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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第三章 ~新たなる乱世~
41/199

第十幕 群雄たちの正月 -洛中の婚姻合戦-

永禄十一年(1568)一月四日。

京・足利義秋邸


駿河守護・今川氏真は京にいた。


一昨年、氏真は駿河に攻め込んできた武田信玄によって駿府を追われたが、将軍・足利義輝の支援により駿府への復帰を果たすことが出来た。今回の上洛は、その御礼言上が目的である。


その義輝との謁見を昨日に済ませた氏真は、すぐには帰国せずに旧知の公家を訪ねたり、年賀の挨拶で上洛してきた各地の大名たちと顔繋ぎをするなど精力的に動いていた。


そして今は、将軍の弟・足利義秋を訪ねていた。


「そちが今川刑部か」

「はい。以後、お見知りおき下さいませ」

「うむ。覚えておこう。されど、こう多くの大名たちの挨拶を受けておると、誰が誰だが分からなくなるわ」


と言って、義秋はカラカラと笑った。


この年、京には多くの大名が義輝に年賀の挨拶をするべく上洛してきている。


畿内の幕府大名衆に織田信長、浅井長政や徳川家康らである。朝倉義景や北陸の大名らは使者を送るに留まっているが、初めて上洛してきた者も少なくはない。今川氏真と武田義信に加え、南伊勢の北畠具教、飛騨の姉小路頼綱(あねがこうじよりつな)、丹後の一色義道、播磨の小寺政職、別所安治である。また九州や東北の諸大名からも使者が訪れている。その中でもっとも大物なのが、甲斐の武田信玄であろう。


それというのも、義輝が義秋と晴藤の縁組を進めているからだ。大名たちは競って娘を輿入れさせようと狙っており、中には息女を伴って上洛している者もいるほどだ。


氏真は昨年の経緯から信玄とは会う気にはなれなかったが、将軍の命令とはいえ今川家の救援に駆けつけた織田信長とは会わざるを得なかった。しかも氏真は相手が父の仇であるのを忘れ、平身低頭して謝意を表し、蹴鞠を披露するなど媚びを売っている。そこに、将軍家の親族衆であり名門・今川の当主である誇りはなかった。


そこまで氏真を動かしたのは、寿桂尼の遺言による。寿桂尼は、昨年に暮れに亡くなっていた。


「よいですか、氏真殿。信玄は駿河を諦めたわけではありません。如何に義信殿が我らの味方とはいえ、その気になれば義信殿を廃しても駿河を手に入れようとするでしょう。それを防ぐ力は、残念ながら貴方にはありません。故に、公方様を頼りなさい。そして……、織田信長を頼るのです。あの男の力には、信玄も一目を置いています。公方様と信長が今川の味方である限り、そう簡単に信玄も手出しできないでしょう」


そう言って寿桂尼は臨終の床で氏真の上洛を後押しした。死因は老衰ではあるが、昨年の駿河攻めでの一件で心労が祟ったのでは、と氏真は責任を感じていた。


だからこそ氏真は見栄と誇りを捨て、頭を下げて回っているのだ。


「昨年は上様の御陰にて、駿府へ戻れました。改めて御礼申し上げます」

「うむ。今川家は我が将軍家の親族じゃ。簡単に滅びて貰っては困る」


義秋の言葉に眉をピクリと動かせた氏真であったが、義秋は気にする様子もなく話を続けた。


「義信も甲斐守に叙任されたと聞いた。めでたいことじゃ」

「これも偏に上様の御配慮があればこそ。恐悦至極に存じ奉ります」


義信が恭しく礼をする。


今川家の後見役となった武田義信もまた、氏真に従って上洛していた。先日、義輝の奏請により従五位下・甲斐守へ叙任され、名実共に武田の世継ぎとして復活していた。


「されど義信よ。再び、そなたの父が変な気を起こさぬよう目を光らせておかねばなるまいぞ。武田家に任せたのは、甲信の守護じゃ。その領分を侵すでない」

「はっ。しかと承りましてございます」

「うむ。そなたがしっかりと役目を果たせば、今川家が遠江の守護へ戻れるよう儂は兄上に取り計らうつもりじゃ」

「それは、真でございますか!?」


思わぬ義秋の言葉に、氏真は驚きの声を上げた。昨年の一件で、氏真は遠江半国を徳川家康に割譲したことにより守護職を失っている。それを義秋は戻すという。


「遠江は一時期、斯波家に守護を任せたことがあったが、本来は今川家の守護国じゃ。それを回復することこそ、幕府のあるべき姿であると儂は思う。兄上も将軍家の力を強うしようとしておる故な。親族衆である今川家が遠江の守護へ復帰すれば、将軍家も強うなるというものよ」


