第八幕 明善寺合戦 -謀将・宇喜多直家の軍略-
永禄十年(1567)六月某日。
備中国・松山城
臥牛山に拠って建つ城塞は、備中一国を治める三村氏の居城である。その三村氏は、昨年に当主が代わったばかりであった。
先代の三村家親は知勇兼備の名将で、先見の明もあった。守護である細川氏へ早々に見切りを付けると、山陰・山陽八カ国の守護を務める尼子氏と結んで力を蓄えた。やがて尼子の衰退が始まると今度は大内家を滅ぼして急成長している毛利と手を組み、その力を背景に国内勢力を次々と滅ぼし、または取り込んで一国を従えるほどになった。さらには国外へも積極的に兵を出し、備前や美作での勝ち戦は続いた。
そんな家親の最期は呆気ないものだった。美作の興善寺で評議中、鉄砲による狙撃を受けて暗殺されたのだ。過去に三好長慶の弟・実休が合戦中に鉄砲を受けて死ぬということはあったものの、鉄砲が暗殺の道具に使われるのは珍しい事例だった。
犯人は、浦上家の宇喜多直家。家親の武勇を恐れてのことだった。
「ようやく、父の無念を晴らせるわ」
その跡目を継いだ元親が復讐を考えるのは当然だった。父の死後すぐに行った弔い合戦では敗れたが、家中の混乱を収めること一年余り、体制は整った。主家の毛利からも許しを得、兵も揃っている。
「まずは直家を驚かせてやろう」
元親は配下の根矢与七郎と薬師寺弥七郎を呼び、宇喜多の属城・明善寺城を夜襲するよう命じた。明善寺城は、三村方である岡山城を攻略する拠点として昨年に築かれた城で、岡山城主・金光宗高は再三に亘って支援を元親に要請していた。今回の出陣は父の弔い合戦ではあるが、これに応えたものでもある。
「城を奪われたと知れば、直家めが取り返しに出てくるはずじゃ。故にお前たちは城を守って儂を待て。奴らが城攻めに疲れたところを、儂の軍勢が背後から襲う」
「はっ。されど我らは小勢、果たして城を保てましょうや?」
与七郎と弥七郎に与えられた兵は僅かに一五〇でしかなく、二人が不安に思うのも無理はなかった。しかし、小勢であるにはそれなりに理由があった。合戦後、直家を釣り出すためである。大兵で籠もってしまえば、直家は主君の浦上宗景の援軍を待ってからしか動こうとしないはずで、それでは困るのだ。
「案ずるな。宗高にお前たちを支援するように伝えてある」
元親の言葉に二人は安心したようで、先ほどまでの不安な表情は消え失せていた。
「ならば岡山城と連絡を取り合い、殿をお待ちします」
「うむ」
こうして、世に名高き明善寺合戦は始まった。
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七月四日。
備前国・明善寺城
雨風の激しい中、根矢与七郎と薬師寺弥七郎が明善寺城へ夜襲を仕掛け、これを奪うことに成功した。明善寺城の陥落を知った宇喜多直家は、すぐさま手勢を繰り出して明善寺城を包囲、城方へ開城を呼びかけた。
「城を奪った罪は問わぬ。早々に明け渡せ」
「馬鹿か?明け渡すつもりなら最初から奪ったりはせぬわ」
「左様か。されどよいのですかな?岡山城の金光宗高、中島城の中島元行は既に我らに寝返った。お主らも孤立無援では戦えまい」
「笑止。そのような戯れ言を信じる我らではないわ!」
宇喜多からの開城要求を拒否した与七郎と弥七郎であったが、周辺の城が寝返ったという話に一抹の不安を覚えていた。
「首尾は予定通りだが、宇喜多の動きを宗高殿を通して殿へ報せてもよいものかどうか…」
「裏切っていたら殿も危ない。我らからも殿へ報せた方がよかろう」
「うむ。そうするか」
二人は考えた末に、金光宗高へ救援を要請すると共に主君・元親へも使者を送った。元親は明善寺城と宗高から同時に同じ報告が届いたため、さっそく軍を動かして備前へ入ると返答した。また、これに対して中島元行が自ら道案内を申し出るなど三村への協力を惜しまない姿勢を示し、寝返りの話を払拭した。
