第十一幕 予州兵乱 -義秋の初陣-
永禄十一年(1568)一月二十九日。
伊予国・高峠城
仏殿城を開城させた幕府軍はさらに西へと進み、河野家臣・石川通清の居城である高峠城へ入った。東伊予一帯に大きな勢力を持つ通清は独立心の強い男で、内心はいつ主家を離反してやろうかと虎視眈々と狙っていた。以前から三好家と繋がりがあり、その伝手から今回の幕府軍の予州入りに応じたのだった。
「ここまでは、順調でござったな」
「当然じゃ。我らは幕府軍ぞ。刃向かう輩はおるまい」
そう言って憮然とした表情を浮かべているのは、足利義秋である。
義秋は今回の伊予出兵が初陣となる。一色藤長、京極高吉、御牧景重、蒲生賢秀、山岡景隆、前回の四国攻めでは出陣しなかった面々が合わせて四国へ渡り、藤孝の先発隊と合流した。これは義輝が武功を平等に立てさせる機会を与えようとしたためだ。また新たに奉公衆へ加わった尼子一党も忠誠心を試される形で同陣している。これにより幕府の軍勢は、降った石川勢を含めて二万七〇〇〇となっていた。
しかし、今回の出陣は義秋本人の意思によるものではなく義輝の命令によるものであった。義秋が不機嫌な顔をしているのは、そのためである。
義秋は当初、伊予出兵へ赴くことを拒んだ。
「何故に儂が四国へ行かねばならぬのですか?」
「そなたは初陣を済ませておらぬだろう。よい機会だから、戦を経験しておくとよい」
「儂の役目は兄上の補佐でありましょう。若狭の統治もございますれば、四国なんぞに出向いている暇はありませぬ」
そう言って出陣を断ろうとしたのだが、この言い分に義輝は激怒した。
「若狭の統治じゃと!?そう申すならば、いつ若狭へ参るのじゃ。言うてみい」
昨年の五月、義秋は若狭守護・武田元明の後見役となっていたが、今まで一度も若狭へ入ったことはなかった。義輝は何度か若狭入りするよう催促したものの、義秋はのらりくらり言い訳を繰り返すばかりで京から動こうとしなかったのである。
「兄上!儂は元明の後見役にございますぞ。後見役となれば、守護も同じ。守護は幕府への出仕もあり、京より統治するのが慣わしにございましょう。儂が若州へ参る必要はございませぬ。何かあれば、京へ遣いを送るよう伝えてあります」
これを聞いた義輝は、開いた口が塞がらなかった。
確かに足利幕府においては、守護が在京して任地の統治を行うことが多かった。それは細川や斯波、畠山など数カ国の守護を兼ねていたからである。故に分国内に守護代を据えて統治を代行させるしかなかった。義秋はこのことを言っているのであるが、義秋に任された国は若狭一国のみである。加えて幕府への出仕、義輝の補佐を言い分としているが、義輝は政で義秋に相談することは皆無と言ってよく、どちらかと言えば話を聞き付けた義秋が助言という形で意見してくることが多いのが実情だ。その意見ですら、殆ど義輝が取り上げることはない。
義輝は考え違いをしている弟を諭すように言った。
「義秋。そうは申すが、守護が在京することが多くなった結果、分国の統治は乱れ、守護代が台頭することが多くなり、乱世に至ったのだぞ」
守護代を出自とする戦国大名が多いことからも義輝の言葉が真を突いていることが分かる。越後の長尾、越前の朝倉、尾張の織田、阿波の三好、備前の浦上、出雲の尼子などがその代表例であろう。
「兄上の仰ることも理解できます。されど守護の元明は若州におり、問題ありますまい」
「元明は幼子ぞ。そなたが直に面倒を見ずして何とするか」
「なればこそ、儂が京を離れるわけには参りますまい。おおっ!そうじゃ、兄上。晴藤を遣わせば宜しかろう。あれは儂らと違って政に関わっておらぬ故、暇を持て余しておりまする」
