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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第三章 ~新たなる乱世~
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第七幕 勅命講和 -東国の静謐-


七月三日。

京・近衛前久邸


上杉輝虎の使者から報告を受けた義輝が向かった先は、関白・近衛前久のところであった。


「その様子じゃと、よい報せが参ったようじゃな」

「はい。上杉軍六万が小田原を包囲いたしました」

「いよいよ麿の出番というわけじゃな」


前久は口端をニヤリとさせた。予め、こうなることは義輝から聞かされていたようだった。


「主上も殊の外お喜びじゃ。内大臣(義輝)が将軍職へ復帰してからというもの、世の乱れが収まりつつある、と仰せであったぞ」

「有り難き御言葉なれど、まだ道は半ばにて…」

「わかっておる。その為の勅使派遣じゃろう?既に支度は整っておるわ」

「骨折り、痛み入りまする」

「なに、気になさるな。されど驚きましたな。てっきり義輝殿は北条を滅ぼすつもりだと思っておったが…」


過去に大名間の争いをいくつも調停をしてきた義輝であるが、基本的に両者の立場を尊重する姿勢を貫いていた。それは管領・細川や三好に対抗するために彼らの協力を必要とし、その力を弱めるわけにはいかなかったからであるが、関東に於いては明らかに輝虎側へ加担しており、誰もが“将軍は北条を潰すつもり”と認識していた。


かくいう前久も、義輝の意向を尊重して輝虎へ味方した過去がある。しかし、義輝の本音は違った。


「北条の治世は京にも届くほどでございます。余に従うのであれば、これほど頼りとなる者はございませぬ」


北条家は四公六民という非常に低い税率を敷いている。これは戦国大名の中でももっとも低く、それでいて飢饉の際には減税や徳政令を出すなどの処置を施している。大規模な検地を行い、制度を組織化して例外処置を可能な限り少なくすることで領民の支持を集めている。


幕府としても見倣うべき事例が、多々あった。


そして、その北条は天下への野心を持たない。あくまでも関東に拘っている、ここ十数年で義輝が出した結論である。


(関東を北条に任せてしまえば、関東は治まるのではないか?)


そう義輝は考えたこともあった。


乱世の始まりは将軍家の弱体化に起因するが、世の乱れが全てそうではない。地方を統治していた守護大名も守護大名で弱体化が進んでおり、武田、今川、島津や大友といった一部の守護大名しか残っていないのが現状だ。他の者は、全て乱世の倣い“下克上”に散っていき、織田や徳川、毛利などの新興勢力が彼らに取って代わられている。北条は、その先駆けとなる存在だ。


つまり支配層の力が弱まれば乱が起きることを意味しており、服従するなら誰でもいいというわけでもない。将軍家が全国全てを直轄地に出来れば話は別だが、それは夢物語でしかなく、地方では大名家の力を借りて統治を任せる必要がある。そして、その地方を担う大名の力も乱を防ぐためには一定以上は必要となるのだ。


義輝の幕下でその資格を持つ者は、上杉輝虎と織田信長を代表に徳川家康、浅井長政あたりであろう。長宗我部元親は、未だ未知数といったところか。幕臣の中では、実力は細川藤孝、才能は明智光秀か。和田惟政、朽木元綱、一色藤長、池田勝正、波多野秀治、赤井直正らも将来的に見込みはあると言える。


そして、その視野を外側へ向ければもっと増える。地方で名の知れている大名は、それこそ資格を有していると言っていいが、将軍家を脅かそうとする者は論外である。かつての管領・細川家、三好家がそうであった。


強すぎる力は、要らぬ野心を育ててしまう。そういう意味で、関東全てを北条に任せるのは危険であった。何れ、将軍家に牙を剥こうとするかもしれない。


(だが、関東の半分くらいは北条に任せてもよい。もう半分は、輝虎に任せよう)


そう考えた義輝は、輝虎へ命令を下した。表向き“関東管領が北条を討つ”ということになっているが、輝虎だけには己の真意を伝えてあった。そして、その忠実な家臣は義輝を満足させる成果を上げてきた。


