第六幕 原点回帰 -長尾景虎の最期-
永禄十年(1567)五月二日。
越前・一乗谷
将軍・足利義輝が三好一党との因縁に決着して東西に目を向け始めた頃、越前一乗谷では不穏な空気が流れていた。
とは言っても一乗谷そのものは平和である。上方の安定により街道を流れる人の数、物資の量は増え、一乗谷も潤っている。さらに戦も上洛して以降は朝倉景恒が出陣している程度で、兵役もないことから人々の表情は喜怒哀楽に富んでいた。領主の義景も連日に亘って歌会などを開催し、誰もが戦国の世の僅かに訪れた泰平を謳歌していた。
その一乗谷にどうして不穏な空気が流れたかというと、国主・義景自ら流していたからだ。
この日、義景は若狭守護・武田義統が死去したことを知った。そのことに大した感想を持たなかった義景であるが、景鏡の一言をきっかけとなり暗躍し始める。
「治部少輔(義統)殿の子は幼い。若狭は大変でしょうなぁ…」
「…それじゃ!」
「は?」
数日後に義統の子は元服して元明と名乗ることになるが、歳は五つでしかなく政務を執ることなど不可能である。しかも先年の騒動で家臣団はまとまっておらず、家中は相当に混乱すると思われた。義統が死んだのは先月八日であり、それが明るみになるまでに一月近く経っていることは、その前触れとも言えた。
「経過はともかく後見役は叔父の信景に収まるはずじゃ。されど信景とて家中を纏めるに当たって強固な後ろ盾を必要としよう。その後ろ盾に、儂がなれば若狭は儂の物も同然よ」
普段は冴えない義景であるが、こういう悪巧みに関しては一流の切れを見せる。信景は義統の兄弟で、謀叛を起こした信方より下の弟である。武田家中に於いては唯一の成人男子であるため、元明の後見役になるのは当然の流れだった。だが信景自身は家中に強い基盤を持っているわけはなく、信豊の三男であるだけであった。
甘い汁が吸えるとばかりに景鏡も義景の言葉に乗っかる。
「よき御考えかと存じます。さっそく信景に繋ぎを取りましょう」
その二人の悪巧みに、真っ向から異を唱えたのが朝倉景恒であった。今や朝倉の方針は、この三人で決められていると言っていいほど、景恒の力は家中で強くなっていた。
「当家は上様より加賀攻めを命じられております。若狭に関与している場合ではございませぬ」
「何を申す。隣国の争乱を放っておいて、越前の守護が務まると思うか」
「隣国の争乱を問題視されるのであればこそ、加賀に目を向けるべきかと」
一定の混乱は確かに起こるだろうが、それでも若狭は武田家という一つの家で纏まっている。本願寺門徒が好き勝手に治めている加賀の方が遙かに問題である、と景恒は進言した。
しかし、加賀攻めの難しさを知っている義景と景鏡は、既に手もなく支配できそうな若狭に関心を寄せ始めていたために、景恒の言に耳を貸そうとしなかった。
「若狭に関与するなとは、敦賀郡司の言葉とは思えぬ」
「敦賀郡司だからこその意見にござる」
「だからといって加賀を攻めよ、とは何事ぞ。加賀攻めは儂が殿より任されたこと。そなたが口を出すことではないわ」
「式部(景鏡)の申す通りじゃ。景恒はこの一件から外れよ、よいな」
「己の分を弁えるのだな、景恒」
と言って、景恒は部屋から追い出される事になった。二人が景恒を邪険に扱うのは、景恒が幕府寄りの意見ばかりを述べるからである。景鏡を“式部”と官途名で呼び、義輝の奏上で任官した景恒を“中務大輔”と呼ばないことが、それを如実に表していた。また景鏡にしても景恒は政敵だ。自身には義景という味方がいるが、景恒には将軍という強力な味方が存在する。これは景鏡がどう逆立ちしても勝てる相手ではなく、何れ家中の舵取りを自分に代わって景恒が執り行うことになるのでは、という危機感を抱いていた。
「ええい!何故に加賀を攻めよ、という上様の御考えが分からぬのだ!」
