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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第三章 ~新たなる乱世~
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第九幕 幕政改革 -将軍検地、始まる-

九月七日。

京・二条城


この日、義輝または幕府にとって喜ばしい日となった。吉報を聞いた幕臣たちが久しぶり義輝の前に揃い、顔を合わせていた。


「上様、おめでとうございます。これで将軍家も安泰にございますな」

「気が早いわ。まだ男ノ子(おのこ)と決まったわけではなかろう」


とは言うものの、義輝の表情は喜色に満ちていた。何せ御台所が懐妊したのだ。永禄の変で子を全て失った義輝にすれば、待望の跡継ぎ誕生となるかも知れず、顔が綻ぶのも無理はなかった。


また幕臣一同からすれば、将軍家の継嗣問題は避けては通れぬ道であり、現在の不安定な状況が続くのは好ましくなかった。その最中の吉報である。


現在、足利将軍家の家督継承権は第一が実弟の義秋で、二位が義助、三位が晴藤となっている。これ以降に義助の兄弟、旧鎌倉公方家の一門が続くことになるが、これは正式に表明したわけではない。しかし、幕臣たちの中では、この序列で認識されている。


序列が定まっているならば問題がないと思われがちだが、そうではない。家督の継承権こそ定まっているが、彼らたち全てが義輝とほぼ同年であること、さらには彼らにも跡継ぎとなる男子がいなかった。つまり、仮に義輝が死去して彼らの中の誰かが家督を継いでも、その次代を担う者がいないのだ。これは看過できない問題である。


「されどよい機会です。もし御台所様の御子が姫君であったなら、上様には側室を迎えること御約束いただきたいのですが…」


三淵藤英が畏まって進言する。


幕府にとってもっとも良いのは、義輝の子が家督を継承することだ。御台所の子であれば尚よいが、御台所も、この先に何人も子が産めるほど若くはない。故に若い側室を何人か迎えて男子が生まれてくる可能性を高める必要がある、と藤英は考えている。


「無粋な。斯様(かよう)なときに水を差すでない」


藤英の言葉に、義輝は憮然とした表情を浮かべた。


義輝としても、藤英の言うことは理解する。将軍位にある者として世継ぎの問題を考えない訳ではなく、その証に以前は何人か側室もいたし、輝若丸なる嫡男もいた。以前と違うのは、全てを永禄の変で失っているために唯一生き残った御台所への寵愛が増したことだろう。故に、変後は一人も側室を迎えていない。


「一先ず御台所様の御子が生まれるまで、この儀は御預けということで宜しいのではありませぬか?」


そう発言したのは一色藤長だった。藤長の意見は幕臣たちの間では当たり前のことで、やはり義輝の御台所へ対する寵愛ぶりから、この問題を議論することが憚られていたのである。


「何を申されるか。上様にはキッパリとここで御約束いただく!」


もちろんそれを藤英が承諾する訳がない。義輝にとって耳の痛い話だろうが、諫言するのが家臣の務めであると思っている。床に平手を打ちながら、ずいと身を進ませて返答を迫った。


窮した義輝は、ちらりと視線を和田惟政に向ける。


「ならば、その間に義秋様と晴藤様の縁組を進めては如何でしょうか?」


話に割って入るように、惟政が代案を提示する。惟政としても藤英の進言はもっともだが、御台所の出産が終わってからでも済む話と考えている。何よりも御台所の耳に側室の話を入れるべきではなく、表向き弟たちの縁組を進めるという形で義輝の側室候補を探すべきだった。


「それとこれとは話が別にござる」


それは同時に事を進めればよい、と藤英は主張したのだが、義輝はそれ以上に耳を貸すことはなかった。


「和田侍従、よいところに気が付いた。あれらに相応しい縁組を考えてやらねばな。さっそく大名たちと諮るとしよう」


そう言って義輝は奥へと引っ込み、話は終わった。


残された藤英が眉間に皺を寄せて頭を悩ませていたことは、改めて言うまでもない。


=======================================


それから一月余り経過した十月十八日。


小田原での和睦により幕政へ参加することになった北条家より、氏康の五男・氏規(うじのり)が上洛してきた。氏規はさっそく河内国内より領地を宛がわれて幕臣となり、正式に従五位下・左馬助(さまのすけ)に叙任されることになった。


