第十三幕 北九州戦記 -毛利勢の上陸-
永禄十一年(1568)三月十二日。
豊後国・府内城
この日、大友宗麟の許へ届けられた“毛利軍、門司へ上陸”の報せは、九州の状勢を一変させることになった。
既に筑前国で高橋鑑種と秋月種実が謀叛に及んでおり、これに立花山城主・立花鑑載が同調したのだ。明らかに毛利と通じての挙兵であった。特に高橋・立花の両氏は大友の庶流に当たり、彼らの謀叛は大友家による筑前の支配を根底から揺るがすものとなった。
更なる謀叛劇は続く。毛利の上陸と共に筑前では原田隆種、宗像氏貞、麻生隆実、豊前では杉重良が毛利方へ寝返った。
宗麟が急ぎ鎮圧軍を編成している最中に続報が舞い込んだ。
「大三岳城が陥落!長野弘勝殿は御自害なされたとのこと!」
「おのれッ!元就!!」
続報に宗麟は唸るような声を発した後、怒りをぶちまけて大喝した。報せを伝えた使者を始め、近習たちは主君の怒りが自らに飛び火しないように目を逸らせて息を呑んだほどだ。
その宗麟に臆することなく田原親賢が意見してくる。
「御屋形様。毛利の狙いが博多であるのは間違いございませぬ。戸次殿へ博多を死守するよう命じるべきかと存じます」
「道雪に預けた兵は三万でしかない。如何に戦巧者の道雪とはいえ、毛利を抑えるのは難しかろう」
と言って宗麟は顔をしかめる。
現在、謀叛の鎮圧に戸次道雪を大将に臼杵鑑速、吉弘鑑理を派遣しているが、未だに謀叛を鎮めるには至っておらず、昨年の七月の挙兵した筑紫惟門を成敗したに過ぎない。それでもこれまで宗麟自身が出陣しなかったのは、一連の謀叛を“大友家にとっては些事である”と世間に示すためであったのだが、これが仇となり、毛利に衝け入る隙を与えてしまった。
こうなれば自ら出陣し、乱を収めるしかない。
「いつ出られる?」
「十日もあれば充分かと」
「急がせよ。それと宣教師どもに硝石・火薬を毛利へ売らぬよう厳命せよ。騒ぐようなら、儂がその分だけ買ってやる、と申せ」
「畏まりました」
かくして大友宗麟は筑前国へ向けて出陣した。公称五万を号する軍勢であったが、実際は三万程度であったという。それでも戸次勢と合流すれば六万にもなる大軍である。九州で六カ国の守護を務め、九州探題にも任じられている宗麟の堂々たる出陣であった。
だが対する毛利は四万であり、それに反大友の国人衆が加わることになる。宗麟としては久々に兵力で優位に立てない戦を強いられることとなった。
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四月六日。
筑前国・立花山城
城下を延々と続く軍列が行進していく。旗指物には一文字に三つ星、その数は凡そ四万にも及び、まさに中国の覇者たる風格と存在感を見せ付けている。
「よう来て下された」
その毛利軍を満面の笑みで出迎えるのは、城主・立花鑑載である。それに大将の一人、小早川隆景が答えた。
「なに。我らは約定を守っただけに過ぎませぬ。それよりも立花殿、よう決起なされましたな」
「いえ、こちらも宗麟めの横暴には腹を据えかねておりましたところ、幸いにも我らと想いを同じくする者が数多おり、遅れてはならずと起ったまでのこと。共に宗麟を討ち倒しましょうぞ」
毛利が大友を攻める大義名分は、決起した者らへの救援である。謂わば鑑載らの挙兵なくしての九州攻めは成り立たず、隆景は格下の相手であっても丁重に扱うしかなかった。
「立花殿。まずは大友勢の動きを教えて下され」
「承知いたしました。では、こちらへ」
そう言って城内へ案内する鑑載であったが、その後ろを行くもう一人の大将・吉川元春の表情は憮然としていた。その理由は、軍議の席ではっきりする。
「何故に博多を攻められたか」
「え…、それは……その…」
開口一番、元春に怒気を含んだ声で詰問された鑑載は当惑した。
「博多が如何なるところか改めて申すまでもあるまい。大友宗麟を倒すには博多の商人や町衆の協力が不可欠であるのだが…。はてさて、如何したものかのう」
元春が指摘しているのは、鑑載が挙兵の際に博多にいる大友家の代官を追い払うべく兵を入れたことだ。その時に町の一部が焼失し、商人たちは逃げ出していた。博多は堺に並ぶほどの商業都市であり、その博多の確保が九州攻めの目的であると言っても過言ではなく、その焼失の原因となった鑑載の行動に元春は怒りを覚えていた。
「申し訳ございませぬ!」
但し、平伏して謝罪するしかない鑑載を元春がそれ以上に追求することはなかった。
「以後は、我らの指示に従われよ」
「はっ!」
鑑載は頭を垂れ、毛利への恭順を誓った。これは博多焼失という落ち度があったこそであり、元春が鑑載を咎めなかった理由であった。