そんな両者の思惑など知るところではない景恒は、二人の態度に強い憤りを感じていた。義輝は泰平の世を望んでいる。その為にこそ朝倉は働くべきであり、加賀を平定するべきであると景恒は考えている。加賀を平定すれば、朝倉も発展することは間違いないのだ。それを、あの二人はなぜ理解しないのか、景恒には分からなかった。
「上様に御報せせねばなるまい…」
景恒の密使が義輝の許を訪れたのは、この三日後のことである。
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五月五日。
京・二条城
景恒の密使から事の次第を聞いた義輝は、正直いえば驚いた。
(そのような大それたことを左衛門督が考えるとは…)
見くびっていたというか、侮っていたというか、義輝は義景をさほど評価していない。加賀攻めの内示を与えた以上、喜び勇んで加賀へ攻め入るとばかりに思っていた。
「しかし、これで信景を後見とする訳にはいかなくなってしまった…」
武田信景は家中で幕府との窓口を務めている人物で、義輝の覚えも悪くなかった。実際、義輝は義統が重い病を患っていると聞いた時点で死を想定しており、信景に元明の後見させるつもりであったのだ。しかし、信景が義景の支援を受けていることを知れば、栗屋勝久辺りが猛反発して下手をすれば家中を割ることになるだろう。
義輝が若狭問題で思慮に耽っている時、実弟の足利義秋が現れた。
「兄上、儂が元明を後見しよう」
「そなたが?」
「兄上が悩んでいると、和州(三淵藤英)から聞いてな。儂が後見となれば、若州の問題は片が付こう」
義統は義輝・義秋兄弟の妹を娶っており、元明には足利の血が流れている。そのために義秋が元明の後見役に就任することは筋道から言ってもおかしくはない。義輝の弟である義秋が後見役となれば、義景の介入も防ぐことが出来る。
(義秋を元明の後見役にか…、考えもしなかったな)
意外な申し出だったが、悪い案ではないと思った。ただ問題は義秋の能力、周知の事実だが、義秋は最近まで僧だった。
(本当に任せて大丈夫か?)
義輝は不安な気持ちに駆られる。いずれ義秋・晴藤ら弟たちを表舞台に立たせるつもりでいるが、何事も経験であり、順序を違えてはならない。まずは小禄を与えて政治の基本を身に付けさせ、それから何処か一国を任せる。そう義輝は考えているのだが、義秋の申し出は、いきなり一国を経営させて欲しいと言ってきたも同然だった。
「兄上。儂は兄上の力になりたいのだ」
懇願する弟を目の前に、暫し考え込む義輝。義秋に一国の経営は困難だが、若州は京から近く最悪の場合は自ら面倒を見ることも出来る。そして何よりも意欲に溢れている弟の願いを無にしたくない。そういう情が、義輝の中にあった。
そして答えた。
「若狭を任せよう」
「おおっ!流石は兄上じゃ」
許しを得た義秋の顔が、パッと明るくなる。ただ義輝も釘を刺すことを忘れはしない。
「そなたを補佐するよう、幕臣を何名か付けてやろう。物事を進めるに当たって、必ず彼らと相談いたせ。場合によっては、この兄を頼ってもよい。また武田の家臣どもらとも、よく語らい合うことを怠ってはならぬぞ」
こうして義秋は武田元明の後見役に就任することが決まった。
後見役就任に伴い、真木島秋光、畠山秋賢、一色秋秀、上野秀政の四名が与力として派遣された。これで若狭の問題が落着したと思っていた義輝だったが、頭を悩ます事態が起こることになる。義秋が与力のみを若狭入りさせ、在京しながら若州の統治をし始めたからである。
ただそれが分かるのは、もう少し先になってからである。
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六月二十七日。
相模国・小田原城