氏規を幕臣に迎えた義輝は、北条家が如何にして関東を統治しているかを訊いた。


「当家では、主に段銭(たんせん)懸銭(かけせん)棟別銭(むねべつせん)の三つを柱とし、徴税しております」


段銭とは田に対する税のことで、その面積に応じて課税される。また懸銭は畠に対するもので、棟別銭は百姓の家屋に対する賦課税のことだ。北条家はこれを全て貫高制で統一し、賦課額、知行高、軍役の賦課量を定めていた。それを定める基となっているのが、検地である。


また北条家は中間層の搾取を徹底して排除、税の二重化をなくし、領民の負担を減らした。また不正をなくすために目安制を採用し、百姓が直接に北条氏へ訴訟を提起できるような仕組みにもなっている。


これらを村単位で制定して税を賦課したが、漁村の者や鍛冶職人を代表とする特殊な技能を持つ者たちは例外とされ、別な賦役が課せられている。これにより身分体系も明確に区分されることになっている。


それらを定め、諸事全般を決する衆議を月に二度ほど小田原で行っている。参加する者は当主と一門だけではなく、重臣や奉行も含まれる故に不満も出ない。その証に、北条領内では一揆は起こっておらず、家臣たちの謀叛も殆どなかった。


(なんと明瞭な仕組みか。北条の治世こそ、今の幕府にもっとも必要なものではないか)


それが正直な義輝の感想だった。


氏規が話したことは、ほんの概略だけであろう。幕府に恭順したとはいえ、心服するには至っていない以上は、その内情を将軍家とはいえ晒すわけがない。しかし、それでも実のある話だった。


というのも、足利幕府の財政はその歴史に動乱期が多い所為もあってか、北条家のように明瞭かつ整備されているとはいえない。逆に複雑すぎて何に対して税が課せられるか正しく理解している領民は少なく、不満も多いし、徴収する側の幕府も正確な賦課額を把握していない有様だ。しかも義輝が京畿を回復するまでは幕府御料地から上がる税収が殆どなかったために、その前提となる石高の把握すら出来ていない。


義輝が復権して約二年、それは今も大して変わっていない。


北条家の内政で欠点があるとすれば、貫高制は良銭を基準としているために大量の悪銭が流通していることを考えると実際の銭貨量との相違が生じるところだろう。これに対し撰銭令を布告している幕府であるが、その支配の行き届かない地域に出れば無意味である。幕府領内で使用できた悪銭が使えなくなるか、幕府が定めている交換比率と違う比率で交換されるからである。これでは商売が成立しない。これを解決するには、幕府が全国を統一して撰銭令を徹底させるか、新たな銭貨を鋳造して流通させるしかない。


そのどちらも、今の義輝には不可能なことであった。


「北条家の仕組みの多くは幕府に採用すべきであるな。それには、まず検地か?」

「はっ。税を定めるにも検地を行わずには始まりませぬ」


義輝の問いを返す氏規であったが、内心は驚いていた。北条家の内政に語った氏規であったが、将軍の興味本位で聞かれた話だと解釈しており、まさか採用されると思っていなかった。


だが義輝としては、今の幕府の仕組みは傀儡政権時代のものであり、元より一新すべきと考えていた。今までは、その代わりになるようなものがなかったために少し変えるだけに止まっていたに過ぎないのだ。