「ほれ見ろ。やはり虚言だったではないか」
「宇喜多め、悪足掻きをする」
予定通りに事が進んでいると確信した二人は、本来の計画通りに城を守って主の到来を待つことにした。
その元親が二万の軍勢と共に備前へ入ったのは、三日後のことである。元親は本陣を岡山城より西の辛川城に置き、宗高より報告を受けていた。
「宇喜多勢の数は凡そ五千。直家も出陣している様にございます」
「ほう…自ら死地に入ってきたか。ま、予定通りだな」
「御慧眼、恐れ入りまする」
「して、浦上の援軍は来ておるか?」
「いえ、宇喜多勢のみです」
その報告に元親は口元を緩ませ、勝利を確信した。四倍の兵力差、元親は兵力の多寡を武器に宇喜多直家を一気に葬ろうと画策していた。
「されど、宇喜多勢は今にも明善寺城を落とさんとする勢い。いち早く援兵を送る必要があるかと存じますが?」
「何?そなたの兵がおるではないか。何を心配しておる」
「我が手勢だけでは、宇喜多の五千は抑えきれませぬ。どうか援軍を…」
平伏して懇願する宗高を前に元親は腕を組み、いま一度だけ状況を頭の中で整理する。
「我が岡山城までは安全にござる。拙者が道案内を務めます故に、すぐに後詰めを御願い致しまする」
余りにも予定通りに事が進んでいる為に少々怖くなった元親は、正直なところ二、三日ほど様子を見たいというのが本音であったが、与七郎と弥七郎へは援軍を送ると約束をしているし、直家を釣り出すために少数の兵しか与えておらず、宗高の兵が支援するといっても本気で宇喜多が攻めてきたら危ないのも事実であった。
「相わかった」
宗高の進言を受け入れた元親は、実兄・庄元祐に八〇〇〇を預けて明善寺城へ後詰めに向かわせることにした。また石川久智の五〇〇〇が北側より迂回して宇喜多勢の背後を衝かせ、自らは残る手勢を率いて直家の居城である沼城を急襲する。
後詰め、挟撃、中入りと兵の多さを利用して出来る限り全ての策を実行するつもりだった。
「では、拙者の後をついてきて下され」
宗高を先頭に辛川城より三村の先発隊が出陣していく。しかし宗高の行軍速度はかなり速く、庄勢は強行軍となってしまっていた。元祐は一度、宗高にゆっくり進むよう指示を出したが、宗高はすかさず反論した。
「我らが有利に合戦を進めるには、明善寺城の健在である必要がございます。城が落ちてからでは遅いのです。先にも申しましたが、岡山城までは安全でござる。元祐様も、どうか御急ぎ下さい」
強行軍による不安は拭いきれなかったが、元祐は宗高の言葉を受け入れてしまった。そして、突如として異変が起こる。
「あれは何じゃ?」
元祐が旭川を越えた辺りで、前方で混乱が見受けられた。数はそれほど多くないが、自軍とぶつかるように前方から下がってくる軍勢がいる。戦闘にはなっていないので、明らかに味方である。ここら辺にいる味方と言えば、岡山城にいる宗高の兵か明善寺城の守兵くらいだ。
「まさか、城が落ちたのではありますまいか?」
「なにッ!?」
近臣の言葉に元祐は唖然とし、そして推理する。
三村の大軍が備前へ入ったことは宇喜多も掴んでいるはずだ。その上で自分が宇喜多直家の立場であれば、城攻めの最中に横槍を入れられるのは避けようとするだろう。それには兵を退くか城を即座に落とすかの二つの選択肢がある。通常であれば兵を退くことが考えられるが、明善寺城の守兵は少なく、しかも宇喜多が築いた城であるために造りは知り尽くしている。つまり、城を落とす方を選択しても何ら不思議はない。
ともかく前方にいる宗高に確認するべきだろう。
「宗高に呼べ。場合によっては岡山城に籠もるしか…」
と、元祐が指示を出そうとした矢先のことだ。前方で鉄砲の発砲音がし、大きな喚声が上がった。
「て…敵だー!宇喜多が攻めてきたぞー!!