関東の雄・北条家の本拠地である小田原城を、関東管領・上杉輝虎を総大将とする軍勢が包囲したのは昨日のことである。総勢は六万余、北条の隙を衝いての攻撃であり、農繁期の今は軍勢を催せる数には限界があった。
さっそく軍議を催したわけだが、出だしから紛糾していた。それも輝虎が小田原城を攻めないと言い出したからだ。
「城を囲んで攻めないとは、どういうことにござる!」
「左様!これでは何のために相模まで参ったか分からぬ!北条氏康を叩き潰すためではないのか」
そのように捲し立てるのは関東諸侯たちである。ここで言い返しては喧嘩になるばかりなので、輝虎は目を深く閉じ、彼らが静かになるまで待った。
(十万で攻めて落ちぬ城を、六万で攻めたところで落ちるものか)
かつての失敗から、そういう考えがあったからこそ輝虎は城攻めを断念していた。では調略か、といえばそれも不可能だ。輝虎が侵攻する毎に寝返る者たちと違い、小田原に籠もっている相模・伊豆の国人たちの結束は固く、誰も北条を裏切ろうとはしなかった。
「如何になされるつもりですかな、管領様は…」
各々思惑があるとは言え、名目上は将軍、関東管領の命令で兵を出している。農繁期に駆り出されて無策では話にならない。
関東諸将の耳目が輝虎に集中する。
「北条とは和睦する」
「和睦!?」
「貴殿らのことは考えてある。新たに所領を得ることは出来ぬが、いま治めている地はそのまま貴殿らのものじゃ」
「それは有り難いのですが……」
先ほどまで騒がしかった者たちが、一斉に言い淀んだ。
輝虎が考える和睦の条件は、簡単に言えば現状維持である。里見義堯は真里谷領を回復しているし、佐竹義重も小田氏治から小田城を奪還している。結城や宇都宮にしても小山秀綱を降伏させているので、現状が認められるのであれば文句はなかった。
だが現状維持は一方的にこちら側に有利な条件だ。それを北条方が認めるとは思えず、彼らは押し黙ったのだ。しかし、輝虎はその点も考えている。
「上様に和睦の調停を御願いしておる。北条氏康も上様からの命とあれば、無下には出来まい」
輝虎は相模へ入る手前で義輝へ使者を送っていた。幸いにも信玄が味方と名乗ってきた御陰か、甲斐を通って東山道へ入り、京へ向かえた。義輝から返答が届くまで城を囲み、和睦する。
この義輝を巻き込む策は、二つの効果を生むことになる。
一つは関東諸侯に主が誰なのかを教えること。義輝は関東に公方家を置くつもりはなく、関東武士は例外なく義輝の支配を直接受けることになる。かつては一時的に京都扶持衆なる将軍直参が関東にも存在したが、今度は関東そのものが将軍の支配を受けることになるのだ。関東の一件を将軍の鶴の一声で収めてしえば、誰が主かを周知させることが出来る。
二つ目はこちらこそ重要なのであるが、これまでの経緯を考えれば、北条方は輝虎さえ帰国すれば上杉方に寝返った者たちが再び靡いてくると考えるはずで、兵を退くこと以外の条件はあまり考慮しないと思われる。拘るとすれば面子であり、それを義輝で繕おうというのだ。
しかし、帰国というのは方便で、輝虎は越後へは戻らないつもりだった。本拠を上州・厩橋に移し、関東経略に専念する。諸大名の繋ぎ止めを図る。
(これで儂は、ようやく上杉輝虎になれる)
輝虎がそう思うのは、一年半前の出来事に起因していた。
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永禄八年(1565)十二月某日。
京・旧三好長慶邸
あれは宴の席でのことだった。
様々な地域から武将が集まっている所為か、皆いくさ談議に花を咲かせていた。もちろん中心は輝虎である。戦歴が圧倒的に違うからだ。
「上杉殿。武田信玄とは如何なる武将でござろうか。川中島合戦の話を聞かせて下され」
「儂は関東の話が聞きたい。十万の総大将になった気分は如何でござったか」
