返しで、時間だけが無為に過ぎていく。
「ええい、誰でもよい。何ぞ妙案はないのか!」
宗麟が苛立った声を出す。
このところ宗麟は不機嫌である事が多かった。毛利に攻められている所為であるが、本音のところは大軍の動員で金がかかっているからである。この戦に筑前を中心に六万ほど動員している大友方の日々の消費はかなりのものであり、宗麟としてはいち早くこの戦に決着をつけたかった。
それでも一年や二年は兵を維持するだけの国力を有しているのが、大友の凄さであろう。悪かったのは相手だ。ほぼ同規模の勢力を有す毛利も大軍を維持するだけの国力を備えており、持久戦であっても大友と五分を張れる存在だった。
「ここは少し、発想を変えては如何か?」
発言したのは吉岡宗歓、元の名を長増といい、臼杵鑑速と合わせて豊州二老とも称されるほどの実力者である。
「我らが成すべきことは眼前の毛利を討ち破ることではなく、如何なる手を用いても退かせることでありましょう。さればもっとも容易きは敵の兵站を奪うことにござる」
「容易きとは大言でござろう。毛利には村上水軍がおり、これを討ち破るのは立花山を落とすより難儀なことぞ」
宗歓の意見に佐伯惟教が反論した。惟教は大友家中で水軍を預かる身であり、村上水軍の手強さを一番よく知る人物である。
その村上水軍は瀬戸内を中心に活動する水軍で、その規模は国内随一よ評判で毛利元就の名を一躍有名とした厳島合戦では、三百艘もの大部隊を派遣している。
この村上水軍と大友家の因縁は今に始まったことではない。永禄四年(1561)に門司城を巡る戦いでは同様に毛利の兵站を担い、宗麟は大いに悩まされた。その時、博多に停泊していた南蛮船に出撃を依頼するという奇策に出たが、結局のところ上手く行かずに終わっている。また豊後からの交易船が何度も瀬戸内の海賊たちに襲われており、この背後に毛利の命を受けた村上水軍の影があることに誰もが気付いていた。
それほどまでに、大友家にとって村上水軍の存在は因縁深い相手なのである。反面、毛利にとっては村上水軍の存在がある限り兵站は維持されている。しかし、近年にある変化が起きており、それを宗歓は見逃さなかった。
「今春、伊予に幕府勢が侵攻した折に来島の村上家が幕府へ臣従しております」
今まで能島・因島・来島と三家に分かれている村上水軍は毛利と河野が同盟していたこともあり、総出で毛利家を支援していたが、ここに至って伊予に本拠を置く来島村上家が河野家の守護解任により幕府への
臣従を余儀なくされるという事態が起こっている。つまり来島村上家は、幕府の許しなく毛利方を支援することが敵わなくなっており、今回の九州攻めには参加していなかった。そして能島村上家は毛利を支援しているが臣従はしておらず、独立を保っている。
宗歓の狙いはそこであった。
「能島村上家の村上武吉を調略いたします」
「なんと!?」
諸将からは驚きの声が上がる。滅多なことでは動じない道雪も目を丸くして驚いている様子だった。
「そのようなことが可能なのか」
堪らず道雪が質問すると、宗歓は冷静に返した。
「相手はたかが水軍、そこに我ら武士の如き忠義心なるものはござらぬ。要は利害関係さえ一致すれば、こちらへ靡くものかと存ずる」
「それは、奴らに我が領内で艘別銭の取り立てを認めろということか」
宗麟とて水軍の利害が何であるかは心得ている。主に海の関銭とも言われる艘別銭の徴収、それを広大な版図を誇る大友領で取ることは、村上水軍にとって大きな魅力となる。
しかし、宗麟は眉間を寄せて難色を示した。これまでの経緯から、宗歓の策に理解はしても心情がそれを許さなかった。ただ宗歓としても、水軍相手にそこまで譲歩する考えはない。
「艘別銭の徴収は筑前のみで充分かと存じます。村上水軍は大内家の時代を忘れてはおりません。博多から出る交易船から税を取ることがどれほどの財を生むか、知っております」
「それで武吉が寝返るか」
「正直に申しまして、表立っての離反は難しゅうございます。されど我らの水軍が周防に上陸することを黙認させることは敵いましょう」
宗歓の言葉に、宗麟の目は光らせた。
「中入りか…、悪くない。して宗歓、誰を差し向ける?」
「周防・長門にいる大内の遺臣は、被官であった毛利に従うことを是としない者どもが今もおりまする。大内輝弘殿を送り込み、その大内家の遺臣を蜂起させまする」