そう義秋は持論を述べるのであるが、西遠江を割譲された徳川家康は本拠を曳馬へ移し、名を浜松へ改めている。城の拡張も行っているのは道中で確かめており、家康が新地の支配化を進めていることは明らかだ。それを簡単に手放すとは思えないし、将軍の決定が覆るとも思えない。


(この御方は、それを理解しておられるのか)


そう思いながらも、意気投合している義秋と氏真を冷然と見つめる義信であった。


その後、氏真と義信は一月余りほど在京し、駿河へ戻っていった。


=======================================


永禄十一年(1568)一月七日。

京・二条城


年が改まり、義輝は大名たちより年賀の挨拶を受けていた。毎年のことではあるが、次の者は別格であった。


義輝の目の前に平伏する男の名は、武田大膳大夫信玄。三好長慶や松永久秀を除けば、地方大名の中でもっとも義輝が手を焼いた男である。


「面を上げよ」

「はっ」


義輝は言葉に従って信玄は上体を起こした。


(こやつが…、甲斐の虎か)


義輝の鋭い視線が突き刺すように信玄を捉えている。普段は抑えている覇気も、今は全身に漲らせている。そうしてまで信玄を威圧しているのだが、信玄は涼しい表情のままであり、見事にそれを受け流していた。並の武将に出来ることではない。


「一つだけ問おう。何故に駿河を攻めたか」


これだけは、どうしても聞いておかなければならないことだった。


「今川家に力なき故にございます」

「なに?」

「今川治部(義元)亡き後、その領内の乱れようは酷いもので、各地で謀叛や一揆が相次いでおりました。それにも関わらず刑部殿(氏真)は遊興に耽け、政治を顧みず、果てには和議に応じて降った者を謀殺する始末。もはや国主の器ではございませぬ」

「だからといって、そなたが攻め込む理由にはなるまい」


義輝は信玄の言い分を否定しなかった。実際、今川領は信玄の言う通りに荒れ果てていたからだ。氏真も懸命に領内の混乱を収めようとはしていたのだが、生来の性分なのか、歌会や茶会を催し、能を鑑賞するなどして日々の鬱憤を晴らしていたのも事実である。


「今川家は上様の親族衆でございます。その悪評は、上様の悪評に繋がりましょう」

「余のためと申すか!」

「御意。刑部殿に駿河を治める力はありませぬ。故に、当家が代わりを務めようとした次第にて」

「それを決めるのは余であって、そなたではない」

「されど上様は、手前が信濃を治めることを御認めになられたではありませぬか。それは、当家の力を認めて頂けたからではありませぬか?」


信玄は過去に力を失った信濃守護・小笠原長時を追い出し、義輝から信濃守護職に任じられている。しかし、それは義輝の命令という訳ではない。義輝が三好長慶に対抗すべく上杉輝虎の上洛を求めたからであり、それには信玄との和睦が必要だった。そこに、条件として守護職就任を信玄が求めたからである。


従って武田家へ信濃守護を任せることは義輝の本意ではないが、守護職に任じた以上は信濃を武田家に任せる、というのが義輝の意向である。それほどまでに、将軍の言葉・命令は重いものでなくてはならない。


駿河侵攻に於ける信玄の言い分は、基本的に信濃と同じである。しかし、義輝の力は以前と違う。もう下手に出て大名たちの機嫌を取る必要はない。同じ裁断は下さない。


「よう分かった。されど駿河を武田家に任せるつもりはない。何かあれば余が差配するが故に、そなたは手を出すでない。義信にも、そのように伝えてある」

「はっ。仰せのままに…」


四日前に今川氏真と武田義信より年賀の挨拶を受けた義輝は“相談の儀あらば、実家ではなく幕府に申し出よ”と義信へ伝えていた。元より義信は父を頼るつもりがなかったのか、了承する旨を即答した。これは義輝にとって意外だった。信玄と義信の親子関係は思っているよりも悪いのではないか、そう感じることになった。


(信玄よ。もうそなたの好きにはさせぬぞ)