として、皆が続々と輝虎の周りに集まってくる。輝虎としても悪い気はせず話を始めるのだが、こうなると自分は一方的に話すだけであり、次第に飽きてくる。自分も誰かの話が聞きたいと思い周囲を見回すが、輝虎ほど経験豊富な武将はそうそういるものではない。
その時、輝虎の視線が織田信長で止まった。
信長は桶狭間で今川義元を破っている。今川義元といえば“東海一の弓取り”として勇名を馳せており、川中島合戦や小田原攻めにも介入してきた大大名である。それを討った合戦であるから、さぞかし心躍らせる武勇伝が聞けるだろうと思った。
輝虎は席を立ち、信長の許へ近寄って腰を下ろす。
「織田殿が桶狭間で今川治部を討ち取った時の話を聞かせて下され」
と頼み込んだ輝虎であったが、意外な答えが返ってきた。
「あのような戦は儂の汚点じゃ。二度とせぬし、人に聞かせるような話はない」
信長からすれば、今川の大軍に攻められて窮地に追い込まれた挙げ句の果ての乾坤一擲の大勝負であり、人に自慢できるような話ではないと考えていたのだ。
信長を不機嫌にさせたと思い、輝虎は話題を変えた。
「織田殿は美濃衆を上手く手懐けておられるようじゃ。その心得を儂にも教えて貰えぬであろうか」
上洛戦で輝虎が信長に対して驚いたことの一つに、大軍の動員があった。しかも信長は美濃を平定し、僅か三ヶ月後には美濃一国ほぼ全軍を動員していた。これは同じ領主として、見倣うに値する。
「関東ではあれほど儂を頼っていた者たちが、儂が去った途端に北条へ靡く。どうしたものかと困っておるのじゃ」
酒の席であり、半分くらいは愚痴のつもりで喋った輝虎であったが、信長は至って真面目だった。
「関東の者どもが従わぬのは、そなたが長尾景虎であるからであろう」
「儂は永禄四年に上杉家を継いでおる。御存じであろう」
「名前だけではないか。いつまで越後から動かぬつもりか」
「儂は諸大名からの救援には必ず応じ、幾度となく関東に兵を入れておる。動かなかったことはない」
輝虎は成果こそ上がっていないが、忠実に関東管領としての役目を務めているという自負は持っている。援軍要請には自ら兵を率いて関東へ出陣しており、人任せにはしていない。
「ふぅ…」
だが、信長の言いたいことはそういうことではなかった。信長は輝虎と話が噛み合っていないことに気づき、一呼吸だけ間を置いて話を続けた。
「何故に関東へ拠点を移さぬかと聞いておるのだ?本拠を越後から動かさぬ限り、関東の平定は元より諸大名を靡かせることなど不可能だ」
「本拠を…移す?」
信長の言葉の意味を、輝虎は正確に掴み損ねた。
関東管領・上杉輝虎の本拠地は、越後である。そこから動くという発想は輝虎にはないし、大半の大名は本拠を移転させる、ましてや他国に移すという考えは持っていない。広大な版図を持つ武田信玄しかり、毛利元就しかり、大友宗麟しかり、だ。それは、戦国武将にとって如何に本貫(発祥地)が大事であるかを物語っている。
しかし、過去に二人だけ拠点を他国へ移した武将がいた。北条氏康の父・氏綱と三好長慶である。
氏綱の場合、元が伊勢氏で本拠を置く伊豆とは無縁の存在であったから、小田原へ移ることに何の抵抗もなかった。また長慶の場合は本貫地である四国に拠点を置いていたが、父・元長が河内の代官職にあったこと、後に京を支配する上で上方へ移る必要性を迫られたことが主な理由に挙げられる。
ただ信長のように尾張が本貫でありながら、戦略目的に応じて無縁の地へ本拠を移した者など皆無であった。
「されど春日山は父・為景より受け継がれし長尾家の城でござる。それを捨てるわけには…」
そう輝虎が答えるのも自然なことであったが、信長の次の言葉は、まるで頭の中で鐘が鳴ったかのような衝撃を輝虎に与えた。
