第二幕 三日月の猛将 -我に七難八苦を与えたまえ-
永禄九年(1566)十一月二十日。
出雲国・月山富田城
かつて山陰・山陽八カ国の守護を務めた尼子氏の居城・月山富田城は、いま毛利元就の大軍に攻められて落城寸前にあった。
「もはや兵糧が尽き申した。殿、どうか降伏を決断して下さりませ」
主に対して降伏を進めるのは、当主・義久の傅役であった本田家吉だ。多くの重臣が毛利に降った今では、家中の席次は筆頭に位置する。
「何を申されるか!まだ尼子は戦え申す!」
対して、継戦を主張するのは山中鹿之助幸盛。未だ二十二にしかならない血気盛んな若武者である。
「黙らっしゃい!そなたの妄言が殿を悩ませておることが分からんのか!」
「妄言とは聞き捨てなりませぬ!某は結果を残してござる!」
鹿之助はやり場のない怒りをぶつけるかのように、怒声を発した。
籠城戦に於ける鹿之助の活躍は、敗退を続ける尼子にとって希望とも言えるほど華々しい戦果だ。最初に元就が城を囲んだ時は果敢に打って出て高野監物を討ち取った。この頃は兵力にも余裕があり、士気も高かったことから毛利を撤退に追い込むことが出来た。但し、二度目の籠城戦では弓の名手と謳われた石見の国人・品川将員を一騎討ちの末に首を挙げているものの所詮は局地戦での武勲に過ぎず、尼子は毛利の攻勢を前に敗走を繰り返し、現在に至っている。
「義久様!ここは乾坤一擲、御子守口より打ち出でて、元就の首を挙げましょうぞ!」
鹿之助は熱く力説する。尼子に残された兵は僅かに一千足らず、万もいた城兵は毛利に降るか餓死して果てている。残された勝利への道は元就の首を獲るしかなく、自らその役目を買って出た。
だが、鹿之助の言葉に同意する者は皆無だった。
「阿呆!兵たちに戦をする力が残っておると思うか。皆、飢餓に苦しみ立つ力すら残っておらぬのだぞ。降伏しか……我らに道はない」
家吉は最初こそ勢いよく言い放ったが、言葉を続けるに連れて目を背ける。そして最後は俯いたまま力のない言葉を吐いた。苦渋の決断なのだ、これは。家吉としても鹿之助の言葉通りに華々しく戦って散りたい。しかし、家吉には主君の命を守るという重大な役目がある。
「殿、そして一門の方々の助命は、拙者が必ずや毛利に認めさせまする。故に、どうか降伏を……」
家吉は三度、降伏を口にした。その言葉に、義久は一言も喋らずに首を僅かに下げただけであった。
(臆病者どもが!殿が正気ではないことを良いことに、降伏を勧めるとは…!!)