もし幕政が北条流に変更できれば、その国力を把握することも可能で、財政も健全に機能する。やらない理由は、義輝にはなかった。


「左馬助(氏規)、そなたが奉行を務めよ」

「私が、でございますか?」


更なる起用に驚く氏規であったが、義輝はさも当然のように起用の理由を話した。


「北条の領内では、常日頃から検地を行っておるのであろう?ならば、そなたが務めずして何とする」


義輝は氏規を奉行に任命し、藤英をその目付とした。一年ほどあれば、大まかなことは把握できるだろう。後は貫高制と石高制のどちらを採用するかであるが、貫高制を採用するには先ほどの問題を解決する必要があり、それには全国統一もしくは銭貨を大量に流通させるだけの鉱山を所有しなければならない。故に石高制を採用する方が現実的である。


こうして幕府は石高制に統一されていくことになる。


=======================================


永禄十年(1567)十二月十四日。

甲斐国・躑躅ヶ崎館


信玄の居館では、家来や使用人たちが慌ただしく動いていた。それというのも、これから信玄が京へ向けて出発するからだ。


「本当に織田領を通られるのですか?」

「昌景、何か問題があるか?」


武田と織田は同盟しているが、駿河攻めの一件では敵味方に分かれている。今でも表向き同盟状態は手切れとならずに続いているのだが、破綻同然の状態だった。それも先月、織田家より勝頼の正室に迎え入れた遠山夫人(信長の養女)が、武王丸(後の武田信勝)の出産と同時に死去してしまったからだ。


山県昌景が心配するのは、武田と織田の同盟が形骸化しているために道中で命を狙われる危険性があることだ。


「信長は左様な真似をする男ではない」


意外に信長は世間体を大事にする、と信玄は思っている。こちらは将軍への年賀の挨拶へ出向くのだ。それを将軍へ伝えてあるし、織田領を通ることも信長から許可を得ている。この状況で仮に信玄の身に何かあれば、困るのは信長である。信玄を闇討ちした信長は卑怯な男だ、と世間に悪評が立つことになるからだ。


(信長が儂を守ることはあっても、命を狙うことはあるまい)


ならば、この機会を大いに利用してやろうと信玄は考えた。


まずは将軍と会うこと。正直、東国での義輝の仕置は見事としか言いようがなく、これほどまでの人物だとは思わなかった。寿桂尼の策であるとはいえ、自らの動きを縛った上で北条すら支配下に置いたのだ。一度、会って人物を確かめる必要がある。


(それに、織田領を通ることは無駄にはなるまい)


家臣の中からは、駿河を経由して船で伊勢に渡り、東海道を進む案やそのまま紀伊半島をぐるりと回って木津浦沖へ上陸し、京へ入る案も上がった。これらは織田領を通るより危険が少ない、という理由からだ。それらを却下し、信玄は織田領を通る必要性を説いた。


「信長が如何様にして領内を統治しておるか、如何なる城があるか、この目で見ておく必要がある」


何のために、かなどは言わない。言う必要がないからだ。同行者は秋山信友、木曾義昌ら主に美濃に近い所領、城を任されている者たち及び信玄の近習らである。


翌日。信玄は雪がちらつく中、甲府を発って東山道へ入り、木曽路を抜けて織田領へ入った。信長の居城・岐阜城へ到着したのは十二月二十一日のことである。


「生憎と御屋形様は留守にて、私が饗応役を務めさせて頂きます」

「留守?儂が来ることは事前に伝えておったはずだが」

「申し訳ございませぬ。主は何やら上様と諮ることがある、と上洛しております。京にて御待ち申し上げる、と言伝を預かっております」

「ふむ。左様か…」


信玄の応対をした人物は林秀貞と名乗った。どうやら織田家の筆頭家老らしいが、信長の家来らしくないと思える程の常識人で、面白味に欠ける男だった。


(このような男を一番家老に起用しておるのか…)


と、疑問を持つ程に。


但し、収穫がなかったわけではない。何と言っても岐阜城下の繁栄ぶりには驚いたし、楽市楽座なる仕組みが如何様に作用するかも見聞できた。しかし、それ以上に驚いたのが織田領内の治安の良さである。