「少々詰めは甘かったがな。ま、よいだろう」


そう義輝が感じるのも、輝虎が兵を退くとすれば北条が和睦に応じると考えているようだったからだ。如何に幕府の調停があるとは言え、北条氏康はそのような簡単な男ではない。故に義輝は勅使を併せて派遣し、手土産を持たせることで氏康を従わせようと考えている。


「それにしても輝虎め。養子に長尾家を継がせるとは何を考えておるのじゃ」


唯一、義輝にとって予定外であったのは輝虎の本拠移転と三条長尾家の再興である。輝虎は己の考えを記した書状を予め使者へ携えさせ、自分へ伝えてきた。


本拠の移転はいい。しかし、一家の長であるのならば子を儲けて家を発展させるのは当然のことだ。家臣へも恩賞を与えねばならず、功を立てても恩賞に与れないとなれば家臣は不満は堪る。それが御家騒動に至ることもあるのだ。輝虎の心がけは個人にとしては立派だが、武家の当主としては間違っている。


それに、義輝自身は今さら憲政に上杉家を任せるつもりはない。北条に敗れて国を失った者にどんな力があろうか。また国を失うだけであり、乱の元になるだけである。


「やれやれ、あやつが嫁取りでもしてくれれば万事が収まるというのに…」


そう愚痴る義輝であるが、自分が斡旋したとしても輝虎が引き受けるとは思えなかったので、既に諦めている。


「此度の恩賞として、長尾家は越後守護に昇格させる。輝虎には上野一国を正式に与えよう。辞退は、許さぬ」


二日後。そう使者に伝言を預け、勅使を見送る義輝であった。


=======================================


七月十六日。

相模国・小田原城


関東で覇を競い合ったこと七年余り。戦国の雄二人が相まみえたのは、これが初めてである。


「上杉左近衛権中将輝虎にござる」

「……北条相模守氏康にござる」


小田原城の主殿では左に上杉輝虎、右に北条氏康が座しており、家臣たちが数名それに並んで座っている。この他、仲介役となった朝廷からは勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)、幕府からは大館藤安が同席している。


驚くべき事は、この交渉に輝虎が自ら参加していることだ。家臣たちは皆が危険と主を制止したが、輝虎は朝廷と幕府が仲介するのであれば命を狙われるようなことはない、と断じて小田原城へ入った。但し、他の関東諸侯は交渉に参加させると話がややこしくなりそうだったので、輝虎へ一任ということで城外に待機させている。


「さて、これをきっかけに両者が兵を退き、東国に安寧が訪れることを主上は求めておられます」


始まりは仲介役となった晴豊が切り出した。上杉方の主張とは言わず、現状維持を以て和睦してはどうだ、と提案した。


「話にならぬ。和睦したければ、奪った城を全て返すというのが筋であろう」


これに対し、北条方からすれば当然の条件を氏康は主張した。


「北条殿は奪ったと一方的に言われるが、元々は他者のものであった城を奪い取ったのはそちらではないか。儂は、それを元の主に返しただけのこと」


輝虎も負けじと鋭く指摘する。これに氏康は一瞬だけ苦々しい表情を浮かべたが、すぐに元に戻って反論する。


「如何にも。されど奪ったのはそれなりの理由があってのこと。民草は北条の支配を受け入れておる」


つまりは民の支持を得ているのだから、とやかく言うな、という主張である。実際、北条の統治はすこぶる評判がよく、流石に輝虎も一方的に非難することが出来なかった。


「ともかく城を返し、上杉殿が己の非を認めるというのであれば、和睦に応じなくもない」

「儂に…非があると……」


常に己に正義があると考えている輝虎には、この一言は痛烈であった。このような主張を氏康がするとはわかっていたものの、いざ聞くと感情を抑えきれるものではなかった。


輝虎の顔がみるみる内に赤く染まっていく。


これに慌てたのが晴豊である。


「互いの主張は理解いたします。されど折れるところは折れて頂かねば、和睦いたすことは叶いませぬぞ」

「そうは申されますがな、勧修寺殿。我らには上杉殿と和睦せねばならぬ理由がないのでござるが…」

「されど、上杉殿に城を攻められておるのであろう?」

「公家である勧修寺殿には戦のことは分からぬでありましょうが、圧倒的に有利なのは我ら。上杉殿がこの小田原を攻め落とすことなど、天地がひっくり返っても不可能と申すもの」