今の義久はまともな精神ではなかった。目は虚ろで、人の話など聞いてはいなかった。多くの者は飢えが原因と思っているが、実際は精神的なものだった。それを鹿之助は自分だけが気付いているものだと思っていたが、実は家吉も気付いていた。
(山中殿の申すことも分からぬでもないが、今は義久様の負担を軽くして差し上げることが、家臣の歩む道ぞ)
鹿之助と家吉。二人は最後まで尼子に忠誠を誓う真の武士であった。でなければ、そもそもここに至るまで残ったりはしない。が、想いは相反した。鹿之助は尼子という“家”を残そうと躍起になっているが、家吉は義久という“主君”に重きを置いていた。
尼子崩壊のきっかけは“雲芸和議”にあった。
永禄四年(1561)の暮れ、石見の大森銀山の領有を巡って毛利と対立していた最中に、当主の晴久が急死したのである。家督を継承した義久は、いち早く混乱を収めるために毛利との和睦を決断、京の将軍・足利義輝に仲介を依頼した。これを義輝は受けて毛利に和睦を斡旋したが、元就は己に不利な和睦を突っぱね、条件に石見の割譲という無理難題を押し付けてきた。誰もが和睦交渉が決裂すると思っていたところ、義久が受け入れてしまった。
これにより石見一国は毛利の手に渡り、義久は家臣の信頼を失うことになる。しかも元就は和睦のことなど忘れたかのように出雲への進撃を開始した。尼子方の城は相次いで落ち、伯耆や備中、美作の失陥により僅か三年で月山富田城が孤立する事態にまでなった。
義久は自ら招いた危機に責任を感じる余り、精神に異常をきたし始めた。
それでも最初、籠城戦は尼子の優勢であった。しかし、義久の精神は回復する気配がなく、城内に流れていた流言に加えて一部の家臣がもたらした讒言を信じてしまい、私財を投げ打ってまで兵糧の調達に苦心していた重臣・宇山久兼を殺害してしまってからは、廃人同然となってしまった。
翌日。家吉は義久の名代として毛利軍へ降伏を申し入れた。尼子には城の明け渡しに七日の猶予が与えられ、その間の兵糧も差し入れられた。
(…終わった。もう何もかもが終わってしまった)
月夜の晩、鹿之助は呆然と悲観に暮れていた。既に城内の者は毛利兵も手伝って開城準備に追われているが、鹿之助はこれを手伝う気にはなれなかった。
ひとり城内の隅で佇んでいると、ゆっくりとこちらに近づいてくる影を見つけた。
「これは…叔父上」
立原久綱。鹿之助の叔父で尼子奉行衆の一人である。籠城戦では参謀役となり、義久をよく補佐して戦った。
「その様子だと、降伏が受け入れられぬようじゃな」
「私には……受け入れられる者の気が知れませぬ」
「ならば如何する?腹でも切るか」
「……まだ考えておりませぬ」
正直なところ、鹿之助には切腹する気も覚悟もあった。ただ今は降伏という現実が受け止められずにおり、結論が出せずにいる。そんな甥の心中を、久綱は見抜いていた。故に、次の言葉を告げたのだ。
「京の東福寺に、誠久様の忘れ形見がおられる」
途端、鹿之助の眼が光った。目まぐるしく頭が回転する。仮に鹿之助が尼子再興に動くとしたら、擁立する尼子の血族が不可欠である。しかし、義久を始めとする一門の者は全て毛利の領国で幽閉されることが決定している。その中で唯一尼子の血を引く者が、毛利の手の届かない京にいる。これは光明だった。
尼子誠久は先代・晴久に粛正された一門の一人だ。粛正されたとはいえ、当時は赤子であった者にまで罪が及ぶわけではない。中国地方には安芸の一国人であった毛利に従うことを快く思わない者が多く、誠久の子を擁立すれば再起は可能かもしれない。
「尼子の参謀であった儂が城を抜け出せば、義久様の身に害が及ぶかもしれぬ。されど身分の低いそなたならば、罪には問われぬであろう」
「…叔父上!」
「元就が儂の命を奪うかは分からぬ。されど命を拾ったなら、想いを同じくする者らと共に必ずや京へ向かう」
久綱の言に、鹿之助は無言で首を縦に振って承諾の意を示す。その双眸には、光りが戻っていた。もう安心だろう、と久綱はホッと胸を撫で下ろした。
