第十四幕 多々良浜の攻防 -両雄激突-
六月十五日。
筑前国・多々良川
毛利と大友の大戦は一触即発の様相を呈していた。
立花山城を拠点とする毛利勢は、城を本陣に総大将の吉川元春、南側を小早川隆景、西側に宍戸隆家、東側に福原貞俊が布陣している。大友勢との最前線には熊谷信直を始めとする安芸衆、楢崎信景ら備後国衆らを配し、宗像や麻生など毛利方へ転じた諸将も先陣に位置した。また博多湾には小早川水軍が船団を以て兵站を維持している。
対する大友勢は毛利が撤兵した博多を拠点に宗麟が本陣を据え、田原親賢、佐伯惟教らがこれを守備、南側に毛利鎮実、毛利との最前線に位置する箱崎には戸次道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理らが布陣、これを吉弘鎮信、朽網鑑康、一萬田鑑実らが支援すべく配されている。
合戦の火蓋が切られたのは“龍造寺隆信、蒲池鑑盛に敗れる”の報が伝わった直後のことだった。その報せは毛利方の諸将を動揺させた。
「隆信が敗れただと!?」
「はっ!龍造寺勢は佐嘉城まで後退したようにございます」
隆信が大友勢の背後を衝くことに期待していただけに、各々の表情には落胆の色を垣間見られた。だが大将の吉川元春だけは平然としていた。
「存外と隆信も当てにならぬものよ。者ども、ここに至っては堂々と正面から押し出し、我らが手で勝利を掴み取ろうではないか」
元春の落ち着きを払った声は、諸将の混乱を鎮めるのには充分だった。
「そうじゃそうじゃ。元より龍造寺なんぞ頼りにしておらぬわ」
「そうよ。我らは四万、けして大友に遅れを取っているわけではござらぬ」
「ここで気後れするは臆病者のすることよ」
元春に感化された者たちが、互いに言葉を掛け合う。その様子を満足げに見ていた元春は、スッと床几から立ち上がると刀を持った右手を高々と上げて諸将へ告げた。
「いざ出陣!」
「おおう!!」
広間に鯨波の声が湧き上がる。元春の勇姿に沈み込んだ士気は一気に最高潮へ達しようとしていた。続々と諸将が己の陣へ戻って行くが、小早川隆景だけはどこか楽しげだった。
(やれやれ…、兄上にも困ったものだ)
隆景は兄とは違い、慎重に慎重を期する性格だ。龍造寺が敗れた状況で決戦に踏み切る決断はしない。事前に策を弄し、軍略を練り上げ、勝つべくして勝つ。それが隆景の戦だ。しかし、兄・元春は諸将を奮い立たせ、敗色など軽く吹き飛ばしてしまうほどの強さを持っている。それは隆景にはないもの。だからこそ隆景は、兄を誰よりも信頼していた。
それから半時(一時間)ばかり後、開戦を告げる法螺の音が多々良川一帯に鳴り響いた。
「なに!?毛利が攻めてきただと!?」
突然に合戦が始まったことに宗麟は驚愕した。龍造寺敗走の報せは大友方にも伝わっており、毛利が攻めてくるとは思わなかったのだ。
「急ぎ守りを固めさせよ!けして退くなと申し伝えい!」
「はっ!」
本陣から伝令が駆け出し、各陣所へ宗麟の命令を伝えていく。その間にも毛利勢は続々と川を渡り始めている。前線で指揮を執る戸次道雪は、宗麟の指示を待つことなく各所へ防戦を下知していた。
「撃てッ!」
毛利勢の渡河を阻止すべく、臼杵鑑速の下知で大友勢の鉄砲が火を噴いた。バタバタと毛利兵は川の半ばで屍を増やしていくが、吉川元春によって奮起した兵卒たちは死を恐れずに突き進んで来る。
「撃ち返せッ!」
熊谷勢からお返しとばかりに鉄砲が放たれる。毛利と大友は双方共に多くの鉄砲を所有しており、その大半を前線に配備していた。
「臆するな!進めッー!!」