義信の一件で、義輝は信玄を封じ込める策を実行に移すことが可能になっていた。


「大膳大夫よ。話は変わるが、そなたは織田弾正とは縁戚関係にあったな」

「四男・四朗勝頼の室に迎えました。されど昨年の十一月、嫡男を産んだ際に亡くなっております」

「それよ。余も織田弾正より聞いておる。そこでだ。そなたの娘を織田家に嫁がせ、新たなる絆と致さぬか?」

「それは…、織田殿からの申し出でございますか」

「如何にも。嫡男の正室に迎えたいそうじゃ。余も、悪い話ではないと思う」


これは、信長が年末に上洛して義輝に相談したことであった。それを、義輝は己の策の一つとして用いようというのだ。


「構いませぬ。織田家嫡男の正室とあれば、我が娘も喜びましょう」

「うむ。織田と武田の結び付きが強うなれば、余も安心じゃ。ついては大膳大夫、もう一人娘がおろう。その娘を長尾家に嫁がせよ」


信玄には未婚の娘が二人いる。五女・於松と六女・於菊である。それを義輝は織田家の嫡男・奇妙丸(後の信忠)、長尾家の新当主・景勝に嫁がせようというのだ。これにより武田は既に北条、今川と縁を結んでいるので、徳川を除く周辺国全てと縁組をしたことになる。それは武田家がいま以上に版図を広げることが難しくなることを意味している。


「武田と長尾の間には遺恨もあろう。されど、これを機会に仲良う致せ」


血の縛りで、武田の動きを封じようという義輝の策であった。


もし義信が父に従順で今川領を信玄の自由にさせるのであれば、武田家の力は強大となり、同じ策を用いても効果は半減する。しかし、義信が思った以上に今川家に加担していることで、信玄の力は旧来の甲信二カ国のみとなる。その二カ国だけで、義輝を始め周辺諸国を敵に回すことことは自殺行為に等しい。


「承知いたしました」


信玄は平然としたまま頭を垂れた。この謁見で、表情一つ変えていない。


(こちらの思惑くらい気付いておろう。それでも構わぬと考えているのであろうが、余を甘く見るでない。そなたが策謀を張り巡らしている間に、余は西国を手に入れる)


義輝の策は、血縁で信玄を封じ込めるだけではない。信玄が動けない間に、西国を手に入れることで義輝自身の力を増大させることまで含んでいる。無論、西国へ出兵せざるを得ない、という事情もある。それというのも、収まってきた東国に比べて西国の慌ただしさが増しているのだ。


義輝の勢力圏に隣接する播磨では守護・赤松氏の内紛が激しくなっており、それに備前の浦上が介入する動きを見せているし、山陰では毛利に属する武田高信が但馬守護の山名祐豊(すけとよ)と対立を深めている。また四国では守護・河野通宣(みちのぶ)が宇都宮豊綱と合戦に及んでおり、これに土佐一条氏や中国の毛利が介入し、規模が大きくなりつつある。その為、細川藤孝と朽木元綱は上洛できずにいるほどだ。


それらの争乱を鎮めて西国を手にさえすれば、信玄が如何に策謀を企んだところで義輝の勢力を脅かすことは不可能となる。


武田家を巡る縁組は、信玄を数年間だけ大人しくさせれば充分だったのだ。


(それだけではないがな)


義輝は実弟の縁組を進める中で、さらなる幕府の盤石化を図っていた。その矛先が向けられたのが、越前朝倉家である。


朝倉家は義輝の将軍職復帰に尽力した大名家であるが、当主・義景の器量故に頼りにならなかった。しかし、越前一国は大きい。これが義輝の意のままに動くのであれば、幕府はさらに強くなる。


そこで義輝が、名目上朝倉家に籍を置いている明智光秀の娘を藤孝の嫡男・熊千代(後の忠興)と結び、完全に取り込むことを画策した。さらに実弟・義秋の正室へ朝倉景紀の娘を迎えることで、義輝派である景恒との縁戚関係を持つ。合わせて景恒を正五位下へ引き上げ、家中に於ける地位で筆頭の景鏡を越えさせ、名実共に朝倉家筆頭とした。


その後、義輝の策が完全となる事件がこの年の六月に起きることになる。義景の嫡男・阿君丸(くまぎみまる)が急死したのである。義景の子で男児は一人だけだったために朝倉家中で継嗣問題が発生、これに義輝が介入し、景恒を世継ぎに定めたのである。


これにより義輝は、越前一国を手に入れることになった。


=======================================


一月十日。

上野国・厩橋城


昨年の暮れに北条氏規の上洛を契機として、関東管領を辞した上杉輝虎は厩橋城の再建に取り組んでいた。


城は本丸を二ノ丸、三ノ丸が囲む輪郭式で、利根川の水流に耐えるために総石垣とし、水堀に三重の天守も建てた。これは完全に義輝の二条城を意識したもので、関東では珍しい城郭となった。未だ至るところで普請中ではあるが、輝虎が居を移すには充分なほどまでには完成している。


その輝虎は、関東の状勢を見極めるために上洛せずにいた。


(本当に北条は上様に従う気があるのだろうか…)