「鹿之助よ。今の毛利に我らだけで立ち向かうは無謀じゃ。京へ着いたら、まずは公方様を頼れ。毛利の非道を幕府へ訴えるのじゃ」
今や幕府の力は“雲芸和議”の頃と比べ物にならないほど強くなっていることを、二人はまだ知らない。籠城戦で情報が入らなかったからだ。ただそれでも義久は義輝の仲介に応じ、元就は無視したので、尼子に対して将軍は悪い印象を抱いていないはずだ。幕府が後ろ盾となれば、大義名分を得て尼子の再興は現実味を帯びる。
「さて…まずは毛利の目を誤魔化さねばなるまいな…」
翌日、鹿之助は今までが嘘のように開城準備の仕度を手伝った。飢えで衰弱している者を助け、毛利の兵とも多くの言葉を交わした。こうやって毛利の安心を誘った。
そして城の明け渡しを翌日に控えた十一月二十七日の夜…
「追え!逃がすなッ!」
鹿之助は夜陰に紛れて城を抜け出した。しかし、毛利軍は三万を越える大軍であり、十重二十重に城を包囲している。翌日に開城ということもあって、気の緩んでいた隙を衝いて城こそ抜け出したが、見つからずに囲いを突破するのは不可能だった。
「ちっ!ここで捕まる訳には……」
幸いにも城の周辺は地形は知り尽くしており、地の利はこちらにある。追っ手を振り切るように右へ左へと方向を変えながらの逃走する。しかし、飢餓による影響は鹿之助の身体にも出ていた。次第に距離は縮まり、相手は鹿之助を包囲するように近づいてくる。
「くそっ!」
鹿之助は逃げるのを止め、反転して毛利兵に斬りかかった。男は鹿之助が咄嗟の行動に対応しきれず、断末魔の声を上げて絶命した。
「よし…」
突然の攻撃に毛利兵が一瞬たじろいだ隙に、鹿之助は逃走を再開させる。すかさず毛利兵の一人が逃がさんとばかりに鉄砲を放ったが、こんな山林の中で当たるわけがない。
「未熟者め…、鉄砲の使い方を知らぬのか」
尼子家が朝鮮、明、南蛮と盛んに貿易を行っていたことから、鹿之助は鉄砲について学ぶ機会があった。何故に追っ手が鉄砲を持っていたかなどは知らないが、こんなところで発砲するなど心得違いもいいところだ。
「う…うわっ!」
不意に鹿之助の後方で毛利兵が怯えた声を上げる。どうやら鉄砲の音に驚いた猪に襲われたようだ。この隙に鹿之助は追っ手の視覚から消えることに成功する。
その後、鹿之助が京へ辿り着くまでの道のりは険しかった。
なんとか毛利兵は撒いたが、今度は落ち武者狩りに遭ってしまう。これも何とか却けた後に、農家から食料を奪ったり、行商人を脅して路銀を巻き上げたりしながら、ひたすらに東へ東へと走っていく。
(私はいったい何をやっているのだろうな……)
城を落ちる時は熱い想いを心に宿していたものの、やっていることは山賊紛いなことばかり。生きる上で仕方のないことかもしれないが、それでも自分は武士なのだ。羞恥心がないわけではない。
(ええい!何を途惑っているのか私は…!!あれほど尼子家を再興させると心に誓ったではないか!)
ある夜、鹿之助は三日月に向かって己の決意を誓った。毛利は大国、拠る場所もない自分が尼子一門を担いだところで楽に勝てるわけがない。その為には、多くの苦難が待ち受けていることだろう。それを一身に受け止める。もう、泣き言は言うまい。
「月よ、我に七難八苦を与えたまえ」
満身創痍となりながらも、鹿之助が京へ辿り着いたのは翌年の二月十六日のことだった。
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永禄十年(1567)三月七日。
京・二条城
近江石部城へ出向いて六角承偵を降伏させた義輝は、京へ戻ってきた。帰城すると三淵藤英が来客を知らせた。
「尼子勝久?尼子とは、あの出雲の尼子か」
「はっ。出雲守護家の縁者であるとか」
尼子が毛利に滅ぼされたという報せは、義輝の許へも入っている。近いうちに毛利へ何かしら対応しなくてはならないと思っていた矢先に尼子を名乗る者が現れた。