鉄砲の援護を受けながら突き進んで来るのは宗像・麻生の軍勢である。大きな掛け声と共に騎馬武者が数騎先頭を駆け、足軽たちを先導していく。
「筑前の地より大友勢を叩き出してしまえー!行けー」
氏貞は盛んに檄を飛ばし、大友の軍勢の中へ斬り込んで行く。眼前から容赦なく矢弾が降り注いでいるが、けして前に進むことを止めなかった。二陣、三陣と後ろがつかえているというのもあるが、氏貞自身に大友への強い敵愾心があったからだ。というのも、大友宗麟はかつて氏貞と同族の鎮氏を支援して宗像領から氏貞を追い出したことがあり、宗麟へ一矢報いなければ武士の矜恃が許さなかった。
宗像勢の進撃の前に、対していた臼杵鑑速も兵を繰り出していく。両者の間で激しい戦闘が行われた。
「よし。まずは上々だな」
元春がいる立花山城からは、多々良浜一帯で行われている合戦の様子が手に取るように見られた。右翼では熊谷信直と吉弘鑑理が、中央では宗像・麻生勢と臼杵鑑速、左翼では楢崎信景を小早川隆景が支援し、戸次道雪が戦っている。
都合八万もの軍勢による大合戦である。備え一つ一つが数千の兵で構成されているので簡単に勝敗が決することはなく、どの陣地でも一進一退の攻防が続けられている。
凡そ一刻半後(三時間)、次第に戦況が変化しつつあったのは毛利軍右翼であった。膠着した戦況を打破しようと吉川元春が嫡男・元資(後の元長)を舅・熊谷信直の援軍として送り込んだのである。
「今だ!突撃ッ!!」
愛槍を采配の代わりに振り下ろし、元資が突撃を敢行する。並み居る敵を蹴散らしていく様はまさに若き日の駿河守元春であり、“鬼吉川”の名に恥じぬ武者ぶりであった。
「若殿が援護に参ったぞ!これで我らの勝ちじゃ!」
元資の活躍に信直はそのように言い立てて、味方を煽った。言われた本人は歯がゆい気持ちになりながらも吉弘勢を追い込んでいくのだから、味方の士気はみるみる募っていく。
「敵は怯んでおるぞ!今じゃ、押せ!押せッ!!」
元資の攻勢により徐々に戦況は毛利が優勢となっていく。しかし、こうなると大友方も元資の進撃を止めなければならない。
元資の前に一人の武者が勝負を挑んできた。
「そこな武者!なかなかの腕のようだが、これまでよ。覚悟せい!」
「うぬ…何やつッ!?」
「筑後国人、赤司城が城主・赤司資清じゃ!」
「我が名は吉川駿河守が嫡子・元資なり!返り討ちにしてくれる!」
「なんと!?これは思わぬ大将首じゃ!」
相手が総大将の嫡子と判り、いざ手槍を構えて資清が躍りかかろうとした時だ。元資の近侍たちが主を討たせまいと行く手を阻んできた。
「若君はやらせぬ!」
「どけッ!下郎!」
資清は突き出される槍を弾き返すと、返す槍で近侍二人をあの世へ送った。資清はニヤリと笑い、手招きして元資を挑発する。これに元資は怒りを爆殺させた。
「おのれ…!!」
渾身の力を込めて一撃を振り下ろす元資。資清も見事にそれを受け止めるが、元資の膂力は資清の想像を遙かに超えていた。
「馬鹿力がッ!?」
槍の柄は折れ、資清の頭上に刃が襲う。元資の一撃は槍の柄に阻まれたことで勢いが和らぎ、資清の命はかろうじて兜の御陰で守られたが、唸るような一撃に資清は身を蹌踉めかせた。
「くたばれッ!」
元資は体勢を崩した資清の喉元を一突きし、一騎討ちに勝利した。資清を失った吉弘鑑理の部隊はじりじりと後退を続け、さらに勢いづいた毛利勢は総攻撃の時機をジッと窺っていた。
「ええい。毛利輩にかくも押されるとは…、道雪は何をやっておる!」
毛利の攻勢の前に敗退を続ける味方の様子に、本陣から戦況を見つめる宗麟は危機感を覚えた。前線の指揮は道雪に委ねているために、宗麟はこれまで特に指示らしい指示は出していない。