信玄は二日後に岐阜を出立したのだが、大垣から垂井へ抜ける街道で気になることがあった。


「御屋形様。お気づきになりましたか?」

「あれで四人目じゃな」

「やはり…、気付いておられましたか」


信玄の近習として同行していた武藤喜兵衛は、織田領を通る際に自国または他国でも見られない不自然な様子に驚いていた。それを主へ指摘したのだが、どうやら既に気付いていたらしい。


「信長の領地では、女子が一人で旅が出来るのか」


通常、女の一人旅は危なくて出来ない。何処で賊に襲われるか分からず、少なくとも用心棒を一人か二人は雇うものだ。それが、今すれ違った者を含めて四人、女が一人で歩いているのを見かけた。格好からして、明らかに旅の者だった。


しかし、信玄はもう一つの異様さにも気が付いていた。


「それだけではないぞ。気付いたか喜兵衛、先ほどから道幅が変わっておらぬことに」

「そういえば…」


として喜兵衛は前後を振り返る。前を見ても後ろを見ても街道は気持ちがよいくらいに同じ道幅であったのだ。明らかに人為的なものである。


喜兵衛は首を傾げながら、疑問を口にする。


「されど、これでは敵に攻め込まれた場合に困りましょう。仮に浅井が美濃へ攻め込めば、あっという間に岐阜へ辿り着いてしまいます」

「攻め込まれることなど、考えておらぬのではないか?あやつも儂と同じよ」


信玄は常に領地の外で戦うことを信条としている。領外で戦えば自らの領地が傷つくことがなく、仮に戦に敗れても被害が最小限で済むからだ。恐らくは信長も同じ考えを持っているのだろう。また街道が整備されれば人の往来は激しくなり、物資の流通も増え、それに伴って国力は増強する。信長は街道を整備した方が利点が多いと考えたのだろう。関所がないことも、同じ理由からだと推察できる。


(織田信長…、国の統治においては儂より上やもしれぬ)


信玄がちらりと視線を左へ向けると、そこには畑でのんびりと昼寝をしている農夫の姿があった。


どの大名家の場合でも同じだろうが、武田家でも多くの者は半農半士だ。故に大名との関わり合いは強く、出陣する際に領民は群れをなして堵列(とれつ)し、見送りをする。また平時の場合に於いても、武士が通れば跪くなりして礼を尽くすものだ。


それが、織田領に於いてはまったく見受けられない。自分は他家の者であるが、見た目は高位の武家なだけで、敵味方が判別できるわけではない。


(信長が通る時も、ああなのであろう)


信長は領民にそういうことを求めない。武士が通る度に作業を中断されては堪らない、と考えているのか、それともただ無意味だと考えているのかは分からない。ただ自然と悪い気はしなかった。


(泰平の世とは、このような世のことを言うのであろうか)


ふと頭に浮かんだ言葉を、信玄は首を左右に振って打ち消した。泰平の世を築くのは信長ではない。自分である、そう言い聞かせた。


その信玄が京に到着したのは、十二月二十八日のことであった。




【続く】

太閤検地ならぬ将軍検地が始まりました。北条家の仕組みを踏襲することにより、どんどんと江戸幕府化しています(笑)。評定衆も老中に置き換えることが出来ますしね。まあ、内情がごちゃごちゃの足利幕府からすれば、北条家の内政など魅力溢れるものに見えるはずです。元々義輝は新しいもの好きですので、この変化も“あり”なのではないか、と考えた次第です。


また信長の逸話を信玄視点で書いてみました。本物の逸話を知らない方は、“信長 逸話”で検索を御願いします。


尚、御台所の懐妊により義輝の子が誕生することになりますが、これが男児が女児かは今のところ秘密です。


次回、信玄がいよいよ上洛して義輝と対面します。その後、話は四国へと移っていきます。(この頃の四国の話と言えば、歴史好きな皆さまにはお分かりですよね)

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