「兄より先に初陣を済ませる弟が何処におる!よいから行けッ!」
と、強制的に京から叩き出された。そうやって出陣してきたのだから、義秋の機嫌が悪いのも仕方がない。
「して、これから如何するのじゃ?」
さっさと京へ帰りたい義秋は、藤孝へ今後の方針を訊いた。
「まずは河野の出方にございます。守護の通宣は現在、高島にて宇都宮・一条の軍勢と対峙しておりますが、我らが予州入りしたことは伝わっておりましょう。程なく兵を返してくるものかと思われますが、敵方の追撃を懸念して動かぬことも予想されます」
「ならば、停戦を命じればよい。河野も宇都宮も一条も揃ってここへ出仕するように伝えよ」
「いや…それは……」
途端に藤孝が口籠もる。そのように簡単に事が運ぶわけがない、というのもあるが、一番は義輝がそれを望んでいないからだった。
この予州入りを契機に、義輝は河野通宣を守護職から解任するつもりなのだ。河野家は既に守護としての力を失い、毛利や一条など他国の介入を許している。これは国が乱れる元であり、このまま河野を守護にしておくことは問題の先送りでしかなかった。義輝は伊予を安定させるには強固な力を持つ守護が必要であると判断、河野の罷免を決断した。
「何か問題があるか?」
これに対し、義秋の考えは違った。幕府が河野の後ろ盾となり、今まで通りに伊予を治めさせようと考えている。だからこそ全員を自分の許へ出仕させ、忠誠を誓わせようとしたのだ。しかし、それは義秋の領分ではないし、義輝も義秋は初陣を飾るために同行させているだけで、伊予に於ける仕置をどうするかまで伝えていない。また任せるつもりもない。
返答に窮した藤孝は、話を変えて義秋を納得させようとした。
「まずは毛利の介入を防ぐ必要がございます。今のところ毛利は小勢を送っているだけに止まっておりますが、本国では大軍を送る気配がございます」
「何じゃと!?その様な大事、何故に儂へ伝えぬ」
己が総大将と考えている義秋は、藤孝を叱責した。
「申し訳ございませぬ。先ほど届いた報せにございますれば、この場にて申し上げようと考えておりました」
「左様か。次からは気を付けよ」
「はっ」
本当は以前から知っていた情報であるが、その様に言い繕って藤孝は弁解した。そもそも義輝から全てを委任されているのは藤孝であり、義秋のことは“気兼ねする必要はない”と言われている。また敢えて指摘するのなら、聞かなかった義秋が悪いのだ。全ての情報が勝手に上がってくると思ったら大間違いである。
「故に毛利の介入を防ぐべく、我らは今治街道沿いに進み、湯築城を目指すべきかと存じます。河野を我らに恭順させるのであれば、湯築城を明け渡させる必要がございます」
先手を取って今治街道沿いの城を手に入れれば、毛利の上陸を阻むことが出来る。また武家の習わしとして、降伏する際に敗者は勝者へ居城を明け渡すことになっている。もちろん勝者が去った後は敗者へ返還されるのであるので儀礼的なことであるが、これに義秋は大いに満足して納得の表情を浮かべた。
「うむ。ならば河野らを湯築城で迎えることとしよう」
こうして幕府軍は今治街道を進むことになった。
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二月十日。
安芸国・新高山城
幕府軍が伊予を席巻しているという情報が、河野の援軍として渡海を控えていた小早川隆景の許へ届いた。
「まさか本格的に幕府が介入してくるとは思わなかった」
一昨年の暮れに幕府は、三好一党を滅ぼして阿波と讃岐の二カ国を手に入れている。しかし、昨年の春より始まった伊予の兵乱を幕府は静観していた。故に隆景は伊予に幕府が介入してくることはない、と考えていたのだった。