「ともかく会うてみるか。広間に通しておけ」
「畏まりました」
義輝が広間へ顔を出すと、平伏している者が二人いた。
「面を上げよ」
「はっ…」
二人の顔を、義輝が凝視する。
手前に座す者は坊主頭であり、体付きも細い。後ろの者は如何にも武士らしく、引き締まった身体から鋭い気を発している。並の者ではない、と義輝は感じた。
ただ圧倒されていたのは、初めて義輝を見た鹿之助の方だった。
(これが将軍……なのか)
聡明な顔立ちに鋭い眼光、筋骨隆々の体躯からは覇気が溢れている。百人を斬り倒して京から脱出したとの噂も事実であると悟らされる。
「どちらが勝久か」
「わ…私にございます」
義輝の問いに、坊主頭の男が声を震わせながら応える。これを鹿之助は仕方がないことだと思った。歴戦の戦士たる自分ですら、将軍には気圧されそうになっている。僧として生きてきた勝久がまともに相手を出来る者ではなかった。
「如何なる用向きか?」
「…そ、それは」
「私から御答え致します」
「そちは?」
「尼子家臣・山中鹿之助幸盛にございます」
鹿之助は尼子が滅ぼされた経緯について詳細に語った。また勝久が如何なる血筋の者か、何故にこの場に参上したかを述べる。
「ならば、そこな勝久を尼子の当主とし、家を再興したいと?」
「御意にございます」
ここまで、鹿之助は確かな手応えを感じていた。将軍は自分の話に聞き入り、ところどころで質問をしてきた。言葉の端々から、毛利によい印象を持っていない様子が見て取れたからだ。
「ならぬ」
だが、義輝の答えは鹿之助の期待を裏切るものだった。
「何故にございましょうか!」
「余の命に服したは義久であって、そこの勝久ではない。義久が死んだのであれば別だが、生きている以上は尼子の当主は義久である。そなたの忠節は立派だが、忠誠を誓う相手を間違えておる」
「で…ですが、義久様は毛利の手に……」
「取り返せばよかろう」
“簡単に言うな!”と鹿之助は心の中で叫んだ。しかし、義輝は考えもなしに、その言葉を吐いた訳ではない。
「いずれ、毛利は余に屈服させる。場合によっては兵を差し向けることもあろう。そなたら尼子が、その尖兵となって戦うというのであれば、出雲一国くらい取り戻してやってもよい」
その言葉に鹿之助はただ驚くばかりだった。義輝が口にしたのは、毛利討伐である。かつての幕府なら考えられないことだが、今の義輝は違った。
(毛利は大きくなり過ぎた。ここらで叩いておかねば、将来の幕府に禍根を残す)
義輝は、諸大名の強大化を認めない。十カ国を手に入れて、ようやく互角に渡り合える力を得た。後は大大名に対して幕府への恭順を示させるだけだが、易々と所領安堵を認めるつもりはない。彼らは総じて将軍家を軽んじてきた過去がある。今回、毛利の件にしても義輝の和議斡旋を無視し、石見どころか出雲にまで兵を入れている。これが数カ国の守護を任せ、元就の病に名医を派遣した義輝へする態度か。
少なくとも毛利に対しては、和議の対象となった石見と出雲の二カ国は割譲させるつもりでいるが、毛利が大森銀山を有する石見を簡単に手放すとは思えない。
(ならば、兵を向けて備後や安芸なども召し上げてくれる)
そうまでして相手を屈服させてこそ、幕府の存続は保たれるというもの。それが、義輝がこの乱世へ挑む基本的な戦略方針であった。
その後、尼子勝久と山中鹿之助は幕府奉公衆に組み込まれることになった。しかし、義輝は最後まで勝久の家督相続を認めることはなかった。
【続く】
予想された方もおりましたが、鹿之助の登場です。
ただ史実の信長と義輝とでは少し対応が違います。信長にとっては本家の義久はどうでもいい存在でしたが、義輝には家臣の一人です。(義久は大名なので)よって勝久の重要性は薄れました。
この後の話は本章で書く予定ですが、次回からはまた東国の話となります。
尚、本文中では幸盛ではなく鹿之助で通しています。こっちの方が馴染みがあるからです。