氏康の言葉に、“その通り”“上杉など城門すら破れぬ”“さっさと引き上げろ”などと北条の家臣から嘲笑の声が漏れる。皆、この小田原城に絶対的な信頼を寄せているのだ。


「では、どうあっても和睦に応じては頂けぬと?」


ここで大館藤安が割って入った。


「どうあっても、とは申しておりませぬ。始めに申した通り、城を返して上杉殿が非を認めれば、と申しております」

「和睦に応じて頂けるのであれば、上様は北条家に相模と伊豆の守護を任せたいと仰せなのですが…」


藤安の言葉に氏康は些か驚いたものの、平然とやり過ごした。


「それは有り難い。されど当家としては相模と伊豆に加え、武蔵と上野の守護も任せて頂けなれけば、和睦に応じられませぬ。それと、上杉殿には関東管領を辞めて頂きたい。正直、相応しくない」


と逆に提案した。これには輝虎のこめかみがピクリと動いた。だが、藤安は無視して話を続けた。


「承知いたしました」


氏康が武蔵と上野の守護職を求めてくることは想定済みであり、また関東管領は廃止される予定なので藤安はすかさず承諾の意思を伝えた。


「本当に承知されるのか?」


藤安の反応は、氏康にとって予想外のことであった。藤安の言葉は、将軍の言葉も同じだからだ。氏康も近衛前久同様に将軍は輝虎に加担しているとばかり考えており、要求が認められるとは思っていなかったのだ。


「私は上様の名代でございます。上様は相模守殿が武蔵の守護を務めたい、と意欲を持たれておられるのであれば、任せてもよい、と仰せでございました。また和睦が成れば関東管領の役目も終わります故に、左中将殿には職を辞して頂きましょう。されど上野は上杉家の守護国ですので、相模守殿には御任せ出来ませぬ」

「それでは話が違う」

「そちらの要求は殆ど呑んでいるのです。上野くらいは諦めて頂けないでしょうか」

「しかしのう…」


氏康は腕組みをして悩んでいる振りをした。実際、和睦の条件としては悪くなかった。相模、伊豆、武蔵の三カ国は安堵され、その他の地域は現状維持なので北条傘下の大名はそのまま生き残ることが出来るし、守護就任となれば上杉から攻め込まれることもなくなる。さらに輝虎は関東管領を辞するために関東諸侯へ対する命令権をも失う。


「分かりました。和睦を受け入れましょう」

「これは有り難い。では、左中将殿も宜しいですな?」


体面上、藤安は中立である故に輝虎へも問いを投げる。


「構いませぬ」


無論、輝虎は了承する。武蔵の城は輝虎が奪ったものばかりであり、返すことに不満を持っても異を唱えられる者はいない。


両者は合意し、和睦は成立した。


「和睦が成った暁に、二つほど幕府として相模守殿に御願いがございます」

「何ですかな?」

「古河公方であられる足利義氏様を幕府へ引き渡して頂きたい」

「義氏様を?如何なされるおつもりか」

「上様は関東へ公方家を置かれるつもりはございませぬ。御役目を終えた義氏様には、京へ御戻りになって頂き、足利一門として将軍家を支えて頂きます」

「なに!?公方家を置くつもりがない…とは、どういうことにござるか」


藤安は仔細を語った。この辺りは輝虎を始め上杉の家臣たちは聞かされていたことなので驚きはなかったが、これまで古河公方を大義名分として利用してきた北条の者たちにとっては衝撃だった。


「藤政様は?頼純様は如何なされる?」


氏康は関東にいる他の足利氏について質問した。古河公方を手放せば、他の足利氏が公方として擁立される可能性がないとは言い切れない。義輝が“気が変わった”と言えば、済む話だからだ。


「京に御戻り頂くのは義氏様のみでございます。他の方に関しては、京へ戻られるのであれば将軍家御一門として遇されることになりますが、関東へ残るとなれば一門から離れて頂くことになります」