という疑念が、未だ輝虎の中に(くすぶ)っていたからである。今のところ、その懸念は良い方へ裏切られている。北条は昨年の和睦以降に目立った動きはなく、関東の状勢は驚くほど平穏だったのだ。


動きがあったとすれば、那須七党の間で起こっていた内紛が終息に向かっていることだろう。


那須七党とは、七騎とも呼ばれ、北下野に勢力を有する主家の那須家に一族重臣を加えた六氏を含めた総称である。この内、重臣の大関氏と大田原氏が主家を離反し、佐竹義昭と結んで対抗していたのだが、その佐竹義昭が死去し、義重が継いだことにより状勢は変化する。義重の家督相続には将軍・義輝の影響が強くあり、輝虎の後援もあったことから二人が“那須から手を引け”とする命令に逆らえなかったのだ。


今では和睦交渉が始まっており、数ヶ月後には決着するだろうと思われた。


(本当に儂の役目は終わってしまったようだな)


そう思い始めてから、輝虎は強い寂寥感(せきりょうかん)(さいな)まれるようになった。戦に明け暮れていた己の身をこれほどまでに恨んだことはない。平和に馴染めないのだ。


悩みを抱えた輝虎は、越後春日山の林泉寺から益翁宗謙(やくおうしゅうけん)和尚を呼び、その心中を吐露した。


「考え込むのは止しなさい。その身を仏に委ね、仏と共に生きることで道は開けましょう」


そう宗謙和尚は助言し、輝虎の心を晴らした。数日後に輝虎は剃髪、出家して隠居することを決意する。名を“不識庵謙信(ふしきあんけんしん)”へと改め、越後にいる元関東管領・上杉憲政の嫡男・憲藤を呼び寄せて上杉家の家督を継がせることにした。


しかし、謙信の思うように事は運ばなかった。


「阿呆!隠居など早すぎるわ!」


と、義輝から叱責されたからである。謙信の隠居に慌てた家臣たちが、義輝へ報せたことで事実を知ったのであった。ただこの時点で既に出家は済ませており、謙信は隠居を撤回するに止まったのである。


上杉の家臣たちがホッと胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。


=======================================


一月二十一日。

阿波国・仏殿城


仏殿城城主・妻鳥友春(めとりともはる)は困惑していた。


「何故に幕府が攻めて参るのじゃ!?」


今日の正午過ぎ、城は突如として幕府の軍勢に包囲された。林立する軍旗から細川、三好、朽木らの軍勢だと分かる。兵は凡そ一万一〇〇〇。対する味方は一〇〇〇にも満たないため、攻められれば落城は必至である。


(もしや一条兼定が幕府へ救援を求めたのか…)


土佐一条氏はその名の通り五摂家の一つ、一条家の分家に当たる。一条教房が応仁の乱が勃発した際に荘園のあった土佐幡多荘(はたのしょう)へ避難し、土着したのが始まりである。今では本家とは疎遠になっているが、関係が切れているわけではない。


そのことから友春は、この状況に至った理由を兼定が本家を動かし、幕府へ救援を求めたものだと考えた。しかし、それは間違いであった。


「幕府へ叛意なくば、人質を出して降伏・開城せよ」


幕府軍から突きつけられた条件は、一つだけであった。


確かに伊予では河野と宇都宮が争ってはいるが、義輝はそのどちらへも味方する気はない。伊予で乱が起こり、守護では手に負えなくなっているので幕府が介入してこれを鎮める。ただそれのみ。故に、友春へ要求されたのは“幕府へ恭順するか否か”という点のみであった。


友春は要求に従い、即座に城を開城した。




【続く】

今回はGWスペシャルと題し、三話連続で投稿します。暇な方はぜひ休みの内に読んで下さい。(もっとも私はほぼ仕事ですが…)とは言ってもあと二日しかないですね。申し訳ない。


さて、心を入れ替えた氏真が頑張っています。もっとも中身は元の氏真のままなので、義信の支えの下でどこまで今川家を維持できるか、今後に注目して下さい。(史実より寿桂尼の死が早いのは、駿河攻めの心労の所為としています)


また信玄が四面楚歌状態に陥りました。この上で信玄がどうするかは、次章以降の話となります。


そしてようやく輝虎が謙信となり、呼び(書き)やすくなりました。たまに輝虎ではなく謙信とタイプしてしまうこともあったので楽になりました。


尚、義秋の正室である朝倉景紀の娘は、史実では福富秀勝へ嫁いだ娘です。生没は分かりませんが、秀勝の年齢を推察すれば同年くらいだろうと考えてのことです。(詳しく知っている方がいれば教えて下さい)


ちなみに晴藤の正室は今のところ決まっていません。(公開していないという意味です。誰にするかは決まっています)

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