大内輝弘とは、応仁の乱で活躍した大内政弘の孫に当たり、西国最大の守護大名として九州・中国に版図を誇っていた大内家最後の当主・義隆の従兄弟である。その大内家に、毛利元就は長く被官となっていた。それ故に主従が逆転した今、大内に仕えていた者たちは毛利の被官となっている。その大内の遺臣を決起させようというのである。
また輝弘は、輝弘の父・高広が大友氏の誘いに乗って謀叛を起こして敗れ去り、豊後へ亡命した後に生まれている。謀反人の子であるが、残された大内家の血筋としては大物であった。ちなみに輝弘の“輝”は将軍・義輝の偏諱である。
宗麟は暫し考え込んだ後、返答した。
「宗歓。以後は儂に相談するに及ばず、手筈が整ったならば報せい」
宗麟は宗歓の策を用いることを宣言した。しかし、村上水軍へ筑前に於ける艘別銭の徴収を認めるつもりはない。ここで好餌を与える気は起きず、むしろちらつかせるだけちらつかせて利用し、後は宗歓から“聞いていない”ことにして反故にすればいいと思っている。宗歓に“相談するに及ばす”と伝えたのも、その為だ。九州さえ取り戻してしまえば、村上水軍などどうにでもなる。
「畏まりました」
宗歓の策は上手く行けば毛利を撤退に追い込むことが出来る。これまで宗歓が軍議の席で発言しなかったのは、この策には一つだけ欠点があるからである。
それは、大内の遺臣たちを蜂起させるために水面下で接触しなければならず、決行までに時間を要することだ。宗麟の予測でも一月や二月で済まないだろう。半年前後、下手をすれば一年はかかるかもしれない。宗麟は長陣を嫌う、それを知っている宗歓は故に己の策を披露しなかったのだが、ここにきて無策でいるわけにはいかず、何もしないよりは、と献策するに至った。
かくして大友の周防上陸が秘密裏に進められることとなった。
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十一月十日。
周防国・秋穂浦
闇夜を月が照らす中、ひっそりとこの地へ上陸する軍勢があった。その数は一千二百余り、船団は百艘を数えた。
「ここが周防か…」
感慨深く辺りを見回しているのは大内輝弘である。輝弘は豊後生まれであり、父の故地を訪れたのはこれが初めてであった。また中入りが上手く成功すれば、この地は自らが治める地となるわけだから、何も湧いてこない訳がない。
「では、私はこちらでお待ちしています。ご武運を」
「うむ。世話になった」
輝弘が若林鎮興に対して一礼した。鎮興は大友家中で水軍を率いる将であるが、名門・大内家を継ごうとしている輝弘が頭を下げる相手ではない。しかし、鎮興はここに至る途上に毛利水軍を撃破していた。如何に村上武吉が傍観していた御陰であるとはいえ、輝弘は己が血筋のみの人物であることをよく知っており、素直に鎮興の協力に感謝していた。
「大内殿。吉田若狭守殿、秋穂盛光殿の出迎えにございます」
大友家の将・川窪掃部助が輝弘の蜂起に同心した大内遺臣の来訪を告げた。
「左様か。よく起ってくれたものよ」
大内勢が上陸した地点に陸上から軍勢が集まってくる。大内の家老であった吉田若狭守興種にこの地を治める秋穂盛光の手勢である。
「貴方さまが輝弘様でございますか。吉田若狭守興種でござる」
「義長殿の家老と聞いた。頼りにしておる」
「はっ。されど元就の目を誤魔化すため、僅かな兵しか伴うことが出来ませんでした。申し訳ござらぬ」
「構わぬ。ほれ、このように宗麟殿から借りた兵がおるでな」
そう言って輝弘は右手で船から荷を下ろしている兵たちを差した。
「これは心強い」
興種は喜びを表したが、内心では少なすぎると感じていた。それも宗麟が既に九州で限界まで兵を動員しているからであり、こちらまで充分な兵を割く余裕がなかったからである。
「早速だが、周防の状勢を訊きたい」
「元就がいる赤間ヶ関には僅かながらまとまった兵がおりまするが、周防にはおりません」
「高嶺城はどうか?」
「城主の市川経好は九州に出陣しており、僅かな守備兵がいるだけにござる」
興種の言葉に、輝弘は口元を緩ませた。戦の経験が殆どない輝弘にとって、ここまで聞けば脳裏には“勝利”の二文字しか浮かんでこない。
一方で興種の方は、現時点でもっとも必要なことが何であるかを冷静に見抜いていた。
「まずは神速の如く高嶺城を落とすことにございます。山口の地に大内が戻ったと知れば、駆け付けてくる者たちも増えましょう」