その後、鑑載により大友勢の動きが報告された。
「筑前に入っている大友勢は三万。戸次道雪を総大将に秋月殿の古処山城、高橋殿の宝満城、原田殿の高祖城を攻めております」
「宗麟めの本隊は?」
「筑後・高良山でござる。数は同じく三万ほどかと」
「なるほど…、宗麟は龍造寺を警戒して動けぬと見える」
肥前の雄・龍造寺隆信は毛利と気脈を通じている。仮に宗麟が筑前へ向かえば背後を襲う予定になっており、隆信からは“自分が攻められれば宗麟の背後を衝いて欲しい”と要請されていた。
元春は万事が上手く行っている様子にほくそ笑んだ。視線を弟の隆景へ向け、それに気付いた隆景は首を小さく縦に振った。
「博多の町衆に堀の普請を命じる。恵瓊、その方が差配せい」
「畏まりました」
毛利の禅僧・安国寺恵瓊が一礼し、主命を受諾する。
「さて、陣立てを申し伝える」
「陣立て?ここで宗麟めを迎え撃たれるおつもりか!?」
その言葉に鑑載は驚いた。てっきり宗麟のいる高良山へ攻め寄せるものだと思っていたからだ。
「高良山へ攻め寄せるのも一策ではあるが、こちらへ誘き寄せた方が有利であろう」
「されど、果たして宗麟が誘いに乗ってくるでしょうか?」
宗麟が立花山へ攻め寄せた場合、北に毛利、西に原田、東に高橋と敵に囲まれることになり、さらには背後を龍造寺に衝かれる恐れもある。横暴な性格だが宗麟とて乱世に名を馳せた名将。鑑載には、宗麟がそんな愚を犯すとは思えなかった。
「やはり分かっておられぬな。安易に博多へ兵を入れるわけだ」
状況を理解できていない鑑載へ向けて元春が呆れ声で言った。その瞳には明らかに侮蔑の念が込められている。それを見かねた隆景が、鑑載へその理由を説明した。
「宗麟はもっとも嫌うのは、我が毛利が博多を手にすることでござる。故に必ず宗麟は博多を死守するために動く…いや、動かざるを得ない。恵瓊に命じた堀の普請は、その餌ということよ」
毛利が博多の支配を強めていると知れば、宗麟としても黙って見過ごすわけにはいかない。危険を顧みず死地に飛び込んでくると隆景は読んでいる。それだけの価値を博多に見出しているのだ。その博多の価値が理解していない鑑載には想像もつかない策である。
「ならば、改めて陣立てを申し渡す」
毛利勢は来るべき決戦に備えて陣地を築き始めた。
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六月四日。
筑後国・柳川城
“筑後十五城”とも称される国人衆の筆頭・蒲池鑑盛の居城・柳川城では、連日に亘って鑑盛の出兵を求める宗麟の使者が訪れていた。
「宗麟様がこうまで追い詰められるとはな」
悠長に感想を述べている鑑盛であるが、歴とした大友傘下の在地領主である。それが今回に限って命令を拒否し続けている。
宗麟は豊後を出陣してから二ヶ月ほど高良山から動いていない。龍造寺を警戒してのことだが、かといって無為に時を過ごしているわけではない。一度は一隊を割いて筑後国生葉郡の妙見城を攻めたが失敗、転進して龍造寺方の江上武種が籠もる肥前国神埼郡の勢福寺城を攻めた。大友の大軍の前に武種は隆信へ援軍を要請、自身の兵では後詰めは不可能と判断した隆信は毛利に南下を依頼した。しかし、毛利勢を指揮する吉川元春は立花表での決戦を想定しており、この要請を断っている。
孤立無援となった武種は隆信を見限り、宗麟に降伏している。宗麟の龍造寺対策は一定の成果は上がっている。それでも隆信を無視して毛利と決戦するわけにはいかない宗麟は、鑑盛の出陣を求め続けていた。
鑑盛の説得に当たっているのは、蒲池の分家・上蒲池家の鑑広である。
「まだ決心が付きませぬか」
「龍造寺とは浅からぬ縁がある。それは鑑広もよく存じておろう」
「無論。されど我らが主君は宗麟様にございます。臣下として、主の命に従うが道理にございましょう」
「道理じゃ。道理じゃが……」
鑑盛の表情は苦痛そのものであった。その理由は、龍造寺との関係に起因する。
遡ること天文十四年(1545)。隆信は曾祖父の龍造寺家兼と共に少弐家臣・馬場頼周によって肥前を追われたことがあった。その際に復帰を支援したのが他ならぬ鑑盛であり、今の龍造寺があるのは鑑盛の援助があってこそ。その鑑盛に“龍造寺を攻めろ”と宗麟は命じているのだから、鑑盛が悩むのも無理はなかった。
ただ蒲池家は、鑑盛の下蒲池家(本家)と鑑広の上蒲池家(分家)を合わせれば二十万石にも及ぶ大身である。苦境にある宗麟としてもこの兵力を当てにしない訳にはいかず、再三に亘って出兵を命じている。