今も前線は道雪以下大友方の諸将の踏ん張りもあって維持しているが、ここで毛利が総攻撃に移れば、猛将・吉川元春が出撃してくる。そうなれば前線は崩壊し、それに本陣が巻き込まれる可能性もあった。その前に、何かしらの対策を講じる必要がある。
「御屋形様。ここは自ら前線へ赴かれて不甲斐ない者どもを叱咤しては如何でしょう」
近臣・田原親賢が進言した。味方が敗退を食い止めるには、総大将の督戦が大いに効果があるのは宗麟も理解するところだが、この状況でそれは余りにも危うかった。
ここで宗麟が動くということは、特に高祖城の原田隆種を勢いづかせることに成りかねない。戦闘は目の前だけではなく、視野を広げれば筑前ひいては北部九州一帯で行われており、大友は謀叛に及んだ秋月、高橋、原田などの城に抑えの兵を置いて毛利と合戦に及んでいる。無論、合戦の推移を各者は見ており、囲みを突破すれば宗麟の背後を衝ける位置にいる隆種などは、その機会を虎視眈々と窺っていることだろう。
「無用じゃ」
故に、そう言って宗麟は親賢の進言を退けた。
「されど、このままでは御味方の総崩れは時間の問題かと。ここで我らが敗れれば、筑前一国を失うことになりましょう」
尚も食い下がる親賢を宗麟はジロリと睨み付けた。そのようなこと、言われずとも承知している。だが、総大将たる者は軽々しく動くべきではないというのが宗麟の考えだ。
「予備隊を全て繰り出せ。それでも戦況が変わらぬ場合、儂が督戦する」
この宗麟の采配は当たる。大友方を圧倒していた毛利方であったが、吉川元資と熊谷信直は吉弘鑑理の軍勢を壊滅寸前まで追い込んでおきながら討ち破るには至らなかったのだ。それも鑑理の子・鎮理が最後の砦として踏み止まり、頑強に抵抗したからだ。
「おのれ…、正々堂々と勝負いたせ!」
元資の怒りの叫びが虚しく戦場に谺した。それも鎮理が元資の相手を自らではなく近侍たちにさせており、元資はこれを卑怯と感じていた故だ。
「くそッ!名ぐらい名乗ったらどうだ!!」
「右から敵が来るぞ、落ち着いて防ぐのじゃ」
「臆したかッ!俺は吉川元資だぞ!」
「…よし、そのまま押し止めておれ。後は儂が仕留める」
「ええい、どけッ!邪魔じゃ!」
吉弘鎮理は元資の存在を知っても尚、素知らぬ顔で目の前の戦闘に集中していた。その鎮理を元資は討ち取ろうと躍起になるが、鎮理の近侍たちは主に似て恐ろしく強く、元資の力量を以てしても近づくことが敵わなかった。しかも近侍たちは無理にこちらを討とうとはせず、互いに連携して主を守っている。そこに、焦れて突出してきた者を鎮理が次々と弓矢で射止めているのだ。
鎮理とその家臣たちは、まるでそれで一人かのように互いの動きを把握していた。
「父と鎮理を討たせるな!懸かれッー!」
そこに鎮理の兄である吉弘鎮信の部隊が支援に駆け付けると、今度は大友勢が勢いを盛り返してきた。合わせて朽網鑑康、一萬田鑑実も出撃しており、宗麟の本隊からも四〇〇〇が戦闘に加わった。対する毛利も宍戸隆家、福原貞俊を繰り出すが、一度失った勢いを取り戻すには至らず、陽が暮れる頃になると毛利勢は多々良川の対岸まで押し戻され、この日の合戦は終わりを告げた。
次の日、互いに損傷が激しいことを理由に合戦に及ぶことはなかった。
その後、合戦に至ることなく睨み合いは数日間ほど続いたが、二十二日になると今度は大友方から攻め寄せてきた。
「押し進めッ!先日の汚名を雪ぐのじゃ!」
攻撃を仕掛けてきたのは戸次道雪の部隊であり、小早川隆景が陣取る長尾へと兵を進めてきていた。
「鉄砲衆よ、充分に引き付けてから撃ちかけい」