数少ない足利一門へ対して厳しい処置ではあるが、そうでもしないことには争いの種を残すことになってしまうために仕方のないことであった。


後に藤政は京へ戻り、頼純は関東へ残って喜連川頼純と名を改めることになる。


「して、もう一つとは?」

「上様は相模守殿の手腕を大変に評価なさっておられます。御当主自らは無理にございましょうが、一族の者の何れかに上洛して頂き、幕政に加わられることを望んでおられます」

「なんと!?我らに上方の政に加われと?」

「そう驚かれることではございますまい。元を辿れば御家は伊勢氏、手前としても寧ろ幕政に加わられるべきかと存じますが」


この時、初めて氏康は義輝の恐ろしさを知り、和睦に同意したことを少し後悔した。


氏康の祖父・早雲は、生前は伊勢宗瑞と名乗っていた。早雲の出自は幕府政所執事を務めた伊勢氏の庶流に当たり、当人も幕府申次衆、奉公衆として出仕している。その早雲が駿河へ下り、息子の氏綱が関東へ根を下ろす際に北条姓に改めたのだが、北条氏は歴とした伊勢氏なのだ。


それを理由に義輝は、北条を取り込もうとしていた。幕政を加われというのが、その証拠である。


(もしや義輝公は、この為に和睦の機会を作ったのではなかろうか)


そう考えなければ、義輝が氏康の要求の大半をあっさりと認めてしまったことの説明がつかない。幕政に加われというのは、見方を変えれば人質を取られるということだからだ。一族の者を指定してきていることからも明らかであり、これで北条の行動を縛ることが出来る。


(ここで断れるわけがなかろう!!)


悔しさを滲ませながら、氏康は承諾する旨を伝えた。


上方で三好長慶、松永久秀を相手に政争を繰り広げてきた義輝の政治力が発揮された瞬間であった。


かくして和睦は成ったわけだが、上杉と北条で定められた決定に不満を持つ者がいなかったわけではない。


喜多条高広と千葉胤富、小田氏治の三人である。


喜多条高広は輝虎を裏切った手前、帰参するわけにもいかず、上野を任せると言った北条の裏切りに激怒し、そのまま仕える気にもなれず武田家へ籍を移すことになった。というより、そうなるように信玄が仕向けていたようで、その証拠に輝虎へ対して引き受けると言った箕輪城を武田軍は一度たりとも攻めることはなかった。


また千葉胤富は里見義弘の軍勢に城を包囲されていて、北条の援軍を待ってから反撃に移るつもりだったのだが、それが叶わぬままに現状維持で和睦された結果、大きく領地を失う羽目になった。しかも幕府は千葉氏を下総守護から半国守護に降格させられ、残る半国を結城家に任せた。これに否を申せる力は、北条の後ろ盾を失った胤富にはなかった。


最期に小田氏治であるが、こちらは大名としての存続はほぼなくなったと言っていい。居城を追われて藤沢城へ逃れていたものの独力で失地を回復する力はなく、和睦を知った。義重の力が強くなった常陸で北条の支援もなしに抵抗は不可能で、否を申しても誰も取り合う者はいなかった。後に嫡男・彦太郎(後の小田守治)を人質に出して、佐竹への臣従を余儀なくされた。


これにて関東の争乱は一応の決着を見ることになるが、不安要素がなくなったわけではない。義輝は関八州それぞれに守護を置いたが、国境に沿って各々の所領が明確に分かれているわけではなく、上野には武田領があり、下総には里見領、常陸には結城領もある。下野には依然として宇都宮の支配を受け付けない那須七党がいる。守護に任じられても、結局のところ各々自領のみその権限が認められたに過ぎなかった。


それでも、この日を境に関東では大名間の争いは鎮静化していったのであった。




【続く】

一先ずこれにて東国編は終了となります。


東国の武将たちは今後も登場しますが、次からは西国へと話が移って参ります。三好との対決は四国での話でしたが、本格的に西国の話を書くのは次話が初めてとなりますね。


長かった…、ここまで来るのに投稿し始めて約半年ですよ。まだ全体の折り返し地点にも到達しておりません。気長に頑張ります。


次話は、久しぶりに史実の話です。この時期に起こった“あの戦”を取り上げます。

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