「某の帰還が遅れたばかりに、申し訳ございませぬ」
平身して謝罪を述べているのは、隆景の家臣・乃美宗勝である。
「そなたが謝ることではない。九州での戦が大変なときに、無理を言って戻ってきて貰ったのだ」
この時期、毛利は九州と四国の二方面に兵を割いている。特に元就は九州に重きを置いており、命令により宗勝は水軍を率いて九州へ赴いていた。そこへ伊予出兵の話が持ち上がり、宗勝の帰還が待たれたのだ。宗勝は瀬戸内海で活動する村上水軍と血縁関係にあり、家中でも水軍を束ねている。故に伊予の事情に詳しく、伊予出兵にはどうしても欠かすことの出来ない存在だった。もう少し帰還が早ければ、幕府が介入する前に伊予へ渡れていた、と宗勝は後悔していた。
「それで、大殿は如何いたすおつもりで?」
「…伊予への渡海は中止になった」
「なんと!?」
既に新高山城には一万余の兵がおり、渡海の準備も進んでいる。命令さえあれば、明日にでも伊予へ渡れるのだ。そこへの中止命令である。宗勝の表情には、悔しさが滲み出ていた。
「何故にございますか」
伊予へ渡るために九州から戻ってきた宗勝としては、その理由を知っておかなければ納得できなかった。
「理由は二つある。一つは公方様より伊予へ干渉するなと命じられた。二つは九州へ本格的に兵を入れざるを得なくなった」
義輝は幕府軍の伊予出兵に際し、毛利輝元(現在の毛利家当主)へ伊予から撤兵するように命じた。今までの元就ならば無視される可能性もあったが、それならそれで義輝は伊予で毛利と一戦する覚悟でいた。しかし、元就はすんなりと命令に応じた。
それも九州で大友家に叛旗を翻す者たちから、しきりに毛利へ援軍を求める声が高まっていたからだ。
現在、九州では筑前国で高橋鑑種と秋月種実が元就に通じて挙兵している。鑑種は居城・宝満城で籠城戦を続けており、種実は休松で大友の大軍を撃破して攻勢を強めている。元就の話では、他にも毛利に通じている者がおり、毛利軍の九州上陸に合わせて挙兵する手筈になっているのだという。
「この軍勢は、そのまま九州へ向かうことになった。兄上の軍勢と合流し、まずは大三岳城を落とす」
「…悔しゅうございますが、大殿の命ならば致し方ございませぬな」
途端に、自分の肩が下がったことを宗勝は感じた。
伊予への出兵は村上水軍の一族、来島村上氏当主・村上通康の要請によるものだった。その通康は、昨年の十月に病で倒れ、陣中で没している。毛利氏は村上水軍には多大なる恩義がある。臨終の願いを聞き届けてやりたかったのが本音であった。
こうして、毛利の伊予出兵は取り止めとなった。
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二月十七日。
伊予国・湯築城
河野の居城で義秋は、守護・河野通宣と対面していた。
「宇都宮風情に衝け入る隙を与えるとはな。それでも守護か、お主は…」
義秋が憤慨しているのは、通宣が宇都宮・一条の軍勢に敗退したからだ。
去る二月四日、両軍は鳥坂峠で一戦に及んだ。しかし、河野方は幕府勢に城を次々と落とされている所為で士気は低下しており、連合軍の攻撃の前に浮き足立ってしまった。拠点であった鳥坂城は陥落し、通宣は這々の体で湯築城まで逃げ帰ってきたのだ。
(何を偉そうに…、元々そちらが儂の城を奪うから負けたのであろう)
表向き平身低頭している通宣であったが、内心で義秋を含む幕府勢に対して反感を抱いていた。だが失地を回復するには幕府に頼るしか術はなく、平伏して恭順の態度を示している。