興種はこの半年間、味方を増やすべく旧知の者たちに説得に当たっていたが、既に大内が滅びてより十年が経過しており、それだけ毛利の支配が強まっている。如何に九州に出陣中とはいえ、おいそれと輝弘の蜂起に乗るわけにはいかなかった。故に興種は八〇〇ほどしか集められなかった。それでも事前に秘事が漏れなかったのは、彼らが迷っている証だと興種は考えている。ここで勝利すれば、まだ道は開ける。
「ならば支度が整い次第、出発するとしよう。若州、道案内を頼む」
「承知いたした」
大内勢は高嶺城を目指して進軍は始めた。
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十一月十二日。
周防国・高嶺城
かつては大内氏の本拠として、今は毛利の防長経略の拠点となっている高嶺城は、蜘蛛の子を散らしたような惨状となっていた。元々僅かな兵しかいない上に大内勢の進軍を阻むべく出陣した信常就行と井上就貞が敗退したのだ。就行は無事に城へ帰り着いたが、就貞は戦死、共に出陣していた藤井淡路守も敗走の際に首を討たれていた。
敗報に接し、城内の混乱は極みに達していた。
「赤間ヶ関の大殿に援軍を!」
「既に使者は送っておるが、間に合うわけがない。敵は目前まで迫っておるのだぞ!」
「ならば城を捨てるか。今ならまだ敵の姿は見えぬから落ち延びられよう」
主な者は九州へ出陣しており、残っている者の中に“城を死守しよう、敵わぬならば討ち死にあるのみ”などと言い出す気概を持った者は皆無である。皆が我が身大事であり、城を捨てて逃げれば命が助かると思っている者ばかりで、この城の政治的意味を理解していない。
だが、それを一人だけ理解している人物がいた。
「城を捨てるなど以ての外です。私はここを絶対に動きませんよ」
城代・市川経好の妻である。その身はいつもの着物ではなく甲冑で包まれており、長刀を手にしている。
「御方様、そのお姿はいったい!?」
「何を驚く必要がありましょうか。大殿様より城を任されたのは夫、その夫の留守を守るのが妻の務め。私はそれを果たしているだけです」
「危のうございます。どうか城を退去なされますよう」
「絶対に動かぬと申しました。皆も己の役目を果たしなさい」
余りにも堂々とした振る舞いに、次第に城内の混乱は収まっていく。大内輝弘の軍勢が城を包囲する頃には万全の態勢で迎えることになった。故に輝弘は攻め倦ねた。
「怯むでない!一気に突き崩してしまえ!」
大内勢は猛然と山を駆け上がっている。ただ城方が少ない御陰で城に取り付くことは容易だったものの、柵での攻防が凄まじかった。
「行けッ!行けッ!そのまま攻め落としてしまえ!」
勢いよく柵に飛びつく大内勢を城方は鉄砲や弓という従来の武器だけではなく、巨木に巨石、熱湯など仕えそうなものは小石であろうとも敵にぶつけて抵抗した。城攻めの指揮を執っている吉田興種も果敢に兵を叱咤するが、豊後からの船路と先の合戦に加えての城攻めに兵たちは疲労が溜まっており、なかなか成果は上がらない。しかし、時間をかけていれば毛利の援軍が到着するのは目に見えている。
(済まぬが堪えてくれ…)
そう興種は心中で謝罪しながら、兵たちを死地へ送り続けるしかなかった。
一方の城方からすれば、既に元就へ急使を走らせており、数日間も城を保っていれば援軍が到着すると思っている。故に疲れなど気にせずに曲輪から曲輪へ走り回って防戦に努め、蓄えていた水なども熱湯に変えて敵へ注ぎ込んだ。
「何故に城が落ちん!どうなっておるのじゃ!」
「敵の抵抗が激しく、兵の損害も出ております。今日のところはいったん引き上げましょう」
興種は前言を翻し、城攻めの中断を進言した。
大内勢には失敗は許されない。このまま我武者羅に攻め続けることも考えられたが、既に三百を越える死傷者を出しており、これ以上に損傷は致命傷に成りかねなかった。一度策戦を練り直す必要性があった。
「仕方ありませぬな」
これに大友家より遣わされた川窪掃部助と城井小次郎が同意したため、輝弘は城攻めの中断を下知し、大内氏と縁の深い龍福寺へ入った。
【続く】
咳が止まりません。どうしたらいいでしょうか……
と、関係ない話は置いといて、九州編第三幕です。今幕でも史実との変更点が出ておりますが、兵力に余裕のない宗麟はそれを生かしきれずにおります。時間軸が一気に進んでしまいましたが、一応話の流れで九州編は次回も続けるつもりです。その後、少し遡って上方へと舞台を戻します。