味方の悲鳴に、気付くべきだった、と後悔しながら元祐は歯がみして悔しがった。敗走する味方がいたのだから、それを追撃する敵勢がいるのは容易く想像できたはずだ。それを瞬時に考慮できなかった。
「な…何をしておる!防げッ!防ぐのじゃ!」
慌てて指示を出したところで遅かった。一度生じた綻びを元に戻すことなど至難の業なのだ。
「無理にございます。既に前衛は崩されかけております」
「莫迦な!早過ぎよう」
そう叫ぶ元祐であったが、宇喜多は目の前の三棹山から攻め下り勢いがついている。対して味方は強行軍であり後列は未だ渡河中である。敵を防ぐ備えすらないまま攻められている現状を押し止めるのは、一つしかない。そもそも庄勢は八〇〇〇を数え、宇喜多全軍より多いのだ。元祐に“退く”という選択肢は最初からない。
「儂が敵を押し止める。その間に立て直せ」
として、供回りだけを引き連れて前線へ進んでいった。
「宇喜多め!我らに敵うと思うなよ」
元祐は味方の悲鳴が谺する中を猛然と突進していった。馬上から槍を振るい、宇喜多兵を数人あの世へ送っていく。その姿に味方は大いに勇気づけられた。踏み止まる者も増え、それに伴って宇喜多の勢いも衰えてくる。元祐の本隊を攻めていた延原土佐守は、この思わぬ粘りに浮き足だってしまった。
「もう少しじゃ!もう少しで流れは我らに向こうぞ!」
元祐は確かな手応えを感じ取り、今少しの辛抱だと味方に言い聞かせた。しかし、宇喜多忠家の部隊が側面へ回り込み、元祐へ襲いかかると状況は一変した。
「あれは宇喜多の旗印ッ!?」
元祐は姓こそ違うが歴とした三村の血筋で、死んだ家親の長男である。それ故に仇である“兒”の旗紋に敏感に反応し、元祐が冷静さを失って忠家の軍勢に攻めかかるのは必然と言えた。これは明らかな失敗であった。庄勢は矛先を忠家に変えたことによりせっかく取り戻した勢いを自ら削ぐこととなり、それが一つの嘘を真実にした。
「庄元祐を討ち取ったぞー!」
と、声高に叫ぶ宇喜多の兵。周りの者もそれに合わせて元祐の討ち死にを喧伝して回っていた。
「儂は健在じゃ!敵の虚報に躍らされるでない!」
そう元祐が言ったところで、兵全体に伝わるのは悪い話の方が早い。特に後列の兵たちから見れば、前線で味方が敵の奇襲に遭い、その後に大将の討ち死にが伝えられ、勢いが弱まっている。旭川を渡河している兵たちが、噂を真実として受け取ってしまうのも仕方のないことだった。その後の行動は、言うまでもない。
庄勢は裏崩れを起こした。それが前線へ伝染するまでに、それほど時間はかからなかった。
「お…おい!逃げるなッ!戻って戦えッ!!」
逃げる兵を元祐は必死に止めたが、軍勢の崩壊を防ぐことは叶わなかった。結局、元祐は最初の劣勢を覆すことが出来ぬまま撤退を余儀なくされた。
“庄元祐の撤退”
その報せを受けた石川久智は、激しく動揺した。
「どうする?」
「ここで襲われては不利です。旭川の西側まで後退し、渡河してくる敵を迎え撃ちましょう」
老臣・中島加賀守の進言に首を縦に振った久智であったが、多くの将は後退を良しとはしなかった。石川勢だけでも宇喜多総軍と同等の兵力を抱えていたために“予定通りに進軍して戦うべきだ”と主張する者が多くいたのだ。結果、方針の決まらない内に宇喜多の攻撃を受けるという最悪の事態に陥ってしまった。
宇喜多勢は軍を鶴翼に展開し、石川勢を左右から挟み込んだ。
「慌てるでない。数の上では我らが有利ぞ」
石川勢を攻めた宇喜多勢は、全軍でなかったために兵は味方が多かった。久智は冷静に対処すれば負けはないと判断したが、陣形が拙かった。敵は鶴翼でこちらを包囲しており、味方の大半は遊兵と化している。故に戦闘してる兵の数では相手が上だったのだ。久智は劣勢を強いられ、後退を繰り返した。
そこへ、中島加賀が馬を寄せてくる。