「こうなれば宇都宮は攻めずにはおれまいな。されど一条はどうする?下手に敵に回せば、本家が黙ってはいまい」
義秋が気にしてるのは、京の一条本家との関係である。
「それは関白殿下に御任せするしかございませぬ。向かってくるならば相手をせざるを得ませんが、こちらから手を出すことは控えましょう」
「そうだったな。その旨、儂から殿下へ御頼み申そう」
今の五摂家は、近衛家の当主で関白を務める前久が強い力を持っている。よって幕府では、朝廷内のことは全て前久に話を通すことになっていた。
「さて、幕府に叛逆する宇都宮豊綱を成敗すると致すか」
別に豊綱は幕府に逆らったわけではないが、義秋の中では幕府が任じた守護を攻撃した豊綱は既に敵になっていた。元々宇都宮を攻撃するつもりだった藤孝は特に反論することなく、全軍に出陣を命じた。
河野勢を加えて三万となった幕府軍は大洲街道を南下し、宇都宮豊綱の居城・大洲城を目指した。途中、幕府の大軍を阻める城はなく、降伏して開城するか、城を捨てて逃げ出すしかなかった。
幕府軍が大洲城を包囲したのは、二日後の十九日である。しかし、籠もっているのは宇都宮の軍勢のみで一条勢の姿はなかった。
後で分かった話だが、一度は大洲城へ入った兼定を重臣の土居宗珊が“幕府へ抗う愚”を必死に説き、土佐へ戻って行ったという。
「これで憂いなく城を攻められるが、無駄なことはしなくない。降伏するよう使者を送れ」
義秋の命令で城方へ開城するよう使者が送られたが、豊綱は拒否を伝えてきた。
「なに?まだ幕府に逆らうと申すか!」
これに怒った義秋は攻撃を翌朝としたが、大きな失敗を犯した。実はもう一度使者を送れば、豊綱は降伏に応じていたのである。豊綱にしてみれば勝ち戦の後の降伏・開城であり、虚勢を張っていただけのことだった。流石に本気で三万の大軍を相手に勝てるとは思っていない。それが経験のない義秋には分からなかった。
「幕府に逆うとどうなるか、思い知らせよ」
翌朝、城攻めは開始された。幕府軍は、大手と搦手の両方を同時に攻め立てた。攻め手は大手が河野通宣、搦手が石川通清である。
「懸かれーッ!」
大将の号令と共に、兵卒は城門へ向けて突撃していく。しかし、城門を前にして配された逆茂木に阻まれている内に城方から矢が一斉に放たれた。相手が河野と知って、宇都宮勢の抵抗は激しさを増していた。
「これは堪らん!!」
容赦なく頭上に降り注ぐ矢の雨に河野勢はたじろぎ、通宣は兵を後退させた。大手門の攻撃が緩まれば搦手の守りが厚くなり、石川勢も兵を退くことになった。それが何度か繰り返されて、時は夕暮れを迎える。
初日の攻撃は失敗に終わった。
「何という為体か!」
幕府方の本陣では、今日の戦でようやく初陣を飾ったばかりの義秋が歴戦の将を叱りつけるという不思議な光景となっていた。
「申し訳ございませぬ。次こそは必ず…」
「次などないわ!藤孝、明日の陣立てを変える。手筈を調えておけ」
「はっ。畏まりました」
翌日。先陣を務めたのは御牧景重と尼子勝久だった。中でも活躍が目覚ましかったのは尼子である。尼子家臣・山中鹿之助と横道正光は矢の雨など諸ともせずに突き進んでいる。
「このようなもの、取っ払ってしまえ!」
まずは前日に通宣が手こずった逆茂木を排除、次いで城門へ殺到、丸太をぶち当てて閂を壊し、見事に突破したのである。
「あれが尼子か。上様が奉公衆へ迎えただけのことはある」
初めて尼子勢が戦うところを見る藤孝は“やはり上様の将を見る目は優れている”と感じた。そもそも毛利との戦で敗者方であるはずの尼子が強いとは誰も思っていなかった。
「ところで、あれは誰だ?よい動きをしているが…」