「そなたは上杉であろう。結局、関東の者どもに見透かされておるのよ。関東管領を名乗っても、上杉輝虎は越後の方が大事であるとな。そなたがいつまでも長尾景虎であろうとするから、関東平定が捗らぬのだ」
当時の信長の言葉を、輝虎はここ一年ほどの関東出兵で身を以て知ることになった。
(この者らが儂を頼るのは、儂が関東にいるからじゃ。儂が越後へ戻れば、また北条に靡くに違いあるまい)
悲しいが、現実は非情であった。輝虎の理想とする秩序のある世、義の精神を尊ぶ時代は来ないのだろうか。そう思う輝虎の心には、一つの決意があった。
(これから創ればよい。上様ならば、それも叶うであろう)
その前に、自らやることがある。それを、皆の前で宣言しなくてはならない。
「喜平次、これへ」
「はっ」
喜平次と呼ばれた武将が、輝虎の前に歩み出る。また幼さが残る若武者である。緊張しているのか、少し震えているのが分かる。
「三条長尾の家を継げ。春日山は、そなたに譲る」
三条長尾とは、輝虎が上杉を名乗る前に継いでいた家のことである。輝虎が上杉家を継いだ後に断絶している。
あまりに急な話で、上杉の家臣たちは揃って驚いた。宿老・直江景綱が皆の疑問を代弁する形で主に質問する。
「御実城様、それは喜平次殿を世継ぎにされるという話でございましょうか?」
「世継ぎではない。以前に申した通り、関東管領は当代限りで役目を終える。ならば、儂の世継ぎを定める必要はあるまい」
輝虎の出自は長尾氏である。上杉の家督を継いだところで上杉の血が流れているわけではないし、生涯不犯を誓っているために子を授かることもない。だが両家とも長い歴史を持つ由緒ある家系だ。輝虎の一存で絶やすわけにもいかず、そこで輝虎が考えたのが長尾と上杉を再び分割することだった。
「長尾家は旧態通り越後守護代とし、上杉家を補佐することを申し付ける」
長尾家は一族の者に継がせ、上杉家は元の当主・憲政の子を後継とする。ただ輝虎がその任を全うするまでは、上杉の家長は輝虎のままであり、長尾家は関東管領・上杉家を補佐するのだから命令権は輝虎にある。
(この世は欲望に塗れておる。野心を持つ者が世を乱し、己の栄達のみを考えておる。それを打倒する儂が、栄達を望むわけにはいかぬ)
関東管領・上杉家として大領を得、子々孫々にまで残すことは野心でしかない。上杉輝虎として得たものは、上杉輝虎が死すときに全て還して一切を残さない。それが輝虎の出した結論であった。
「喜平次、やれるな」
「それが御実城様の御意思であるのでしたら…」
やれる、やれないではなく、ただ意思に従うとだけ、と喜平次は答えた。まだ若いが、こういうところを輝虎は気に入っていた。顕景であれば、世の秩序を乱す真似はしないだろう。
長尾顕景。三条長尾家の分家である上田長尾家の当主にして、輝虎の養子でもある顕景は、今回の関東出兵が初陣であった。
「これより景勝と名を改めよ」
ここに、輝虎の“義”を最も色濃く受け継ぐ武将“長尾景勝”が誕生した。
【続く】
関東編第二幕です。
久しぶりの義景登場ですが、相変わらずろくな事を考えていません。景恒のみが朝倉唯一の良心です。
また義秋も再登場です。少しずつ政治に絡んでいく予定です。晴藤は、まだ勉強中です。尚、真木島秋光、畠山秋賢、一色秋秀ですが、史実では“秋”の字は“昭”になっていますので、ご注意を。義昭が未だ義秋なのは、理由があってのことです。
最期に関東の状勢ですが、質問等でいくつか各者の動向を解説いたしましたが、本編に記述すると言って未解説な大名もおります。(千葉氏、喜多条など)今回で解説すると言いましたが、次回に持ち越します。あと長尾顕景(上杉景勝)ですが、名を改めたのは仕様です。顕景だと“誰?”となりそうだったので、名前のみ景勝にさせて頂きました。一応、長尾景勝と名乗った説もあるようなので…