「ここは拙者が食い止めまする。殿は後方で軍の立て直しを!」
「何を申すか!ここに止まれば死ぬぞ!」
「元より承知の上にござる。されど拙者が防がねば、もっと多くの兵が死にまする」
「加州……すまぬ」
その後、中島加賀は僅かな手勢で宇喜多勢の攻撃を一身に受け止めた。付き従った兵は、みな死んだ。しかし、中島加賀がその命と引き替えに稼いだ時間は無駄にはならなかった。久智は後方へ退いて体勢を立て直し、逆襲に転じたからだ。
「宇喜多め…許さぬぞ!加州の仇だ!」
久智は怒りに身を任せ、自ら槍を持って最前線へ飛び込み、宇喜多兵を斬りに斬りまくった。
「死ねや!おら、死ねや!」
久智は憤怒の表情で、敵を倒しまくっている。その気迫が部隊にも伝わり、もの凄い勢いで敵兵を薙ぎ払って進んでいる。果てには勝機に乗じて攻め寄せた宇喜多勢をたちまち二町(約220メートル)ほど押し返した。
しかし、今一歩で宇喜多勢を崩せるというところで、久智が手傷を負ってしまったことにより戦闘は一気に終息を迎えることになる。
「く…くそっ…」
久智はそれ以上の追撃を断念、宇喜多も損害を受けたことで撤退していった。その後、ようやく一連の宇喜多の動きが三村元親の許へ報されることになる。
「莫迦な…。明善寺城は落城し、兄者は撤退、久智が傷を負っただと!?」
相次ぐ凶報に元親は愕然とした。
つい先ほどまで、宇喜多五千に対して二万の陣容を誇っていた三村軍が、瞬く間に元親の八〇〇〇のみとなってしまった。
「ここは撤退しかあるまい」
「左様。悔しいが宇喜多攻めは断念せねばなるまい」
叔父・三村親成を始め、重臣の殆どが撤退を主張した。それに対し、元親は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、心中は明らかに彼らの意見に反対のようだった。そこへ、道案内として同行していた中島元行が継戦を主張した。
「ここまで好きにされて、引き下がられるのですか!」
「仕方なかろう。これ以上の兵の消耗は避けねばならぬ」
元行の挑発染みた言葉に、親成が醒めた口調で反論する。しかし、尚も元行は継戦を主張する。
「よいですか、皆々様。先代の家親様は直家に殺されました。これは暗殺であるが故に三村の武名に傷はつきませぬ。されど、今回は違います。二万の兵を擁しながら五千の兵に敗れれば、三村の力は衰えた、と必ずや周囲からは見られましょう。元親様が侮られることになるのですぞ」
「それは…わかってはおるが、兵たちの士気は落ちておる。とても戦える状態ではないのだぞ」
「確かに、親成様の仰る通りでしょう。されど、それは相手も同じにございます。最初こそ宇喜多は元祐様の軍勢を討ち破りましたが、石川殿との戦闘では痛み分けに終わっております。つまり、宇喜多の勢いがこれまでである何よりの証。敵は連戦続きで疲弊しているおります。それに比べ我らは兵に疲労はなく、兵力でも未だに敵を上回っております」
元行の長口上に宇喜多の重臣はみな口を閉ざしてしまった。勝利を確信した元行は、締め一言を力強く告げた。
「いま戦えば、勝てまする!」
「よう申した!」
この言葉に、宇喜多直家を仇とする元親が反応しないわけがなかった。
かくして、三村元親は軍勢の大半を失いつつも最期の一戦に挑むのであったが、この戦は三村軍の敗北で結末を向かえることになる。
「継戦を主張した私が先陣を務めるのが筋でございましょう。皆様方は、私の後に続かれませ」
合戦は、元行のこの一言で始まった。
元行はまさに一騎駆け、勇んで敵陣へ向かっていった。これに味方は鼓舞され、元親も釣られて全軍へ進撃を命じる。しかし、どういう訳か元行はそのまま宇喜多勢に身を投じてしまった。
裏切ったのである。
「儂を謀ったか!元行ッ!!」