藤孝が順調な搦め手側から大手側へと視線を移す。そこには銀の鯰尾兜という目立つ格好ながら、最前線で戦っている勇将が一人いた。果敢に敵の攻撃をすり抜け、兵を叱咤しながらの戦いぶりは見ていて気持ちがいいものだ。
「確か…蒲生殿の御子息かと。働く場が欲しいので、御牧様の陣を借りたそうにございます」
「忠三郎か!?」
近習の一人の報告に藤孝は目を丸くして驚いた。事実上の総大将である藤孝の許には、参陣している者の内で誰が何処にいるかなど詳細に分かるようになっている。
蒲生賢秀の子・忠三郎賦秀は、賢秀が幕臣となった際に人質として義輝の許へ送られた者だ。とても利発な若者で、それ故に義輝は自身の小姓として働かせていた。よって藤孝とも面識がある。
「確か正月に元服を済ませたばかりで、今回が初陣のはずだぞ。それであの働きか……」
藤孝は驚きを隠せなかった。普通、初めての戦場は恐怖が先行して前線などに立てる者は稀である。しかし、どう見ても賦秀の動きは戦慣れした者の動きだった。驚くべき才能だ。まさに麒麟児の名に値しよう。
賦秀はこの戦で首級十二を挙げ、宇都宮家臣・大野直之を討ち取る大功を挙げることになる。
尼子勢に遅れること僅か、御牧景重も城門を突破した。堺より仕入れた鉄砲を押し並べ、狭間からこちらを狙う宇都宮勢へ対して猛烈な銃撃を加えたのである。また弾込めの際に生じる隙を弓矢を用いることで埋め、怯んだ合間を狙って城門を壊したのだ。
かつて軍勢の体を成していなかった幕府軍は、確実に強くなっていた。
尼子と御牧の攻撃により城門を突破した幕府勢は、さらに攻勢を強めた。一色藤長、京極高吉、山岡景隆が兵を繰り出し、朽木元綱や三好義継も城攻めに加わった。総攻めである。
そもそもの兵力が違うことから、一つ生じた綻びを埋める力は宇都宮になく、城の大半を占拠されたことで豊綱は降伏した。豊綱の身柄は京へ送られることとなり、伊予の兵乱は終わりを迎えることになる。
しかし、まだ一波乱だけ残っていた。
「以後、守護の務めに邁進せよ。努々役目を怠るでないぞ」
と義秋が言い残して去った故に、通宣は今後とも守護として伊予を任されるものだと思っていた。それが一転して“守護職の解任”という義輝の命令が伝えられると通宣は言葉を失った。守護復帰を通宣は訴え、義秋も同調して抗議したものの退けられ、通宣は家禄の大半を没収されて大洲城へ移ることになった。
湯築城は幕府が新たな守護所として利用することとなり、新守護に御牧景重が任命された。また伊予は中央部が守護領、東予の石川通清、南予を河野通宣と幕府へ恭順した西園寺公広、残る一条氏が領していた土地は幕府御料地とされた。尚、景重が代官となっていた和泉は、松井友閑が後任に選ばれた。
【続く】
連続して義秋の登場です。
余り初陣らしくありませんでしたが、義秋が軍配を持って兵を指揮する姿をどうしても私は想像できませんでした。
また幕府の介入により毛利の渡海がなくなり、史実より早く毛利が九州入りすることになります。それ故の変化ももちろんありますが、次々回の九州編で書くことになります。
さらには氏郷の登場です。こちらでは蒲生は織田ではなく幕臣に列しているので、義輝側におります。もちろん人材の少ない幕府では、彼は出世街道を走ることになります。今後にご期待を。
尚、一応は補足説明をしておきますと、泉州代官となった松井友閑は織田家臣で有名ですが、元は幕臣です。永禄の変の後に織田家に仕えていますが、本作では将軍家へ戻っています。出番がなかったのは、書く要素がなかったからです。義輝の版図がどんどん広がれば人材が必要となってきますので、ようやく登場ということです。
※誤字を修正しました。変換ミスで友閑が有閑となっていました。