辺り一面を覆うほどの大友の大軍に、隆景麾下の鉄砲衆は息を殺したように落ち着きを払い、狙いを定めている。部隊を指揮する隆景の目線は、遠くで輿に乗る一人の武者を捉えていた。
“鬼道雪”また“雷神”の異名を持つ戸次道雪は間違いなく大友家中に於いて最強の男、かの武田信玄に“一度は会ってみたい”と言わしめた武将である。
その道雪が相手なのだから、隆景が警戒するのも無理はない。先日は味方を支援しての対決であったが、今日は道雪が直接こちらを攻めてきている。心して懸からねば、敗戦も有り得た。
「撃てッ!」
ド、ド、ド、ドと轟音が多々良川一帯に鳴り響く。銃口から吐き出された硝煙が、一時的に視界を覆い隠した。
「やったか?」
隆景が視界が晴れるのも待った。しかし、鉄砲に撃たれて倒れる兵の悲鳴と共に進軍する軍勢の足音は消えてはいなかった。
案の定、視界が開けた時には戸次勢が眼前まで迫っていた。
「敵勢の進軍が止まりません!」
「鉄砲衆は下がれ。長柄を前へ出せ!」
鉄砲衆と入れ替わり、長柄部隊は即座に槍衾を組んだ。密集隊形で突撃してくる騎兵を突き刺した。
「こちらも長柄じゃ!」
道雪は騎兵を下がらせ、同じく長柄部隊を繰り出すと弓兵にそれを援護させた。長柄部隊同士は互いに槍をぶつけ合う根比べに突入した。
「退くな!けして退くでないッ!」
「進めッ!我と共に進むのじゃッ!」
“退くな”と檄を飛ばす隆景に対し、“進め”と兵を叱咤する道雪。勝敗が着いたのは道雪が最前線へ姿を現した時だった。
「殿を討たすなッ!前に出るのじゃ!」
道雪は若き頃に落雷に打たれて半身不随となっている。故に歩くことが出来ず、輿に乗って指揮を執っているのだが、その為に自力で逃げることは敵わず、一歩間違えば簡単に敵に討たれてしまう。だからこそ道雪の家臣たちは主を守るべく敵を出来る限り遠ざけようとするが、その主が最前線へ赴いたとなれば、敵を押し退けてでも安全を確保するしかない。
「進めッ!毛利など一人残らず蹴散らしてしまえー!」
道雪が前に出る度に、兵たちは背中を押されるが如く小早川勢を後退させていった。
「止むを得ん…、立花山まで後退しろ!」
隆景は無理な戦を続ける意地は持ち合わせていない。このままここで戦えば援兵が駆け付けてくるだろうが、その間にも多大な犠牲を払うことになる。犠牲に見合わない勝利に意味などなく、故に死兵同然の戸次勢とここで総力戦を行うつもりはなかった。立花山城は堅城であり、籠もってしまえば簡単に落ちることはないのだ。
こうして大友方は小早川勢のいた長尾の地を占領するに至ったが、毛利勢が多々良浜一帯から兵を退いて立花山城とその付近へ移ってしまったために、宗麟も手を出すことが出来なかった。
そして、両者の長い対陣が始まった。
【続き】
さて、毛利と大友の戦が盛り上がって参りました。次回も九州編を書く予定になっております。
また大友家臣の中には当主より偏諱を頂いた者が多く名前が似通っていますので、今後とも判りやすいようフルネームで書くようにします。(名前が続く場合は除き)
尚、知らない人の為に書きますが、吉弘鎮理は史実では高橋紹運という名で知られている武将です。本文中で元長のように“後の高橋紹運”と書かなかったのは、鎮理が高橋家の名跡を継ぐかどうかは、この九州編の勝敗に懸かっているからです。それはネタバレ同然ですしね。ちなみに道雪は最後まで戸次姓で通していますので、この作品で立花道雪になることはないと断言しておきます。(息子の方はわかりませんが)
最後に私事ですが、まだ咳が止まらないために次の投稿へも時間がかかるかもしれません。申し訳ない。静養に務め、早く治すようにはしているのですが…