その宗麟が博多における毛利の支配が強まっていることに焦りを感じ、態度を軟化させてきた。この日、“隆信と和議を結びたい”と鑑盛にその仲介を依頼してきたのだ。条件は所領安堵、悪い話ではなかった。
「これ以上、宗麟様を困らせることは主従の義を欠くことになりましょうぞ」
鑑広が返答を迫る。
それでも返答に悩んでいるのは、毛利の支援を得られる龍造寺が簡単に和議に応じるわけがなく、少なくとも一戦して勝利する必要があるからだった。
鑑盛は“義心は鉄の如し”と称されるほど義に篤い将であるが、その武勇も誉れ高い。龍造寺との合戦に勝って和議に持ち込む自信はあった。
暫くして鑑盛は一言だけ発した。
「出陣する」
蒲池鑑盛はようやく重い腰を上げた。
鑑盛が手勢を率いて肥前へ入ると宗麟は後顧の憂いがなくなった。全軍を毛利勢の待ち受ける立花表へ進め、両者の決戦は間近に迫った。
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六月七日。
筑前国・多々良川
ここ多々良川は南北朝時代の古戦場である。
今より二百三十年ほど前の建武三年(1336)のことだ。この地で都を落ち延びた足利尊氏が後醍醐帝の宮方を討ち破り、京に上って晴れて幕府を開いた。
その地で、中国の覇者・毛利家と九州六カ国の太守・大友家の決戦が行われようとしていた。互いの数はほぼ同数の四万。これほどの軍勢が一度に介すのは九州では初めてのことである。
「ようやく出て参ったか」
立花山の山頂から眼下の大友勢を眺める元春は身を震わせていた。恐怖からではない。武者震いである。間もなく開かれる大戦に心を躍らせているのだ。
「さて、宗麟は攻めかかってくるかな」
「どうでしょうな。多々良川一帯は湿地でござる。決め手に欠ける宗麟が安易に攻めてくるとは思えませぬが…」
元春の舅・熊谷信直が己の予想を口にする。
数は同数とはいえ、既に毛利方は立花山城を起点に堅陣を築いているので実際は毛利方が圧倒的に有利だった。実際、宗麟は悪口による毛利の挑発にも乗らず、数日に亘って軍を動かそうとしなかった。
そこへ宝満城の高橋鑑種から密使が遣わされた。
「よう城の囲いを突破して来られた」
元春は全身が傷だらけとなってまで駆け付けた使者を労った。宝満城は蟻の這い出る隙間なく大友勢に囲まれており、それを抜けてくるのは相当に難儀なことだったはずだ。
「いえ、この通りの姿なれば、負傷兵を装って敵陣に潜み、隙を見て抜け出しただけにて。何のことはございませぬ」
「勇気だけでなく智恵もあるとは。高橋殿はよき家臣をお持ちじゃ」
褒められた男は照れ笑いを浮かべ、主よりの言葉を伝えた。
「毛利様が宗麟の軍勢をを討ち破れば、我が主は城から打ち出でて山を駆け下り、山下の大友勢を攻撃いたします」
「挟撃策か。悪くはないが……」
「何か問題でも?」
不安そうな面持ちの男へ対し、元春は首を左右に振って答えた。
「そうではない。間もなく肥前の龍造寺隆信が宗麟の背後を衝くことになっておる。背後を脅かされた大友方が浮き足立つは明白、そこを衝き、一気に勝利をもぎ取る」
と言って元春は絵図を指し示し、自ら使者へ策戦を説明した。力強く語る元春に使者は大きく勇気づけられ、その見事さに驚愕した。
「今から城に戻るのは不可能であろう。ここで我らが戦ぶりを見物しておるとよい」
「御言葉は有り難いのですが、主は拙者の帰りを待ちわびてございます故に…」
「高橋殿には儂から話しておく故に心配いたすな。せっかく勝利してもそなたが死んでしまえば意味がなかろう。なに、いま暫くの辛抱じゃ」
「はっ。では御言葉に甘えまして」
そう言って元春は家来の一人に使者を陣中まで案内させた。
「さて、いま暫くの辛抱じゃ」
先ほど使者へ告げた言葉を自らに言い聞かせる。それ程までに元春の心は昂ぶっていた。事前の策戦さえなければ、大友勢が姿を現せた直後にでも攻めかかっていただろう。
元春の瞳は自信に満ちあふれていた。
【続く】
少し投稿に時間が空いてしまいました。楽しみにして下さった方には申し訳ありません。
実は風邪をひいてしまい、それはすぐに治ったのですが、咳だけが止まらず辛い日々を過ごしています。まだ完治するに至っていないために次話投稿へも少々影響が出るかもしれません。
さて今回は九州編です。初めて書くので初登場の人物が多く分かりづらいかもしれませんが、基本的に状勢は今のところ史実通りです。但し、伊予出兵がなくなったために毛利の九州攻めが早まり、立花山城が陥落していません。
毛利が有利な状況で進んでいますが、宗麟がこれを如何に挽回するのか?史実をご存じの方は宗麟の打つ手が読めているでしょうが、今の状勢と史実の差が結果にどう影響を及ぼすのか。
それを次回後編で描きます。