この時、元親は全てを悟ったが、既に戦端は開いてしまっており撤退することは不可能だった。激怒した元親は感情に身を任せて兵を進ませ続けたが、宇喜多の前衛を崩した辺りで形勢は逆転された。宇喜多勢の一部が味方であるはずの岡山城の横を素通りし、元親の側面を衝いた。さらには直家が旗本衆を繰り出して左翼に回り込ませた結果、三村勢は三方から攻撃に晒されることになり、そのまま総崩れとなった。
三村元親は命からがら備中へ逃げ帰ったという。これにより明善寺一帯で行われた合戦は、宇喜多の勝利よって幕を下ろすことになった。
僅か五千で二万の大軍を破ったことは“奇跡の大勝利”として語られ、宇喜多直家の名を天下に知らしめることになるのだが、当の本人は大勝利に酔うことなく、合戦後に“撤退する”と一言だけ告げて帰城したという。何故なら、彼にとってこの合戦は全て盤上のことであったからだ。
家親を暗殺したことにより、いつか元親が大軍を率いて攻めてくることは分かっていた。故に明善寺城を築き、相手が奪いやすいように守兵を減らし、元親を誘い出した。そして密かに内応させていた金光宗高と中島元行を使って三村軍を誘導、明善寺城を落城させ、駆け付けてくる三村勢を各個撃破していっただけのことだった。
その為にわざわざ二人の寝返りを三村方に報せ、嫌疑を晴らさせることで疑いの目を向けさせないようにするという手の込みようだった。もし事前に寝返りを教えなければ、二人の行動が怪しいことに元親は気付いていたかもしれない。
これが人の心を操ることに長けた男・宇喜多直家の戦だった。
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八月某日。
京・二条城
明善寺合戦から一月余りが経過した頃、宇喜多直家の名は京の義輝のところにも聞こえるようになっていた。
「宇喜多直家なる者、中々やるではないか」
最初、義輝が感じた直家の印象は自分と同じ“武の者”であった。さぞ勇猛果敢に兵を指揮し、勝利へ導いたのであろうと予想したのだ。場合によっては自らの配下に加えることもあるだろうと思い、直家のことを調べさせたのだが、調べていく内にその印象を対極に変えることになる。
直家は祖父・能家が同じ浦上家臣・島村盛実に謀殺され、不遇の幼少期を送ることになった過去がある。元服して宗景に召し出されると、その才を発揮して家中で頭角を現して今に至っているのだが、直家は復讐を忘れたわけではなかった。
永禄二年(1559)、祖父と同じように盛実へ謀叛の疑いをかけて殺したのである。
この事を義輝が知ったとき、ある人物に似ていると思った。
(直家とやら、三好長慶にそっくりじゃ)
義輝をもっとも苦しめた長慶もまた、父・元長を同じ細川家に仕える叔父・政長の讒言により殺されている。その後は元服して細川晴元へ仕え、長慶は政長を攻め滅ぼした。
だが、長慶の復讐はそこで終わったわけではなかった。彼の主・晴元が台頭してきた元長を危険視し、政長の讒言を名目に殺したという事実があったからだ。後に長慶は晴元を京から追い、その晴元が幕政を牛耳っていた事から同時に幕府さえも手中に収めることになった。それが、義輝と長慶の長い戦いの始まりでもある。
そして、島村盛実が能家の死後も浦上家中で権勢を振るっていたことを考えると、能家謀殺には宗景も関与していると見ていい。
義輝は、直感的に直家が何れ謀叛を起こすだろうと思った。
【続く】
久しぶりの史実回となりました。また宇喜多サイドではなく、敗者である三村サイドで書いてみました。その方が直家の謀略ぶりが描けるだろうと思ったからです。(上手く書けたかどうかはわかりませんが…)
西国では特に義輝生存の影響が出ていないために、未だ史実通りに進んでいるとしています。もうまもなく、義輝が介入して変化していく予定です。(今のところ国力が伴わず介入しようとも介入できない状態)